その39 金持ちは放っておけばいいんです
奇跡の泉。
泉とは名ばかりの、小さな水溜りのような場所が、人の手でつくられた石垣で囲まれて存在を保たれている。
ゆっくりと僅かな量の水が湧きだし、溢れる前に多くの人たちによって掬われているが、枯れる気配はない。
この場所を訪れるのは巡礼者だけではなかった。
体のどこかに病を抱える人たちが、最後の希望とばかりに押し寄せて長い列を作っている。
骨と皮だけの老婆が泉の水を掌ですくい口に含めば、次いで意識のない子供を抱えた母親が子供の口に運んだ。
水を口に含んだ彼らの肉体に変化はなくても、表情には願いと希望が宿っていた。
金持ちも、貧しい身なりで靴すら履いていない者もいる。
老若男女、富みある者も貧しき者も、誰も彼もが同じ願いを胸にこの場所を訪れている光景に、ティアナは恐れを感じてしまった。
医者や薬では癒えない、病を抱えた者達が希望を胸に足を運んでいる。
貧しさから薬を買う金もなく、藁にもすがる思いでやってきた者もいるだろう。
小さな水溜りでしかない湧水を求めて、辺り一面を埋め尽くさんばかりの病人がひしめき合っているのだ。それこそ這いつくばって泉に手を伸ばしている者すらいる。
どうしようと、迷いと恐れがティアナの心に渦巻いていた。
湧き出る水はただの水で、この水で病が癒えるなんてないとティアナには分かってしまった。
奇跡が起きたと語る病人は、恐らくこの水を飲まずにしても病が癒えただろう。奇跡の水を飲んだからとの、病を吹き飛ばすほどの強い思いを抱いたものもいるであろう。そう想像できる世界がここにはあったのだ。
ここでティアナが彼らに治療を施すのは容易い。
けれど盲信する彼らを目の前にして迷いが生じる。
偽物の自分が彼らの信仰を捻じ曲げ奇跡を起こしてよいのかと。
ここで力を揮えば瞬く間に神と崇められてしまうだろう。けれど彼らが切実なまでに願い求めるのはティアナではなく、彼らが信じる本物の神からの慈悲なのだ。
ティアナはイリスを助けるために自らを神の御使いと名乗りはしたが、それは自分の欲のためだけにだ。
ここで公に治療を施せば、目の前の信者らの気持ちは神からティアナへと移ってしまうのではないか。
神がいったいなんなのか分からないが、何も知らない彼らから神への信仰心を偽物の自分が奪い取ってもいいものかと恐れが生まれた。
けれど信仰に恐れをなしたのはほんの一瞬。
奇跡に縋るうつろな目を前にして竦む我が身を奮い立たせると、目についた中で気になってしまった親子に向かって足を向けた。
意識のない子の口に水を運んだ母親は群れから子を守り、逃れるようにして端に避け、子を抱えたまま湿った地面に腰を落としていた。
誰も彼も自分に手いっぱいで親子を気にするものはいない。
子の髪を撫でる母親の目は赤く濡れていた。
「齢は幾つですか?」
屈んで声をかけると、濡れた母親のうつろな視線がティアナに向けられた。
口を聞いてはいけない巡礼者に声をかけられて、驚たのか僅かに目を見開く。
だがすぐに胸に抱える子に視線を落とすと、瞬きと同時に涙がひとつぶ零れた。
「まだ五つです。神に召されるには早すぎます」
五歳にしては小さ過ぎた。もともと虚弱で栄養も足りていないのか息も浅く、死を待つばかりの子に母親は項垂れて頬を寄せている。
母親も痩せ細って汚れていた。
ティアナにも貧困の経験はあったが、貧しさで食べるものがなくても死の恐怖はなかった。
これが魔法が支配するヴァファルと、いもしない神に縋る世界との違いだ。
ここで助けの手を差し伸べても彼らの生活は変わらない。貧しいままで飢えは今後も続くだろう。
今ここで手を尽くすのは偽善でしかないのかもしれない。
それでも生きて無事に成長すれば働き手となり、親子で支え合って生きて行けるのではないだろうか。
少なくとも母親は子を愛し、懸命に育ててきたのだ。
貧しさにあえぐ中でも、ちゃんと愛を注いで育て、失うのを恐れている。
大丈夫、きっと生きて行けると、ティアナは灰色の布の中から手を出して子を撫でた。
「神の御加護を」
厳しい旅を続けるとはいえ、ただの巡礼者に何かしらの力が宿るわけでもない。
それでも母親は意識のない子を撫でるティアナを拒絶せず、共に祈ってくれる存在に縋って「神様」と祈って頭を下げた。
親子の側を離れると、同じ灰色の布を巻きつけたイリスがじっとティアナを見ていた。
偽善を施す様に腹を立てているのか、それとも義兄や姉への想いと重ねているのか。
