表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ナルキッソス

作者: ナオユキ

 そこは寒々しくひなびた山村であったが、その理由が、現代の町々には必需品として備え付けられているガラス類のいっさいがなかったことが無関係であったとはいえない。


 その村に立ち並ぶ家には本当にガラスに分類されるいかなる調度も飾りも、また窓もなかったのだ。木造が主体の家には窓となるすきまが開いてはいたが、吹きつく風や降りくる雨の侵入を防ぐのは昔ながらの板のふたであったのだ。


 ガラス類いっさいの利用を拒否した奇妙な風習の村には、どんなに日の光がさしこもうとも、きらきらと乱反射をするあの町中の偶然の芸術が結ばれることはなかった。


 かわりに日の光を利用するものは草草や木々である。これらの濃い緑色は今絵の具を塗りつけたかのように乾かない水っぽさで雫もしたたるばかり、また朝に世界のくまなくはりついた露がぴかぴか光るのはきっとガラスがないがゆえに、より強く印象に残ることであった。


 ガラスがないということは当然、鏡もない。だが、鏡こそがこの村では問題なのであった。


 鏡という器具は村のひとつの言い伝えによって重大な禁忌とされてしまったのである。この鏡を廃する運動が起こってから引きずられるように夜などには立派に鏡のはたらきをするガラス類全般が徹底的に根絶やしにされたのだ。


 それは今から数世代も前の話で、それなので今の村の子どもたちはガラスの存在自体が知識にないのが普通なのであった。村の風習は実に排他的で外の世界からの情報の流通を完全に遮断してあったので、村の若者は村を出ようなどという観念を抱くことはなく、わが骨はその地に埋めるものと以外は考えることはなかった。


 こうすることで村の者がむやみに外に出て行って、鏡を見ることで生じるであろう災厄を防ぐことができていたのである。


 ところで、これから登場するこのお話の中心人物は村の外に出て行った唯一の村人で(ガラス排斥の風習が村に定着してから唯一のという意味でだが)あるのだが、まずご紹介したい。


 それは、ナルサという若い娘である。


 彼女はこれといってなんの変哲もない普通の少女であった。村の人間らしく素純で、おとなしかった。ただし、少しひっこみじあんの気があり、友達も多くはなく、外で野良仕事をするよりも家の中にいて家の仕事をしているほうが楽しいという性格であった。


 日常でも人と比べて無口なほうで、だれだれの会話を横から聞いていて、時々、そっと笑むのが相槌のかわりのつもりであった。にぎやかな場に行って思いっきりはしゃぐことは一回もなく、いつも体のどこかを病んでいるかのような陰のある表情をかいまみせることがあったが、本当に悪いところがあるわけでもなく、彼女にだけわかる愁いの精が風のように傍を走りぬけていったのを眺めているだけなのであった。


 それらを加味しても、とびぬけて不審なところは認められず、がいして無害な平凡な女の子であった。あの出来事さえなければ村の男と縁が結ばれ、穏やかな一生を遂げたことであろうと思われる。なぜ、彼女がわるい目にあわなくてはならなかったのか、それを知れる者はいない。いや、きっとそれをくわしく説明できる人物は彼女をおいて他にはいない。水の下にいる彼女をおいては。


 さて、次はこの話と関係の深い村の言い伝えについてである。


 その言い伝えがいつごろから村人によって語られるようになったのかは誰にもわからない。おそらく、人間がまだ合理精神を身につける前の原始に近い時代、不思議なことが日常茶飯事として起こり、空には鳥や虫などと共に妖精や神々の一族が飛翔していた頃から伝えられたものではないだろうか。それというのも、その言い伝えというのは他の地方にまで広く伝播している妖精譚じみたものであったのだ。


 それというのが、なんぴとも自分とまったく同じ容姿のもう一人の自分に用心せよ、もう一人の自分と会ってしまうともう一人の自分に魅入られ正気を失う、というものである。


 もうお分かりのことと思うが、この「自分とは異なるもう一人の自分」という存在を極度に恐れている村において、自分の虚像を形づくる鏡という器具は村の恐怖伝説を実現させしむる最悪の道具であったのだ。


