その10 天使様、俺……
徒歩で半刻もしない場所に東の砦はあった。
エイドリック率いる軍がこの砦にやって来たのは一年前、国境を接する国タフスとの折り合いが悪くなり、精鋭を有するエイドリックの私軍が配属されるにはもってこいの理由だったが、何よりもエイドリックを快く思わない第一王子ファブロウェンの意向が大きく関わっていた。
本来なら一国の王子が前線の砦で司令官を務めるなど有り得ない話なのだ。
「砦が落ちればイクサルドは危ないのですか?」
「タフスは大国だ。イクサルドと比べて兵の数も圧倒的に多い。砦が落ちても向かっている国軍が止めてくれるだろうが五分五分だ」
「国軍……あっ!」
国軍と聞いて、ティアナは大事なことを思い出した。
「あの、これを。ありがとうございました」
差し出したのはザックスから渡された首飾りである。彼の師に保護してもらえと身分証代わりに渡された品だ。
結局使わなかったけれど、舞い戻って来たことは後悔していない。
彼がティアナの命を優先し、逃がしてくれた結果がこれなのだ。
嫌な言い方をするなら、極限で垣間見えた彼の気遣いが引き金になったとも言えなくはない。
色々あって恐かったが、戦時中に現れた不審者への対応としては正しかったのだろう。
緑色の石に刻まれた見慣れぬ文字をもう一度確認してから、ザックスに受け取るよう促す。
「持っていろ、返さなくていい」
「え、でも……」
「俺にもしものことがあれば、身寄りとしての証明になる」
エイドリックは護衛だけでなく、後見人という意味も込めてザックスを付けると言ったのだろうか。
この世界でティアナはひとりぼっちだ。一瞬迷ったが、頼れる人間がいないのは事実なので好意を受け取った。
「ありがとうございます」
身寄りとしての証明。
ザックスが死んだら、ティアナは彼の身寄りとして生きる場所を与えられるのだろう。
次にこの石が効力を発揮するのはザックスが死んだ後だ。
なんとも言えない気持ちでぎゅっと握りしめる。
先に歩みを再開したザックスに後れを取らぬようついて行った。
歩きながら金色の鎖につながれた石をなぞった。
ザックスの瞳と同じ色なのは何か意味があるのだろうか。
無くさないよう、後から壊れた鎖を繋いで首につけようと思いながらポケットにしまってから辺りを見回せば、戦いが繰り広げられたわりに建物に大きな損害はなく、砦に残っていた兵士らがティアナを物珍しげに観察していた。
井戸の浄化は少しばかり苦戦した。
ヴァファルでは飲料に適した水というものが自然に湧き出る場所は少なく、水のほとんどが濁っている。それを飲料に適した状態にするのも魔法使いの仕事――というよりも役目なのだ。
辺境には魔法を使える者が少ないので、そこを訪問した医師が行うのもしばしば。
だから砦の井戸が全部で十ほどあっても、ティアナにとっては簡単な作業のはずだった。
問題は環境の違い。
自然に綺麗な水が湧きだす井戸は深く狭い状態で、井戸の底にある水まで手が届かないのだ。
深い場合、ヴァファルでは縄梯子を使って下りる場合もある。
だから井戸を覗いて駄目だと思い、縄梯子を要求したら盛大に眉を顰められた。
「もしかして縄梯子というものが存在しないのでしょうか?」
「勿論あるが、まさか降りるんじゃないだろうな」
ザックスはこちらを窺っていた兵士の一人に、縄梯子を持ってくるよう声を上げる。
その後でティアナが「降りなくては水に手が届きません」と答えると、ザックスはぎょっとして目を見開いた。
「そんな危険なまねをさせる訳には――」
「井戸に降りて水に触れなければ毒の浄化はできません。慣れているので大丈夫ですよ。あなた方さえ梯子をしっかりと握って下さっていれば」
まぁ落ちても引き上げてくれれば問題ないのだが。
縄梯子を持って駆けて来る兵士が目に入ると、仕事が早いと感心しながら靴を脱いだ。
上着は干したままなので着ていない。濡れた服は歩いている間にかなり乾いていた。
ザックスともう一人、兵士が井戸に垂らした縄梯子を支える。
恐らくティアナ一人くらいならザックスだけでも十分支えられるのだが、万一を考えて補助がいれられた。
