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天使が落ちた世界  作者: momo
本編
26/42

その26 まさに生まれ変わったという感覚です



 書簡を握る手に力が込められ小刻みに震えている。怒りか驚きか――ティアナは黙ってファブロウェンの言葉を待っていた。


「これをイシュト殿がそなたに……」


 考えを巡らせているのだろう。ファブロウェンの碧い瞳が左右に揺れていたが、やがて書面に戻るとぎゅっと握り潰した。


「イシュト殿はなぜこれを――」


 自問するかに呟かれた声にティアナはしっかりと答える。


「彼の命を救う時に約束したのです。ファブロウェン様がエイドリックの命を狙い、且つ国土の一部をタフスへ明け渡すとした証拠を下さると」

「私はこのようなことは……」


 頭を抱え込むようにして俯いたファブロウェンの声は消え入りそうだった。

 ただティアナが渡した書簡を偽物だと疑う素振りはなく、やはりファブロウェンもどこかでこんな事態を覚悟していたのではないかと思ってしまう。


「ファブロウェン様」


 ティアナは頭を抱えた俯いたファブロウェンの側に膝をついて、そっと片腕に触れた。

 それは高圧的な態度も思惑もない、ありのままのティアナだった。


「これは私の弱き心が招いた結果なのだな」


 俯いたまま洩れた声は弱々しく、今までの彼とはまるで違っていた。

 これまでファブロウェンの周りには彼が信じる者とそうでない者しかいなかったのだ。

 そうして今まで信じて来たものが突然現れた『神の御使い』とされる小娘一人に崩される。

 よく神を罵倒しないでいられるものだと、神を崇める習慣のないヴァファルで育ったティアナは複雑な心境でファブロウェンに寄り添っていた。


「エイドリックはもうずっと兄君様を待っておられます」


 王の子供たち。

 一見羨ましい生まれのように思えるが、その実状は決して優しいものではない。

 様々な制約と定めに則り国を導かねばならない彼らは、時として親兄弟でも血みどろの争いを繰り広げなければならないのだ。

 けれどエイドリックとファブロウェンに限ってはそうではない。仕組まれただけで、当人たちには和解の道が残されている筈だ。


「すまぬが少し時間をくれ」


 俯き頭を抱えたまま漏らしたファブロウェンにティアナは頷いた。

 色々追及されると予想していたが、ファブロウェンの眼に曇ってなかったようだ。

 あとは彼自身の心の整理が待っている。

 時間を与えている間にグリスト卿から横槍を入れられ、ファブロウェンの決断を捻じ曲げられる不安はあるが、だからといってファブロウェンがこの状態のまま全てを決断できるとは思っていない。


「ファブロウェン様が納得されるまでお待ちいたします」


 触れた腕から手を離そうとしたが、それを留めるかにファブロウェンの手がティアナの手に重ねられた。


「そなたには、敵であろうと関係ないのだな」


 もともとイシュトは捕虜としてここへ連れて来られる筈だったのだ。ファブロウェンは敵に塩を送ったティアナを責めている様子はないが、俯いたままティアナの答えを待っていた。


「誰であろうと命は一つです。罪を犯したのなら生きて償えばいいと、わたしはそう考えます」


 言葉にした途端、見捨てた命が脳裏をかすめて瞳を閉じた。

 ああまた、思い出す度にラシードの背中が浮かぶ。自分のために多くの命を見捨てた過去は決して消えないのだと、震えそうな心を必死で落ち着けた。


 *


 神の御使いとして現れたティアナに、ファブロウェンは瞬く間に引き込まれた。

 異国風の容姿に、漆黒の髪と瞳は凛とした印象を深くする。

 神がエイドリックを次期王として選んだのだと思い込み、グリスト卿からは神殿に押し込めるよう助言を受けた。

 恐れつつも悟られないように平静を装い対面に臨んだのだが、御使いであるティアナの胸にはエイドリックの右腕である男の命石が輝いていた。


 ただ人と神の御使いが情を交わしているとは予想していなかった。

 ティアナはよく見ると神秘的であっても、他は人と変わる所はない。

 不思議な力を使いはするが、人と同じように飲んで食べて眠りもする。

 そんなティアナがファブロウェンに囁くのはエイドリックとの和解だったが、エイドリックがファブロウェンを排そうと動く証拠は何年にもわたって積み重ねられていた。

 それなのに御使いの言葉で心揺らされ、実際にある証拠の多さに揺れるファブロウェンの心は右往左往してしまう。

 さらにティアナは急速に入り込んで、さらに掻き乱すのだ。


 そして今も。

 ティアナが部屋を去るのと入れ替わりに侍従が控える。

 思いもよらぬ時間の訪問はファブロウェンを驚かせたが、ティアナの手でもたらされた書簡は、更に驚きと落胆をファブロウェンに植え付けた。


 幼少より支えてくれたのは父でも母でもない、今では義理の父となったグリスト卿だ。

 確かにグリスト卿は昔よりエイドリックの存在を注意深く監視している節があったが、それもこれも体の弱いファブロウェンがエイドリック側の人間に害されるのを恐れていたからだ。