 近代化の波に乗って一時は村のなかにガラス窓、ガラス装飾、ガラス具を取り入れた時期もあったものの、村人の深層心理に根づよくはりついた「もう一人の自分」の恐怖は時が経つごとに大きくなりゆき、ついには村全体をあげてのガラス排斥運動がもちあがったのである。その成果もあって、今では村にはガラスはひとつもない。この風習が伝説の実現を予防する効果があったのかは定かでない。定かでないが、次に話すナルサの事例からして賢明な措置であったろうと考えられる。


 さて、それでは、ナルサの話・・・・・・・


 朝早くのことである。ナルサは水をくみに一個のバケツをもって森のなかを流れる小川にむかった。


 頭上に生い茂った木々のあいだから新しい太陽の白々とした日ざしが柱となって何本も地面につきたっていた。森のなかのせまい道行きの途中にはくさりかけた倒木があったり、木の枝をゆらして宙にとびたつ鳥がいたりしていた。ここはまだ人間の里にちかい場所であるので、森の動物たちはなかなか近づかず、たいがいはもっと奥にいかないことは会えないのであった。なので、ナルサは何も心配することはなく陽気な気持ちでバケツをぶらぶら振っていたのであった。


 小川はいつもと変わりなくおだやかな様子であった。ほそくて長い清澄な蛇は今日も森の上のほうから森をぬけた下のほうにまでたえまなくサラサラきらきらスイスイとまわり続けていた。ここ数日晴れの日ばかりであったが水が枯れる心配はなさそうだ。水底の砂や石までひとめで見通せるくらいすきとおった純水だった。でこぼこの水面に日があたるたびにたくさんの鈴虫が歌をうたいあうようにたくさんの光の粒がぱらぱらと散るのであった。


 ナルサは身をかがめてバケツに小川の水をくんだ。バケツに中身がはいり重さが増していくのを感じ取りながら、ちょっとの間ぼおっとして川の流れをみつめていた。


 水の下には、流れをかきみだす星空みたいな模様の石や、星そのもののように見える金色や銀色の砂粒や、そういう石や砂に棲みついたこまかい水中生物たちがいた。


 視点をかえれば、水面には空とその前にいるナルサ自身が映っていた。しかし、小川の水面にはたえず小さな波が群れをなし、自分の顔だとしてもひどくゆれうごくために不鮮明でとてもそれが自分の顔だとは思えなかった。


 やがてバケツに水がたまりナルサは水中から引き上げた。持ってみるとバケツは予想以上に重くて、思わずナルサは地面に下ろしてしまった。置いてから少し息をつき、今度は前よりも力を込めて持ち上げるつもりであった。そう思ってバケツの取っ手を両手でにぎりしめ、バケツの中の水に目をおとした。


 水の中には自分の顔が映っていた。しばしは何も感じなかった。水にまわりの風景がうつることは常識である。ただ、川の流れゆく水でははっきりしなかった自分の顔が、バケツの水に映してみれば鮮明に見て取ることができるだけであった。


 そう、バケツにくんだ水はそのとき立派に鏡の役割をはたしていた。ナルサの容貌を本当にきれいに映し出していた。実際、そこに映ったナルサは美しかった。


 髪の毛、額、眉、目もと、鼻、頬、口もと、顎とどれをとってもすばらしく組み合わさり、異国の神殿にたたずむ女神像と比べてもおとらないであろう。いまだ幼く未成熟ではあったが、それを差し引きしてもその水面の像は空の青さのごとく見る者の目をくらませるに足らないものはなかった。この水の中の女が微笑めば朴念仁な鹿のような動物でさえ体が震えて膝を折るにちがいない。この女のようなたたずまいの花がもし湖の岸辺に咲いていたら白鳥たちでさえたじろぎ近づくまい、そして湖はその花ひとつをわが物にできた名誉をわたりくる鳥や虫に自慢してやまないであろう。


