その24 祝福のキスが欲しい
こちらの世界に来てから、賑やかな食事をすることなんてなかった。
ヴァファルで家族と暮らしていた時は、幼い子供たちのおしゃべりでそれはそれは賑やかだったものだ。
師について辺境を巡るようになると食事の時間は静かになって、独り立ちした頃には訪れた場所で一人静かに手早く済ませるばかりだった。
当然知り合いのいない監査部に異動してからもそれは変わらなかったし、イクサルドに落ちてからは、戦場という環境のせいもあって、周りの人たちが何を話しているのか気になりはしても、自分から場が和む話題を提供しようなんて考えることもなく、それどころか食事を楽しむ余裕すらなかった。
しかし今夜は違った。
基本的にティアナは無言を貫いているが、ファブロウェンとイシュトは常に会話を続けている。
内容は穏やかながらも本心を語っているとは思えない。互いに牽制し合いながらだったが、二人は豊かに会話を交わしていて、ティアナはその様に耳を傾け、一見穏やかそうにしている二人を観察していた。
休戦、いや終戦か。
なんにしても命の危険に脅かされない平和な時代が来るのは良いことだ。
今後はティアナもこの世界で暮らしていく。毎日が戦場で、死に瀕した重傷者の相手ばかりしていたら心が折れてしまうだろう。不慮の事故や病なら治療のし甲斐があるが、同じ人間同士の争いで傷ついた人の治療は、そこにいない人たちのことも含めてとても辛いものだった。
戦争は人と人との殺し合いだ。目の前の異国の兵士がどんな人間なのかなんて知る由もなく、互いに命を取り合う。
ティアナにこの世界がどうにかできるなんて思っていいないけれど、争いがなくなればいいと願わずにはいられない。
食事を楽しみながら交わされている会話からは、特に重要な何かは感じ取れなかった。
食べ終えた食器が片付けられ、食後の飲酒が始まると、席を立ちたくなる衝動にかられる。
それでも耐えるのは、酒が入ったことで二人の会話に本音が交じるのではと期待したからだ。けれどその期待も裏切られる。
二人の会話に戦争にまつわる何かは全くなかった。ザックスが聞いたら違ったかもしれないが、ティアナにとってはただの、高貴な人が語るであろう洗練されたものばかりで、情報をつかもうと思っていただけに肩透かしで、とても退屈な会話だった。
服装とか、新しいファッションとか、河川とかどこかの国で何が発見されたとか、ファブロウェンの奥様方が何人いて子供がいるとか、イシュトは独身で四番目の王子だから好き勝手やらせてもらえて気持ちが楽だとか……気候とかなら作物の出来や風土によっては病が起きたりするので興味があるが、地名を言われてもどこなのかなんて分からないので、右から左に流れていくだけで記憶に定着しない。
まぁ助けた患者が元気にしているのだ、それだけで良しとしよう。
面倒くさくなって「わたしはこれで失礼します」と、勝手に席を立ったらイシュトに引き止められた。
「ファブロウェン殿。彼女と二人で話したいのだが?」
イシュトは「よろしいか?」とファブロウェンに訊ねた。
問われたファブロウェンは、どうするとでも問うかにティアナへと視線を移す。
左手に舌を這わされた感覚が蘇って首を横に振ろうとしたが、二人で話と言うなら無駄な話ではないかもしれない。
ティアナは思い止まって小さく頷いた。
「では別室へ案内させよう」
「折角ですが今宵は月夜。可能であれば先ほど話題に上がった庭園を眺められたならと」
庭園……イクサルドのお城には賓客を迎えるための庭園があるとか言っていたような……なるほど。夜の庭を散策しながらか。外だと隠れるところが少ないだろうから盗み聞きされる心配がない。これは重要な話かもしれない。退屈で鈍っていたティアナの頭が働きだす。
よかった、断らなくてと思ていたら、イシュトの提案にファブロウェンが眉を寄せた。
「それは……イシュト殿。申し訳ないが、彼女には情をかけた者がいるのだ」
夜の庭園に男女が二人きり。意味するところは男女のあれやこれや……ということなど思いもしないティアナは心の中で首を傾げ、「常識を弁えてほしい」と含んだ物言いを正しく理解するイシュトは、「存じています」と頷き返した。
