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天使が落ちた世界  作者: momo
本編
15/42

その15 お前はこの世界に必要だから呼ばれたんだ




 砦を離れる一行は三十余りの人員で構成された。

 ティアナが面識のあるのはエイドリックとザックスだけで、ラシードやイリスは居残りとなった。

 

 誰もが青毛の軍馬に跨る中、ティアナは軍馬よりも小さな芦毛の馬に跨っている。

 くじけたティアナを逃がすのにザックスが与えてくれたあの馬だ。

 あの時は裸馬に跨ったが、今回はちゃんと鞍が取り付けられていて騎乗しやすかった。

 馬の鬣に顔を埋め決断した日を思い出すと望郷への念が湧き起こる。

 それをティアナは首を振って打ち消すと、前を行くザックスの大きな後ろ姿に視線を移した。


 あの日ザックスがティアナを逃がしてくれたのは、突発的な決断だった筈だ。

 エイドリックに何を言われていたかは知らないが、誰よりもティアナを疑っていたザックスが、貴重な馬まで与えて逃がしてくれたのはなぜなのだろう。

 命のやり取りをする場で邪魔になったのかもしれないが、恐らくそうではないだろう。

 恐らくあの時のザックスは、無様に嘔吐くティアナを哀れに感じたのだ。

 あのまま逃げていたら、ザックスはエイドリックの信用を失っていたのではないだろうか。

 確かにあの時のティアナは利用価値のない存在だったが、逃がすというザックスの勝手な判断は、上下社会では許されないはずだ。

 あれほど慎重になっていたザックスがどうしてなのだろう。ティアナは前を行くザックスの大きな背中を見つめながら考えていた。


 彼はとても大きくて雄々しい。あの腕で多くの敵をなぎ倒して、迷わず敵陣に突き進む勇猛果敢な戦士。

 初めて会った時は彼の隻眼に恐怖を覚えた。

 今でこそ両目の視力は回復して隻眼ではなくなったが、あの姿で斧槍を手に戦場に立てば圧倒的な威圧感を放っていただろう。

 けれど彼の根底には優しさがある。

 ティアナは首に下げた首飾りを服の上から握り締めた。


 ティアナを生かすために、彼が与えてくれた首飾り。異国の言葉が記されたそれを返そうとしたが、何かあった時のためにと返却を断られた。

 ティアナはザックスの身寄りとして生きる場所を与えられている。ティアナが失ったものの大きさを理解して、命ある限り守ると言ってくれた人。

 ラシードもそうだ、こんな自分を守ると言って笑顔を向けてくれた。だからこそ彼らを裏切るわけにはいかない。


 ティアナはザックスの大きな背から、馬に引かれる荷台へと視線を移した。

 幌で覆われているので中の様子は分からないが、女子供も殺す悪鬼と呼ばれる、タフスの王子が横たわっている荷台だ。


 きっと彼にも守るべき物や人がいる筈だ、非道にならねばやっていけない部分もあるだろう。

 けれどティアナは、イシュトというタフスの王子の何一つも知らない。

 勝手をしてティアナを信頼し、守るとまで言ってくれた人たちを裏切るような真似はしていけないのだと、やりきれない思いを胸に馬上で溜息を落とした。


 同行する男達はティアナにあまり話しかけない。警戒されているのではなく、エイドリックがティアナを神聖なものとして印象付けてしまったせいだ。

 この世界にはない、魔法という奇跡を起こせるという点においては確かにその通りなのだが、神様の様に祭り上げられるのは肩身が狭かった。


 捕虜となり、大怪我を負っているせいで横たわったままのイシュトは、痛みを遮断したお陰で随分楽になったようだ。

 体力が落ち切っているのはしょうがないが、ちゃんと意識もある。

 人間が痛みに鈍感になるのはとても危険なので、治療はできなくても状態は常に把握するようにしていた。

 側にいる許可を得たティアナは、ここにいる誰よりも長くイシュトの側で過ごすようになった。


 彼の怪我は本当に酷くて、いつ死んでもおかしくない状態だった。

 魔法による治療を禁止されたので、包帯を変える以外にできることはない。

 飢えないよう、嚥下しやすくドロドロにしたスープや水を口に運んでやる。

 イシュトは無言のまま、灰色の目でティアナを睨んでいたが、水や食事を拒否することはなかった。


 口の端から零れた水を拭ってやると、イシュトの左の指先が動くのが見えた。右側に座っていたティアナは体を伸ばして彼の指に触れる。


「感覚はありますか?」


 痛みを遮断しているし、この怪我では指先の感覚がないことは分かっていたが、それでも触りながら問いかけるが返事はない。

 ティアナは元の体勢に戻ると、匙でスープをすくって口元に運んでやった。

 素直に開かれた口に匙を入れ、ゆっくり流し込むと、嚥下した男が初めて声を発した。


「お前が……」


 小さな掠れた声が洩れ、ティアナは聞き取ろうと身を屈める。


「あの風は、お前のせいだな」


 苦しそうにしながらも、ようやく彼が漏らした言葉。

 肋骨が折れるだけでなくずれてもいるので、痛みを感じずとも苦しくて当たり前だ。まともに息ができないのだから。

 本当は話すのはよくないが、ティアナは彼が知りたいだろうことに、偽りなく「そうてす」と答えた。


「ロブハートも、お前の仕業か?」 

「そうです。あなたがこうしてここにいるのも、全部わたしのせいです」


 本来いるべきでない人間がこの世界に落ちたせいで、彼らの未来が大きく動いた。

 本当ならこうして横たわっているのはイシュトではなく、エイドリックやザックスだったかもしれないし、誰も彼もが戦場で息絶えていたかもしれない。全てを狂わせたのはティアナだ。


