その36 だからわたしにイリスをちょうだい
ティアナの話を聞いたイクサルドの王太子ファブロウェンは、碧い瞳を見開き声を失った。
年齢や地位に相応しく、感情の起伏が大きい人ではないが、ティアナには彼の見開かれた瞳の中に、様々な感情が入り乱れているのが分かった。
イリスの受ける罰は命をもって償う程のものではないと分かってもらうために、ティアナはロヴァルス将軍が立つよりも早く砦を出発した。
護衛の任にある神殿騎士は勝手についてくるが、砦の兵でティアナに同行するのはザックスだけだ。
ラシードはエイドリックへの報告や将軍の出発を遅らせる目的で砦に残った。
罪人として護送されるイリスは、腕を縛られて馬に引かれながら徒歩での道程になる。時間はあるけれど十分ではないかもしれない。
休憩も最低限しか取らなかったので、神の御使いに失礼だと神殿騎士の二人は渋い顔をしていた。
イリスの命がかかっている。ティアナは二人に耳をかさず、ザックスについて都を目指した。
そうして埃にまみれた旅装のまま、イクサルドの王太子に面会を申し出たのだ。
ファブロウェンは突然現れたティアナに驚いたものの、すぐに会ってくれた。
しかもティアナの意を汲んで、私的な客人として扱い、従者はつけず、二人だけで対峙してくれたのだ。
そうしてティアナが予め用意していた話を全て終えると、ファブロウェンは言葉を失い、瞳に驚きの色を浮かべて言葉を失くした。
二人の間に沈黙が流れる。
ファブロウェンは驚きながらも、疑問に満ちた目でティアナを見据えたまま、様々な考えを巡らせていた。
その様をティアナは背筋を伸ばし、凛とした表情で見つめ返している。
「彼の神官と一般の兵士では話が違う」
たっぷり迷ったファブロウェンは、ようやくといった感じでそう言った。
片や大神官と神の御使いに刃を向けた身分低い兵士。過去に神官が犯した罪が何かは知らないが、神に刃を向けたわけではない。
それでも許された事実があるのだ。
大神官が裁かれるなど余程の事態だろう。それだけのことをしたのに、その大神官はある行為によって神に許された……そうだ。
ならば同じことをして、神の御使いであるティアナがイリスを許すことになんの問題があろうか。
「あなた方は差別なさりますが、わたしはしません」
神の前には何者も平等だ。真っ直ぐに堂々と告げたティアナに、ファブロウェンは眉間に深い皺を寄せた。
神殿ではなく、王太子を落とせと助言してくれたのはラシードだ。
神殿の神官たちは、上に行くほど狡猾で口が上手い。ティアナなんてすぐに手玉に取られてしまうに決まっているので、神殿への交渉は王太子に任せるべきだと。
けれどその王太子を納得させられるのはティアナしかいない。
幼少から仕え、右腕として頼りにしてきたグリストを更迭し、また神の御使いに刃を向いたとして処分を下して日の浅いファブロウェンにとって、ティアナの申し出は頭の痛い問題だっただろう。
王に代わって国政を任される若い身の上だ。心身ともに疲れ切っているのは、対峙するティアナにも一目でわかった。
本来なら急な謁見なんて了承されないが、相手が神の御使いとなれば話は別なようだ。
けれどその話がティアナを殺そうとした少年兵を解放しろというものでは、頭を抱えたくもなろう。
なにしろ貴族であり、長年自分に仕えたグリストに重い処罰を下したのだ。だというのに見知らぬ少年兵を、取りようによっては無罪放免しろと言われているに等しいのである。
「その神官は二年かけて巡礼地を巡り、神に許されたとか。イリスはわたし自身が導き手となって罪を償わせます。なにも牢に閉じ込めたり、血を流すだけが罪人にとっての責め苦となるわけではありません。神殿も血を流す野蛮な輩はお嫌いなようですし、御使いであるわたしの言葉なら素直に頷いてくれるのではありませんか?」
表向き神殿は、戦いを仕掛けて血を流すという理由で軍部を嫌っている。ラシード曰く、裏では何でもやり放題だが、表向きは綺麗事ばかり並べる組織らしい。
今回イリスを助ける為にザックスに言われたのは「神の御使いになれ」ということ。
自分は神の御使いではないと強く思うティアナにとって、受け入れがたい嘘だった。
幽閉されたエイドリックを救うのにファブロウェンと交渉した時も、自分から「神の御使い」なんて一度も名乗っていない。
狡いが、勝手に勘違いしてくれたのを訂正しなかっただけなのだ。