 ナルサはぽおっと放心して水の中の自分に見とれていた。彼女は、それが自分の顔だから見とれたのではない。その瞬間、それが自分の顔だという観念を彼女は忘れていた。ただ純粋にその美しさのゆえに彼女は心の鍵をその水面の女神にあけわたしていたのだ。


 そして、次に彼女が言い放つ不用意な言葉もすぐ目の前にこつぜんとして現われた美に心を奪われていたためであった。この一言さえなかったら、彼女はやがて夢からさめてそこにあるのが女神でもなんでもなく自分の顔であることを思い出し、錯覚していた神々しさは取り去られてまた現実に返って行ったであろうに。


 妖精や物の怪におもいがけず遭遇した時の対処法は、たとえ彼らに声をかけられ、どんなに己の内なる好奇心に呼びかけられようと、けっして彼らの相手をしてはならないということである。声もかわさずに無視をすればいかなる幻術も恐れるにたらない。だが、ひとたび言葉や意思をかわしたが最後、その者は人間外の世界に招き入れられ、彼は望んでもその奇妙な場所から出られなくなってしまうのだ。


 ナルサは、油断と放心によりその戒めを失念していた。彼女は呼びかけてしまったのだ。


「あなたはだれ?」


 彼女はバケツの水にうつった自分に問いかけた。これがいけないことだった。自分にむかって「あなたはだれ」と問いかけるなど非常識である。


 そして、この非常識な言霊こそ妖精類を呼び出す呪文なのである。


 ナルサの問いに、水のむこうの彼女は答えた。なんと答えたのである。


 どんなことを言ったのかとても興味があるが、それを語ることはできない。彼女の声を聞くことはただナルサ以外にはできないのである。


 だが、そう、彼女は笑った、ということだけは了解していて頂きたい。


 どのような笑み方であったか、うまく表現できたならよいのに。行なったのは両側の口角をあげる、これだけなのであるが、それのどんなに挑発的なことよ。


 さっきまで女神であった女の顔はがらりと様変わりし、それはずるっこい悪魔の妻のような顔をしていた。もしもえくぼをつくってくれたなら今度は打って変わって天使の母ともなれたであろう。


 それくらいに彼女は美しかった。アメジストとダイヤモンドの試金石であった。その微笑みに、そして他人にはまったく聾である彼女の言葉をじかに聞くことのできたナルサは、水にうつる女に恋をした。


 なんとも罪深い過ちであったことか、そう、ナルサは虚像として現われた己の面相に恋をしたのである。


 どれくらいそうしていただろうか、ナルサは日が高くなりだんだんと気温があがってくるのが感じられるほどになるまでバケツの水と見つめ合っていたのだが、やがて自然とバケツをもって立ち上がり、家に帰っていった。


 その日から、村人たちが知るようにナルサの不可解な奇行が始まったのである。


 彼女は、雨上がりの道のうえにできる水たまりであったり、台所のタルにためた水であったり、とにかく鏡面として役に立つ水をみつけるときまってじっとそのなめらかな水面に顔を向けずにはおけなかった。


 時には道端にしゃがみこんでいつまでの水たまりを眺めていた。彼女がその行為を昼日中に始めれば、夕暮れのころに同じ姿勢でかたまっている彼女を村人が発見して家に連れて帰るという事も何度かあった。


 また、この時期からしだいにナルサは元気をなくしていき、立ち居振る舞いにもどこか病人のようなひ弱さが目立ってきた。熱病人のようにふらふらと力なく歩き、表情も気抜けして感情の機微を表すことは少なくなり、仮面でも被っているように見えて人を不気味がらせた。


 もとは外で遊ぶことはあまりなかった性格なのに、このときは夜半でもかまわず外を徘徊する姿が目撃されている。そうかと思えば何日も家のなかを出ないでいる場合もある。


 心配した人間が家を訪れてみると、彼女は桶にためた水を相手に小さな声でなにやらつぶやいているのである。声をかけると彼女は顔を上げて見せた。その表情は、瞳はうるんで甘く溶け落ちそうで、頬は上気して桃のようにふっくらと染まり、普段みかける気抜けした表情とはまるでちがい明るく光っているかのようだった。それに対して、やはり全身は脱力して立ち上がろうとすると骨が入っていないみたいにぐにゃりと倒れてしまう。数日間、何も食べていなかったのだ。


