その29 この状態で頬を殴りとばせとでも!?
ティアナの寝室として、エイドリック自らが案内してくれたのは二階の角部屋だった。隣の部屋とはで扉で繋がっていて、自由に行き来ができる。
その部屋を使うのはザックスだ。
護衛の意味もあると言われたら頷くしかない。
それに出会いはともかく、ザックスのことはすっかり信用しきっているので、たとえ扉で繋がっていようと「護衛」との言葉に疑う余地はなく、警戒心も抱かなかった。
そもそも城では一緒に寝てもいいと思ったほどだ。彼を休めるためとの理由があったにせよ、ティアナはそれほどにザックスを信頼しているし、心を開いていた。
「あまり信用されると逆に手が出せなくなるな?」
エイドリックの意地悪な微笑みはザックスに向けられていた。まるで子供のような冷やかしだがザックスは乗らず、ティアナも放置だ。
つまらないとばかりにエイドリックは、目の前の寝台にごろんと転がる。すると瞬く間に寝息を立て始めた。
ティアナが寝る予定の寝台だ。
ザックスがエイドリックを起こそうとしたので、「どうぞそのままで」と止めた。
「しかし――」
「構いませんよ。わたしはどこでだって寝れますしね」
起こす必要はないと、ティアナはエイドリックの寝顔を覗き込んだ。
飲酒もしていたし、監禁生活で疲れていたのだろう。こうも簡単に他人の前で眠れるのには驚くが、そのまま寝かせることにする。
穏やかに感じられる寝顔は男前だけれども、どことなく子供っぽくも感じた。
ファブロウェンとの誤解が解けて安心したのかもしれない。
これほど無防備なエイドリックは初めてで、ザックスは申しわけなさそうにしながらも苦笑いを漏らしていた。
「ならお前が向こうの部屋を使え。俺は殿下の警護も兼ねてこちらで休む」
部屋には大きめの長椅子が並べられていて、二つを繋ぎ合わせればザックスが横になるにも十分な大きさになる。
体格からしてティアナが長椅子を使ったほうがいいのだろう。けれど恐らく譲ってくれないだろうから、ザックスの好意を素直に受け入れた。
「それではお言葉に甘えて。おやすみなさい」
廊下には出ずに部屋と部屋を繋ぐ扉から失礼する。
扉で繋がっているということは、夫婦それぞれの寝室なのかもしれない。
そういえば婚約者をザックスに譲ったエイドリックはその後どうするつもりなのだろうと、不意に思った。
ティアナには関係ない話でも、王子という身分なだけに群がる婦女子も多いのではないだろうかと考えてしまう。
これまでは兄弟間の確執もあってそれどころではなかったかもしれないが、完全に誤解が解けてファブロウェンがわだかまりなくエイドリックを受け入れれば、そのうちエイドリックに相応しい花嫁がこの屋敷にやってくるのだろう。
ザックスに譲ってもらった寝室の窓から闇に染まった世界を見渡す。
月明かりが世界をぼんやりと照らしているので真っ暗闇ではない。
知らない世界の知らない場所。
移り住むのには慣れているが、まさか異世界にまでやってきて同じ生活になろうとは思ってもいなかった。
まぁそもそもが異なる世界に飛ばされなんて考えもしなかったのだが。
エイドリックにはここで生きるために保護を約束してもらているし、彼は約束を違える人ではないのでティアナを見捨てたりはしないだろう。
もちろん魔法という特殊な力のせいもある。
この力が他国に渡るのは、たとえティアナ自身が望んだとて許してくれないだろう。
この先砦に戻ってどうなるのだろうかと不確かな未来に想いを馳せる。
怪我人の多く出る戦いがあるこの世界でティアナの需要は大きい。ただ、治療の対象が兵士ばかりに限られるのもどうなのだろうか。
ティアナ自身はどこか落ち着いたところで、医師として仕事をしたくもあり、ヴァファル同様に辺境をめぐって、医療の手が届かない地域の人々にも手を尽くしたいとも思う。
だからといって従軍するのが嫌なわけではない。
戦いになれば多くの血が流れるし、命を繋ぎとめなければならないという使命もどこかにあった。
ティアナが現れるまでたった一人で走り回っていただろうルストの姿を思い出す。自分も危険に曝される軍医は過酷な仕事だ。時間勝負なところもあるし、平和な世界で育ったティアナに務まるだろうか。
ぼんやりと今後を考えながら視線を彷徨わせていると、闇の中で人影が動いた。
表ではなく裏に進んでいく影は大きな荷物を抱えている。
屋敷に勤める使用人だろうと動きを目で追っていると、影が何かに躓いた。抱えていた荷物が散乱する。