「イクサルドにおける命石の意味は理解しています。密室に篭ると言っているのではありません。もちろんイクサルドの護衛も否定しません。彼女に危害を加える真似は一切しないし、そのような輩がいるなら私自らが制裁を加えさせていただく」
「貴方を疑っているわけではない。ただ彼女が情をかけるのはザックス・ロブハートであることはご存じか?」
イシュト同様にザックスの名も世界に轟いている。ここ数年は目の病で役に立たないとの情報が流れていたが、彼の目が神の奇跡で癒えた今、ティアナに何かあればそのザックスを相手にすることになるのだ。
つい先日、イシュトはザックスから半殺しにされている。同じく癒しの力で復活したとはいえ、間違いが起きても責任が取れない。そうファブロウェンが告げると、イシュトは「それは頼もしい」と笑顔で答えた。
「ならば彼も同伴を」
頼もしいなんてどの口が言うのか。
自分に酷い怪我を負わせたザックスの同伴を、イシュトは胡散臭い笑顔で提案した。
この人は性格が悪いと、ティアナはすっと目を細める。
「奴が付くならば……そういうわけだ、よいな?」
ザックスが側にいるなら心強い。
ティアナは頷きながら、ファブロウェンが二人の関係を認めていることに驚いた。
命石とは王族でも無視できない、重要視されるとても意味のあるものらしい。
イシュトに誘われるまま外に出れば、月夜? と首を傾げたくなる、微妙な欠け具合の月が夜空に浮かんで鈍い光を発していた。
後ろを振り返ると、互いに腕を伸ばして指先が触れる程度の距離にザックスがいる。
彼は武器を一つも持っていなかったが、それはイシュトも同じだ。
その他にもファブロウェンが命じたのか、いつもは彼に付き従っている護衛が数人、離れたところから監視いていた。
「それで話とは?」
先に行くイシュトが立ち止まったので背中に向かって問いかけると、彼は振り返って自信に満ちた灰色の瞳でティアナを見下ろした。
「警戒しなくても何もしない。あの時の礼をと思ってな」
「礼なら受けました。約束も守っていただいたし十分です」
「本当に?」
イシュトは着ている上着に手を忍ばせると、丁寧に折りたたまれた白い紙を覗かせる。
まさかと目を見開けば、覗かせたそれを直ぐ様しまいこんでしまった。
「それって――!?」
恐らくイシュトが話してくれた、王太子の印章付き書簡だ。
砦に毒が盛られる日時を記された書簡。
エイドリックを亡き者にしようと目論んだファブロウェンが、タフスに送った書簡。
証拠があると言ったが本当だったのだと、ティアナの目はたった今しまわれたその場所に釘付けになった。
「くれるの?」
「もう十分なんだろう?」
顎を上げて、にいっと口角を上げたイシュトがティアナを見下ろしている。
子供じみた意地悪でもしているつもりか。この仕草だけを見ると、悪鬼と恐れられる戦士の姿など想像できない。
「意地悪しないで下さい。死にそうだった時は素直だったのに」
治療の報酬は求めていない。元気でいてくれるのが何よりで、この気持ちは本当だ。
けれど目の前にぶら下げられた……いや、目の前で隠された書簡はどうしても欲しい。
こうして準備して見せてくれたからには渡す気があるのだろう。見せびらかして終わりなら、本当に子どもだ。
この書簡が彼の言う通りの内容なら、エイドリックは確実に解放されるだろう。公になるとファブロウェンの立場がなくなる。エイドリックはそれを望んでいないので、そうなると本当に困るけれど……ファブロウェンの様子からして、彼自身が印章つきの書簡をタフスに送ったのも何かの間違いだろう。
では真実はどこにあるのか。
それは書簡を手に入れてから、ザックスを始めエイドリックが何とかすると信じている。
「そう言われると断れないな。だがこちらもそれなりの犠牲を払っている」
「お金ですか? それとも別のもの?」
イシュトの口角がさらに上がった途端に、ザックスから腕を引かれて背後に庇われる。
「そんな物は必要ない」
いらないと、ザックスはイシュトを睨みつけていた。
イシュトはそんなザックスを挑発するように笑って目を細める。
