その16 奴の代わりに放り込んでおけっ!
幌の下で揺られる男の意識を失っている時間が増えた。
時折目を開けて話をしたが、掠れた声は弱々しく、命が尽きかけているのは誰の目にも明らかで。
それでもエイドリックがティアナの願いに頷くことはない。それが彼の、多くの命を預かる者としての選択なのだ。
既に食べ物も口にできなくなっていた。水を運んでも僅かに飲み込めるだけで、ほとんどが口の端を伝って流れ落ちてしまう。
ただの捕虜ではない、タフスの王子だ。
これから交渉に使う駒をみすみす死なせてしまっていいのかと訴えるが、傷の手当てをして、状態にあわせた食事の提供も行われている。これがこの世界の普通なのだと言われれば、それ以上何も言えなくなった。
ティアナの見立てでは、彼でなければとっくに息絶えている怪我だ。
けれどどれ程恐れられる悪鬼であろうと肉体はただの人。強靭な肉体を持っていても不死身ではない。
彼らの世界にやって来たばかりのティアナがこれ以上口を挟む訳にもいかず、移動時も幌の中で看病に明け暮れた。離れている間に死なれるのが怖かったのだ。
太く汚れた左指を撫でて刺激を与えていると、僅かに瞼が持ち上がって灰色の目が覗いた。ティアナはイシュトの耳元に口を寄せる。
「水を飲ませますね」
するとイシュトの首が僅かに振られ拒否を現した。
「いらない」
掠れた声はほとんど聞き取れない。耳を寄せたティアナは首を横に振った。
「ちゃんと飲まないと――」
「水より、お前の慈悲が欲しい」
イシュトの言葉にティアナはぐっと唇を噛んだ。
彼の言う慈悲がなんなのか正しく理解している。彼はティアナに奇跡を起こせと言っているのだ。他の人間にしたように。
本当なら助けたい。けれどエイドリックの命令に背いて、起きるであろう事態には恐怖を抱く。
ティアナはイシュトを知らないが、エイドリック始め、ザックスや同行する多くの兵たちがこの男の恐ろしさを理解しているのだ。
「タフスの侵攻は……イクサルドの王子が手引きした」
「――え?」
王子というのはエイドリックではなく、彼の命を狙う第一王子の方だろう。
彼はエイドリックを厭い、敵を迎える前に毒を盛るという愚行に走る愚か者だ。
でもどうしてそれをイシュトが知っているのか。
そしてなぜそれをティアナに教えるのだろう。
「慈悲をくれるなら証拠をやろう」
「証拠って?」
「砦に毒が盛られただろう。その実行日時を記した密書を保管してある。イクサルドの王子の印章付きだ」
イシュトの言葉にティアナは息を飲んだ。
それでは何か。エイドリックに毒が盛られるのに合わせて、タフスは攻撃を仕掛けて来たということになるのか。
しかも味方である筈の第一王子が印章付きの文書を敵国に送っているなんて。
第一王子はいったい何をしているのだとティアナは慄いた。これはただの兄弟喧嘩などではすまされない、反逆ではないのか。
「エイドリック様に相談するわ」
事の重大さに立ちあがろうとしたティアナを、待てとイシュトが止める。汚れた指がティアナの服を掴んでいた。
「やつは俺の言葉を信じない」
証拠もない情報は混乱させようとしているとしかとられない。死にかけた捕虜の言葉なんてエイドリックが信用する訳がないと彼は言いたいのだ。
「だがお前は信じろ。今お前が俺を信じなければイクサルドは終わるぞ」
「終わるってどういう意味?」
痛みを遮断している筈なのに苦痛に呻めいたイシュトへ手を伸ばす。痛みを取り除く魔法だけでは補いきれなくなっているのだ。
ティアナはもう話すなと諭すが、彼は聞かずに続けた。
「これからタフス全軍がイクサルドに押し寄せる。もともとその予定だったからな。ファブロウェンとの約束は砦と周辺の穀倉地帯のみだったが、タフスは王子との盟約を破り、一気に国を頂くつもりだ」