ティアナは暗く狭い穴を降りて底に辿り着くと、手を伸ばして水に触れ浄化していく。
そうやって全ての井戸を巡り終わる頃には陽が高い位置まで昇っていた。
「不思議な力だな」
浄化された井戸の水が大丈夫か確認するため、ザックスが試し飲みしながら零す。
「信じてらっしゃいませんよね、ヴァファルという異なる世界の話を」
「そうだな……確かに」
こうやって魔法を見せつけて実感しても、今いる世界と全く異なる、どこかしらにある世界からやって来た人間がいるなんて到底信じられないだろう。
奇跡と言われても、本質は理解してもらえないと始めから分かっていた。
「だがお前の話が嘘だとは思ってない。ただ異界と言われても理解できないだけだ」
「その肉体で体験してもですか?」
「ああ、側でも見ていたが。何かしらの特別な薬を使ったと言われたら信じたかもしれない。魔法なんておとぎ話の世界だ」
ヴァファルという帝国があって、魔法使いが存在する。
異なる文字と通貨を所持していたし、目を再び見えるようにしてくれた。
だからティアナの話は信じるが、世界が異なるという点だけはどうしても理解できないと話すザックスに、ティアナは小さく笑った。
「そうでしょうね。わたしだって信じたくありませんでした」
自虐的な笑みは、それでもこの世界に落ちて初めて零した微笑みだ。
「この後はどうしましょう。残った怪我人を先に手当てした方がいいですよね?」
なにせ戦が迫っている。彼らが生き残らなければ、この世界を知らないティアナも生きていけない。
天幕が並ぶ森に戻るのかと問えば、ザックスは浄化されたばかりの水を一気に飲み干した。
「戻る必要はない。水の問題がなくなったと報告を向かわせたのでじきにこちらへ引き上げて来る。それまでは腹ごしらえと睡眠だな。徹夜で疲れたろう、部屋を準備させるから休んでおけ」
ザックスの言葉にティアナは頷いた。
今のところ空腹は感じないが、食べられる時に食べておかなければ飢える可能性もあるのだ。
眠れなくても横になるだけで体は楽になれるだろうし、部屋に閉じこもっていればザックスもティアナを見張り続けなくていいのかもしれない。
彼は副官らしいから仕事も多かろう。
こうしている間にも彼は、様々なことを近くの兵士に指示していた。
固いパンと水だけの食事の後に案内された部屋は、冷たい石の壁に囲まれていた。
居住する場所も含めて国土を守る砦のようだ。
寝台と机に椅子が並んだ、恐らく兵士の誰もが使っているのと同じ部屋。
内側からしっかり鍵をかけて、ザックス以外の誰が来ても扉を開けるなと忠告された。
開いた窓から入る光が、冷たい石の壁の部屋に温もりをもたらしている。
部屋は二階で、扉の前に見張りはいない。
跳び下りたら怪我をするかもしれないが、窓は自由に開閉でき、捕らわれの身ではないのだとようやく胸を撫で下ろした。
敷布のある寝台に横たわって瞼を閉じると、やはり疲れていたのかやがて睡魔が訪れる。
どのくらい眠っていたのか。肌寒さに目を覚ますとすでに陽は傾いていた。
身を起こして窓の外を見る。
ザックスの言ったとおり、多くの兵士たちが砦に戻ってきていて、怪我の手当てをしなければと思いだした。
世話になる条件の一つがそれなのだ。生きる場所を貰う代わりに力を貸す、それが条件。
ザックス以外には扉を開かないように忠告を受けていたが、ずっといろと命令されている訳ではない。自分から出て行く分には問題ないだろう。
解錠して扉を開いたら、目の前に複数の兵士が壁となって立ち塞がっていた。
驚いて息を呑む。
大きな男達を見上げると、どうやら彼らも驚いているらしい。
先頭には見覚えのある少年がいた。その少年が「あの……」と声を出した途端、押されたらしい人の壁がティアナに向かって倒れる。
「きゃっ!?」
雪崩となって迫りくる壁を避けきれず、巻き込まれてしまった。
「うわぁぁ、大丈夫ですかっ!」
「どけっ、お前ら早くどけっ!」
鍛えた兵士たちの下敷きになったティアナはたまったものではない。
押し潰され窒息しかけたせいで、思わず魔法で彼らを吹き飛ばしそうになったが、彼らの焦る声を聞いてなんとか堪えた。