 こんなことが続き、やがて村での噂になってきた。原因と考えられるのは当然、あの伝説である。ナルサはもう一人の自分と会い正気を失った、と言われていた。


 村人たちはナルサを憐れに思い、なんとかして救ってやりたいとその方法について討議をかわした。だが、もう一人の自分に会い正気を失った者を治す方法は村の老人たちでさえ誰も知らなかった。彼らの見解は一度そうなった者は一生の間ずっと回復することはないとのことだった。


「だが」とそこで討議に参加した村人のなかでもっとも年寄りの男が言い出した。彼は村と外界との流通が途絶える前の状態を知っていた。


「聞けば村の外では精神医療という医学が進歩しているという。ナルサを治すには、もはやその力を借りるしかないのではないか」


「しかし、それは村人を外に出すということでしょう? 今日まで保ってきた村の平和が崩壊する危険があります」


「他の村人には秘密にして、ナルサだけ連れ出すのだ。ナルサはもう一人の自分に連れ去られた、ということにしてな。なに、伝説がもう一つ増えたところで大したことではない」


「しかし、誰がナルサを外に案内するのです? さらに、そのような医療機関に取り次ぐ便を手に入れられるというのは一体だれです?」


「わしがいっしょに行こう。無事、ナルサを送り届けられたら戻ってくる。お前たちはこの事をぜったいに口外するなよ。どんな手を使ってでも隠蔽するのだ」


 こうしてナルサは、同世代ではただ一人、村の外に出て行った。


 老人は山を下りたところの近くの町に行き、市役所で事情を話して精神障害者の治療施設にナルサをあずけてもらえるように取り次いだ。そうしてナルサの身は当局にわたり、何日かの滞在の後に老人は町をはなれ村に帰っていった。


 ナルサが入ることになったのは村から遠くはなれた場所の丘の上にたつ精神治療院であった。


 町の喧騒のとどかないのどかなところで、草原と風と大空と雲がすばらしい景色をなしていた。


 治療院の背中側には森がせまり、正面には見渡すかぎり遮蔽物のいっさいない豊かな草原がどこまでもひろがり、はるかかなたにいたるまで丘陵の波が盛り上がっていた。そこを渡ってくる風の爽やかなこと、肌をなでる涼気は日中には太陽のあたたかさとうまく調和して心和む香りをさえたたえていた。治療院の庭はひろい花園になっていて、いろいろな可愛らしい花々がたくさん植えられていた。空気中には植物のはきだす清潔な気体が充満していることを確かに感じられるほど吸った空気は肺を喜ばすのであった。


 治療院を運営しているのは穏和な性格の老夫婦であった。ふたりは新しく入所することになる遠い地の村生まれのナルサを笑顔で歓迎した。


 ナルサはそこで、自分と同じような境遇のたくさんの患者たちとめぐりあった。その治療院では、ナルサは何をしていても自由だった。何時間でも水を見つめていられたし、外に出てあたりを徘徊するのを誰も邪魔しなかった。


 気分がわるければ部屋にこもっていたっていいし、食べ物が食べたくなければ食べなくてもよく、何か食べたくなれば人に言って食べ物を出してもらえればよかった。村にいたころはナルサを不気味に思って誰も相手にはしてくれなかったが、ここの患者たちはナルサの行動や発言をふしぎだとは思わない者ばかりだった。時にはケンカが起こることもあったし、気性が激しい者や好き嫌いも激しい者もいたのであるが、ナルサはそこで二人か三人の遊び仲間ができた。


