その33 俺の罪の出所はティアナさん、あなただ
牢獄と呼ぶにふさわしい強固な石造りのそこには、つい最近までタフスの捕虜がいた。
けれどタフスとイクサルドで和解が成立し、捕虜は解放されてタフスへと帰された。
そのがらんとして、夏にもかかわらずひんやりと冷たい牢にただ一人、まだ少年の域を出ない一人の兵が捕らわれている。
彼が向けた刃は確実にティアナに向けられていた。
肌に届く前にディリオに阻まれたが、裂けた衣服の位置は間違いなくティアナの心臓を狙っていたのだと証明していた。
どうしてイリスが――。
グリスト卿と通じていたのだろうか。
イリスもだんまりを決め込んでいて、理由を告げるつもりはないらしく、神の御使いを殺めようとした罰を受ける覚悟があるようだ。
多くの目撃者がいて、何よりもティアナを守る神殿騎士が最も近くでイリスの行動を目撃したのだ。
ティアナを守ったのもその神殿騎士であり、揉み消すなんてことは不可能で。
一体どうしてと、この三日、ティアナは部屋に篭って膝を抱えていた。
イリスの身分や行動からして極刑は免れない。
ティアナは無事だった。だからせめて情状酌量をと、襲撃の理由を聞いても口を開こうとしない。
これでは庇いようがない。
ティアナの心情を察するエイドリックも、お手上げだと言わんばかりに溜息を落とす。
仲良くできていたと思っていたのは自分だけなのか。
どうしてという思いがティアナの心に渦巻く。
大きな男ばかりの砦で、ティアナと変わらぬ背丈で灰色の瞳を向けて来た少年。
「天使」から「ティアナさん」と呼びかたを変え、時にはにかむような表情を見せた彼の全ては何だったのか。
ティアナはそっと両の手で自身の胸に触れる。
先輩兵士に押されたせいで、ティアナの胸に手を置いてしまったイリスは、真っ赤になって鼻血を吹きだしてしまった。
そんなあどけない少年だ。
その少年に命を狙われた理由が何なのか、ティアナはそれが知りたくてならなかった。
「後悔させるつもりだった」と、ザックスに告げた言葉の意味をティアナは知りたかった。
時間が経てばたつ程、知る必要があるのだとの思いに駆られ、エイドリックに面会の許可を求めれば、しぶしぶながらも頷いてくれた。
できれば一人でと望んだが、王太子直々の声がかりで護衛に当てられた神殿騎士は離れてくれなかった。
それにエイドリックとザックスも同行することになるが、実際にはティアナの要求に善処してくれた。
鉄格子に手の届く距離にまで近付かないと約束して、四人は少し離れた場所から見守ってくれることになった。
※
昼間だというのに冷たく暗い牢の端に、イリスは膝を抱えて座り込んでいた。
人の気配に顔を上げて、ティアナだと分かると苦しそうに顔を歪める。
この少年が本当に自分を殺そうとしたのか。
心の葛藤を浮き出すように歪められた表情から、やはり大きな理由があるのだとわかる。
ティアナは悲しくなって眉を寄せた。
イリスが向けてくれた善意に嘘はないと感じている。だからこそ真実が知りたいと、ティアナは鉄格子の前に立ち、真っ直ぐにイリスを見据えた。
「どうしてなのか理由を聞いてもいい?」
暴力で聞き出そうとはされなかったようで、見える範囲に怪我はない。
エイドリックやザックスにも口を開かなかったイリスだが、ティアナが問うと躊躇しながらも、視線を合わせず、息を吐いてから口を開いた。
「俺は、ティアナさんが好きだよ。御使いで、天使で、俺を含めて沢山の命を救ってくれた奇跡の人だ。それだけじゃなくて。それがなくても俺はティアナさんを好きになってたよ」
怪我をした自分や仲間を助けてくれなくても、ティアナを好きになったのだと、まるで先日の出来事など嘘のような告白をしてくる。
そんなイリスの言葉にティアナはほっとしていた。
少なくともイリスが向けてくれた笑顔に嘘はなかったのだとわかり、ティアナは言葉もなく深く頷いて返す。
「どうしたらいいのか分からないんだ。本当はどうしたいのか、今もまだ俺自身の中でちゃんと整理がついてない」
