その23 なるほど、確かに彼女は魅力的だ
ティアナが助けたタフスの王子が、使者としてイクサルドの城を訪れる。
そうザックスから知らされて、心の底から安堵の息を漏らし、張り続けていた緊張の糸が緩むのを感じた。
ティアナが落ちた東の砦で起きた戦い。ティアナの出現でエイドリック率いる軍は勝利を収めた。
敗戦を記したタフスが第四王子を使者にやって来るということは、タフスが全面的に非を認め、イクサルドが満足するだけの賠償を準備しているということだ。
再びタフスが砦に攻め込む事態にならないと知ったティアナは、心の底から安堵した。
イシュトを助けたのは無駄ではなかった、約束を守ってくれたのだとほっとして、夜明け前の寝台にごろんと転がる。
「ようやく……たった一つだけですが、イクサルドの役に立てた気がします」
「一つじゃない」
ティアナの功績は、絶望的だった砦の兵士らに再び命を注ぎ込んでくれたことだ。多くの奇跡を呼び起こして勝利に導いてくれた。
ザックスはそう言ってくれるが、ティアナは違うと寝転んだまま首を振る。
「あれは医師として当然のことをしただけです。けれどこれは――あの人を助けたせいで、イクサルドが再び戦火に犯されるのではとの不安がずっとありました。タフスは砦だけではなく、イクサルド全土を手に入れるつもりだったと聞いたから。でもそうならない。あの人が止めてくれると約束してくれたんです。信じてよかった。ほっとしました」
安堵するティアナの様に、対するザックスは複雑な心境を抱いた。
タフスの第四王子イシュト。あの男は言葉巧みにティアナを陥落させたのだろう。その効力が未だに続いていることに危機感を覚える。
イシュトが無理矢理ティアナを奪おうとするなら、ザックスとしても遠慮なく戦いを仕掛けられる。
相手がタフスの王子でも、神の御使いであるティアナを守る目的なら、王子として使者に立つあの男を殺しても罪には問われない。
たとえ問われたとしても、ザックス一人が負えば済む罪だ。
けれどティアナ自らがイシュトの手を取るとなれば話は別だ。
目的のためならどこまでも狡猾になれる、そうならなければ生き残れない世界で、ティアナは無垢とも言える存在。怪我人を救うために故郷を捨てる覚悟をして舞い戻った彼女は、自分が助けた患者を無碍にできない気質を持っている。
恐らく、いや確実に、誰かが見張っていなければ甘い言葉で付け入られ、連れて行かれてしまう。
決して接触させてはならないと、ザックスは安堵に頬を緩めるティアナを複雑な思いで見詰めていた。
エイドリックの予想通り、イシュトがタフスの使者としてイクサルドの地を踏む。
本来なら捕虜として連れて来られる筈だった場所に、タフスの王子として立つのだ。その意味をザックスは考える。
あの戦いの日、悪鬼と呼ばれたイシュトに斧槍を叩きつけたのはザックス本人だ。
ティアナが起こした奇跡に、恐れ戸惑う敵兵を薙ぎ倒し、辿り着いた先にあの男がいた。
直接戦いを交えるのは初めてだったが、イシュトが見ていたのは向かって来るザックスではなく、遥か彼方、ザックスの後方だった。
イシュトはティアナに見惚れ、自分に向かってきた男に気づくのが遅れてしまったのだ。
突然目の前に現れた男。
それがかつて隻眼だったザックスであるというのに気づくのが遅れた。イシュトが気づいた瞬間には、奴が構えた剣に斧槍を振り下ろし、体ごと弾き飛ばした。
決して弱くない、本来なら最初の一撃で馬から弾き落とすなんて敵わない相手だったはずだ。違和感を感じたが、命を取り合う場所では邪魔な違和感だった。
けれど落ち着いた今なら考える時間がある。
そう、あの時確かにイシュトはティアナに見惚れていたのだ。
あの時からずっと感じていた違和感がここにある。ザックスは寝転ぶティアナを見詰めた。
ザックスと並んで、大陸に名を馳せる戦士が簡単にやられたのは、ティアナの魔法だけが原因ではない。
台地を抉る大風と隻眼でなくなった男。その両方を意味する所を視線の先に見つけ、一瞬にして悟り、危険な賭けに出たのではないか。
考えすぎかもしれない。けれど、心に引っ掛かっていたものの答えが間違っていなかったなら。
咄嗟の判断とはいえ、イシュトの考えは間違っていないのだ。ティアナを得るのは、命をかけるに相応しい宝となる。
「そうはさせるか」
思わず漏れた呟きに、ティアナが気づいて身を起こして首を捻る。
ザックスは小さく首を振ってティアナの肩を押し、押された彼女の体は再び寝台に沈んだ。
「少し考えたいことがある。お前はもう少し眠っておけ」
「ザックスさん?」
そう言ってザックスはティアナを残して寝室を後にした。
何やら難しい顔をして出て行ったザックスを、ティアナはぼんやりと見送った。
しぶしぶながらも納得して昨日までは寝台を使ってくれていたのだ、だから考えたいことがあるのは本当だろう。