 さらに、ナルサには決定的にすばらしい一つの出会いがあった。それは、アポロンという男性の存在であった。


 彼はこの丘の上の治療院では住み込みの医者をしていた。運営者の老夫婦に気に入られ同居の形で働いてもらうよう雇われたのである。彼が一番にナルサの味方となってくれた。


 まず、ナルサが来る前に、ナルサの症状の詳細を聞き入れて、老夫婦の許可をとり治療院で使っていた鏡をすべて取り外した。それなので、ナルサはここでも鏡の存在を知ることなく過ごすことができた。


 アポロン医師はずっとナルサの症状をやわらげることに尽力した。水を相手に話すナルサに積極的に話しかけ彼女の他の人間への関心を呼び戻そうと努めた。彼女の話を聞き、理解したようにふるまい、ナルサの思いを大事にした。


 ナルサが外を出歩く時にはいっしょについて行き、部屋にこもりっぱなしの時期には時々彼女の部屋を訪れて特に意味のない話をして彼女を笑わせようとした。彼女を花園の散策にさそって、植物の栽培や生け花のおもしろさを教えようとした。また、年少の患者たちに行なう勉強会にもナルサを参加させようとした。


 そうしているうちに時は経ち、ナルサが入所して一年になろうとしていた。


 その頃になると、ナルサもだいぶ回復しているようだった。村にいたときみたいに何時間も水面と対面することはなくなったし、仲間と遊びたわむれたり会話を楽しむようにもなっていた。一日三食の食事はかならずとり、勉強会にも参加してまじめに授業を聞いていた。


 また、ナルサはアポロン医師が大好きになり、彼といっしょのときは仲間と遊ぶ時以上にうれしかった。ナルサの水の中の女への恋はしだいにうすれている様子だった。それよりほかの健全なアポロンへの恋心が彼女の心を満たしていくのであった。


 アポロンもナルサのそのような様子を自分のことのように祝いたい気持ちだった。楽しいひと時が治療院の人々にのぞんでいた。


 さて、ある日のこと、治療院の老夫婦は患者たちとアポロン医師を伴って、森のなかを少し行ったところにある湖に遠足をしに行くことにした。


 列なす木立をぬけて森の中の広場に出たところにはそこだけぽっかりと空に向かって穴があいており、日の光がさんさんと湖面に注いでいた。


 数匹の小鴨が湖面にうかび、何羽もの小鳥がおりてきては湖面を蹴っていった。小さな哺乳動物が岸辺に立っては水を飲み、汚れのまったくない透明な水の中では青い水草がうたたねをしているのであった。 

 患者たちはそこでめいめい好きなことをして憩うことにした。幼児は声をあげて駆け回り、すこし歳をとった者は岸辺の草むらに座ってあたりの風景を眺めていたり、草の中の虫と遊んでいる者もいた。


 ナルサはアポロン医師から離れなかった。アポロンは彼女とつきあい湖の周囲を散歩することにした。


 ナルサはどこか気恥ずかしげにして言葉が少なかったが、いつもとかわらず陽気な話しぶりの彼に助けられて楽しい時間をすごしていた。


 彼女がもし、自分が恋をした水面の女の美しさがじつは自分のものであると理解していたなら、もう少し自信をもって彼といっしょにいれただろう。アポロンも見目麗しい若者であったから、ふたりが寄り添って森のなかの湖の岸を歩く様子は画家であったら一枚の絵に残したいと欲求したであろうと思われた。


 小鳥は鳴き、子ども達はさわぎ、ふたりの男女は静寂のなかで木々の歌をきいていたのだ。


 そのとき、子ども達の遊んでいるところで物々しい叫びが起こった。子ども達のなかでも幼少の男の子が湖に落ちて溺れていたのだ。


 アポロン医師がすぐにかけつけ、湖にとびこみ男の子を助けたので大事にはいたらなかった。男の子の肺には水が流れ込んでおらず、意識を失ってもいなかった。ただ、恐怖にふるえてむせび泣いていた。まわりの人々も老夫婦も男の子のそばに集まって助かったことを心のそこから喜んだ。