重みがなくなるのを大人しく待っているうちに、後頭部がズキズキと痛みだす。
石の床にぶつけたせいだろうと思いつつ、最後の一人が上からいなくなるのを大人しく待った。
屈強な男達の中で一番線が細く小柄な彼はまだ少年で、イリスと名乗った重症患者の一人だったのを覚えている。
だが何かが変だ。
最後の一人となった少年は、灰色の目を見開いたままピクリとも動かず、後ろに立ち並ぶ兵士らに「おい」と不満そうに声をかけられていた。
ああ成程とティアナは理解する。
後ろに立ち並ぶ兵士らからは死角になって見えていないようだったが、少年の両手はティアナの胸にある双丘に置かれていたのだ。
多感な年頃の少年には刺激が強すぎたのだろう。
「どいてくれますか?」
少年の胸を押すと、はっとした彼と視線が合う。
「天使様、俺……」
ラシードがそう呼んだのを覚えていたのだろう。
少年、イリスはティアナを天使と呼びはしたが動く気配がない。
彼の異変に気付いた兵士の一人が一歩前に踏み出すのと、少年の鼻から赤い血が零れ落ちるのは同時だった。
「イリスお前っ!」
声を上げた兵士が少年の首根っこを掴んで引き離したが、ティアナの白いブラウスは少年から滴り落ちた血で赤く染まる。
結構な血の量だ。
元気になったとはいえ、重傷を負ったばかりの少年が貧血になっては大変だ。
ティアナは自分の後頭部の痛みより、イリスの身を優先して彼の鼻をつまんだ。
「俺、副官に天使様が起きているかどうか様子を探って来るようにいわれて、それで……」
「しゃべらないで。血を止めるから動かないでください」
少年の鼻を少し強めにつまんで魔法で癒やす。
止血は簡単だが、大きな男たちの下敷きになった少年の身を念のため改めた。
「手足に異常はないみたいですね」
「あの、俺っ、すみません!」
正座して頭を下げた少年にティアナは苦笑いを漏らした。
随分と恐縮されてしまったと思いながら疼く頭の治療をした。
「皆様方にお怪我は?」
ぐるりと見渡すと、一番後方にザックスの姿があった。
たった今来たのだろう、大きな彼は兵士たちの後ろに立っていても存在が確認できる。
ティアナの視線を追って振り向いた兵士たちはザックスの存在に気付いて跳び上がった。
「お前たちはいったい何をしているんだ。イリスをやった筈だが?」
周囲に視線を巡らせたザックスの目がティアナの胸で止まり、わずかに見開いて凝視した。
白いブラウスが血に染まっているのだ、何があったと眉を顰め、もう一度周囲に視線を巡らせた後、正座しているイリスに目を向ける。
「彼が鼻から血を。もう止めましたから大丈夫ですよ」
「お前に被害はないんだな?」
打ち付けた後頭部は治療済みだ。どこにも被害はないと答えれば、ザックスは頷いて後ろを振り返り、野次馬達を一括して追いやった。
後には冷たい石の床に正座した少年が身を縮め、助けを求めるかにティアナを上目遣いでみている。
彼はザックスの命令でティアナが起きているかどうか、扉に耳をつけて室内の様子を窺っていたのだろう。それにつられて他の兵士たちも野次馬の如く集ったというところか。
「御用ですよね、行きましょうか」
少年はザックスを恐れているようだ。
確かにそうだろう、ティアナが軍に所属していたとして、こんな大きく威圧的な上官がいてはやはり脅える。しかもつい昨日までは眼帯をつけた隻眼だ。そんな上官からの怒声は勘弁願いたい。
ザックスから少年の気を反らそうとして立ち上がろうとすると手を差し伸べられる。素直に大きく硬い手を取って立ち上がれば更に眉を顰められた。
「その前に着替えだな。イリス」
「了解しましたっ!」
名を呼ばれ跳び上がった少年が脱兎の如く走り去った。
ティアナがその背を見送りながらちゃんと戻ってくるだろうかとぼんやり考えていると、洗って川辺の木に引っかけて干しておいた上着が差し出された。
「ありがとうございます」
「身支度が済んだらイリスに俺のところまで連れて来てもらってくれ。他の奴らには絶対に扉を開くな」
ティアナは「はい」と返事をして頷く。ザックスはまだ何か言いたげだったが口を開かず、そのまま部屋を出て扉を閉めた。