目の前に曝されている罪をいつもは正面で見据えるようにしていたが、何かを訴える灰色の眼差しに後ろめたさしか感じず、瞬きを理由にして視線を外し、彼の横を通り過ぎようとした。
「貧しい人間はこんな場所でも縋るしか方法がない」
すれ違う時、イリスから零れた言葉にティアナは振り返る。
別にティアナを責めているのではないようだが、感情を隠しているだけかもしれない。
例え死なないと分かっていても、刃物を人に突き刺す行為はかなりの恨みを持っているからこだ。
人を殺すのが仕事である兵士だとしても、イリスの心にはティアナを恨む感情が渦巻いている。
「全部は無理ですよ、これだけいるんだから。金持ちは放っておけばいいんです」
言うだけ言うとさっと視線が反らされた。
予想外の言葉にティアナは目を見張る。
ザックスを見れば黙ったままだ。
治療していいってことだ。
ティアナは背を向けたイリスが纏う灰色の布を掴んで、「ありがとう」と小さく告げた。
*
話しかけて体に触れる怪しい巡礼者に胡散臭いものを見る視線を向ける者もいたが、大抵の人たちは拒絶せずになされるままだった。
貧しい身なりと切羽詰まった病を抱える者たちは特に。
最初は誰もティアナのしていることが何なのか気づかなかった。
病を悼む巡礼者が祈りを捧げてくれていると思う程度のことだっただろう。
それがやがて歩けなくなった人の足を癒やしたり、見えない目を見えるようにしてやると、ティアナの起こす奇跡に歓声が上がり、やがて熱狂的になってしまった人々が押し寄せ大変な事態になってしまった。
狂気にも似た、縋りつく眼差しに恐れをなしたティアナをザックスが抱え上げ脱出させる。
そのせいでイリスとはぐれてしまったが、同じ巡礼衣装に身を包んだイリスはザックスの視線を受けて、ティアナの身代わりとして群衆をかく乱してから戻ってきてくれた。
「あんな場所で力を使うのはやはり不味かったな」
「ごめんなさい。イリス君も、ありがとう」
あのまま逃げられても仕方のない状況だったのに、ちゃんと戻ってきてくれたイリスにほっとする。
もともとイリスはティアナを嫌っているわけではないのだ。
ただ義兄の死と、身重の姉の死を受けて心に大きな葛藤が生まれてしまっただけで、憎む気持ちと仕方がないのだという感情が入り乱れている。
その感情をきちんと整理できる日がくるのかは分からなかったが、今のイリスはティアナの側にいてもちゃんと己を保てていた。
「全部を救うなんて無理な話です。あんな群衆を相手にしていたらいくら不死身でも圧死させられますよ」
イクサルドに留まったティアナが命をあきらめないのはイリスも強く理解していた。
けれど藁にもすがる思いで聖地の水を口にする人々の中で起こす奇跡は危険すぎた。
おおっぴらに奇跡を振舞えば、次々と現れる人々を前に、この場から離れられなくなるだろう。
それでは巡礼など一生果たせなくなってしまう。
「ごめんなさい」
傷を負っても勝手に再生した肉体はどれ程強いのかは不明だ。
即死につながる部分を大きく損傷した場合も大丈夫なのか、それとも死んでしまうのか分からない。それでも流石に、首を落とされても生きているなんてのは想像するだけで恐ろしく不気味なのでやめて欲しい。
取り合えず一つの巡礼地は回った。
誰かに見張られているわけではないので形で済ませるのも可能だが、嘘で固めてしまった現状が嫌でちゃんと巡る。目的はあくまでも罪を償う巡礼なのだ。
また他人を救ったことで、イリスが義兄や姉のことを思い出し葛藤しているのではと不安になったが、見た感じは特に変わらなかった。
灰色の布で全身を隠しているのではっきりとは分からないが足取りは普通だ。
最初の聖地を発ってから数日後、明日には街道を大きく反れて険しい山に入る。
体を十分に休める意味でも早々に寝床を整えていると、旅の女性に声をかけられた。
「一晩側にいてもかまわないかしら?」
二十代半ばの旅装束の女性で、ロバに荷を引かせているが一人だ。
巡礼者というのは人に警戒を抱かせない。
大きな男で一見恐ろしい印象を与えるが護衛付きなので、訳ありの金持ちが巡礼していると勘違いする人間も多かった。
野党の類を恐れる非力な旅の人間がこうして声をかけて来るのは初めてではない。
人が増えるとティアナとイリスは声を出せなくなるが、相手は女性一人。どうせ寝るだけと彼女を受け入れる。
ザックスは対応しながらも彼女を注意深く観察していた。
各々が地面に分厚い布を敷いて横になった。イリスはいつもよりもティアナ寄りに布を敷いたが、これも他人が側にいる時の常になっていた。