 ようやく男の子が落ち着くとアポロンはどうして湖に落ちてしまったのか原因を聞いてみた。すると、男の子はこう答えた。


「ナルサお姉ちゃんが水の中にいて、僕にこっちにおいでって呼んだんだ」


  アポロン医師も老夫婦も首をかしげた。ナルサはアポロンといっしょにいたのだし、水にもぐることもするはずがない。


 だが、ナルサは男の子の言っていることが理解できた。みるみる顔が青ざめていった。


 そんな事件もあったので、遠足はそこまでで中止となり、治療院の一団は湖から去っていった。来たときとはちがい帰りはみんなに重苦しい沈黙がのしかかっていた。しかし、夕食になるころには笑顔も戻り、いつもの様子が返ってきていた。ただ、ナルサだけが物思いにしずんだように暗い表情をしているのだった。


 その夜、ナルサは久しぶりに桶に水をくみ、部屋に持ち込んだ。そして、ごぶさたとなっていた水の中の女と会ってみることにしたのだ。彼女はもとのように水面に現われてくれた。


 しかし、彼女の様子は前とはまるでちがっていた。花のような美しさを表していた彼女の美貌は、いまや憤怒と憎悪と嫉妬によって見るも無残な地獄の鬼の面相に様変わりしていたのだ。


 その邪悪な目つきひとつで花は枯れ、土は崩れ、木は腐りゆくかと思われた。非難のまなざしは一心にナルサに向けられていて、言葉は聞こえずともこう言いたいことは明確であった。


「この裏切り者」


 水面の女は嫉妬しているのだ、怒り狂っているのだ。ナルサが彼女を捨て、外界に仲間や想い人をつくってしまったことを。ナルサが彼女への愛を永久に捨てようとしていることを、水中の女神はナルサを殺すとばかりに憎みきっているのだ。


 ナルサは納得した。やはり今日、あの湖で男の子を水の中にひきこみ溺れさせようとしたのは彼女なのだ。この女は自分の幸福を妬み、自分の周囲の者に毒牙を向け始めたのだ。


 ナルサは、それ以上女の視線に耐え切れず、桶を手にとって水をすべて窓の外にぶちまけた。


 その日以来、ナルサは水をいっさい断ってしまった。飲料にしても、洗浄にしても、ナルサは水という水のいっさいを自分の近くに寄せつけたくなかった。彼女は部屋にひきこもり、誰とも接触しなくなってしまった。


 こうなったナルサを、アポロン医師も、老夫婦も、患者たちもみんなして心配していたが、彼女が心を開いてくれない限りできることは少なかった。


 ただ、アポロン医師にだけはナルサは自分のかかえている悩みを打ち明けることができた。ナルサの告白を、アポロン医師はたんなる妄想だとは片付けなかった。彼女の症状は十分に理解していたので、ナルサの悩みを解決するには、何か彼女自身の法則にならう形でしか達成できないと考えた。そのためには、ナルサ自身がどうすれば彼女に起こっている変事を解決できると思っているか知る必要があった。


 しかし、いくら話し合っても彼女は、ただ「またわたしが彼女といっしょになる」しかないとしか言わなかった。


 具体的な対策が何も打ち出されぬまま、一ヶ月が過ぎようとしていた。


 アポロンは患者たちの世話をしながらナルサのことについて思いをめぐらせていた。今日は晴れていい天気であるのに、ナルサの部屋の扉はかたく閉ざされたままであった。彼女の不調は他の患者たちにも伝達したのか最近の治療院はどこか陰が増したように感じられた。子ども達の笑顔にも前のような屈託のなさが不足していた。


 そんな空気が反映したのか建物の周辺の自然の風景にも前のからからした爽快さが去り、どこやら曇った湿っぽさが漂っていた。連日、曇りの日が続いていたので、その日のような晴れた天気はひさしぶりであった。それなので、アポロンは朝起きたときまぶしい陽光を浴びて何やら良いことの前触れではと思ったのだが、状況は特に変化しそうになかった。