けれど今回ばかりはそうも言っていられなかった。
イリスを救えるなら、神の御使いにでも何にでもなってやると心に決めた。
「巡礼は過酷だ。それに罪人を伴っていては、いくら神殿騎士を引き連れていようと身に危険が付き纏う」
かつて罪を犯して追及された神殿の長は、その地位と人脈の全てを利用して罪を逃れた。
ただしイクサルド中に点在する聖地といわれる場所を巡り、神の許しを請う巡礼という過程を経てだ。
聖地と呼ばれるのは神の奇跡が起きた場所とされ、薬となる水が湧きでいたり、神や神に仕える天使が出現し、人々に慈悲を与えた場所とされている。
けれどその場所のほとんどは辺境と呼ばれる地にあった。険しい山であったり、深い森の奥など、聖地ゆえに道はあるが、容易く辿り着ける場所ではない。
彼の神官が自分自身の足で全ての巡礼地を回ったかどうかは不明だ。
訓練された屈強な兵士でさえ巡るのには数年かかるというし、巡礼となれば順路や服装にまで細かい決まりがある。
勿論、不要な理由で町に寄ることなんて許されず、寝泊まりは野宿が基本だ。
過酷な巡礼者に一夜の宿を施してくれる者もいるが、いつもというわけじゃない。
「そのような過酷な旅にそなたを行かせるわけには……」
ファブロウェンは迷いをみせながら言い淀んだ。
「心配無用です。それから騎士は神殿に返します。わたしには彼以外の護衛は不要です」
神殿騎士は貴族の生まれだ。そんな旅には付き合い切れないだろうし、そもそも不要。ティアナが胸を張れば緑の命石が光を浴びて煌めく。
「ロブハートがいても貴方は狙われた」
狙った本人であるイリスを連れて行くのだ。ザックスがどんなに強くても、四六時中一緒にいれば必ず隙は出る。その時に狙われて命を落とされてはイクサルドが神の怒りを受けてしまうとファブロウェンは心配していた。
「そうですね。けれどわたしはよほどのことがないかぎり死にません。彼の同行はイリスを逃がさないための監視です」
「許可できない。それに貴方はエイドリックの元に使わされたのではなかったのか? エイドリックを放置して罪人と巡礼など認められる筈もない」
首を横に振るファブロウェンにティアナは小さく微笑み、問題ないと碧い瞳を真っ直ぐに捉えた。
「エイドリックにわたしが必要だったのは、あなたとの間に悪意を持って作られた問題があったからです。それは解決し、受け入れて頂いたと思ってよろしいのですよね。それならばわたしがエイドリックの元を離れるのに何の問題もありません。それに――」
もったいつけるようにして、ティアナは一つ息を吐いた。
「許可を求めているのではなく、あなたの民を預かると報告しているだけです。ただイリスの身柄はロヴァルス将軍の手にありますので、速やかに譲り渡す配慮を頂きたい。こうして足を伸ばしたのは、あなたにそうお願いをしたかったからです」
「私にっ……!?」
途端にファブロウェンは狼狽えた。
なぜなのか分からなかったが、イリスの解放をファブロウェンに「お願い」しろと助言したのはザックスだ。王太子はティアナを神聖視しているから、そのティアナからの願いなら聞き届けたくなるに決まっているからと。
それならイリスの無罪放免をお願いするのが手っ取り早い気もするが、ティアナを傷つけようとしたイリスを、新論者たる王太子は許せないだろうから、そこまでは望むべきではないと。それにはラシードも同意見だった。
「エイドリックに遣わされた役目は終えました。今後は罪人に罪を償わせる旅路を見守りながら、この地に留まるつもりです」
これから先もイクサルドにいるのだと告げる。
決して許しを請うているのではなく、あくまでも報告だ。
「今後もイクサルドと良い関係が続けばと、願っています」
神の御使いとイクサルドの王太子、どちらが上にあるのか、どちらがどちらを尊ぶべきかをファブロウェンに突き付けた。
神の御使いになれと背中を押したザックスは、言葉通りエイドリックの元を離れてティアナに付き従ってくれる。
彼が最も輝いて人生を捧げた場所から退かせるのだ。この決断には勇気が必要だったが、彼の言葉に甘えてイリスの命を優先し、ザックスを巻き込むことにした。
それでいいと言ってくれる彼を信じて受け入れる。
エイドリックはラシードに任せ、何も伝えずに来てしまったから横槍が入るかもしれない。それでも目の前の命をあきらめないと決めたティアナに恐れはない。
