その19 どうすればエイドリック様を取り戻せますか?
ティアナは、目の前の光景に上げそうになった声を必死で押し留めた。
ようやく現れた男が部屋に入ると、マリアが深々と頭を下げて扉が閉める。
現れたザックスは入浴と着替えを済ませ身綺麗にしていたが、衣服からは白い包帯が覗いており、顔には真新しい痣や深い切り傷が刻まれていた。
「ザッ――!」
思わず上げた声を両手で押し留める。明らかに暴力を受けた痕跡に、ティアナは全身から血の気が失せ、足の力を失くしてその場に崩れ落ちた。
「見た目ほど酷くない」
ティアナが床に崩れ落ちる前に、ザックスが左腕で受け止める。利き腕は怪我で動かせないようだ。
拷問という文字が頭に浮かぶ。
ザックスの服を掴んで、彼の大きな胸に顔を埋めると、声が漏れないように囁いた。
「ごめんなさい、わたしがもっと早く……」
「すぐに制止が入った、お前のお陰だろう? 詳しく知りたい」
「ええ、そうですね。それではあちらに」
ザックスも声を顰め扉の向こうを警戒している。ティアナが寝室へと続く扉へ目をやると、彼は崩れ落ちたティアナを片腕で抱えた。
怪我をした右腕も完全に動かないわけではないようで、ドアノブを回し、整えられた寝台にティアナを座らせてくれる。
ティアナは離れて行くザックスの腕を掴んで引き止めた。
「先に手当てをさせて下さい」
望んだわけではないが、綺麗な服を着て柔かな寝台で眠らされ、豪華な食事をしていた我が身が恥ずかしい。
だからといって、彼らと同じように暴力を受けるのも怖かった。
彼らは酷い目にあっていたというのに、自分が同じ目に遭うのは恐くて嫌なのだ。
「ごめんなさい」と、自分のための謝罪が出てしまう。
「安心しろ。お前が思うほど酷くないんだ」
ザックスとティアナの基準が異なっていても、ひどい怪我だと分かるのに。
痛かっただろうし、苦しかったはずだ。
エイドリックは無事なのだろうかと思いながら、ザックスの利き腕を撫で検分する。
折れてはいないがひびが入っていた。
服を脱いでもらい、当てられたばかりの真新しい包帯を解いて打ち身や切り傷を癒やしていく。
最後にザックスの顔に触れると、彼の硬い指の腹がティアナの頬を拭った。
「お前のせいではないし、責任を感じなくていい」
「でも、許せないんです」
知らぬ間に零れていた涙をザックスが指の腹で拭ってくれる。全ての傷を癒やし終えると、残った涙は自分で拭い鼻を啜った。
「他の皆さんは?」
「地下牢に繋がれているが拷問は受けていない」
「無事なんですね?」
大丈夫だと頷かれて、ティアナが詫びながら頭を下げる。すると頭を撫でられた。
「身元証明に渡した命石が功をそうしたようだな」
「これですね?」
服の中に入り込んでいた首飾りを取り出す。命石と呼ばれた緑色の石は、魔法で作り出した光源の下で煌びやかに輝いた。
「これは夫が妻に渡す物ですか?」
ザックスは一度結婚しているので違うかもしれないが、ティアナの力を恐れた彼らが取った行動からそれで間違いないのではと思っていた。
「命石とはなんです?」
「イクサルドでは男子が生まれると、無事に育つのを願い、瞳の色にあやかった石で首飾りを作る風習がある」
それが命石と呼ばれる代物だ。
貧しい家庭の子供でも神殿から石が与えらるので、ほとんどの男子がこの石を持っているのだという。石に刻まれた文字は予想した通りザックスの名前だった。
「成人して妻を迎えると、この石で指輪を作って妻に贈るんだ」
「指輪――王太子に情をかけたのかと問われたのは、指輪になっていなかったからなんですか?」
神殿に預けるといった話しと一緒に聞かせると「ああそれは」と説明してくれた。