 だが、太陽が天頂を通り過ぎたあたりの昼さがり、患者たちとアポロンは食事をすませて自由な時間となっていた。庭園を開放して出たいという者には外に出させて遊ばせていた。庭園でかけっこをしている一組がいれば、院内で昼寝をする一組、静かにゲームをしている一組などがいて、アポロンはそれらすべてに目を配っていなくてはならなかった。


 彼が、外にいる者たちの様子を見るために花園を歩いていた時だった。黄色の水仙が咲いているところにナルサが数週間ぶりに立っていた。


 驚愕したアポロンは急いで彼女のもとにかけていった。


「ああ、アポロン先生。いえね、この子と遊んでいたんです」


 彼女と手をつないでいたのは一ヶ月前に湖で溺れかけた男の子だった。


「これからナルサお姉ちゃんと森にいくんだ」


「森へ? 君たちだけだとちょっと危ないな。僕もついていっていいかな?」


 笑顔の男の子にアポロンも笑顔で問いかける。


「うん。いっしょにいこうよ」


「ええ、ぜひ、そうしてください」


 ナルサも笑顔で言った。


「少し待っていてください。僕がいなくなるとみんなを見る人がいなくなるので、院長に許可をもらってきます」


 アポロンは走って戻っていった。しばらく老夫婦に患者の目付け役をかわってもらおうとしたのだ。


 そうして院内の廊下を小走りで駆けていってちょうどナルサの部屋に目がいった時、アポロンは不審の念にうたれた。部屋の扉にはいつもと変らず鍵がかかりっぱなしになっていた。鍵をはずさずに部屋を出ることはできない。まさか、わざわざ窓から出て行く理由もあるまい。


 アポロンは不気味な予感に従って扉を三回ノックした。


「僕だ・・・・・・アポロンだ」


 すると、たしかに部屋のなかで物音がして、ドアのほうに歩いてくる足音がした。扉が開くとまぎれもなくナルサ本人がそこにいた。


 アポロンは手短かに事情を話した。ナルサの容貌はひとめでわかるほど憔悴していたが、話を聞くと急に瞳を大きく見開いた。


 はじけるようにアポロンの横を走りぬけ、何週間もろくな栄養摂取をひかえていた人間とは思えぬほどの速さで外にとびだしていった。きょをつかれたアポロンも反射的に彼女の後を追って走り出した。


 どんよりした雲が多くなり、晴れ間は消えていた。


 庭には人の影はまったく見えなかった。アポロンの言葉を無視してもう一人のナルサと男の子はどこかへ行ってしまっていたらしい。


「どこにいるんです!」


 ナルサはすっかり興奮して声も荒くなっていた。


「どこに・・・・・・・・森に行くといっていたが」


「森・・・・・・湖よ!」


 何を直感したのかナルサはそう確信的に言い放つといっさん駆け出した。アポロンがそれに続いた。


 庭園を抜け、治療院裏の森へと入り、ナルサの姿を枝葉の影に見失ってしまうわないように懸命に目で追っていた。やがて、森の植物に邪魔されがちだった視界が晴れて湖のある広場へとたどり着いた。


 そこでは大変な事態が巻き起こっていた。湖面に男の子が浮いていた。しかも、何の動きもなく、顔を水面下にむけて、倒木のように水につかっていた。


 アポロンは全身が総毛立つ思いで再び水に飛び込もうとしたが、それよりも先にナルサが湖に入水していた。全力を尽くして水をかき進み、男の子のところにたどり着くと彼の脱力した体をつかみとり、岸に戻ろうとしていた。


 だが、そこで彼女の衰弱しきっていた体力が限界に来たようだった。思うように進めずいたずらに水をかくだけで今にも彼女まで溺れてしまいそうであった。


 そこでようやくアポロンも水にとびこみ、ふたりをしっかり抱きとめて岸まで泳ぎもどってきた。岸辺にあがるとアポロンは意識を失った男の子を湖からはなれたところまで運び上げ、やさしくそっと地面に寝かせるとすぐさま人工呼吸と心肺蘇生をはじめた。