たった一晩側で眠るだけの関係で、巡礼者を伴っているので名乗りをしない者が多い中、女性はルルアと名乗り、ザックスだけがグラハムと偽名を返した。イクサルドの英雄の名を公にするのは憚られるからだ。
ティアナとイリスの名は名乗れなかったがルルアは気にしていない様子だ。
眠りについてどれほど過ぎただろう。
人の囁き声に安眠を阻害され、ティアナの意識が覚醒する。
ぼんやりしたまま、何かあったのかと夢うつつの状態で、目を閉じたまま耳だけで音を探れば、ルルアの笑いを含んだような甘い声とザックスの低い声が重なっていた。
どきんと心臓が波打ち、ティアナは目を見開く。
「そんなに硬くならなくたっていいじゃない。あの子たちじゃ相手になってくれないでしょ?」
「その気はない」
「今夜だけだから後腐れないわよ?」
「悪いが他をあたってくれ」
甘ったるい囁き声がティアナの耳を強烈に刺激していた。
すぐ側で巡礼者二人が眠っているというのに、ルルアがザックスに迫っているのだ。
「触るな」
「わたしの体、すごく評判いいのよ」
声量を落としてはいるが、ザックスの地を這うが如き拒絶の声に怯むでもなくルルアは甘く囁く。
「グラハムさんみたいな人、すっごく好みなの」
「離れろと言っているだろう」
「やぁだ、怖い顔して。ね、しようよ?」
ティアナから二人の様子は見えないが、声と衣擦れの音で胸がつぶれてしまいそうになった。
身動きできないまま二人の様子を窺う。
積極的なルルアにザックスは彼女を受け入れてはいない。
いないが、二人の体が今まさに触れ合っていると思うと、経験したことのない衝撃を受けた。
悔しくて悲しくてショックで、身動き一つできない硬直した体のまま、涙だけがぼろぼろと零れ落ちてしまう。
嫌だ、離れて。
もっと拒絶してと、心で叫んでも誰にも届かない。
そうこうするうちにルルアは更に積極的にザックスへと迫っている。
二人ともいい大人だ、自分が口出しするべきじゃないと分かっていても、とにかく悲しかった。
不意に、側で背を向け眠っていたイリスが寝返りを打った。
ティアナの硬直していた体がびくりと反応する。
こちらを向いたイリスは起きていた。ティアナを見ると目を見開いて、戸惑うように視線を離した。そうしてしばし思案してから、あきらめたかに溜息を落としてすっと立ち上がった。
「あ、起こしちゃった?」
特にばつが悪そうでもなくリリアが明るい声を向ける。
イリスは無言で二人の方へと歩いて行くと、ティアナは今起きたとばかりを装って顔を上げると視線でイリスを追った。
そのせいでルルアがザックスの膝に乗り上げている光景を目の当たりにしてしまう。
ずきん――と、刃物で刺される以上の衝撃が胸を抉ったが、二人へと向かったイリスは無言でルルアを乱暴に押しのけた。それからザックスの真横にすとんと座り込んで、太い腕に灰色の布で覆われた腕を絡める。
何をしているのかと、ティアナは涙に濡れた瞳をきょとんと見開き、ルルアからは大きな溜息が洩れた。
「なぁ~んだ、あなたの男だったの。ごめんね、気づかなくって」
ルルアはとても残念そうにぼやきながら整えた寝床に戻って体を丸めた。
どうやら灰色の布に包まれたイリスをザックスの女だと勘違いしたようだった。
※
見知らぬ女とザックスが一夜の情事を結ぼうが、イリスにとってはどうでもいいことだ。
けれどティアナがどうしているかと気になって寝返りを打ったのは間違いだった。
体を硬直させ、見開いた目からは声なく滝のように涙を零して酷く傷ついている。
最も有効的な手段でティアナを傷つけることに失敗したのはイリスだが、こうしてティアナが心を痛めている姿を目の当たりにするとやるせない気持ちに陥ってしまった。
望みどおりティアナが傷ついているのに、なぜだかちっとも嬉しくないのだ。
自分には関係ない。関係ないが……はぁと溜息が洩れる。
どうせ分からないのだからと、女のふりをしてザックスに乗り上げるルルアを押しどけた。
手を出すなと主張するかに、ぎこちなくザックスに腕を絡めながら、何とも言えない気まずさに汗が湧く。
イリスの行動の意味を察したザックスも、ルルアの勘違いを訂正せず黙って受け入れていた。
傷つけたかったはずなのに何をやっているんだろうと、イリスはザックスに腕を絡めたまま膝を抱える。
結局は好きなのだろう、どんなに憎くても。
それでもいつか彼女の心を傷つけてやる。
許し許される未来なんてイリスは想像できなかったが、共にいられる幸福だけは感じてしまうのだ。