ティアナは閉じられた扉から視線を天井に移してゆっくりと瞼を落とす。
「あとは他の皆とエイドリック様だわ」
そこでふと能天気な自分に気付き、閉じたばかりの瞼を持ち上げた。
「あれ? なんかおかしくない? タフスにはイクサルドの王太子と交わした密書があるのに、どうして賠償を支払う必要があるの?」
あの戦いはファブロウェンと結託して起こした戦いだと証拠を示せば、タフスはイクサルドに賠償を支払う義務はないのではなうか。
もちろんイシュトが死の淵で漏らした情報なので確かなものではないのかもしれないが、それが事実だと公に示されたなら、イクサルドは大きく乱れることになるだろう。
そんなことティアナは望んではいないが、負け戦をしたタフスが望まないのはおかしな話だ。
もしかしたらエイドリックの言うように、ティアナは本当に騙されたのかもしれない。
「まぁ、別にいいけど……」
騙されたのだとしても、目の前で失われる命を見捨てられなかったのはティアナ自身だ。
それで自分の命が危険になっても誰かを恨んだり、まして後悔なんてしてはいけないのだ。
もう誰も死なせないために残ると決めたのだし、何よりこれで戦いが終わるなら万々歳ではないか。
服の上から命石に触れる。
この世界に必要だから落ちて来たのだと、ザックスが言ってくれたように、自分はこの世界の役に立てているだろうか。
世界という大きさで語るなら、ティアナなんて小さな存在でしかないが、落ちたイクサルドには影響を与えている。
このままエイドリックが解放されて、兄弟間の確執も拭い去れたなら、いつの日かこの世界に落ちてよかったと思えるだろうか。
ティアナの感覚からすると、魔法による治療は大したことではないのだ。義務であり、誇りを持ってやり遂げる仕事でもある。
けれどこの世界にとっては奇跡の現象で、隻眼の人間に光を取り戻させる意味がどれ程の物なのか。ごく当たり前の結果として受け止めるティアナには、彼らがいかに衝撃を受けたかなんて本当の意味で分かっていない。
ティアナがこの世界で行う治療行為は、見捨ててしまった人たちへの償いも兼ねている。
だからイシュトを助けて、エイドリックを裏切る行為をしてしまったのだ。
本当は自分が救われたいからやっている。後悔したくないからと大層な理由をつけても、根底にあるのは許しが欲しいからだ。
頑張るから許してほしいと狡い気持ちがあるのだ。
どんなに時が過ぎても、ラシードのあの背中がティアナの脳裏に過る。
見殺しにしたとの気持ちは消えない。ティアナが背負うべき、背負わなければならない現実だった。
※
夕暮れになって、数日ぶりにファブロウェンとの夕食に招かれた。
今夜はマリアに身だしなみを整えられる。
黒髪を丁寧に梳いて、派手にならないよう結い上げ、見たこともない作りの衣装に着替えさせられた。
前合わせで体に張り付く細身の衣を腰ひもで絞め、前開きになっているローブのようなゆったりとした上着に袖を通す。
どちらも裾を踏みそうなほどに長いが、前が開いているので歩くのに不便はない。
上等な絹で作られた白と深い藍色のそれは、黒髪のティアナにとても似合っていた。
身支度を整えたティアナの姿にザックスが息を飲んだ。鏡に映る姿を見て、ずいぶん綺麗にしてもらったと照れてしまう。
マリアから離れてザックスの前に立つと、ザックスは片膝を折ってティアナの腰を抱き寄せた。
意図を察して身をかがめると、ザックスの頭を抱き寄せる。
「この服は何ですか?」
マリアに聞こえないよう耳元で囁けば、ザックスもティアナの耳に顔を寄せた。
傍目からは恋人同士が愛を囁き合っているようにも見えるが、二人の間にそんな甘い空気は漂わない。
「神殿に入る娘が着る衣装の中でも最高位の物だ。恐らく王太子は、お前をタフスの王子に神聖な存在として披露する気だろう」
「あの人が同席するの?」
それなら確かめたいことがあるのだ。興味を示したティアナの耳に、ザックスの唇が触れる。ティアナの鼓動がどきりと胸を打った。
「気をつけろ、俺は同室を許されない。不本意な状況になったら迷いなく力を使え」
低く鋭い声にはっとする。
ティアナは緩んでいた気を引き締めた。ゴクリと唾を飲み込んで小さく頷く。
ザックスはティアナから体を離し、膝をついたまま見つめ続けた。
「あの、お嬢様。そろそろ――」
マリアが遠慮がちに急かしてくる。
ザックスは立ち上がると、ティアナの腰から手を離す。その離れた手がティアナの頬を包み込んだ。
「お前を奪われたくない」
まるで甘い告白をされている気分になって頬が染まる。大きくて固い手のひら。とても心強い。
「わたしもです。あなたを奪われたら後を追います」
