その12 命が続く限りお前を守ろう
「何やってんの、馬鹿じゃないのか!」
耳元で浴びせられた罵声にびくりと体が弾ける。
壁に縫い止めるように拘束された両腕と、耳元で盛大に落とされた溜息。
償いのために抱かれる覚悟したのに、止めたのは言い出したラシード本人だった。
ラシードはティアナの両腕を壁に押し付け、覆いかぶさるようにしたまま動かない。
深呼吸して気持ちを落ち着けているようで、恐る恐る横目で見やると、彼はきつく目を閉じていた。
「だって……ラシードさんが」
「それが馬鹿だって言ってるんだよ!」
もう一度深い溜息を落としたラシードが、ゆっくりと目を開いてティアナを横目で見る。至近距離で互いが横目で見詰め合っていると、ラシードは再度溜息を落としてからティアナの腕を解放した。
「仲間を失ったのは悲しいけど、それを天使ちゃんのせいだなんてこれっぽっちも思ってやしないよ」
ラシードは地面に投げ出された上着を手に取り、それをティアナの袖に通して着せてくれる。足元に落ちたズボンもずり上げると、器用に紐を結んで整えてくれた。
唖然としたティアナは、黙って彼の奉仕を受ける。
「そんなの気にしてたらキリがない。こんな場所で馬鹿正直に弱みを見せてたらつけ込まれて大変な目にあうだけだよ。それとも君は贖罪だからって砦の男全員と寝るつもり? 冗談じゃないよ」
ティアナは碧い瞳で睨みつけられた。
ラシードは怒っているようにみえてそうではないようだ。
あくまでも心配している様に、ティアナは戸惑いを覚えた。
「魔法云々は副官から聞いてる。本当に帰れないの?」
帰れないのは間違いない、異世界に渡りヴァファルに戻れたのは魔法を使わなかった者達だけだ。唖然としたまま頷いたティアナの頭に、ラシードの手がぽんと乗せられた。
見下ろすその瞳は憐れみを孕んでいる。
「必至だったよね、知らない世界に落ちて。いつ帰れるか分からないのに待つのは辛かったろう。あのまま僕たちを見捨てても誰も文句なんて言わないのに、君は戻ってきてくれた。戻れば酷い扱いを受けるかもしれないのに、君は戻って、沢山の人間を手当てしてくれたんだ。ありがとう。本当にありがとう」
頭を撫でられて涙が零れそうになる。
違うのだ。自分のために戻っただけで、決してラシードや傷を負った彼らのためじゃない。
ただ後悔するから。どちらを選んでも後悔する。本当は帰りたかった。
戻って来たのは自分のためだ。彼らのためじゃなくて、あれだけ大勢の人間を見殺しにする恐怖に耐えられなかっただけなのだ。
「怪我をしたままの方が、戦場に立って死なずにすんでよかったかもしれない」
ティアナが手当てしたせいで、彼らは再び戦場に立たなければならない。
今度こそ死ぬかもしれない戦いに彼らを追いやるのはティアナだ。
一度経験した死の恐怖を再び味わわせる。
「動けずに敗戦を受け入れるより戦で散る方がましだ。それに数で劣っていても勝機はあるしね」
ティアナのお陰でエイドリックとザックスは回復し、多くの怪我人も癒やされた。戦力として必要な人材が揃っているとラシードは告げる。
「君が来る前にタフスの急襲を受けた。その時はエイドリック殿下とザックスの力は少しも発揮されなかったんだ。毒にやられた兵士も大勢いた。数で劣っても、あの時と今とでは雲泥の差だよ。しかもこっちには天使ちゃんがいる。負け戦と自棄になる兵士は一人もいないよ」
怪我をしても、傷ついても、瀕死の状態であってさえ、ティアナが治療を施して、再び死地へと送り込むのだ。
まるで永遠に繰り返す、地獄の拷問のようではないか。
「そんな顔しないでよ。こっちが感謝してるって気持ちを少しも分かっていないみたいだったし、避けられたのもあってちょっと意地悪したらさ。本気にして脱ぎだすんだもん。本当びっくりしたよ」
ラシードは「本当にびっくりした」と、額の汗をわざとらしく拭ってみせる。
本気でなかった証拠とでも言うべきなのか、建物の角に目を向けたラシードに釣られて、ティアナも視線を向ける。
そこにはザックスが気配もなく佇んでいた。
やり取りを見られたと気付いて頬がかっと熱くなる。
いつからそこにいたのだろう。
