その3 僕の方が拷問なんだけど
ザックスはティアナから視線を外さないままポケットからメモ帳を取りだす。先程没収された物だ。
「これはなんと書かれている?」
差し出されたメモを前にティアナは首を傾げながらザックスを見上げた。
字癖が強い訳じゃないのに質問されるのは文字が異なるのだろう。
言葉は通じるのにどうしてだろうと思いながら読み上げる。
「二十二日十五時から十六時、二十八日九時から十三時……時間を示しています。ヴァファルの一日は二十四時間ですがこちらもそうですか?」
時間の概念は同じなのだろうかと尋ねると頷いてくれた。
「なんの時刻を示している?」
「皇太子殿下が監査部においでになり、退出される時刻です。慣例で監査部の責任者は皇太子殿下と決まっていますので」
皇太子の情報を流すのはどうかと迷ったが、こちらの世界には関係ないだろうと素直に答えた。
「皇太子……名は?」
「サイファース・アルド・キャスターナ・ヴァファル殿下です」
「近くに仕えているのか?」
「新入りのわたしはちらっと拝見する程度です。皇太子殿下も勉学に勤しまれるお歳ですので、あまり監査部にはおいでになりませんが、お見えになる時間はなるべく姿を合わさないようにと時間を記していました」
「会いたくないのか?」
「恐れ多いですので」
年齢は離れているが万一ということがある。
まかり間違って側室なんて事態になれば監査部からの給金がなくなってしまうのだ。あと二十年は実家のためにも勤め続けたかった。
「職には試験で合格したのか?」
「いいえ、単なる異動です」
養子云々は割愛してもいいだろう。
「異動ということは、随分昔から監査部とやらを取り仕切る組織に勤めていたのか? 試験を受けずにいかにして大層な名の組織に従事できるんだ?」
「わたしは生まれが貧しかったので、帝国から村に派遣された医師に拾って頂きました。十の頃から親元を離れて医学を学んでいたのですが、どういう訳だか監査部へと異動に」
「訳がある筈だ。答えろ」
眼光鋭く見下ろされティアナは身を竦めた。別に隠している訳じゃない、言い難いのだ。
魔法を除外して説明するにはどうしたらいいのか。失敗すれば殺されるかもしれないと、ぎゅっと両手を握り締めて身を固くした。
「自分で言うのはなんですが、出来がいいので監査部に放り込まれました。いつの間にか貴族の養子になっていて、監査部の責任者たる皇太子殿下のお目に止まり、側室に召し上げられるのが養父となった貴族の目的です。ですが監査部での給金があまりにもよかったので、実家の家族のためにもお目に止まる訳にもいかず、なるべく皇太子殿下の目に止まらぬようにと、おいでになる時間は逐一調べて忘れないようにしているのです。本当です。両親の他にはわたしの下に弟妹が八人、末の妹は生まれて間もないんです。貧しい村でわたしの仕送りだけが頼りなんです!」
だから嘘は言っていない。
涙目になりながら必死で訴えたるが、ザックスは表情を変えず厳しい目でじっと見下ろしている。
懇願するように見上げていると、やがてザックスは呆れたように鼻で笑った。
信じていないな……というのがティアナの印象。トチ狂った女が夢物語でも頭に描いていると思っているに違いない。
「では、その弟妹と両親の名を父親から順番に教えてもらおうか」
「分かりました」
この後ティアナが父母と弟妹の名を答え終えると、ザックスは同じ質問を最初から繰り返し、ティアナは同じように答えさせられた。
それは一度や二度では終わらず何度も何度も繰り返されるのだが、繰り返すうちにザックスが苛立っている様子が伝わってくる。
事実を語っているのだから長い皇太子の名や家族の名を間違うはずがないのだが、聞いていたザックスも一度で覚えていたようだ。
紙とペンを渡され読み上げたメモの内容を書かされたりもした。最後には小説家にでもなるのかと嫌味を言われたが、ティアナはなんとなく命の危険は去ったのではないかと感じてほっとする。
時折変則的に質問を繰り返され、新たに湧いた疑問に答えながらティアナからも質問したり。
信用されてないので大した情報は与えてもらえなかったが、ティアナが落ちたここはイクサルドという、あまり大きくはない王国の国境で、東にあるタフス王国からの侵攻を受け、五百人余りのエイドリック従える兵士たちが守りについているらしかった。
国境には砦がある。そこを拠点にタフスの進軍を一度は退けたが、砦の井戸に何者かが毒を仕込み、近くの森に一時居を映移しているとのこと。
なにしろ攻めて来たタフスの軍勢はこちらを大きく上回る三千の軍、退けはしたが多くの被害も被った。
怪我人に清潔な水が必要なのはティアナも理解している。毒が盛られた井戸が使えないなら水がある場所から運んでくるか、移るかする必要があるだろう。
それがすぐ近くなら怪我人を敵襲から守る意味からも居を移すのは賛成だ。
気になるのは毒を盛った相手がタフスの人間なのか、本来味方である筈の人間なのかが判明していないこと。
それ程エイドリックと第一王子の仲は険悪なのだろうかとティアナは不安になった。