分かっている、これは見せかけだ。命石を貰ったティアナは、ザックスと心を通わせていると周囲に思われている。だからこれはザックスを始め、エイドリックや他の人たちを守るための演技だ。
ティアナはそう意識して、扉の前に立つ護衛にも聞こえるよう、ザックスを見つめたまま答えた。
ファブロウェンの招待を受けたのはティアナだけ。ザックスは王太子と同席する身分にない。
その間、ザックスに不測の事態が起きないように釘を刺したつもりだ。どこまで効力があるか分からないが、こんな衣装を着せられているのだ。
きっと願いは叶えられる。ティアナはそう信じていた。
案内された場所はいつもの部屋とは違っていた。
扉の前で護衛とマリア、それからザックスとも別れてたった一人で部屋に入る。
ファブロウェンの護衛が守る二つ目の扉を潜ると、先に入室を済ませて座っていた二人の男が腰を上げた。
不遜な態度のまま席に着く。
続いてファブロウェンが、それからイシュトが意味ありげな視線をティアナに送りながら、ゆっくりと腰を下ろすのが目の端に映った。
イシュトには本来のティアナを知られてしまっている。
エイドリックの言いなりで、不安と不満、そして恐怖に苛まれていた姿を見られているのだ。
きっと神の御使いなんて思っていないだろう。
それでいい。ただ何も言わずにいてくれたら。
イシュトがどう出るか。態度とは裏腹に緊張から息が苦しくて酸欠になりそうだった。
エイドリックが捕らわれている今はまだ、本当のティアナをファブロウェンに知られてしまうわけにはいかない。
ティアナはファブロウェンの望む神聖な娘でなければならない。
だからどうな黙っていて欲しい。
お願いとの意味を込め強く睨みつけたが、どうやら失敗だったようで、イシュトから失笑が漏れた。
「イシュト殿?」
「失礼。彼女に加護を受けた時のことを思い出してしまったものですから」
「……その時に何か楽しいことでも?」
イシュトが捕虜として連れて来られる予定だったことを、ファブロウェンは知っている。もしそうなっていたら、見かけだけだとしてもこうして友好的な会話は成立していなかっただろう。
あの時は敵対して命を取り遭っていたのに、今はタフスの王子としてこの場所にいる。
なんともおかしな話だ。殺し合う相手と向き合っているのだから。
国同士、争いがなくなるのは良いことだが、二人はエイドリックの命を狙った当事者たちだ。これが事実で間違いないならエイドリックの身が心配だ。
色々と言いたくなってしまうが、ファブロウェンの前でかぶり続ける仮面のせいで口を挟めない。
「決して面白いわけではありませんよ。ただ再会した途端に、彼女が握り締めてくれた指先が熱を持ってしまいまして。我が身の若さを実感して、それがおかしくてつい」
灰色の目が意味有り気に細められ、ティアナは奥歯を噛みしめて耐えた。
別に変な意味で握り締めたのではなく、ちゃんと感覚があるかとか、死に瀕した彼を気遣い医師としてやってしまった治療行ための一環だ。
それをまるでティアナが望んでイシュトの手を握り締めていたように聞こえる言い方をしなくてもいいではないか。
答えられないティアナを面白がるイシュトの様子に羞恥が湧き起こった。
「なるほど、確かに彼女は魅力的だ。イシュト殿の気持ちも分かる」
え!?
分かるのか!?
びっくりしてファブロウェンを見たら、碧い瞳が真っ直ぐに、そして明らかに好意的にティアナを見つめていた。
「そなたがこちらの王子に慈悲をかけてくれたお陰で、イクサルドはタフスと同盟を結ぶ準備に取り掛かることになった。イシュト殿が身罷っていたなら、両国は今この時も戦いを続けていただろう」
いつものファブロウェンと違って穏やかな言葉と表情だ。これが彼の本心からの言葉なら嬉しいと、ティアナは一つ頷いてからイシュトに視線を移した。
「お元気そうでなによりです」
言葉を受けてイシュトは立ち上がると、ティアナの側にやってきて片膝をつき、流れるような仕草で、膝の上で合わせていたティアナの左手を取った。
「女神の慈悲に感謝と敬意を」
いらないのにと思うが、イシュトからの口付けを左手の甲に受けた。その瞬間、ぞわりとした感覚に思わず手を引いてしまうが、強く掴まれていてできなかった。しかも舌先で舐められてしまい、思わず悲鳴を上げそうになった。
驚き目を見開くティアナに、ファブロウェンが何事かと眉を顰めた。
ティアナは気取られないようイシュトを蹴ったが、痛くも痒くもないらしく、彼は何もなかったかのように席に戻っていく。
ザックスにやられてぼろぼろの状態だったのに。さすがにこんな悪戯をする人だなんて思いもしなかった。驚きすぎて反撃すらできずに終わってしまう。
イシュトが席に着くと同時に、ザックスの言葉を思い出してた。
相手は瀕死の怪我人ではないのだ。この際だから魔法を使って弾き飛ばしてやれば良かったと思った。




