羊を数えて、夢を見る。
僕は机の上の原稿用紙と夏空を見比べて、結局夏空に視線を戻す。レースのカーテンがエアコンの風に煽られた、その隙間から覗く青。その下で立ち竦むビル群。窓ガラスの外で、夏の暑さにさらされているそれらは、陽炎のように揺らいでいてどこか流動的だ。
「執筆は捗っているのかね?」
背後から声がした。女性の声だ。振り返るのが億劫で僕はそのまま空を睨む。
「まあ、見た通りさ」
「人は見かけによらぬものとも言うだろう?」
女性の声が笑う。
「いや、見た通りだよ。少なくとも今は。思ったように執筆できないんだ」
僕は彼女に言ってやった。
正確には、かつて思い描いたように、だろうか。
白々しく照る太陽と馬鹿みたいに青い空が腹立たしい。それなら見なければ良いのだけれど、見ないという選択肢はなかった。見なければならない気がする。今にも空が落ちてきて、"夢のようなこの時間"を壊してしまうのではないか。
「そうやって君はまた逃げるのか」
「……」
どこか悲しげな女性の声を僕は無視する。きりりと脇腹が痛む。苦しい。まるで、溺れているような。
「耽溺しているのか」
「……」
僕は無視する。
そのうち空を見るのさえ億劫になった。机に伏せる。原稿用紙の上に散らばった文字が見えたが構わず目を閉じた。何も見えない。
「いや、嘘だな」
見透かしたように彼女は言った。
「目を閉じても真っ暗になりはしない。黒い中に何か模様のようなものが見えるだろ」
彼女の言う通り、赤っぽい瞬きが目蓋の裏を行き交う。それは変則的に、自由に、自分の意思は介在しないところへと動き回っていく。
「その模様が何なのかについては諸説あるらしいがね、私は毛細血管の血の巡りが見えるという説を推したい」
彼女の声は耳に心地良い。くすぐるように、撫でるように声は続く。
「自分の命の動きさえ儘ならない。ましてや、他の人の命なんてものも。いくら望んでも、いくら願っても変わっていく。死んでいく。生まれていく。そういうものだ。きっとそういうものだったんだ」
僕は彼女を抱き締めてやりたいと思った。抱き締めて、抱き締めて、その痛みすら忘れさせてやれたらと思った。実際、僕にはそれができる。だって僕は、
「君は書き続けると決めたのだろう。良いんだ。それで良いんだ」
直前までの考えを否定するように、あるいは強く言葉を言い聞かせるように、彼女は言った。
「逃げないと決めたなら貫きたまえよ、 」
たぶん、彼女は僕に呼び掛けながら、振り絞るようにそう言ったようだった。確信持ってそうだと言えないのは、僕の意識が段々曖昧なものになっていたからだ。赤いざわめきの奥に沈むように、まるで溺死するような感覚で。痛覚さえも沈んでいく。
「死にはしないさ。だって君は、」
女性の手が頭に乗った気がした。覚えのある、懐かしく儚い感触だった。
※
「おいおいおいおいおい。居眠り野郎!」
痛い。頬を引っ掻かれた。
僕は目を覚ます。原稿に涎が落ちてないことを確認して、突っ伏していた机から上半身を起こす。そのまま体を反らして伸びをした。上下左右どこを見渡しても白い空間に、浮き上がるような黒色の猫が一匹。逆さまに見えた。
「猫か」
「猫か、じゃねえだろーよ!!早く書け!」
上半身を戻す。猫は机に飛び乗った。
「書き出しは上々だったてのに、何なんだ!ったくよお!進まねえどころか、寝腐りやがって!」
黒い毛が逆立って、唸り声が上がった。
「寝てた訳じゃない。夢を見ていたんだ」
「それを普通は寝てたって言うんだよ。喧嘩売ってんのか?」
あれは夢だったのだ。口に出して改めて思う。夢にまで見るほどに、もしかしたら僕は焦がれているし、耽溺して溺死したいのかもしれない。実際に燃やし焦がして灰にした世界に、僕はまだきっと。
でも、
「退いてくれ」
「は?」
「原稿を書くから退いてくれ」
「やっと書く気になったか。頼むぜ、マジで」
世界は巡り、だからこそ儘ならない。この筆が描いた世界も、これから描く世界も。
「 」
彼女の名を呟こうとして息を吸う。燃やし焦がして灰にした物語は、それでも記憶に残っていてそれでも心に残っていた。未練がましく、情けなく、恐らく人間味があって、まるであの馬鹿みたいに青い空のようで。
「あはは」
「……え、おかしくなったのか?」
僕は吸った息で笑ってみせた。もちろん、おかしくなった訳ではないので猫の問いかけには首を横に振る。
目の前に広がる物語を、世界を、見つめる。綴られた文字は決して綺麗とは言いがたい。内容もきっと杜撰極まりなく、滅茶苦茶に違いない。それでも、僕は万年筆を手に取る。
そして、世界は再び巡り始めた。
fin.
『羊を数えて、目を覚ます。』(http://ncode.syosetu.com/n3064cf/)の終了後、少し経ってからのお話。女性であれ男性であれ、悩んでいる人を書くのが好きなのかもしれない。