籠の中に何やらいっぱい詰め込んでいたようで、慌てて拾おうとした影だったが、足を挫くでもしたのか、立ち上がろうとしたのにそのまま地面に座り込んでしまった。
「怪我したのかな?」
呟くと同時に、踵を返して廊下に通じる扉を開いた。
ティアナは影がいた場所へと走る。
階段を下りて外に出ると、座りこんでいる人の影がどこにいたのか分からなくなった。
この辺りかという場所で辺りを見回す。
「誰か! 大丈夫ですか?」
「えっ? あ、はいっ!」
声を上げると戸惑った返事が上がり場所の特定ができた。
やはり足を挫いたのか、ティアナよりも少しばかり年若い娘が座り込んでいる。
左の足首に手を当て驚いた様に目を丸くしていた。
驚く娘の周囲には大きな籠と大量の野菜が転げていて、ティアナは邪魔なそれらをどけながら娘の前に膝を落とした。
「診せてくださいね」
「わたしの様な者にそんなっ!」
娘はティアナのことを知っているようだった。
ただの主の客人としてなのか、それとも神の御使いとしてのティアナを知っているのか。
慌てて立ち上がろうとした娘は、小さく呻くと再び地面に尻をついた。
「わたしの前では皆同じ人です。生まれや育ちで治療するしないを決めたりしませんよ?」
安心させるように微笑んで娘の足首に触れる。捻ったせいで少し腫れがあるが大した怪我ではなく、放っておいても二日程度で腫れも痛みも引くだろうが、このままでは生活が不便だ。
「手当てしても構いませんよね?」
「でもっ……治療費が」
娘がぽつりと落とした言葉にティアナは苦笑いを漏らした。
ヴァファルでは患者から治療費を貰ったことなんてないし、当然イクサルドにやって来てからもそうだ。ヴァファルでの対価は国が負担していたし、今はエイドリックになるのか?
「エイドリック様は奇跡に対価を求める様な御方ではありませんよ?」
ここはエイドリックの株を上げておこうと、彼の喜ぶだろう言葉で娘の気を済ませる。
そもそもこの娘はエイドリックの屋敷に勤める娘なのだ。彼の監視下にあると言っても過言ではなく、彼の屋敷で起きた不祥事にエイドリックが責任を持つのも当然だろう。
もし対価を取れと言われたらエイドリック自身から貰ってやろうと、ティアナは娘の治療をしながら冗談ともつかないことを考えていた。
傍目には患部を一撫でする程度のものだ。治療が済んだと笑顔で伝える。
娘は驚きからか暫く放心した後、恐縮しながら頭を下げて「ありがとうございます」と礼を言われた。
何気なく交わされる医師と患者のやり取りだが、こうやって感謝してくれる彼らの想いに応えられる自分が嬉しくて、医師を続けて来たのだ。
「こんなに遅くまで仕事なんて大変ですね」
「わたしは遅出で。久し振りにエイドリック様が戻られて、お仕えする皆が喜んでおります。わたしはちょっと張り切りすぎてーー」
主の戻りが嬉しいようで笑顔で語っていた。
だがその娘の表情が一瞬で驚愕に変わる。
「危ない!」
「え?」
途端、背中に激痛を感じた。
ティアナのすぐ側で娘の悲鳴が上がる。
痛みと熱を感じて意識を失いかけながらも、何が起きたのかと振り返れば、見知らぬ男が感情のない目をティアナに向けていた。
背中を刺された――自分に起きたことを把握すると同時にティアナは意識を失った。
※
自分に向かって倒れ込んだティアナを、娘が庇うようにして受け止める。男が二度目の攻撃を仕掛け腕を振り上げた。
けれどその腕が再びティアナを襲うことはない。
男の両腕は一刀で薙ぎ払われたからだ。
それは血飛沫を上げながら空を舞い、男の物ではなくなった。
短剣と共に両腕を失った男は、切られた腕に痛みを感じる間もなく胸を蹴られ、大きく撥ね飛ばされる。
「ティアナ!」
男の両腕を切ったザックスがティアナを呼ぶが反応はない。
娘に抱かせたまま、血濡れた剣でティアナの衣服を裂き患部を確認する。背中の中央からはどくどくと血が溢れていて、布できつく押さえて止血を試みた。
「副官っ!」
異変に気付いたイリスが駆けつけるが、目の前の状況に蒼白になる。立ち止まったイリスにザックスの怒号が飛んだ。
「賊だ、黒幕を吐くまでは絶対に死なせるな!」
「はっ、はい!」
イリスは両腕を失って血を流す男に駆け寄ると、自害を防止するため口に縄を通した。
それを横目で見やりながら、ザックスはティアナの血に塗れる娘に「医者を呼べ!」と命令した。
傷は深く肺まで達しているようだ。
これは体を鍛えた自分たちでも重症だ。