「返事を頂けますか。イクサルドの王太子」
「――貴方は、あの時とはまるで別人のようだ」
決心の違いだろうか。ファブロウェンはティアナの言葉に冷たさを覚え、付き離された印象を受けていた。
振りではなく、真実の意味で神の御使いになろうとするティアナの心情をファブロウェンには掴めないだろう。
けれど目の前にいるティアナを、始めから神の御使いとして受け入れている信心深いファブロウェンには、ティアナを疑う様子はない。
「始めから報告や願いなど不要なのでは。貴方の奇跡はロヴァルスも理解しているだろう。一言命じればそれで済む」
「あの方は有能なイクサルドの将軍です。わたしを駒の一つとしてしか考えない彼と、まともな会話が成り立つと思いますか?」
ロヴァルスはエイドリック側の人間であることに間違いない。そしてイクサルドの平和のために戦う人だ。
エイドリックを救い、不思議な力でタフスの侵攻を防いだティアナを敬いこそすれ、本気で神の御使いと崇めているわけではない。
エイドリック同様に……否、彼よりも狡猾にティアナを使うことを望む人。
ティアナの声を聞いてくれたエイドリックと違って、神の御使いに刃を向けた咎人の処分を先頭に立って下そうとしている。
将軍が嫌いな訳ではない。見た目はとても惹かれる存在だった。
けれどだからといって彼の行動を受け入れられるわけじゃない。
将軍に話を聞いてもらう努力を怠ったのは、彼が預かる命の多さにも関係していた。
ティアナが命を見捨てたくないという強い感情を持つのと同様に、ロヴァルスも彼が預かる多くの兵士やその家族らの命を預かっているのだ。
将軍という職にあるからゆえに、イクサルド中の民を守っているといっても過言ではないだろう。
一つの過ちが後に大きな傷を生むことを、彼は長い経験と身をもって知っている。
だから彼はイリスの命一つで、ティアナに仇する者らを排除できるならと、迷わず実行に移そうとしているのだ。
ティアナに恨まれるのなんて屁でもないのだろう。ティアナの持つ力が多くの命を救えると知っているからこそ、自ら恨まれ役に徹するといってもいい。
ティアナにはロヴァルス将軍と対峙して勝てるとは思えなかった。ティアナの魔法が優れていても、将軍という地位にいる人の経験はティアナの想像をはるかに超えるだろう。
ロヴァルス将軍はイクサルドのために尽力する軍人だ。情に訴えてどうにかできるとは思えなかったし、ザックスからそうしろと言われなかったことから、やはりそういいうことなのだろう。
「大丈夫です、巡礼の旅を終えれば必ず改心します。なにしろわたしが付いているのですから間違いありません。だからわたしにイリスをちょうだい」
イリスの目的は自分が罰せられることで、ティアナが傷つくことだ。決してティアナを肉体的に痛めつけるのが目的なのではない。
死なないと分かってから実行に移したのは、イリスがティアナを死なせたくないと思っている証明でもある。
あの夜ティアナがグリスト卿の手の者に刺されなければ、イリスは心に闇を抱えたままで、こんな事態にはならなかった筈なのだ。
あの事件はティアナにとっては必要なことだったと思うようになっていた。
イクサルドという世界に馴染んで、犯した罪を忘れかけていたティアナにイリスは釘を刺したのだ。
イリスは金で雇われ、私欲のためにティアナを亡き者にしようとした輩とは違う。
それでもイリスは罪を償う必要がある。
ザックスやラシードの言葉もあったし、ロヴァルス将軍も非道なようだが、この世界では当然の報いを受けさせようとしていた。
それをティアナも理解しなければいけない。
恐らくイリスにとって、ティアナに助けられて共に行動するのは大変苦しいものになるだろう。
これこそがイリスに与えられる罰であり、ティアナにとっては戒めとなるのだ。
ファブロウェンは真っ直ぐに見つめてくる漆黒の瞳に引き込まれる。
どこまでも続く闇は美しく魅力的かつ幻想的だ。
ファブロウェンは神の御使いたる目の前の女性に、とっくの昔に引き込まれてしまっていた。
ファブロウェンは今更と、小さな溜息を落とし徐に立ち上がる。
「御心のままに」
王太子という身分にあろうとも、頭を下げるのは意外に容易かった。何しろ相手は神の御使いなのだから。
彼女が望むなら、それが神の言葉だ。




