その27 姉は産み月で、腹が今にもはち切れそうでした
信頼する男の裏切りと、誤解とはいえ心内で長年育った弟への不信感。今回のことでファブロウェンはエイドリックへの気持ちを改めてくれるだろうか。
どんな証拠をつきつけようと、絶対的な権力はファブロウェンに味方している。
偽物のティアナと違って、あちらは正真正銘の本物なのだ。
分かってくれる、彼は責任ある王族の一人なのだと期待しても、それは単なるティアナの感情だ。
何の連絡もないまま時間だけが過ぎる。
あの後どうなったのか分からないティアナは、不安で押し潰されそうになっていた。
「エイドリック様のところへは行かないんですか?」
いつもなら動きだす時間になっても、部屋に篭ったまま無言を貫くザックスに、ティアナは言葉を向けた。
部屋に戻ってからほぼ無言で過ごし、久しぶりに話したので声が掠れてしまっている。
「暫くは待機だ」
「行って下さいよ!」
最悪の結果を招いた場合、いくらザックスが強くてもここにいては危険だと感じた。
それなのにザックスは、ティアナの心配をよそに動こうとはしない。
焦りや怯えを見せないザックスの態度は、生きる世界の違いと経験のせいだろう。
ティアナは神の使いではない。それを誰よりも知っている筈なのに、こんな出会ったばかりの小娘に命を託したなんて。
ザックスもだが、エイドリックもおかしいと今更ながらに思う。
ティアナは情報も何もなく待つだけの苦しさに苛まれ続けるが、時間が経つにつれ少しづつ考えを改めさせられた。
ティアナが神の御使いでないのはティアナ自身が一番よく理解している。
ザックスも、そしてエイドリックも神の御使いという言葉は便宜上のものとして使っている。
けれどファブロウェンを含む神論者はティアナの魔法を、神の力と受け止め、そこに神の意思を感じ取るのだ。
魔法を知るヴァファルの住人では決して理解できない心情だが、それを上手く利用しようとしたエイドリックと、それに従った自分のこれまでの行動。
万一の時は嘘を貫き通し、神の逆鱗として人を傷付ける必要があるかもしれない。
その時、ティアナは本当に人を傷つけることができるだろうか。
暴風で弾き飛ばしたり、地面を抉って驚かせるのとは訳が違う。
それでもティアナを受け入れ、守ってくれた人達の命がかかっている。殺すなんて恐くて無理でも、ファブロウェンに従う人たちに傷をつける覚悟は必要かもしれない。
エイドリックはファブロウェンの心を乱さないために、彼の信仰心とティアナを利用した。
これからも利用されていると分かっていてもエイドリックを恨めない。
きっと彼が考えた筋書きは、兄弟の亀裂を修復するのに最良のものに違いないからだ。
やれることはやったが、結果はファブロウェン任せになっている。
エイドリックは、他のみんなは無事に解放されるだろうか。
不安でたまらない。
「エイドリック様――」
捕らわれたままの人たちを案じて、ベランダの手すりに捕まったまま蹲る。
捕らわれていると言えばティアナも同じような状況なのに、待遇は雲泥の差だ。
エイドリックは王族としての扱いを受けているというが幽閉に変わりなく、他の者達は暗く冷たい牢に繋がれている。
牢から出されたザックスの怪我を思えば、彼らが今も心身ともに無事だとは到底思えない状況に改めて気づかされた。
時が経てばたつほど、悪い方に考えて焦りが生まれる。
声もなく嘆くティアナの側で、ザックスは閉じていた瞳をゆっくりと開いた。
エイドリック達は大丈夫だと言っても、ティアナの不安は募るばかりだった。
仮にファブロウェンが最悪の選択を取ったとしても、エイドリックが即命を奪われるというわけではない。
それに城には味方となる人間がどこかしこに潜伏している。
最悪の結末となったとしても、エイドリックの命は大丈夫なのだとザックス達には分かっていた。
けれどそれをティアナに詳しく話しても、ただ不安を煽るだけだろう。
だからザックスは口を噤んでいる。
エイドリックの命は助かるが、エイドリックを助けるために流れる命の数は一人二人では済まない。
