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天使が落ちた世界  作者: momo
本編
13/42

その13 奇跡を起こしてやってくれ。死にそうなんだ




 地面が揺れ、足音が響く。

 壁のごとき大軍がゆっくりと、土埃を上げながらこちらに向かって押し寄せて来ていた。

 やがてティアナの目にも捉えられる距離まで近付く。タフス軍の先頭には、軍馬に跨る指揮官らしき者の姿があった。


 先頭の男が止まってゆっくりと片腕を上げれば、それを合図に壁が吠え、武器を手にティアナに向かって押し寄せて来た。


 台地が轟き空気が振動を伝える。

 四方八方から襲う圧迫感に怯んだティアナは、歩くのを止めて耳を塞いだ。

 重そうな武器を手にした敵が一気に押し寄せる。

 地を蹴り、吠え、鬼の形相の彼らは、ティアナを断罪しに地獄から這い上がって来たに違いない。


 恐怖で頭が空っぽになる。

 襲いくる鋭い剣先に声にならない悲鳴を上げると同時に、目の前の男が血飛沫を上げ真っ二つに分かれた。


「ティアナ・レドローク!」


 怒声が耳に飛び込んできた。

 弾かれたように見上げると、まるで演武のように斧槍を操るザックスがいる。

 軍勢を前に怯むことなく、襲い来る敵を次々となぎ倒していく。

 巨大な軍馬を巧みに操り、ティアナを守りながら斧槍を踊らせる彼は、もう一度ティアナの名を叫んだ。


 ティアナは両足を大地に踏ん張り敵に向き直る。熱い飛沫が容赦なく降り注ぐ中でティアナの瞳孔は開きっぱなしだ。

 怖い、恐ろしい。けれど殺さねば殺される。

 綺麗事なんて何一つ通じない世界で、血の雨を浴びながら、求められるままに前だけを見据えた。


 それは一瞬の出来事。

 

 ティアナを軸として扇状に、地面を抉る暴風がおこる。

 盛り上がる土と風を受けて弾け飛ぶ敵の兵士たち。

 イクサルド陣営に足を踏み入れていたタフスの兵も、轟音と共に起きた異常な現象に後ろを振り向き、驚いて動きを止めた。

 後方に続くはずの味方が瞬く間に風に呑まれ散っていくのだ、驚くなという方が無理な話である。

 対してイクサルド陣営は無風といってもいい。

 なのに攻め込むタフスは風にあおられ、地面はひっくり返って行く手を阻んでいた。

 神が起こした奇跡がまるでイクサルドを支援しているようではないか。


 これでタフスが失った兵の数はわずか数百、後にはまだ数千の兵が残っている。

 けれど彼らはその一歩を躊躇い、その間に次の風がタフスを襲った。

 二度目に襲った風の後、イクサルド陣営の先頭を切って軍馬を走らせる男の存在に、タフスを指揮する将は慄く。なぜなら視力を失って動けない筈の男が斧槍を手に攻め込んで来るのだ。

 彼の名はイクサルドだけではなくタフスにも、大陸全土にさえも響き渡っていた。

 使い物にならぬと齎された情報は偽りであったのかと、驚く将はそれでも前へと駆ける。

 タフスにも世界に名を馳せる猛将はいる。実力と数では何倍も上だという、驕りと誇りを胸に。

 しかし数で勝っていたタフスであったが、奇怪な自然現象と復活した斧槍を操る男たちのせいで想像を遥かに超える犠牲を伴い、あえなく後退を強いられることとなったのである。



 *


 奇跡の風を二度起こしたティアナが倒れ、地面にぶつかる寸前、ザックスはティアナの体を自分の乗る軍馬に持ち上げた。

 気絶はしていないが目の焦点は定まらず、漆黒の瞳は大きく見開かれたままだ。

 襟首を掴んで引き上げたが、返り血で真っ赤に染まる彼女は身動き一つしない。茫然自失状態だ。その様にザックスは、ティアナが普通の娘なのだと改めて理解した。


 戻ってきた彼女は医師というだけあって、血だらけの怪我人を前にしても悲鳴一つ上げなかったし、恐れもしなかった。

 どうやったのか分からないが、傷を不思議な力で治療していく様は頼もしく、手足の欠損にすら眉ひとつ動かさずに対処してみせた。

 軍医も、そしてザックス自身も、死の傷すら瞬時に癒す治療法を知りたかったが、彼女はかたくなに魔法だという。自分は魔法使いなのだと。

 異なる世界から来たというのは本当なのかも知れないが、完全に信じたわけではなかった。それでもヴァファルという、どこか知らないところの出身なのは事実だろう。そう告げるティアナの目に嘘の影はまったくなかった。

 不思議な術を使うのは間違いない。それを彼女の世界では魔法と表現するのだ。ならばもうそれでいい。見えない目が見えるようになったザックスは疑うことをやめた。

 