「主を自由にしたくないのか?」
イシュトは懐から書簡を覗かせるが、ザックスは視線を反らさず、ティアナを庇ってイシュトを睨み続けていた。
「それがあればエイドリック様は自由になれるのですね?」
ザックスの背に庇われたまま、ティアナは顔だけを出してイシュトに問う。
イシュトは「さぁな」と肩を竦めた。
「ファブロウェン殿次第だが、恐らくな。だが一歩間違えれば口を封じられるぞ」
恐ろしい言葉に息を飲むが、自由になれる可能性があるのなら手に入れたい品だ。
ザックスが「いらない。こんな奴を信じるな」とティアナを庇うが、ティアナは構わず彼の前に出た。
「とても欲しいです。でもわたしには差し上げられるものがありません。身柄を望まれても無理な話ですし」
エイドリックの命と引き換えにタフスに来いと言われるならそのとおりにする。けれどファブロウェンがタフスと通じている証拠を手に入れるためだけなら、それは出来ない。
タフスに身を寄せる意味がエイドリックたちを裏切るだけでなく、彼らを危険に曝す行為だとティアナにも分かっていた。
そもそもファブロウェンと交わした約束を破って、イクサルドを丸ごと手に入れようとするような相手だ。どこまで信用していいかすらも分からない。
するとイシュトは、ティアナが首に下げる命石に視線を向けた。
意味ありげな視線にティアナは緑の石を握り込む。
「お前を手に入れるには、その男を殺す必要があるな」
途端、ティアナの後ろから恐ろしい威圧感が発せられた。
恐る恐る振り返りかけて、やっぱりやめておこうと大人しく前を向く。
「受けて立つ」
地を這う声とは正にこれだ。
竦み上がるような声を向けられたイシュトは、なんの衝撃も受けていないようで顔色一つ変えない。
「イクサルドで殺さないと約束したからな、御使い様と」
だから殺し合いはしないと、イシュトは揶揄うに言ってあっさり引き下がった。
約束を守ってくれたことにほっと胸を撫で下ろしたティアナだったのだが。
「その代わり、御使いからの祝福のキスが欲しい」
「祝福のキス?」
「唇に」
イシュトはティアナではなく、ザックスを見ながらそう言った。
これはもしかしなくても、ザックスを挑発しているようだ。
こんな公の場所でタフスの使者である王子を、貴族ではないザックスが襲ったりしたらどうなるのだろう。
もちろんザックスとティアナはそういう関係ではない。けれどザックスの命石を持っているティアナは、彼にとって妻も同然なのは彼らの常識なのだ。
たとえ祝福とはいえ、妻が夫の前で他の男にキスするのは許し難い行為なのではないだろうか。
しかも唇だ。
ザックスとティアナの関係がなんでもなくても、周囲はそう見ていない。これはザックスの誇りに関係してしまうのだろうか。
イシュトはザックスを挑発して手出しさせようとしている。だからザックスの同行を許したのだ。
けれど残念ながら的外れだ。
何しろこの命石は便宜上のものであって、二人の関係は周囲が思うようなものではない。だからこれは挑発にはならない。
ザックスを挑発したいらしいが、イシュトの思惑は大外れだ。ティアナがイシュトにキスをしたとしても、ザックスは何も感じないだろう。
そう思いながら後ろを振り返ったティアナだったが。
予想に反して、ザックスは拳を握り締めて怒りを露わにしていた。ぎりぎりと奥歯を噛み締める音まで聞こえ、とても怒っていた。
ふりだとしてもここまで怒る必要があるのだろうか。ティアナの護衛として、不本意なことをされるのは屈辱なのかもしれない。
「断る――」
ザックスから発せられた底冷えする声を、イシュトは鼻で笑って懐から書簡を取り出した。
「俺なら力ずくでも奪うがな?」
間違いなく役立つものだと見せびらかすイシュトへと、ザックスが一歩前に出た。
「ならば決闘――」
「いいわ、祝福のキスをします!」
ティアナは決闘と言いだしそうなザックスを慌てて止めた。
「はぁ!? 冗談じゃないぞ!」
ティアナは抗議するザックスの口に手を伸ばして物理的に閉じさせる。
「その代わり、役に立つかどうか改めさせて下さい」
ヴァファルに祝福のキスなんて常識はない、それをティアナ自らがやらねばならないのだ。「祝福のキス」とは、なんて御大層な文句だろう。