驚くティアナに、最初からだとラシードが教えてくれた。
「なんで……」
「副官も君を気にしてたんだよ。あのまま裸にしてたら殺されてたかな。本当に焦ったよ。意地悪してごめんね」
やばかったと笑うラシードと、ザックスを交互に見やる。
驚きと恥ずかしさで涙目になるティアナに、ザックスがゆっくりと歩み寄った。
「怪我人を助けたせいで、故郷を失ったのなら詫びのしようもない。だが俺達にとっては幸運だった。恨む気持ちなどあるものか。心から感謝している」
ザックスは真っ直ぐにティアナを見下ろしていた。
信念を持った力強い視線は自信に満ちている。
「命が続く限りお前を守ろう。それが俺にできる感謝の表し方だ」
会ったときは疑っていたのに、ほんの数日でザックスの気持ちは変わっていた。
いや、変わったと言うより、ティアナを信じてくれたのだ。
危害を加える敵ではなく、味方を救う存在になったティアナを、ザックスは受け入れてくれている。
魔法のことは信用してないけれど、何かしらの方法で彼らに大きな利益を生み出したと思ってくれているのだ。
エイドリックはティアナを利用しようとしているが、ザックスは恩に報いて安心を与えようとしてくれている。
守るなんて始めいて言われた。これまでは家族を支え、守るのがティアナの仕事だったのに。
彼の言葉はすんなりと、ティアナの弱りきった胸の奥に入り込んだ。
けれど自分には守られる価値なんてない。なのに見知らぬ世界で行きていくためには、彼の気持ちに縋るしか道はない。
ぽろりと、今まで耐えていた涙が零れ落ちる。
失ったのだ、すべて。
生まれてから築きあげたものも、大切な家族も、地位も名誉も何もかも。
医師としての誇りだけは唯一残されているだろうか。
見殺しにした命の重さ、圧し掛かる全てがティアナを責める。
「僕だって君を守るよ、生き残れたらね」
天涯孤独、生きた世界すらに見放された。
今は何を言われても同情にしか聞こえない。それでも死と隣り合わせの彼らの言葉は、何も持たないティアナの胸を打つ。
生きていたらという、二人の言葉に偽りはない。
ぽろぽろと涙を零すティアナの頭をラシードの手が撫でつけた。
「わたしは、守られるような存在じゃない……」
やっとのこと絞り出せた言葉は罪悪感にしめられていた。
彼らは魔法という特殊な行為に驚きすぎて、ティアナが見捨てた命を別の何かとして捉えているのではないだろうか。
誰でもいいから罵って欲しいという思いはあっさりと砕け散る。
ティアナはこの時初めて、命を見捨てた償いとして、自分は裁きを受けたがっているのだと気づいた。
けれどザックスはティアナを守ると言う。ラシードも友人の死を仕方がないものと思っている。
彼らは、ティアナの決断が早ければ救えたという事実を、理解しきれていないのだ。
ヴァファルに帰れなくなるのと人の命。比べるなら当然命だ。
選択すべき事柄を迷い、奪った命は取りかえせない。
医師なのに、命を背負い切れない我が身の弱さが許せなかった。
なのに周囲はティアナを慰める。
責めるどころか甘やかすのだ。
これこそが責め苦なのかもしれないが、力を求められる度に罪悪感はつのる。
「己を責めたいなら責め続けろ。だがそれでもお前が救った命は変わらない」
「見捨てた命の数も変わりません」
泣き顔でザックスを見上げると、ラシードからは違うという声があがった。
「救う命は増えるよ、確実にね」
「どうしてですか。どうしてあなた方は……わたしならどうしてと責めます」
大切に思う家族を救えるのに救わなかった医師がいたなら、なぜと罵り責め立てる。見捨てた医師に誇りはないのかと、何のための魔法だと罵り尽くすだろう。
「お前には理由があっただろう」
「理由?」
不安に揺れる漆黒の瞳でザックスの緑の目を見上げると、彼の瞳は真っ直ぐで、とても強いものだった。
「国に帰るという理由だ。俺だってどことも知れない世界に飛ばされたなら戸惑い慌てるだろう。そして帰還の条件がある特定の人間を殺すといのなら、余程でない限り実行する。俺にはエイドリック殿下をお守りする理由があるし、何より祖国を捨てる覚悟はない」
お前はそれをやってのけてくれたのだと、ザックスの大きな手がティアナの肩に乗せられた。