 その怪我人を前に怯まぬ勇猛な姿は、彼女が医師として活動した経験があるからに過ぎなかっただけなのだ。

 前線に立たされたティアナの緊張はザックスに伝わっていた。

 彼女がどこまでできるか分からなかったが、やれるとも信じていた。

 何を根拠にと思うが、やはりあのような奇跡を見せつけられた後で、柄にもなく神の御使いを手に入れたような気分になっていたのかもしれない。

 不可思議な力を持っていようとただの人、一人の娘だというのを失念していた訳ではなかった。

 昨夜の涙は失った命への後悔だけではなく、これから待ち受ける未来への恐怖も垣間見えていた。

 ザックスはそれを汲んでやれなかった自身を叱咤しながら、斧槍を揮い、血飛沫を浴びながら敵兵を地面に沈めて行く。

 そこへようやく駆けつけたイリスに向かってティアナの体を投げ渡した。


「ルストのところに置いてこい!」


 言い捨てるなり驚くイリスを残して一気に駆け出した。

 数で圧倒的に負けているのだ、怯んだタフスを徹底的に叩く機会を逃す訳にはいかない。ティアナが起こした不思議な現象で、隊列に均衡、何もかもが崩れた敵を一気に蹴散らす。

 後ろからは斧槍を手に大きな三人の男が後を追ってきている。先陣を任された四人でどこまでやれるか分からないが妙な自信だけはあった。

 負ける気はしない。

 抉れた地面を軍馬の蹄が蹴った。


 *


 頬を打つ刺激で我に返ると、軍医のルストが険しい表情でティアナを覗き込んでいた。

 どうやら頬を叩かれていたらしく、ティアナが正気の戻るとほっとしたように彼は表情を緩めた。


「悪いが嬢ちゃん、こいつらに奇跡を起こしてやってくれ。死にそうなんだ」

「えっ? あ、はいっ!」


 慌てて自分の周りを見渡せば兵士が数人横たわっていた。

 声が出せない者ばかりで痙攣している者もいる。ティアナは慌てて彼らの息を確認した。


 いつの間に戻って来たのだろう。

 最前線にいた筈なのに、気付いたら砦の内側で地面に座り込んでいた。

 周りは怪我人ばかりで瞬きする間にも、新たな負傷者が運ばれてくる。

 こちらでは軍医一人で手当てに奔走しているようで、ルストはティアナを正気に戻した後はすぐに怪我人の手当てに向かってしまった。


 ティアナの周りは優先順位のつけようがない重症者ばかりだった。

 ルストの言うように死にかけの状態で、考える間もなく彼らの手当てに明け暮れる。

 怪我を癒やされた重傷者らは、ほんの少し休むと再び戦場に向かって行った。見送るティアナは、自分はいったい何をしているのだろうと思う。

 

 やがてルストに押し付けられる怪我人が軽傷者に変わった頃、周囲が一際騒がしくなった。

 歓声の中から聞こえた言葉で、タフスの軍勢が逃げ帰ったのだと知ることができたティアナは、全員の手当てを終えると、疲れた体でふらふらと様子を見に向かった。


 ティアナに気付いた兵士たちが自ずと道を開ける。そのまま進むと、ロイズとアロートの二人に拘束される男が目に入った。

 左右を大きな二人に囲まれて小さく見えるが決してそうではない。しっかりとした体つきの青年だが、酷い怪我をして引きずられている。意識がないのだろうか? すぐに手当てをしなければと走り出したティアナだったが腕を掴まれ引き止められた。


 振り返るとエイドリックが碧い真剣な目でティアナを見下ろしていた。

 怪我人の手当てをと言おうとしたと同時に、エイドリックがティアナの手を掴んだまま、その場に片膝を付いた。

 周囲からはどよめきが上がる。


「女神の祝福に感謝いたします」


 優雅に首を垂れたエイドリックはティアナの手に口付を落とす。

 それを皮切りに、周囲の兵士らたちがいっせいに膝を降って首を垂れた。

 その様にティアナは血の気が引いた。


 エイドリックはティアナを本気で神聖なものとして扱おうとしている。その方が彼にとっても都合がいいのだろう。

 なんとなく分かっていたが、ただの人でしかないのにたいそうな役目を押し付けられてとても恐ろしい。

 違うと声を大にして否定し、手を振りほどきたかった。

 けれど見知らぬ世界で異質な自分が生きていくには、エイドリックのような権力者の後ろ盾が必要だ。

 ただ治癒の力があるだけならいざ知らず、本来なら農耕に使っていた力の戦争への転用が可能だと分かってしまったし、多くの人の前で実行したのだ。この力がイクサルドではなく、敵対するタフスに渡るとなったらどうなるのか。きっと殺される。