冷たい床に腰を落としたまま、頭を抱えて首を振ったイリス。ティアナは駆け寄って背中を撫でたい衝動にかられるが、それはできなかった。
現実敵に鉄格子が邪魔しているのもあるが、信じて一人にしてくれた四人に報いるのと、イリスの言葉を最後まで聞きたくて、ティアナはぐっと堪え地面に足を据え続ける。
「後悔させるつもりだったって言ったよね。何を後悔させたかったの?」
「なぜお前が」と、悲痛に漏らしたザックスの声に後悔させたかったとイリスは答えた。
後悔させたかったのは何なのか。
ザックスのティアナに対する態度が変わったことに関係があるのだろうか。
答えを待つティアナに、やがてゆっくりとイリスの瞳が重ねられた。
「失う事」
「失う事?」
ティアナが繰り返せばイリスは小さく、泣き笑いのような頼りない微笑みを口の端に浮かべた。
「前にティアナさんが、副官やラシードさんと話しているのを聞いたんだ。自分の世界に帰りたかったから力を使わなかったって」
それはティアナの決断が遅れ、ラシードの友人を死なせた後悔で彼を避けていた時の話だ。
ラシードに呼び出されて癇癪を起したのは忘れるほど前の出来事じゃない。
イリスが聞いていたとは知らなかったが、聞かれて拙い話でもなかった。
ティアナの後悔はひた隠しにしたい内容ではなかったし、見捨てた命に対して罪の意識もある。
後悔の念でいっぱいだったが、それらの全てを隠してしまいたいとは思っていない。
「そりゃ帰りたいよね、自分の世界には家族だっているし、生活や大切な人だって残してきているはずだから。分かるよ、俺だって家族が大事だ。姉のことだって仕方がないってわかってる。でも――それでもどっかで恨みが漏れるんだ。仕方がないって納得したはずなのに、ティアナさんが敵の王子に慈悲を与えたって知って、じゃあどうして義兄には与えてくれなかったんだって」
やりきれないのだろう。膝を抱え顔を埋めたイリスを前にティアナは瞳を見開いた。
「義兄さん?」
義兄がいたのか、あの場所に。
ティアナは突然イリスが城に現れ、実家に寄ったのだという話をした時のことを思い出した。
あの時ザックスは実家の話をしようとしたイリスを止めたのだ。
どうして止めたのか、今なら分かる気がした。
イリスは無事を報告しに実家に立ち寄ったんじゃない、義兄の死を報告しに戻ったのだ。
身重のお姉さんのいる故郷に。
どくりとティアナの心臓が痛いほどに強く波打つ。
恐ろしい宣告を受けると予感したとおり、膝に顔を埋めたままイリスはティアナに恐ろしい事実を突きつけた。
「ティアナさんがみんなを助けてくれた場所に姉さんの旦那もいたんだ。でも間に合わなかった。ほんのちょっとの差で死んでしまった。仕方のないことだって思ってた。実家に帰って義兄の死を知らせたらさ、姉さん大丈夫だって言ったのに――でかい腹を抱えたまま自殺したんだ」
心臓が鷲掴みにされて息が苦しくなる。
漆黒の瞳を見開いて、唖然と立ち尽くすティアナに、ゆっくりと顔を上げたイリスの視線が絡んだ。
「知らせなきゃよかったって後悔したよ。せめて子供が生まれてから知らせるべきだったって。そのあと任務に戻ってから、ティアナさんがタフスの王子を助けたって知ってなんでって思った。あんな奴を助けるなら、どうして義兄を助けてくれなかったんだって。そうすれば姉も、腹の子も生きていたはずなのにって」
イリスから溢れる言葉が、大きな鼓動すら聞こえなくする衝撃でティアナの脳裏に直接響いた。
どくりと打つ心臓の音と、淡々としたイリスの声はどちらもティアナの意識を絡め取る。
冷や汗が伝い、ぽたりと石の床に落ちた。
彼は、イリスは、どんな気持ちを抱えてティアナの前に現れたのか。
義兄と、姉と、生まれてくるはずだった子供の命。
ティアナには到底計り知れない感情を前に、鎖でがんじがらめにされたかのように、一切の動きが封じられる。