「首飾りの状態で渡すのは婚前交渉を持ったという証で、いずれ妻に迎える確約でもある。女が神殿に入るには純潔が条件だから、マリアという侍女は慌てて進言したんだろう」
イクサルドにおいての神殿は、神を祭る場所であり、男だけが神に仕えることを許される聖域である。
そこに預けられるのは何らかの理由がある高貴な女性で、純潔の乙女でなくてはならない。当然出て行く時にも純潔だ。
エイドリックが女神と呼んでいようと、純潔でないとみなされるティアナを神殿に入れるのは躊躇われたのだろう……と説明された。
あの第一王子は信心深いらしい。
「言っておくが、お前の純潔云々をどうにかしようとしたわけじゃない。あの時は純粋に身元証明に最も相応しいと判断したんだ」
「分かっています。変な勘繰りをしたりしませんから大丈夫です」
純粋にティアナのためを思って持たせてくれたのだ。あの時ザックスは、自分に未来はないと判断して、生まれた時から身につけている石をティアナのために役立ててくれた。
少なくともあの時の彼は、ティアナに罪悪感を覚え、償おうとしてくれたのだろう。
ただそれだけだ。余計な期待や勘違いはしないようにしなくてはいけないと自分に言い聞かせる。
ザックスの傷を癒した後、ティアナはファブロウェンとのやり取りを事細かに話して聞かせた。
エイドリックの望んだとおり、出来る限りで高潔に振舞ったことや、エイドリックら王族を下に見る態度を取ったことなど。ファブロウェンとの食事に混ぜられていた毒の話も丁寧に話した。
「王太子は信心深いから、不可思議な力を持つお前を疑っていないだろう。だがエイドリック殿下のもとに使わされたというのは、不快に思っておられるに違いない。なにしろエイドリック殿下は王太子と異なり、あまり信仰深いわけではないからな」
「どおりで仰々しいと思いました」
砦での勝利の後に跪き、指先に口付けたエイドリックの行動は芝居じみているように感じたのだ。
それにしてもファブロウェンは本当にティアナの言葉を信用しているのだろうか。
慎重な態度を取られていた自覚あはるものの、魔法のない世界で起こす奇跡は、神秘より恐怖を与えてしまったように感じる。
「最初はザックスさんを解放するようにお願いしても無視されたんです。でもファブロウェン様の護衛に腕をつかまれたので、ちょっと弾き飛ばしたら態度が急変したように思います」
第一王子で王太子、そして未来の国王となる人の護衛だ、生半可な鍛え方などしていないだろう。その男を手も触れずに弾き飛ばしたのだ。
ザックスならどんな技を使ったのかと思いそうだが、ファブロウェンたちは神の力と信じたのかもしれない。
だから態度が急変したのだ。ザックスもその意見に同意した。
「後出しにしたから、より効力を発揮したんだろう。神の御使いを敵に回すのは勘弁したいだろうからな」
「でも本当に神の御使いだと信じているなら、ザックスさんとそういう関係にあるってよく信じてくれましたね? この世界では神の使いと人が交わるのはよくあることなのですか?」
イクサルドの人たちと容姿も色も異なるのが良かったのだろうか。ティアナは首を傾げた。
「いや、そもそも神の使いなんてものが地上に降りたった過去はない。それでも信心深い者はお前の力を神の物と思い込んでしまうんだ」
「信仰心というものですね」
ヴァファルで言うなら王族への絶対的な信頼だろうか。
「王太子直々に問われたよ。お前と情を交わしたのかと」
「なんて答えたんです?」
「地獄に落ちる覚悟だ、と」
「わたしの困ると似てますね」
ザックスも相手に勝手な想像を抱かせるために確実な言葉を残してはいなかったが、それにしても本当に良よかった。
ティアナは首飾りにつけられた緑の石を握り込む。