第一王子はファブロウェンという名らしい。
彼はタフス軍にエイドリックを殺させ、見返りとして自国の領土の一部をタフスに与える約束をしていたようだ。
その申し出にタフスは乗ったが、第一王子は馬鹿だ。タフスはそれ以上の物を望んでイクサルド侵攻を試みたのである。
砦にはロヴァルス将軍がいる。他にも、ティアナが手当てをした兵士たちがたくさん。大丈夫だろうかと一気に不安が押し寄せた。
「俺が止めてやる。止めて欲しければ慈悲を寄こせ」
彼は、死にかけとは思えない強い眼差しをティアナに突き付けた。イクサルドを救いたければ決断しろとティアナに迫る。
イシュトの話が本当なら砦は再びタフス軍に脅かされるのだろう。迎える砦はどうなるのか。ザックスが師と仰ぐロヴァルス将軍が指揮をとり迎え撃つだろうが、数の面でいえばどうなのだろう。砦にティアナはいない、この前みたいな奇跡は起こせないのだ。
タフスとイクサルドは軍事力にどれ程の差があるのだろう。ロヴァルスが連れて来た援軍はそれ程多くはない。どんなに優れた武将でも数に置いて圧倒的に劣ればどうなるのか。優秀なら勝利は望めるのだろうか。
エイドリックに話すべきだと頭では分かっていた。でもはたして彼がイシュトの言葉を信じるかどうかと問われれば信じないと思う。
イシュトの言葉を信じるというのは第一王子を排するに等しくもある。
王位を望まないエイドリックは、兄王子と仲良く国を治める夢を見ている。だからティアナを女神と祭り上げ、女神を手にしながらも兄に忠誠を誓う自らをアピールするために都を目指しているのではないか。
兄に変わって王位を狙うつもりがあるなら、ティアナを女神と崇め、奇跡を起こさせ力を主張すればいい。けれどエイドリックはそうしないだろう。
ティアナを従えて兄王子に膝を折って忠誠を示す。果たして兄王子は弟の意を汲んで、互いに手を取り合ってくれるのだろうか。
弟を罠にはめて毒殺しようとする兄だ。とても信用できない。
「時間がないぞ」
イシュトの命とタフスの軍。どちらも止める時間は残されていないが、ティアナ一人で決断できることではない。
彼を信じて本当にイクサルドのためになるのか。イシュトの言葉が本当に偽りないのか。ティアナの手はカタカタと震えていた。
「イクサルドの……存続を望まないのか?」
掠れて小さく息も絶え絶えになっていく声。けれどティアナの耳には確かな言葉として強烈に押し寄せる。
彼は息を引き取る寸前で、指摘通り差し迫っている。相談する時間なんてなかった。
「わたしは……」
なんのためにここに落ちたのか。
ただの偶然ではない、そう信じていいのだろうか。
この決断がイクサルドに破滅を齎すのではと震えながら、拒絶しようとして出た言葉は男の望む言葉だった。
「殺さないで、絶対に。イクサルドの人を殺さないって約束して」
「いいだろう、殺さないと約束する」
「信用するわよ、あなたを。イシュトという名のあなたを信用するから、絶対に裏切らないで。裏切ったらわたしがあなたを殺すわ」
今から自分がしようとしていることに対して恐怖で涙が込み上げた。僅かに頷いたイシュトの口の端から赤黒い血が溢れ出る。
ああもう本当に時間がない。
なのにどうしてこの男はこんなに堂々としているのか。
「お前次第だ」
込み上げる血で窒息してしまわないよう、イシュトの顔を横に向けると、熱い血がどろりと溢れてティアナの手を濡らした。
これは裏切りになるのだろうか。
エイドリックはよくも裏切ったなとティアナを殺すだろうか。
そもそもこの男はザックスを筆頭に、三十人余りの兵をどう掻い潜るつもりなのだろう。