 医師の使命にかけて、また家族としてアポロンがなにもかも忘れて救命措置を行なっている間、ナルサもそばで見守っていた。ナルサにとっても男の子はすでに同居の人間という間柄をこえたつながりが芽生えた相手であった。


 絶対に彼女のせいで彼の命を奪うなど許されないことだと思った。彼の命が助かるためなら、自分などどうなっても良いとさえ願った。


 願いが通じたのか、男の子は飲み込んだ湖の水を吐き出して、再び呼吸が再開した。一命はとりとめたのだ。アポロンもナルサもほっと息をついて男の子の様子を見守った。呼吸は回復したものの、依然として彼の意識が目覚めることはなく、油断はできない状態であった。


 ナルサは昂ぶる気持ちをおさえきれず岸まで走っていくと、膝をついて湖のうえに顔をさしだし、湖面に向かってさけんだ。


「どうしてこんなことをするの! 命を狙うなら私にしてちょうだい!」


 ナルサは水面にうつった自分の顔に言った。


 そこにはあの女がいた。


 妬みや怒りでどす黒い表情に変化してしまった鬼面の女がこの前よりさらに顔を醜くしてナルサをにらんでいた。


 負けじとナルサも女をにらんだ。


「あなたはもういらない! いらないの! どこかに行って!」


 直裁に投げつけられた別れの言葉に、水面の女はもう狂いに狂い、顔面は赤黒く変色して唇をかみきり血が垂れた。


 女の怒りにともなうように水面が風もないのに波立ってきた。


 そして、突然、水を突き破り二本の腕が伸びてきた。腕はナルサの頭部をつかみ、ものすごい力で水中にひきずりこんだ。


 後方で様子を見守っていたアポロンは突如としてナルサが湖に飛び込んだのを見て急いで彼女のもとに駆け寄った。ナルサはまだ顔面だけを水に入れている状態でもがいていた。アポロンは彼女の体がそれ以上湖に入り込まないようにおさえつけ、頭部を引き出そうとした。


 そして、彼は水面にとんでもないものを見た。


 そこには、ナルサを水中にひきずりこもうとしているもう一人のナルサがいた。髪をふり乱し、口から血を流し、地上のナルサの頭部にがっちりとつかみかかっていた。


 アポロン医師は、その状況を理解するにはあまりに切迫していた。何が何やらわからないが、このままではナルサこの水中の女に溺死させられてしまう。彼は、女の暴挙をとめようとなにふりかまわず水中に手をつっこんだ。


 すると彼の手は思いもかけず、水の中で何かをにぎっていた。


 丸く、やわらかく、すべっこい、得体のしれない物体だった。


 必死になっていたアポロンは無意識のうちにそれに力を込めて握りしめた。


 そのとき、「ぎゃっ」と何かが一声、悲鳴をあげるのが水の中から聞こえた。


 そして、ナルサにかかっていた力が消え、彼女はようやく顔を引き上げることができた。それと同時にアポロンは、彼女が顔を沈めていたあたりの水面下から、なにか生物の影が泳ぎ去っていくのを目撃した。


 そいつは二度と戻っては来なかった。


 ナルサは何度も咳き込んで水を吐き出し、落ち着くとあらためて、おそるおそる水面をのぞいてみた。そこには、自分の顔がうつっているとたしかに認識できた。もうそれが自分ではない誰かだとは思わなかった。


 ふたりとも呆然と湖を眺めていると、頭上から日の光がさしこんできて湖面を照らし出した。そして、後ろで物音がした。


 男の子がめざめたのであった。


 ふたりはもう湖には背を向けて、男の子のほうへとかけよっていった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 何だか、ナルシストの語源となったギリシア神話を思い起こしました。 水仙も良いアクセントですね! 医師もとても良い人ですし、物語もガラスや鏡という日常的なものを幻想的なものに変えていて、とても…
[良い点] 良いお話をありがとうございました。とても面白く拝読させていただきました。これからも頑張ってください。
2014/10/14 11:46 退会済み
管理
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