 その危険性に思い至り、ティアナは取られた手を振り解くことができなくなった。

 エイドリックの頭を見下ろしたまま戸惑っていると、彼がようやく顔を上げる。その顔は膝をつく前とは打って変わって、楽しそうに口角が上がっていた。

 まるで悪戯でもしそうな雰囲気だ。


「奇跡の力に感謝を」


 エイドリックはティアナに熱い眼差しを送りながら、まるで愛しい女性にするかに、ティアナの指先の一つ一つに唇を押し当てた。

 心からそうしているのではないと分かっていても赤面してしまう。

 手を引こうとしたが、エイドリックの力がそれを許してくれなかった。


 助けを求めるように周囲を見やるとザックスと目が合う。

 彼は跪いていなかったし、敵兵を拘束している者たちも逃がさぬように立っているが、誰も彼もがティアナに注目している。ロイズとアロートに拘束された敵兵は意識があったようだ。血と泥で汚れてぼろぼろになっている彼は、灰色の目でティアナを一瞥した。


「まだ怪我をしている人がいます。彼らにも手当てを――」


 やっとの思いで告げると、エイドリックがようやく立ち上がってくれ、掴みどころのない笑顔を向けている。


「あれらはルストに任せる。そなたはよくやってくれた。暫く休んでくれ」 


 エイドリックがザックスに目くばせすれば、心得たとばかりに頷いた。

 この世界に落ちた時に似た不安がティアナを支配し始める。

 与えられた部屋に押し込まれると、膝を抱えて冷たい石畳の床に蹲った。生き延びたとほっとするより、漠然とした不安の方が大きく圧し掛かっていた。


 かなりの時間が経過して、扉が叩かれてはっとする。

 いつの間にか膝を抱えたまま眠っていたようだ。

 遠慮がちにティアナを呼ぶイリスの声。扉を開くと、心配そうな灰色の目がティアナを窺っていた。


「風呂の用意ができたんで呼びにきたんですけど……大丈夫ですか?」


 同じ視線の高さにあるイリスの瞳に、彼も同じ灰色だったなと、拘束されていた敵国の兵士を思い出した。

 

「あの、天使様?」

「ティアナと呼んでくれますか?」

「え、でも……」


 うろたえる少年の様子にティアナは眉を顰めた。

 エイドリックの行動のせいで、彼らの中でティアナという人間はとても神聖なものになってしまったのかもしれない。


「名前を呼んでもらえると嬉しいです。ザックスさんもお前かティアナ・レドロークと呼ぶわ」

「でも天使様にそんな……」

「ティアナさんでいいから。わたしもあなたをイリス君と呼ばせてもらうわね」


 年上を相手に呼び捨ては難しいだろうと砕けた口調で微笑んで見せれば、イリスはうろたえ、視線を彷徨わせた後にようやく頷いてくれた。


「それでええっと、お風呂ね。こんなだから助かる」


 全身が渇いた人の血で汚れ、鉄臭さと生臭さでとても不快だった。流石に長く医師をしてきたが、自分自身が全身血まみれなんて経験は初めてだ。

 ティアナの惨状に我に返ったイリスは、恐縮しながら風呂場に案内してくれた。


 ゆっくりするようにと送り出された浴場には、男所帯が大勢で入浴するため大きな浴槽に湯がたっぷりと沸かされていた。

 水が貴重なヴァファルでは全身を湯船に沈める経験がなかったので驚いたが、こちらではそれが普通らしい。

 ティアナが一番風呂で、そのあと砦の兵士たちが順番で使用するという。

 広い浴室で石鹼を使って綺麗に体を洗い、こびりついた血を落とした後、命をかけて戦場に立った兵士を差し置いて一番に湯船につかるなんてとてもできなくて、かけ湯だけ頂戴して早々に済ませた。

 外に出ると見張りとして立っているイリスが数人の兵士に囲まれ何やら騒いでいたが、ティアナに気が付くと、何やら失敗した様な顔をしてそそくさといなくなってしまった。


「早かったんですね?」

「いつもこんな感じなの。どうもありがとう」


 この後は部屋に送り届けられるのだと思っていたら違った。

 どうも砦の様子がおかしい。

 勝利に湧いているからだと思ったが、些か様子が違うと感じ辺りを見回していると、ロヴァルス将軍率いる軍が到着したのだと教えてくれた。


「ロヴァルスって確かザックスさんの……」

「ご存知でしたか。副官の師匠ってことですが、見た目がちょっと怖いんで俺は苦手なんです」


 イーク・ロヴァルス。ザックスがティアナを逃がしてくた時、援軍にぶつかったら彼に助けを求めろと教えてくれた人だ。

 なるほど、彼は将軍だったのか。

 ザックスの師匠で国境に向け援軍を指揮する将軍だ、エイドリックを支持する信頼できる人なのだろう。

 将軍と名を打つ人がエイドリック側に付いているとなると、兄王子の妬みは更に深まるのではないだろうか。


 ティアナは身を正した。

 そんな人がいる場所に連れて行かれるのだ、やはりエイドリックはティアナを利用すると決めたらしい。

 この世界で生きて行くティアナも本気で腹を括らねばならない。


 戻ってきたのは後悔していないが、敷かれた道に怖じ気づきそうになる。前に進むしかないけれど、立ち止る時間が欲しかった。



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