それにしても三千の敵をたった五百で退けるとは大したものだ。
エイドリックは第二王子というから弟の有能さに兄は脅えているのかもしれない。
「援軍は来るんですよね?」
先程ティアナがちらっと見ただけでも多くの怪我人が目に付いた。体勢を立て直したタフスの軍が再び攻めて来たら太刀打ちできないだろう。
そうなればここにいるティアナも一蓮托生だ。無事ヴァファルに帰るためにもそれは避けたい。
けれどザックスはティアナの願いを知ってか知らずかあっさり否定した。
「援軍は見込めない」
「そんなっ!」
あきらめか吐き捨てるのか、どちらともとれる言い草でザックスは僅かに口角を上げた。
笑顔というには程遠い、憎しみすら篭っているかの表情にティアナは全てを悟る。
「あと五日もすれば、体勢を立て直したタフスが再び攻めて来るだろう。エイドリック殿下派が援軍を送ってくれているだろうが、恐らく間に合わない」
邪魔をする人間がいるということだ。
ここにいてはいけない、どうしよう。どう逃げようと体が小刻みに震えだす。それに気付いたのか、ザックスが動くと武骨な指先でティアナの頬に触れた。
「今までで一番脅えているな。死ぬのが恐ろしいか?」
死ぬのが怖い――確かに怖いが、最悪それを免れる術は持っている。けれどそれは世界との決別を意味していた。
「帰りたい……家に帰りたいんです」
「無理だな。ここから最も近い村まで歩いてまる一日かかるが、そこに逃げてもすぐタフスに追いつかれる」
「お願い解放して。わたしはエイドリック様を狙ったりしていない。この世界の人間ですらないのに巻き込まれるなんてごめんだわ!」
目の前の男に追い縋る。帰りたい、五日じゃ足りないのだ。
最短で七日で戻った者はいるが、ティアナもそうだとは限らない。
勿論それより早く帰れるかもしれないが、奇跡のようなものだ。
ティアナにはティアナを必要としている家族がいる。ティアナがヴァファルに帰らなければ、十歳で別れたきりの家族はいったいどうなってしまうのだろう。
懐かしい面影がちらつく。
会えなくても手紙のやり取りは頻繁にあった。その度に幼くして手放した娘を心配する両親の想いは痛いほど伝わっていたのだ。
ザックスは、縋りついて泣き叫び訴えるティアナを、邪魔だと言わんばかりに無情にも引き剥がした。
「逃げたければ逃げればいい、簡単には逃がさないがな。ただ逃げるなら覚悟しておけ。森の周囲はタフスやエイドリック殿下を狙う輩だけでなく、死人を漁る賊がうようよしている。お前のような見目のいい若い女は格好の餌食だ。強姦されるだけならまだいいが、その後は命を奪われるか死ぬまで慰みものか売られるかだぞ」
恐ろしい現実を突き付けられティアナの涙は一瞬で止まった。
「そんな――」
「殿下がおっしゃっただろう、保護を求めるには最も相応しくない場所だと。俺も同感だ」
土地勘も何もない非力な女が一人彷徨うには厳し過ぎる世界。魔法がないというのはそういうことだ。
「疑いが晴れたら保護してくれるんでしょう!?」
「晴れたらな」
「嘘なんかついてない!」
「お前が素人なのは分かった。だが、素人が俺に隠し事ができると思っているのか?」
「隠し事なんてっ!」
濁りのある隻眼で見据えられティアナは言葉を失う。
「ほらな。素人だけあって分かりやすい」
命のやり取りをしているような男相手に、平和な世界で生きて来たティアナが敵うわけがないのだ。
けれどこれだけは言えない。信じてもらえないだろうし、脅され命と引き換えにされてはどうしようもなくなってしまう。
ティアナが声もなく首を振り力を失って地面に座り込むと、ザックスは一人天幕を出て行った。
さし込んだ日差しは夕暮れのものへと変わり時間の経過を知らせる。
薄暗い天幕の中に一人残されたティアナは寒気を感じて己を抱き締めた。
少しでも早く時間が過ぎ去ってくれればいいのにと願いながら腰を上げ、先程座っていた箱に場所を戻す。
今後どうなるのか、どうしたらいいのか答えの出ない時間を過ごしていると、出て行ったザックスが男を一人伴って戻って来た。
歳の頃は二十代半ば、エイドリックと同じくらいで身長も同じ程度の高さ。けれど驚くほど綺麗な顔をしている。
長めの金髪を高い位置で結っていて、碧い瞳がティアナに重なると驚いたように瞬いた。
「僕の方が拷問なんだけど」
物語の王子様を連想させる容姿の男が、ザックスを振り返って嫌そうに零す。
拷問という言葉に慄いたティアナは立ち上がると、彼らから一番遠い場所へと逃げるが、狭い天幕の中では距離を取る前に積まれた荷物に背中がぶつかる。
「いいからやれ」
それだけを言い残してザックスは再び姿を消した。
彼がいない間にどうして逃げ出さなかったのだろうと後悔するが、逃げても多くの兵が集う野営場からティアナの力で逃げ出せる筈もない。ザックスの言うことが事実なら、ここから出ても無事でいられる保証はなかった。
残された男は、ザックスを見送りやれやれといった感じで振り返る。
脅えるティアナを前に、綺麗だが年齢の割に人懐っこい笑顔を浮かべて、手にしていた盆を掲げてみせた。
「お茶でもどう?」
まさか毒?