羞恥に震えてやり遂げた後で、使い物にならなかったら目も当てられない。恥をかかされただけで終わってしまう。
けれどちゃんと使い物になるのなら、キスくらいいくらだってやってやろうじゃないかと意気込んだ。
「分かった」
イシュトは応じて、何の迷いもなく書簡を差し出した。持ち逃げされるとは考えていないようだ。最もそんな姑息な真似をするつもりなんかない。
封が開かれている書簡を丁寧に開いて視線を落とすが、予想したとおり読めなかったので、ザックスに見せた。
ザックスはイシュトを警戒しながら視線だけで内容を改める。
様子を窺っていると、落とされた視線が文字に釘づけになる。
「役に立つんですね?」
「……必要ない」
空いた間が答えだ。自分に遠慮する必要はないのに。任務に忠実なザックスを、どうしてだか微笑ましく感じてしまう。
大きな図体をして心配し過ぎだ。
こんな状況で今更だし、どうってことないとイシュトに向かって一歩踏み出せば、ザックスに腕を取られて引き止められた。
「必要ないと言っただろう」
見下ろしてくる緑の目は怒りを孕んでいたが、ティアナは恐れずザックスの胸を押す。
「エイドリック様を取り戻しましょう」
いつまでも塔に閉じ込めておくわけにはいかないし、自国を犠牲にしようとしたファブロウェンも罪を償う必要がある。ファブロウェンの目論見でないのなら尚更、真実を暴きたい。
けれどザックスはティアナの腕を掴んで離してくれない。
どうしたものかと眉を顰めると、反対の腕が不意に強く引かれた。
そうしてはっとした瞬間には、頤をとられ、イシュトの顔が目の前にあって。彼の唇がティアナの唇に押し付けられていた。
「貴様っ!」
怒声が上がると同時に突き飛ばされて、ザックスの胸に飛び込んでいた。そして目の前を拳が通り過ぎて行く。
「駄目です、やめてザックスさん!」
タフスの王子に殴りかかるザックスをティアナは必死で止めた。
イシュトは笑いながらザックスの拳を華麗に避けている。
その間に、争う二人に気付いた護衛たちが駆けつけて来るのがティアナの視界の端にうつり込んだ。
「ザックス・ロブハート、やられた恨みは忘れない。借りは必ず返すぞ。その時まで生き残れ」
その言葉にザックスはようやく動きを止めると、鋭い視線を投げつけた。
「次に会ったら必ず殺す!」
「そいつは楽しみだな」
睨み合う視線を先に外したのはイシュトだった。
イシュトはティアナに顔を向けると、纏う雰囲気を柔かく変えて口角を上げた。
「イクサルドに飽いたら俺のことろへ来い。いつでも歓迎する」
「約束を守って下さってありがとうございます。どうぞお元気で」
ティアナの言葉にイシュトは苦笑いを浮かべると、そのまま庭園を抜けて行った。
慌てて護衛の一人が後を追い、残った護衛らは再びティアナ達から距離を取る。
言い争いが起きたとは思えない静寂が夜の庭園に舞い戻って来た。
ザックスは無言で背を向けている。
言うことを聞かなかったから怒っているのだろう。嫌われたくなかったのになと、彼の反応に不安になる。
怒鳴られるかなと覚悟しながら待っていると、盛大に溜息を落とされた。
ザックスはゆっくりと振り返る。
「お前は字が読めないんだな」
想像したのと違って虚を突かれた。
ティアナは漆黒の瞳を見開く。
「ええ、はい。言葉は通じるんですけどね」
なぜでしょうと笑ってみせれば、ザックスは手のひらで顔を覆ってからもう一度溜息を落とした。
「二度とこんな真似はしないでくれ」
「大丈夫ですよキスくらい。ラシードさんにもやられたんだし」
媚薬を口移しで飲まされたのだと言えば、今度はザックスの方が目を見開いてから肩を落とした。
「すまなかった」
あれはザックス自身が命じたのだ。
とやかく言えない状況に、思うところがあったとしても、ザックスには謝るしかできないだろう。
「本当に、すまなかった」
「もういいですよ。済んだことです。これでエイドリック様を助けましょう」
「お前は本当に。俺は……」
ザックスは何かを言いかけて、もう一度「すまない」と謝罪して頭を下げた。