ティアナを守ると決めたザックスもその対象となる。
エイドリックのために命を投げ出すのは当然のことだ。
ここでは神の御使いだと信じられているティアナは、汚されるような事態に陥る確率は極めて低い。ザックスがいなくなっても、ファブロウェンは彼女を傷つけないだろう。
それを口にすればティアナの不安は増すだけだ。突拍子もないことをされては、良い結果を生まないのは目に見えていた。
ティアナが唇を犠牲にして手に入れた書簡は、ファブロウェンを突き動かすだけの力をもっているが、長きに渡り積み上げられてしまった確執を即座に払拭してくれるだけの力をもっているかと言えばそうでもない。
書簡が語る事実をファブロウェンが受け入れ、エイドリックへの誤解が解けようと、心情が好意的な物へと変わるにはそれなりの時間が必要なのだ。
植えつけられた憎しみや疑念はそう簡単に消えたりしない。
そうして何の進展もないまま、二日の時間が過ぎた。
ティアナの胃がきりきりと痛む。
病ではなく心労からの痛みなので、魔法で癒やしてもすぐにぶり返すし、わざわざ消してしまおうとも思えなかった。
夜は眠れず食欲はない。
これまでは食欲がなくてもいざという時のためにと口に運んだが、それすらもできない状態だった。
ザックスも分かっているようで、無理に食せとは言わず、二人で部屋に閉じこもっている。
毎夜出ていたザックスも部屋に留まり続けていた。
エイドリックはどうなっただろう。
知りたくてファブロウェンを訪ねたい気持ちになったが、今の状況でどう動けばいいのか分からなかったし、ザックスも何も言わない。
寝台に寝そべっても睡魔は訪れず、深い溜息を落としたティアナは、隣に続く扉を開いた。
あれからザックスは寝台で眠らず、長椅子に座った状態で夜を過ごすようになっていた。
何かあった時にはすぐ対処できるようにということだったが、ティアナが扉を開いてもピクリとも動かず、腕を組んで深く腰掛け瞼を落としている。
ザックスを起こさない様に部屋の隅をそっと歩いて暗いベランダに出ると、夜空には丸い月が浮かんで辺りをぼんやりと照らしていた。
「はぁ……」
溜息が漏れる。
気持ちのやって行き場がなく、手すりに掴まると同時に、何かがティアナの手に触れた。
ベランダの向こうから何者かの手が伸ばされ重ねられたのだ。
「ひっ!」
驚き悲鳴が声になる前に、今度は後ろから伸ばされた腕がティアナの口を封じた。
恐怖で体が凍りつくが「静かに」と耳元で囁かれて、聞き覚えのある声に一気に全身の力が抜けた。
ベランダの手すりからひょいと現れた男が、申し訳なさそうに灰色の目を向ける。
三階の高さを上ってきたのは見覚えのある少年だ。
「驚かせてすみません」
音もなく侵入したのはイリスで、ティアナが声を上げないよう口を押さえたのはザックスだった。
ティアナが状況を把握したところでザックスは拘束を解き、安堵で崩れ落ちそうになったティアナを支えてくれた。
「イリス君、なんで――」
タフスと国境を交える砦にいる筈のイリスがどうしてここにいるのか。
「話しは中でだ」
闇にまぎれて侵入したが、ベランダで話しこんでいては誰かに気付かれてしまう。三人は寝室に身を顰めた。
「実は俺、二日遅れだけどずっと隠れて付いて来てたんですよ。体が小さいんで諜報に向いているんです。こっちに来てからは色々探っていました」
寝室に入るなりイリスはティアナの質問に答えた。ザックスは少しも驚いておらずどうやら本当らしい。
「もしかしてザックスさんに言われて?」
「俺は命令がなくてもそうやって動くのが基本なんです。それで報告なんですが――」
イリスはティアナからザックスへと視線を移すと、まだ驚きから通常に戻れないティアナを置き去りに報告を始めた。
「タフスの王子は都を出ました。国境を越えたら連絡が入るようになっています。グリスト卿は隠居を命じられ、本日付けでご子息が家督を継いでいます。ご側室のリリア様と王子には事情は伝えられず変わりなくお過ごしですが、どうやら近いうちに城を出される模様です」