 ファブロウェンはやがて言われるがまま、彼の娘を側妃に迎えて子を成した。


「それが間違いだったのか?」


 息を吐きだすとともに呟きが漏れてしまう。

 手にした書簡はファブロウェンが書いたものではないが、印章は間違いなくファブロウェンが長く使いこんできた代物だ。

 偽装を防ぐために印の押し方も特徴を持たせていて、それを知るのはファブロウェンの他に世界でただ一人。

 そしてファブロウェンのものと寸分たがわぬ程に似せた文字も、彼が信頼する義父が彼の政務を代行して手伝うために身につけてくれた技の一つだった。

 手元にあるこれは間違いなく偽装された書簡だ。

 偽装した者が誰であるのか、ファブロウェンには直ぐに分かってしまった。


「イシュト殿下に面会の願いを」


 窓の外が白み始めた頃、ファブロウェンはようやく侍従に命令を下した。

 書簡を手にしたが大きな疑問が一つだけ残る。

 その疑問に義父の疑いが晴れるのではないかという、ささやかな願いもあった。


 タフスの使者として迎えたイシュトが城を出る前に僅かな時間を割いてもらう。

 登城したグリスト卿はファブロウェンの予定にない行動を訝しんだが、執務室に置き去りにして向かった。

 その先では、ファブロウェンの行動を予想していたイシュトが掴み所のない笑みを浮かべていた。


「なぜこれをあなた自身が使われなかった?」


 書簡を差し出すと、イシュトは一瞥してさらに口角を上げる。

 この書簡を提示すればタフスは賠償などという痛手を負う必要はなく、逆にファブロウェンの方が国家反逆罪で王太子の位を追われ兼ねなかった。

 だというのにタフスは莫大な金銭を支払い、タフスからイクサルドに入るための通行税を引き上げられただけではなく、イクサルドが有事の際には要請に従い軍事力の無償貸し出しまで約束したのだ。

 何か思惑があると訝しむのも当然。一つも逃すまいとじっと睨むファブロウェンを前に、イシュトはふっと鼻で笑った。


「殿下は死の体験がおありか?」

「死の体験?」


 質問に眉を顰めたファブロウェンの前に立ったイシュトは、灰色の目を鋭く光らせた。


「私は彼女が何であるかを知るために命を賭けたのですが、それだけの価値があったと思っています」

「自ら捕虜に成り下がったと?」

「予想以上にやられましがね」


 四肢を捥がれたも同然で、イシュトが今ここに生きているのは運以外の何物でもない。

 けれどイシュトはその運を掴み取り、欲しい物を手に入れるために画策を続けているのだ。


「まさに死の瞬間を我が身に感じた時、彼女に引き上げられた。流石の私も驚きましたよ、死の淵に落ちたというのに元通りの体を手に入れたのですから。まさに生まれ変わったという感覚です」


 ザックスにやられたあと、体に受けた傷に比べて痛みはほとんどなかった。

 感覚が麻痺しているのだと思っていたが、途中でティアナの力によるものだと気づいた。

 お陰で話もできたし、食事も喉を通っていたが、やはり肉体に受けた損傷は激しかったようで、視界がかすんで体の力が抜けきった後に、喉から込み上げた血の感触だけがイシュトを支配した。