後どうなるかなんて容易く想像がつく。ザックスは止血したままティアナを抱えて屋敷へと走った。
ティアナは魔法という神憑りな力で、死に瀕した数多くの同胞を救ってくれた。
そんなティアナにかかればこの程度の傷を癒やすのは朝飯前だろう。
けれど意識のない彼女にはそれが出来ない。
せめて目を開いてくれたならと思うが、硬く閉じられた瞼は漆黒の瞳を隠してしまい目覚めを感じさせなかった。
このままではそう時間をおかずに失血死する。
屋敷に跳びこんだザックスは、目に付いた長椅子にティアナをうつ伏せの状態で横たえて容赦なく傷口を押した。
眠っていた筈のエイドリックも異変に気付いて階下へと降りて息を飲む。
「何があった!?」
「足を挫いたらしい娘の手当てに庭へ出たところを、彼女個人を狙った賊にやられました。イリスが黒幕を吐かせている最中です」
ザックスがエイドリックに説明している間にも、止血する隙間から赤い血が溢れ出している。
止まらない血にエイドリックも眉間の皺を深め、ティアナの乱れた黒髪を掻き上げて顔色を窺った。
「出血が多過ぎるな。医師の手配は?」
「彼女が手当てした下働きの娘に」
「間に合わないな。なんとか眼を覚まさせる方法はないのか!」
「この状態で頬を殴りとばせとでも!?」
声を荒らげたエイドリックに、ザックスも同様に返した。
ティアナが目覚めればなんでもない怪我だ。けれど意識がなくてはどうしようもない。
「――すまない」
怪我の状態に二人とも焦っているのだと気付き、エイドリックは自身を落ち着けるように深く息を吐きながらザックスに詫びた。
「いえ。私の方こそ弁えず」
ご容赦をと、止血を続けたまま頭を下げる。大きく硬い手のひらから漏れ出る血が、慣れている筈のザックスを酷く焦らせた。
「殿下は本当に神の技とお考えですか?」
「荷物は調べたろう? 彼女は怪しい薬も持っていなかった」
「奇跡の仕掛けが分かれば……」
「ザックス、彼女の力は本物だ。手品か何かではお前の目を取り戻せかった。分かっているだろう?」
そうだとしても、二人ともティアナを神の御使いと本気で思っていない。
接していたら分かる。彼女は普通の、どこにでもいるような娘だ。
だからこそザックスは、ティアナの使う魔法の種がなんなのかを、ゆっくりと時間をかけてでも聞き出して理解するべきだったのに。
不思議な力の原因がなんなのか分かればいいのだが、魔法だと言われて徹底的に調べ尽くさなかったミスだ。
守ると誓ったのになんたる失態。
それ以上に、何もできない我が身が悔しかった。
衣服を血に濡らした娘に呼ばれて慌てて駆けつけた医者は、目にした光景に鞄を開きながら膝をついた。
止血用の液体を含ませた布を傷口に強く押し当てる。
ザックスが手を離した途端に溢れた血が瞬く間に白い布を赤く染めたが、止血の効果は強く、それ以上滴ることはなかった。
止血に成功した医者は針と糸を取り出すと、慣れた手つきで傷口を縫合していく。手際の良さからけしてヤブではないとわかったが、ティアナの呼吸を確認すると申し訳なさそうに告げた。
「今夜が峠でしょう」
その言葉にザックスが医者の胸倉を掴んだ。
「何だと!?」
「で、ですがっ。傷が肺にまで達して呼吸もままならない状態です。これでは手の施しようがっ!」
「やめろザックス!」
今すぐにでも医者を殴り殺してしまいそうなザックスの剣幕にエイドリックが割って入る。うつぶせで横たわるティアナの血濡れた背中を拭っていた娘も、不安と脅えから泣き出してしまった。
「わたしのせいで御使い様がっ……」
気が動転しっぱなしの娘は、ティアナを刺した男は野党の類と思っているようだ。
あの男は間違いなくティアナを狙って攻撃して来た。
イリスに吐かせるまでもなく、裏ではグリスト卿が糸を引いているに違いないとザックスやエイドリックには分かっていた。
タフスの王子ばかりに気を取られていたせいで、二人は大きな失敗を犯したのだ。
特にザックスはグリスト卿がティアナを忌々しく思っていると聞いて知っていたのに、すっかり失念してしまっていた。
守ると誓ったのに――取り返しのつかない失敗にザックスはきつく拳を握り締める。
「彼女は神の御使いだ。なんでもいい、目をさまさせろ。意識さえ戻れば自ら回復できるのだから!」
ザックスと医者を引き離したエイドリックが怒声を上げた。
意識さえ戻せるならやり方は問わない。それこそ殴り飛ばして意識が戻るならそうすると声を上げるエイドリックさえ、その瞳は酷く不安に揺れていた。