これがなければザックスを取り戻すことが出来なかったかもしれない。彼を愛して死んだ奥方には後ろめたいが、お陰で先が見えてきたとほっとしながらも、複雑な感情が芽生えていることに気付く。
「そう言えば、これは指輪から首飾りに加工し直したんですか?」
夫から妻へ贈られる命石だ、当然ザックスの妻となった女性の指に嵌められていたに違いない。
けれどティアナの予想は簡単に否定された。
「アーリス……彼女は公爵家の一人娘で、エイドリック殿下の婚約者でもあった方だ。これではその様な方に相応しい石ではないと言われ、娶る時に作り変えた」
「相応しくない……せっかくの命石なのに」
身分違いをしたというラシードの双子の姉。命に期限がある彼女に相応しくないなんて誰が言ったのだろう。
きっと彼女は、恋する人が生まれた時から持っていた石を欲しかったに違いない。けれど彼女の周囲がそう判断して作り変えられたのだと思う。
ティアナは亡き彼の奥方の心情を想うと、自分が首に下げていることに色々な気持ちが渦巻いた。
ザックスを含めて、周囲の人間は相応しいか相応しくないかで判断してしまったのだ。
石そのものの価値でないことに誰も気が付かず、彼女も渡された指輪に何の疑いも抱かなかったのかも知れない。
「そうだな。人が定めた階級で、相応しくないと弾かれた石だ。それを神の御使いが持っているとこで、王太子は複雑な心境を持っただろうな」
ザックスは気づいていたのか。はっとして見上げると、彼は何でもない顔をしていた。
「神様は階級で人を判断しない。エイドリック様を選んだのだと、強く印象付けてしまったのでしょうか。そのせいでエイドリック様への不信感が募らなければいいのだけど……」
嫉妬されると厄介だ。
「どうすればエイドリック様を取り戻せますか?」
神を気取って言えば、ザックスを取り戻せたように何とかなるだろうか。
こじれた兄弟関係から、エイドリックもこうなることを予想していただろう。
今後に向けて何が一番なのかティアナでは判断のしようがない。
「王太子自身が殿下を解放して下さるのが一番だが、王太子暗殺の証拠が揃っている。説得しても無駄だろうな」
「エイドリック様は無実ですよね、証拠なんて偽物なんでしょう? ならわたしを利用できませんか。あと、この国の王はどうしているんです?」
ファブロウェンの行いは、国の将来を左右する愚かなことだ。タフスの侵攻もファブロウェンがエイドリックを厭う気持ちが原因なのだし、読みの甘さがタフスをつけ上がらせていた。
こんな時だというのに、国王の影がまったく見えないのは異常ではなかろうか。
「陛下はお心を崩され、この数年は離宮に篭っておいでだ」
なんとかならないだろうかと、緑の瞳で見詰められたティアナは、期待に応えられないことを残念に思う。
「ごめんなさい、心の病は――」
「いや、すまない」
ティアナが癒やせるのは怪我や病気で、心の問題は魔法でもどうしようもない。
イクサルドの王は六十を前に王妃や側妃、そして友人を立て続けに亡くして気が弱くなり、離宮に篭ってしまった。
若い頃は自ら剣を手に先陣を切って戦う、勇ましく豪快で民想いの王であったという。
エイドリックに似ているところがあるようだ。それがファブロウェンとの確執に拍車をかけているのではないだろうか。
「恐らく王太子は、お前の神秘性に惹かれている筈だ」
「惹かれている?」
小さく首を傾げたティアナに、ザックスはそうだと頷いた。
どこの人種とも知れない異国風の、不思議な雰囲気を持つ娘。
ザックスの命石を首に下げている以上、たとえ王太子であっても人の手が付いた女性を無理やり手元に置くことはできない。
しかもティアナはエイドリックのもとに使わされたと断言し、近い将来に最高権力者となるファブロウェンに見向きもしなかった。