「お前が本当に女神なら、俺にも祝福とやらを齎してみろ」


 女神の祝福ーー。

 跪いたエイドリックを見たのだろう。

 イシュトの灰色の目がティアナを睨んで離さない。

 彼にとってティアナは間違いなく敵で、憎い存在だ。なのに彼の眼差しは強いものの、ティアナへの憎悪は宿っていない。

 ティアナは視線を絡めたまま、申し訳ないと思いつつ首を横に振った。


「ごめんなさい、できません。わたしは女神ではなく、エイドリック様の手の内にあるのです」

「違うな」


 塞がりかけた傷を引き攣らせイシュトは口角を上げた。


「そう思い込んでいるだけだ。弱みでも握られているのか?」

「いいえ、弱みなんて握られていません」


 ただ、救えた命を見捨てた罪悪感で一杯なのだ。

 自分を許せないのは、彼らに重宝されて役立った今もそう。生きるために従っているだけの狡猾な自分が嫌でたまらない。


「あなたを救えば争いが大きくなる。またたくさんの血が流れます。わたしはそれが嫌なんです」

「俺は、不要な血は流さん」

「女子供にも容赦がないと聞きました」

「必要だったからだ」


 ティアナは目を閉じるとイシュトの言葉を否定して首を振った。

 必要だったからといって子供の命を奪うのか。力のない子供は保護する一番の対象なのに、どんな理由があっても納得できない。

 殺していい子供なんているはずがない。

 ティアナは息を吐き目を開けると匙を差し出した。


「食べて。どれだけ鍛えているか知りませんが、この状態ではいつ死んでもおかしくないんです」

「俺は戻らなければならない」

「わたしだって!」


 帰りたかったと匙を握り締める。手が震えてしまい、碗と匙を置いて立ちあがった。


「ごめんなさい、また後で」


 幌つきの荷台を跳び出すと野営の場所から離れる。何があったのだろうと、荷台の中の様子を窺う者が視界の端に入り込んだが構わず逃げた。


 野営地から離れて、焚火の灯りが見えるぎりぎりの場所まで走ると、その場に蹲って膝を抱えた。

 戻らなければならないと語るイシュトには守るべきものがあるのだろう。

 それはティアナだってそうだ。

 幼い頃に別れたきりの両親と弟妹たち。魔法を使えない者は辺境に追いやられ、そこで精一杯生きていくしかないが、魔力が豊かなティアナがいたからこそ、貧しくても希望を持って生活できていた部分もあったのだ。

 ティアナが学費や生活費その他諸々を支えていた。

 両親だけでなく、家族みんなで土地を耕し細々と暮らしいている。だからティアナがいなくても死にはしない。ちゃんと生きていける。

 けれど学費は滞り、学校は退学させられるだろう。学んでいい職につき、家族全員が町で豊かに暮らす夢は絶たれてしまう。

 食べ物だってお腹いっぱいというわけにはいかない。貧しくても温かな家庭だったが、一度得たものが突然失われるのは辛いものだ。


「きっとお金に目が眩んだのがいけなかったのね」


 養子になったと知った時に拒絶しなかった。お給料のことばかり考えて、側室にならない努力ばかりしていた。やりがいのある仕事を捨ててお金を選んだ。

 

「その結果がこれなんて……」

「何の話だ?」


 振り返るとザックスがティアナを見下ろしていた。気配なくてびっくりしすぎて、目がまんまるになる。

 どうやら独り言を聞かれていたらしく、ティアナは顔を顰めて闇に視線を向けた。


「わたしは医師として辺境を渡り歩くのが性に合ってた、監査部になんてちっとも興味なかったよにって話です。貰えるお給金が法外で、家族の暮らしがよくなると考えたらいい話だなって思えてしまって」

「知らぬ間に領主の養子になっていた話か」


 ティアナの事情は何度もしつこく尋問したザックスに筒抜けだ。彼はティアナの隣に腰を下ろした。


「家族を養うというのはそういうものだろう」

 

 望むままの仕事ができるわけじゃない。ティアナだって最初は口減らしの意味で、辺境を訪れた医師に自ら弟子入りしたようなものなのだ。

 それが性に合っていたのは運がよかっただけで、もしかしたらもっと別の特性があって、財が豊かな家だったら、医師以外の職についた未来があったたかもしれない。


「それでもあの時きちんと抗議して、養子なんてものにならなければと思わずにはいられない」


 魔力の高さから、どのみちいつかは皇太子の側室候補として見出されることになったのだとしても、領主の思惑を突っぱねていればこんな事にはならなかった。今更だがそんな思いが湧きおこる。