傷を癒やしても失われた体力がすぐに戻るわけじゃない。死にかけた体はいかに鍛え上げた戦士であろうと相当なダメージを受けているのだ。流れた血も多く、貧血でまともに歩けないはずだ。
この男を助けて本当にいいのかと自問自答しながら治療を始めた。
恐怖で震えが止まらず涙が込み上げ続けた。
刃物がないので体内に溜まった血や水は抜けない。それでも自然に流れ出るように処置しながら内臓を回復させ、両手足の骨を繋いで痛覚の遮断を解いた。
やがてゆっくりと身を起こした男が血濡れた手でティアナに触れ、涙に濡れた頬に自分の血をぬすりつける。
すぐ側で見る灰色の瞳はとても強く、ぎらぎらと獰猛に光っていた。
癒したとはいえ完全ではない。体中に痛みを感じているはずなのに彼は堂々としていた。
「恐ろしい力だな」
掠れた声で囁くと、ティアナの体に腕を回し反転させる。男の腕がティアナの腕を捕らえ、もう片方は首に回されていた。
「なにをっ!?」
やっぱり間違いだったと察した時には、幌の外に連れ出されていた。
死に瀕していたとしても、彼はエイドリックが言うような輩だったのだ。素人だからこそエイドリックやザックスに従うべきだったのに。
自分の馬鹿さ加減に辟易したティアナだったが、幌を出て目にした周囲の光景に驚かされた。
荷台から少し離れた場所では、兵士が入り乱れ剣を交えていたのだ。
恐らく相手はタフスの兵で、イシュトを取り戻しにやって来たと思われた。
ティアナは外ではこんな事態になっているなんて全く気が付かなかった。けれどイシュトには分かっていたのだろう。彼は唖然とするティアナを盾に、引き摺るようにしながら移動して行く。
「嘘付きっ!」
悔しくて魔法を使おうとしたが、「嘘じゃない」と自信満々にイシュトが答えた。
「迎えが来ただけだ、約束は守るさ」
途端、ティアナの体が前に突き飛ばされた。
振り返るとザックスの剣をイシュトが躱して、仲間から投げられた剣を手にする瞬間だった。
タフスの兵が束になってザックスにかかる。その間にイシュトは側にあった馬に飛び乗り、彼を取り返しに来た兵もそれに続いた。
エイドリックの声が上がるが、こちらの馬たちは何やら細工をされていたようで騎乗を嫌がり上手く追えない。
戸惑う味方たちを背に、エイドリックが怒りの形相でティアナに駆け寄って腕を引っ掴むと、叩きつけるように荷台へと追いこんだ。
「何をしたっ!」
怒声が上がり、エイドリックの剣が荷台を叩く。二の腕を折れそうなほど強く掴まれて、あまりの痛みに身を捻った。
「タフスの軍勢が攻め込んで来るんです、それを止めてくれるというから!」
「逆の立場なら私とてそなたを騙す!」
「本当だったらどうするんですか!」
「奴を逃がす権限が貴様にあるとでも!?」
胸倉を掴まれ放り投げられ、その先にいたザックスがティアナを受け止めた。エイドリックの怒りは相当なものだ。
「奴の代わりに放り込んでおけっ!」
ティアナに背を向けたエイドリックは、怒り顕に逃げたイシュトを追うよう命令している。
後れを取った今となっては捕まえるのは無理でも、容易く取り逃がしてしまった現状を受け入れるわけにはいかないのだ。
ティアナはエイドリックの罵声を耳にしながら、仕出かした事の重大さを目の当たりにさせられていた。
ザックスの腕がティアナを掴んでいる。拘束されてはいないが、エイドリックの命令に従って荷台に上げられた。
彼も怒っているのだろうと思うと、まともに顔が見れない。
それでもエイドリックの右腕であるザックスには話しておくべきと、勇気を振り絞って呼び止める。
「エイドリック様に毒が盛られたのも、それに合わせてタフスが攻め込んだのも全てファブロウェン様の手引きだそうです。彼はその証拠をくれると約束してくれました!」
ティアナの訴えにザックスは一拍置いた後、面倒そうに溜息を落とした。