「恐らく世継ぎとしての誇りを傷つけられているだろう。なのにお前を大切に扱っているなら、本気で神の使いと信じているのだろうな。お陰で俺たちは命拾いしている。エイドリック殿下はこれを狙って城に戻ったんだ」
不可思議な力を見せつけたことが拍車をかけていると、ザックスは予想した。
王太子の護衛に危害を加えるのは王太子自身に危害を加えるのと同罪だ。だがファブロウェンはそれを許した。
神の御使いだからというならそれまでだが、その際に強く出たティアナの言葉に従い、捕らえていたザックスまで解放したのだ。
「そういうことなら、前もってちゃんと教えて欲しかったです」
「登城までには話すつもりだったんだろう。だがタフスの王子を取り逃したせいで、お前に八つ当たりして機会を失ったんだ」
それならティアナにも原因があるだけに、エイドリックを責められない。
「王太子はが様々な意味でお前を欲しがっているのは間違いない」
「わたしはどうしたら?」
「エイドリック殿下への劣等感は否めない。この国では武勇に優れている者が王になる歴史があるだけに、軍事で劣る王太子殿下にとってエイドリック殿下は忌々しいのだろう。今はまだ殿下の釈放を進言しないほうがいい。俺は殿下に接触を図る」
「エイドリック様が何処にいるのか分かるんですか?」
「察しはつく。それから王太子は幼少より少しばかり体が弱いせいで、毒に体を慣らすような危険はなさらなかった」
「え、でも最初にご一緒した食事には確かに……」
ごく微量だが毒が混入していたのは事実だと訴えるティアナに、お前を疑ってはいないとザックスは返した。
「王太子の側にいる初老の男というのはグリスト卿だろう。王太子の側妃リリア様の父親で、今年四歳になる王子の祖父だ。お前の国に摂政という言葉はあるか?」
摂政とは君主の後見となる立場の人だ。ティアナの養父となった人の狙いは単に未来の皇帝の祖父になることだが、もしティアナが皇太子の子を生んで皇太子が早死にした場合は、ティアナが産んだ子の後見として養父が政治を動かすことがあるのかもしれない。
ヴァファルでは皇帝や皇太子を失うと国を保つ力事態が弱くなり、崩壊を招くと誰もが分かっているので、力のある皇子を蹴落としてやろうとかいった感情はないが、この世界は違う。
「まさかグリスト卿が兄弟の不仲を?」
しかもファブロウェンの命まで狙っているとしたら。ぞっとする話である。
「長く王都を離れていたので分からないが、有り得ない話でもない。殿下に報告が必要だ」
国王は離宮にこもりきりで国政に関わっていない。王太子の子の祖父としてファブロウェンの側に立ち、政治に口出しするうちに、出してはいけない欲を出してしまったのだろうか。
「そうですね。彼はわたしに忌々しそうな視線を送っていたし――でもそれだけの理由でファブロウェン様に毒なんて……」
君主の死を願う感覚のないティアナには理解できない話でも、国王が引きこもり王太子であるファブロウェンに何かあった時、次の王太子として名乗りを上げるのはエイドリックか、王太子とリリアの息子である王子だ。
エイドリックが謀反で捕らわれたら元の地位には戻ってこれない。
そうなったら政治の実権は、幼い王子の祖父であるグリスト卿が担う流れだろう。
ファブロウェンの側に付き従う様子からして、すでに彼の思惑が国政に影響しているのかもしれない。どろどろして難しすぎるとティアナは頭を抱えた。
ここ数日、緊張の毎日で疲れ切っていたところで、ようやくザックスが解放されて。
ほっとしたのも束の間、まだまだ問題は山積みだ。
それでも一人じゃないのは心強い。
「この世界ってぐちゃぐちゃですね」
ティアナが知らないだけでヴァファルにもあることかも知れないけれど、心がとても疲れていた。