 けれどそうなると、隣に腰を下ろしたザックスとの出会いはなかった。

 彼らはどこにあるのか分からない世界の、国の、一国民。ヴァファルで生活していた時は想像すらしなかった彼らなのに、今はティアナの直ぐ側にいる。


「ザックスさんには待っている人がいますか?」


 彼のことはラシードから聞いたけれど、それ以外はまったく知らない。ここに落ちてからずっと側にいる男に顔を向けれると、彼は前を向いたままふっと笑いを漏らした。

 それがあまりにも自然で、どことなく悲しさを孕んでいて。厳しいだけじゃないんだとはっとさせられた。


「俺が生まれ育った村は、戦火に焼かれてとっくの昔に消失した。親兄弟はそれで命を落としている。その時、十歳そこそこだった俺を拾ってくれたのがロヴァルス将軍だ。五年前に妻を得たが彼女ももういない。天涯孤独というやつだ」


 彼の横顔から悲痛さは感じない。けれど漏らした笑いにはどういう意味があったのだろう。

 天涯孤独、誰一人として家族はいないザックスと、二度と家族のもとに帰れないティアナ。

 どちらが不幸かなんて比べようがないが、両親や兄弟、そして妻を失った彼の人生はいつも戦いと隣合わせだった。


「お前はこの世界に必要だから呼ばれたんだ」


 ふと呟かれた言葉にティアナは無言でザックスの横顔を見つめる。


「お前の言う、異なる世界に飛ばされた者は、その世界に必要だから呼ばれたのではないのか。そうして求められる力を使って世界に定着した。無事に戻った奴らは、必要とされながらも力を使わず放置し、失格の烙印を押されたからだとは考えられないか?」


 隣に座るザックスがティアナに視線を移す。闇の中でも緑に輝く瞳はまるで宝石のようだった。


「俺達にとってお前は必要な存在だったし、これからもそうだ。失ったものはどうしようもないが、お前が手を尽くして救った命を誇れ。失った命を嘆くばかりではなく、ちゃんと周りを見てみろ」


 促されて、明かりの方へと振り返った。

 そこにはティアナが助けた人たちがいる。ティアナの手当てを受けていないのは、幌の中に横たわるタフスの王子だけだ。


「戦に犠牲はつきものだ。どこかで線引きしなければとてもじゃないがやっていけない。俺はお前が想像する以上の命をこの世から消し去って来たが、後悔はしていない。確かにお前がもっと早くその力を使えば助かった命はあった。だが決断して多くの命を救うために、お前にはどうしても必要な時間だったのだろう」


 ティアナがいなければザックスも、エイドリックも、その他のみんなの命がとうに果てていた。

 確かにそれはそうだろう。

 けれど割り切れない。平和な世界で生きていただけに、人の死はティアナに大きくのしかかる。


 日に日にやつれて、イシュトを看病するようになってからは如実になっていた。目の前の怪我人を手当てできない。そのストレスはティアナに重く伸し掛かっている。

 戦も知らない平和な世界から落ちて来たのだ。たった一人で異なる世界に取り残された気持ちなんて、本当の意味では誰にも分かってもらえない。

 けれどティアナはザックスの言葉に黙って耳を傾け続けた。

 

「離れていようとお前の家族はちゃんと生きている。だからいいだろうとは言わない。泣きたければ泣け。望郷への想いを閉ざす必要はない。堪えてばかりいてはいつか爆発する。悪い方向に向かう前に吐露してしまえ」


 そう促すザックスに、ティアナは顔をくしゃりと歪めた。


「泣いたって楽にならないわ」

「それでも泣いてみろ」


 泣いても楽になどなれない。なのにティアナの瞳からはぽろぽろと涙が零れ落ちた。


「ずっと会っていなかったから会えなくても平気なの。それよりもわたしがいなくなったせいで、みんなの生活が変わってしまうのが心配なんです」


 会えなくても同じ大地にさえいれば不安はなかった。子供の頃は家が恋しくて泣くことがあったけれど、大人になるにつれ孤独にも慣れたし、医師という立派な仕事もあった。

 それが巡り巡って異界の地に降り立つなんて誰が想像しただろう。

 もっと慎重になっていたら事故を避けられ、今もヴァファルの地で仕事をしていたに違いないのに。


 必要だから呼ばれたと、確かにそうかもしれない。けれどそれで納得できるほどティアナはこの世界に馴染めていないのだ。


 突然いなくなってしまったティアナも、不幸な事故として書類一枚に片付けられてしまうのだろう。なんと呆気ない最後だろうか。


 膝を抱えて涙するティアナの隣には、ザックスが腰を下ろしている。彼はもう何も語らなかった。

 何をするでもなくただじっと、黙って見守ってくれている彼の隣で、ティアナは止まらない涙をはらはらと溢し続けていた。 

 





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