「殿下も分かっておられる。それが現実であると認めたくないんだ」
エイドリックが望むのはあくまでも兄王子との和解だ。証拠探しをして兄を地に落としたい訳ではない。
けれどエイドリックを慕い集まった兵の命を預かる身として、兄王子を信じて和解するか、排するかの瀬戸際で揺れているのだと、ザックスが説明してくれた。
ファブロウェンを排するにしても有力な協力者は少ない。欲深い輩はエイドリックよりファブロウェンの方が扱いやすく、己の私服を肥やすにはうってつけなのだ。
そこに現れたのがティアナだ。ティアナの持つ力はこの世界には存在しない神の技である。それを利用し、兄王子との関係を良好な方向へ持って行きたいとエイドリックは望んでいた。希望を抱いているといってもいいのかも知れない。
エイドリックの判断一つで多くの人の未来が変わる。彼の背負うものの大きさを理解しきれないが、魔法のない世界で命を預かるというのは並大抵の覚悟ではないだろう。
エイドリックは、簡単な気持ちで人の命を預かる人ではないと思う。そしてティアナも、身の振り方を始め、この先の未来をエイドリックに託している状況だ。
こうなってしまったけれど、自己判断でイシュトを逃がしたのは間違いだったと思いたくない。
いくらエイドリックの命令でも、目の前で消えて行く命を何もせずに見送るなんて無理だと悟った。あの時みたいに理由をつけて見捨てるなんて二度としない。
そのためにこの世界に留まると、後悔しないと決めて舞い戻って来たのだ。
ただこれが原因で起きる不祥事にティアナは責任を持たなければならないだろう。
それがエイドリックに逆らったことへの報いだ。
イシュトのことは、騙されたのかもしれないが、希望として残しておきたい気持ちもある。
※
一方のエイドリックは、ティアナがこちらの世界に留まった経緯を知っているので、もしかしたらこういう状況になるのではと予想はしていた。
なのにやりたいようにやらせてしまったのは自分の失敗だ。
その失敗に苛立ち、怒りの矛先をか弱い女性に向けてしまったことで更に怒りが増している状態だった。
八つ当たりなんて、自分はいったい何をしているんだと苛立たしくて頭を抱えたが、タフスの急襲を受けてイシュトを取り逃がしてから幾日か過ぎても、ティアナと視線を合わせることができないでいた。
無抵抗な彼女に暴力を揮ったとの認識はあるが、ティアナがタフスの王子に心を開いたような気がして、腹立たしくてならなかったのだ。
ティアナはエイドリックのところに、エイドリックに向かって落ちてきたのだ。まさに天の采配、エイドリックの女神なのだ。
もちろん、あの娘を女神だなんて本気では思っていない。
だた不思議な力はこの目で見て、身を持って経験したので信じている。
ザックスは、自分たちには理解できない何かしらの治療方法があるのだと思っているようだが、エイドリックにはそういった細かいことはどうでもよくて、魔法という、不可思議な現象が味方についている事実だけで十分だった。
魔法を解明する時間も余裕もないことが原因でもある。ただ、この力を悪しきものとして見られてはいけないので、軍事利用は控えるべきだと思っている。
だから決してティアナを厭う気持ちはない。腹を立てているのは、結果的に攻められてイシュトに逃げられたからだ。瀕死の男に上手いことやられて悔しくて、命令に背いたのをいいことにティアナに八つ当たりしてしまったのだ。
威圧的で自分勝手な態度を謝罪しなければと思いはしたが、今の感情では無理だった。
暫く距離を取って冷静になろうと、エイドリックはティアナの視線を背中に感じながらも、なんとも言えない情けない気持ちも含めて、ティアナを無視し続けていた。