「どう言っても後の祭りだし、ティアナさんにだって事情があったのは分かってるんだ。でもどっかで納得できなくて。俺はティアナさんが好きだし、ティアナさんも俺の事好きでいてくれたよね。だから分かって欲しいと思った。誰もティアナさんを責めないから、一緒に心を痛めればいいって副長も巻き込んだ。ティアナさんを刺しても死なないって分かったからやろうって決めたんだ。天使を殺そうとした罪で処刑される俺を見て、後悔すればいいって思った」
刺しても死にはしないことを、グリスト卿の一件でイリスは知ってしまったのだ。
殺したいと本気で思ったわけじゃない。
ただ失う辛さを味合わせたかった。
ティアナにとってイリスは可愛い弟のような存在になっていた。年下だから特に情が湧く。そんなティアナに、イリスは自分の死を目の当たりにして後悔することを望んだのだ。
義兄と姉と、そして生まれるはずだった小さな命。イリスの側にあった命が失われたのに、敵国の王子が生かされた事実がイリスの心を蝕んだ。
そうさせたのはティアナだ。
「ティアナさんは情に厚い人だし、人の命に対して執着を持ってるのは、タフスの王子を助けたので分かって。だからそれを利用した。俺は本当にティアナさんが好きだったから、感が鋭い副長も最後まで俺を疑わなかった」
忠告もしたんだよと、見えない場所にいるザックスに向けてかイリスの視線が一度流れ、再びティアナに舞い戻る。
「俺の罪の出所はティアナさん、あなただ。あなたが取り零した命のせいでこうなった。自分のせいだって思えば傷付くでしょ、だからやったんだ。俺は後悔してない。でも――悲しいんだよ。ティアナさんを傷つけたかったのに、あなたのそんな顔を見たらやめとけばよかったって、なんでか分からないけど涙が出てくるんだ。義兄が死んだのも姉さんが死んだのも、敵の王子が生きているのもティアナさんのせいじゃないって分かってるのに。俺、どうしても許せなくて……ごめん」
まだ十六の、子供とも大人ともつかない少年。
命のやり取りをする場所にいても、心も大人と同じなわけがないのだ。
仕方がなかったのだと納得しようにも、そうさせない事実があとから出てきてしまった。
そうして実際に奪おうと決めたのは自身の命。
その方がティアナにとっての痛手となると分かっていたから。
イリスと自分の命を天秤にかけた場合、ティアナなら間違いなくイリスの命をとる。けれどそれでは駄目なのだ。
神の御使いを殺そうとした罪で、処刑されるだろうと踏んだイリスはティアナに剣を向けた。
刺しても死なないと分かっていて、あえてそうしたのだ。
グリスト卿の件がなければ今もイリスは心に大きな葛藤を抱えながらも、ティアナを思慕し、真実の笑顔を向けてくれていたはずなのに。
ごめんと俯いた地面に小さな染みができた。
零れた涙を拭おうともせず咽ぶ少年の姿に、ティアナはかける言葉を失ったまま、力を失ってその場にすとんと座りこんでしまう。
かける言葉なんてあろうはずがない。
少年から家族を奪い、その未来を閉ざさせたのは誰でもないティアナなのだから。
ティアナが落ちてこなければ、タフスの侵攻は止まなかっただろう。
どのみち義兄も失っていたけれど、イリスにとってはそれでよかったのだ。
そうしたらティアナを恨まずにすんだし、姉も絶望で死ぬようなことにはならなかったかもしれないのだから。
攻めて来る敵から腹の子を守るため、安全な場所に逃げただろう。イリスだって全部分かっているのだ。
けれどあの場所にティアナはいた。
ティアナがエイドリックの元に落ちて、イリスと出会った時、彼の義兄は間違いなく生きてあの場にいて奇跡を待っていた。
それを見捨てたのはティアナだ。
恨んでいい、完全に恨まれるべき存在であるはずなのに。
己の感情に咽び葛藤するイリスは『ごめん』とティアナに謝る。
好きだといいながら、やり場のない怒りと疑問に溢れている。
彼を犯罪者にして、未来を奪ったのは自分なのだと、ティアナは焦点の定まらぬ目で膝を抱える少年から目を離せなかった。