「多くの希望を与えてくれ感謝している。だから俺はお前がどう思おうと、お前を守るためにこの戦いに勝利して生き抜いてやる」
威圧感のある男がティアナを見下ろす。恐れなく見上げ瞬きをすると最後の涙が頬を伝った。
「その条件が罪のない子供でも殺せますか?」
「殺す」
迷いなく吐き出された言葉。彼の答えを聞いてティアナは俯いた。
恐らく信念のためにならどこまでも非道になられる人なのだろう。
王族に付き従うのだから当然の覚悟に違いない。
けれど罪のない子供を迷いなく殺すと言った彼の言葉は、ティアナを思いやっての答えに違いなかった。
「取り乱して申し訳ありません。わたしも最善を尽くします。あなた方とこの世界で生き残るために」
他人を見殺しにしても自分の命は惜しい。
今を生きるためにすべきことは何か、それをティアナは忘れていなかった。
「怪我人はどこですか?」
彼らの怪我を完治させ戦場に送りこむ。それが勝利への道で、彼らの望みだ。
犠牲か生贄かは受ける感情一つで変わる。
怪我を癒やすことで彼らは戦いやすくなるともとれるし、死地へ向かわされるともいえた。
残った怪我人は動ける者ばかりで、彼らの方からティアナを見つけてやってくる。
彼らはティアナが起こす奇跡に驚き、声を失い感嘆した。
エイドリックの危機を救ったと噂が流れ、天から遣わされた御使いと名を変え噂だけが独り歩きする。
ティアナを神秘的なものとして取り扱うのは、エイドリックの思惑なのか。
彼自身は多くを語らず士気を上げ、ティアナはエイドリックの意を汲んで問われても否定せず口を噤んだ。
偽ることに胸が痛んだが、何もかもを正直に告白するべきとの考えは綺麗事だと分かっている。
同意も否定もしないが、偽る後ろめたさは常にあった。
けれどティアナが我慢することで、彼らが希望を見い出し、士気を高めて生き抜くことができるなら、負うべき役目だと感じる。
ヴァファルから拒絶されたティアナは、もうどこにも引き返す場所がないのだ。
翌朝、日の出とともに砦の鐘がけたたましく鳴り響いた。
何かがあったのだ。
身支度を終えて連絡を待っていると、名を呼ぶ声とともに扉が強く叩かれる。ザックスに命じられイリスが迎えに来たのだ。
この時すでにほとんどの兵が砦の外でタフス軍に向かって歩みを進めていた。
ティアナは不安を抱えたまま、イリスの馬に同乗させられ前へ出て行く。
イリスは青毛の軍馬を走らせ最前列へと出た。
そこにはエイドリックを始め、その左右をザックスとロイズ、カフェク、アロートの四人が剣ではない大きな武器を手に固めていた。
斧槍と呼ばれる、あらゆる攻撃が出来る大型の武器だがティアナには分からない。
ただ斧の部分はとても大きく鋭利で、槍は長く重そうだ。体の大きな彼らだから使いこなせるであろう代物だと思った。
彼らの手にかかればティアナの胴などさして力も込めず、一振りで二つに別れてしまいそうだ。
「敵襲だ」
エイドリックに言われてしっかりと頷いた。
求められているものは分かっている。
でなければ明らかに場違いなティアナがここに呼ばれる訳がないのだから。
後ろから支えてくれているイリスに馬から下ろしてもらったティアナは、エイドリックよりもさらに前に出た。
一度後ろを振り返ると、エイドリックが深く頷き、ティアナは頷き返して正面を見据えた。
まだ何も見えないが、彼らには見えているのだろう。暫く待つと地面が振動し、遠くに土煙が経つのが見えた。
前に出るべきなのに足が動かない。すると青毛の軍馬が隣に立ち、見上げると、とても高い位置でザックスが真っ直ぐに敵陣を見据えていた。
促されるかに共に前へと進む。
戦いの最前線で足を前に進めるなんて夢や想像にすらしなかった未来だ。
本来ならヴァファル帝国魔法省監査部に所属して高い御給金を頂き実家に仕送りを続けるか、あるいは皇太子のお目に止まり子を生むか。それがティアナが歩む未来への道だった。
なのに監査部で与えられた仕事がティアナをこの世界へと導いてしまった。
「ここがわたしの生きる世界」
これが現実。
ティアナはただ一点を見つめて前に進んで行く。
それがティアナに与えられた未来へ続く道だった。