取り調べで不合格になったのだろうか。
男は恐怖で声も出せず脅えるティアナにかまわず、足で木箱を異動させ盆を置いてお茶の準備を進めた。
「そう脅えなくても大丈夫。怖いことはしないから」
取り合えず座ってと淹れ立てのお茶を差し出されるが、ティアナは首を振って拒絶した。
「毒なんて入ってないからさ、座りなって」
口調は柔らかだが拷問という言葉がティアナの恐怖を煽りたてる。
けれど微笑みを崩さず座れと繰り返され、恐る恐るもといた場所に腰を下ろすと、少し冷めたお茶を渡された。
「毒なんて入ってないから飲みな、落ち着くからさ」
お茶からは場違いなほどに甘い香りがたちあがっていた。
恐る恐る香りを嗅ぐが、本当に毒が入っているかどうかなんて魔法を使わなければ判別できない。
無理矢理飲まされる訳ではないので多分大丈夫だろうと考える余裕が出て来るが、それでも口を付けるかどうか迷っていると男が話しかけて来た。
「ティアナ・レドローク、だっけ?」
「はい、そうです」
こくりと頷くと男の笑顔が深まる。
「僕はラシード・ガウエン。副官とは義理の兄弟なんだ」
「兄弟……」
副官とはザックスのことだろう。
義理というだけあって血の繋がりはないようだ。二人は確かにどこも似ていない。
義理にも色々ある。ラシードと名乗る男は、どうしてティアナに個人的な情報を教えるのか。それが気になった。
「姉さんとザックスと、エイドリック殿下の美しい恋のお話、君は知らないの?」
「ごめんなさい」
分からないと首を振ったが、ラシードは特に不機嫌になるでもなく「ふぅん」とこぼし、少しの沈黙の後でティアナにお茶をすすめてくる。
「それ貴重なお茶なんだ。美味しいし勿体ないから飲みなよ」
「いえ、そらならあなたが」
貴重な水分だ。ザックスと話し続けたせいで喉も渇いているので飲みたくなるが、このような状況では怖くて口を付けられない。
拒絶をつづければ手荒にされるだろうか。
美麗な微笑みを湛えるラシードに手にしたお茶を差し出し返せば、ラシードは躊躇することなくティアナから受け取り口に含んだ。
なんだ普通のお茶だったのか。疑わずに口にすればよかったかと後悔した矢先。
ラシードはカップを放り投げるとティアナの頭を固定して無理矢理に唇を重ねたのだ。
「うぐっ!?」
顎を掴んで口を強制的に割り開かれ液体を注がれる。
その間もラシードの目は微笑んだままだ。
嫌だと拒絶するが、ラシードの両手がティアナの頭を、そして膝は下半身を固定し全く身動きが取れない。
綺麗で優しい顔をしていても前線で戦う男なのだ。死の恐怖に脅えながらも、流し込まれた液体を飲み込むまいとするが、無情にも喉が鳴り液体が下って行く。
ごくごくと数度喉が鳴るとようやく解放された。
一瞬の放心の後、指を突っ込んで吐きにかかるがすぐに両腕を拘束され、固い木の箱の上に倒された。
「本当に毒じゃないから安心して」
優美な笑顔が注がれるが、ティアナには悪魔の微笑みにしか見えなかった。