「王子の継承権はどうなった?」
「ファブロウェン殿下ご自身には継がせない意思があるようですが、他のご側室に男子が生まれてからの話になるようです」
「王子が生まれれば継承権を剥奪する、か」
初めて齎される情報にティアナは聞き入る。
突然現れたイリスだが、ザックス達にとっては突然でもなく、常に動いて情報収集にあたっていた存在だ。
ファブロウェンは書簡に記された事実を信じ、グリスト卿を自身から遠ざけた。全く掴めなかった状況だったが好転してくれたようだ。
ティアナは二人の邪魔をしないよう口を挟まず黙って様子を窺う。
「それで殿下は?」
「見張りが交代になって忍びこめませんでしたがご無事のようです。ただファブロウェン殿下からの接触は皆無でした」
やはり偽物の御使いではファブロウェンを動かすのは難しいのだろうか。けれど無事は確認されているようで良かったと胸を撫で下ろす。
二人の仲を険悪な物へと導いた原因が、グリスト卿だと分かってくれただけでも大きな進歩だ。
「他の人たちは無事なの?」
「はい、元気です。でもすごく退屈そうでしたよ」
口を噤んだザックスの代わりに問えば、イリスはティアナの緊張をほぐすかに穏やかな表情を浮かべて答えてくれた。
退屈そうだったという言葉から、彼らが酷い扱いを受けていないと分かって肩の力を抜く。
「イリス君が砦を出た時には変わりなかった?」
二日遅れで後を追って来たのならその後の様子が少しでも分かるんじゃないかと思ったが、ティアナの予想に反してイリスは首を振った。
「一度実家に寄ったんで遅れただけで、出発は本隊と殆ど同時でしたから」
「ご実家に?」
「イリス」
そうだと頷いたイリスの言葉をザックスが遮る。何か不味かったかと顔を向ければ、ザックスが硬い表情でイリスを睨んでいた。
「副官、大丈夫ですよ」
ザックスとは対照的にイリスは笑顔で、余裕の笑顔を向けられたザックスは眉を顰めた。
心なしか痛そうだと感じたティアナは首を傾げるが、二人の間では会話が成り立っているようだ。
自分は口出ししない方がいいのだろうと様子を窺っていると、イリスの方から詳しく話してくれた。
「道中に実家の村があるんです。そこに寄らせてもらって無事を報告してきました」
「ああ、そうだったんだ。そうだよね、家族が心配されている筈だもの」
ザックスもイリスが実家へ寄り道したことに対して怒っている様子はない。
イリスはまだ十六歳だし、兵として国境の砦に配属されている我が子が無事でいるのかと、親なら心配でたまらないだろう。道すがら実家があるなら顔を出してあげるべきだ。
二日遅れたというのなら実家に滞在したのかもしれない。
「両親と姉がいるんです。姉は産み月で、腹が今にもはち切れそうでした」
「まぁ、それはおめでたい話だわ」
子供が生まれるなんて。
どんな状況でもめでたいと声を上げたティアナだが、隣に立つザックスは難しそうな表情を浮かべてイリスを見下ろしていた。
「大丈夫ですよ?」
ザックスの視線に気付いたイリスが大丈夫と笑う。
その笑顔が不自然だなと感じたけれど、その違和感はティアナの心からすぐに消えてしまった。
「何か俺に出来ることがあれば――」
「そんなっ、めっそうもないですよ!」
とんでもないと恐縮するイリスと硬い表情のままのザックスをティアナは交互に見やる。
イリスの姉は出産に触りがある病でもあるのだろうか。
「あの……出産で困ったことがあるならわたしも手を貸すわ。勿論ここから解放されてからの話になるんだけど」
「俺だって出産経験があるわけじゃないんで分からないんですけど、本当に大丈夫です。村には産婆もいますし」
産婆もいるなら大丈夫だろう。医師として多くの出産に関わってきたが、こちらの世界にはこちらのやり方があるだろうし、ヴァファルでも出産に産婆が手を貸すのは一般的だ。
浮かない表情を浮かべたままのザックスに対しても、出産という男にとっては未知の領域を不安に感じているだけだろうとティアナは結論付けた。