 音も遠く視界が霞んで何も感じなくなった瞬間、これが死なのだと悟ったのだ。

 ティアナの力で回復したが、死の瞬間を感じた間際によくあんな行動が取れたものだとイシュト自身、今となっても不思議でならない。


「彼女を手に入れるためならこれしきの痛手はなんでもない」

「あのロブハートから彼女を奪えると?」


 ファブロウェン自身はザックスの戦いを見る機会はなかったが、彼が幾多もの死地を奇跡的な力で乗り越えてきた状況は知り尽くしている。

 エイドリックに従うザックスを脅威とすら感じて恐れていたのも確かだ。

 だからこそ例え悪鬼と噂されるイシュトであっても、容易くは奪える筈もないと分かっていた。


「戦場では何が起きても不思議ではない」

「我が国と戦いを交えるつもりか?」


 一心地ついたら条約を破棄して攻め入るつもりなのかと問えば、イシュトは首を横に振った。


「イクサルドでは殺さないと彼女と約束しておりますのでね。ですが戦場ではそうも言っていられない。同じ陣営にいれば手も届きやすくなります」


 だからこその軍事力の貸し出しだと、イクサルドの王太子を前にして、イシュトは悪びれもせず堂々と告げた。

 イクサルドが他国より戦をしかけられればイシュト自らが指揮をとり馳せ参じる。汚いと罵られようとザックスの背中を取り、遠慮なくティアナを強奪する気満々なのだ。


「彼女が落ちたのはイクサルドの地、渡しはしない」

「ですが居場所を決めるのは彼女自身だ。神の御使いの意思を捻じ曲げていい人間など存在してはならないのでは?」

「彼女はロブハートの伴侶だ。命石で結ばれた二人を引き裂くのは誰であろうとも許されない」

「正式ではないのでしょう? 昨夜も命石は彼女の胸元で輝いていた。それに伴侶を失えば命石の意味もない」


 首に下がっている時点ではあくまでも仮で、指輪にされなければ本来の意味とは取れないと、タフスの王子は挑発的に微笑む。

 そもそもあの二人の間に何もないことくらいイシュトには分かり切っていた。


「これは宣戦布告と捉えるべきか?」

「どう取られようと構いませんよ」

 

 静かに、けれど二人の間では確かに火花が散っていたのだが、その緊張を先に破ったのはファブロウェンの方だった。


「時間を取らせた。タフスまでの道中は十分に気をつけられよ」


 捕虜ではなくタフスの王子としてイクサルドにやって来ているのだ。

 問題を起こされても困るし、こちらから仕掛けるつもりはないがそれでも釘を指す。

 取り合えず城から出してしまえばティアナへは手が届かなくなる。

 話しを終えたファブロウェンが部屋を出ると、そこでは執務室へ残してきた筈のグリスト卿が待ち構えていた。


「殿下――」

 

 様子を窺うように声をかけて来たグリスト卿に向き合う。


「隠居を命じる」

「殿下!」


 声を上げるグリスト卿の前を通り過ぎ、ファブロウェンは執務室への廊下を迷いない足取りで進む。

 その後をグリスト卿が追いかけ前に出ると、王太子であるファブロウェンの歩みを強引に止めた。


「全ては殿下の御ために!」

「やり過ぎだ。本来なら謀反とみなし処刑台に送るところだが、これまで支えてくれた功績に免じて我が胸にとどめる。今この時をもって隠居し、爵位は嫡男に譲れ」


 ファブロウェンに王位を継がせるために、脅威となるエイドリックを排そうとしたのだろう。

 けれど欲を出し過ぎた。

 ファブロウェンに頼られるうちに王が心を病み、王太子に実権がまわったのを期に悪魔が囁いたのだろう。 


「あの魔女のせいで御座いますな!」


 置き去りにするように通り過ぎるとグリスト卿が後ろから声を上げた。

 ファブロウェンが立ち止まって振り返ると、醜悪な顔をしたグリストが怒りに燃える目を見開いている。


「殿下はあの魔女に魅入られておいでだ。心惑わされてはなりません!」


 神の御使いを魔女と罵るグリスト卿に、ファブロウェンは素早く歩み寄った。

 心に宿ったのは怒りだ。

 その怒りのせいで留め置くと決めた事実が口から洩れる。


「悪魔に心を売ったのはそなたであろう。私の食事に毒を混入させた証拠は上がっている」

「私が殿下に毒を? 御冗談を。だからこそ殿下はあの魔女に惑わされていると進言しておりますのに。証拠などある筈もない」


 初めてティアナと食事を共にした際、グリストに命じて食事に毒が仕込まれていないか確認させたのはファブロウェンだ。そしてファブロウェンに毒はなかったと報告したのはグリスト本人。

 以来ティアナと食事を取る際には毒の混入はなかったようだが、ティアナによるとそれ以外には混入され続け、ファブロウェンの体に蓄積しているのだという。

 その言葉をファブロウェンは疑っていなかった。


「ごく微量で致死量でもないが、口にしたのが食欲旺盛な子供ならどうなるであろうな」


 ファブロウェンの言葉にグリスト卿の眉が疑問で顰められる。


「ここ数日、私と王子の食事をすり替えさせた。王子は寝台から出られなくなったぞ?」

「で、殿下――血を分けた王子になんたることを!」


 震えたグリスト卿の目が驚きに見開かれる。

 グリスト卿にとって王太子と娘の間に生まれた男子は重要な駒だ。

 それがなければ王太子亡き後、摂政として国を自由に動かすことなど叶わない。それどころかエイドリックに玉座を奪われかねないではないか。

 そう考えていた全てが、グリスト卿の今の言葉に乗せられていた。


「王子に罪はないが、あれを次の王太子に据えるわけにはいかぬ。お前は引退だ。これまで御苦労であった」


 言い終えるとファブロウェンは踵を返し、グリスト卿を置き去りに執務室を目指した。



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