28
渚の計画により、今日は学校に剣道関係者が多く集まっていた。
あとは瑠璃子の仕上がり次第だ。
怪我の確認をするために剣道場の更衣室に集まったのだった。
「おい瑠璃子、怪我はもうなおったのか?」
「はい、2ヶ月前には完治しましたよ。リハビリも完璧です」
「ならいいな」
「でも、せっかくここまでお膳立てしていただいて申し訳ないんですが、私はナギさんに勝てませんよ」
そう言いながら、あははと笑う瑠璃子だった。
普段の稽古から渚に一本も取れないのだ、当然の反応だ。
「普通にやったらそうだろうがオレは本気をださねーよ」
「え?」
「本気はださねーつったの。意味ねーじゃんオレが勝ったら」
ポカーンと口を開けていた瑠璃子だったが、渚の言った言葉の意味が頭まで伝わったのだろう、身を乗り出して抗議してきた。
「だ、だめですよ!! ナギさんは勝つからこそナギさんなんです! 負けるナギさんなんてそんなの見たくないです! しかもこんな形で譲られても全く意味ないんですからね!」
「はあ? お前は何を言ってんだ……? 負けようが何だろうがオレはオレだろうが、お前の価値観を押し付けんなよ。それと、その約束はまた今度の機会にしとけ」
「私の価値観だけじゃないですよ! ナギさんは一生懸命だったから気づいてないでしょうけど、応援していた私は知っているんです!」
「……?」
「みんな、ナギさんが勝つところを見たがっているんですよ! 観客席にいた女の子が言ってました、『どうやったらあんなに綺麗な面を打てるんだろう』って。それだけ期待してるんですよ」
「…………」
「私なんかが、無名の剣士の私なんかがナギさんに勝って良いはず無いんです!!」
瑠璃子の思いをすべて込めた言葉だった。
自分のためにここまでやってくれた渚に申し訳ない気持ちもある。
行方の知れない兄を探す絶好の機会かもしれない。
それでも、自分の曲げた剣道をしたくなかった。
自分の大好きな師匠の曲げた剣など見たくなかった。
渚は常々言っていたではないか、『真剣勝負をしたいんだ』と……。
なのに本気を出さない? 負けるつもりだ? そんなの許されるわけがない。
「お前が勝たなくちゃ意味ねーんだよ、兄貴探すんだろうが! 変なところ拘ってんじゃねぇよ」
「変じゃないですよ……。私はこんな形で勝っても嬉しくありません」
「んな、オレとの約束はひとまず後回しにしろよ!」
「約束だけじゃ、ないですよ……」
でかい図体のくせに小動物のような怯えようだ。
そんな様子に渚はいつもイライラさせられる。
「あーうざってぇな、いじいじしてんじゃねぇよ! いいか、全力で面を打ち込むんだぞ!? お前の実力を見せなくちゃ全員納得しねーんだからな!」
「……そんなの、だめですよ……」
「ちっ!! 何のためにオレがくそつまんねー剣道やってきたか、お前にしかわからないんだぞ? ここで不甲斐ない試合をしてみやがれ、絶交だからな!!」
突き放すように、それだけ言って渚が更衣室を後にする。
残された瑠璃子はその場にいることしかできなかったが、時間がそこまできていた。急いで準備しなければならなかったのだ。
そのまま人形のように着替え、ふらふらとおぼつかない足取りで剣道場へ向かうのだった。
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先に剣道場入りした渚は驚いていた。
自分が煽ったこととは言え、物凄い人数で埋め尽くされていたからだ。
入口近くには渚のクラスメイト達が集まっており、渚が入ってくるのを待っていたようだ。
普段近づいてこないのに、渚がきたら声を掛けてきた。
さすがにどうするか迷ったが、いつもどおり無視して通りぬける。
そうすると今度は報道関係者がカメラやスーパースローカメラとでも言うのだろうか、普通とは違うカメラをセットしている。
その周りに剣道関係者だと解る人たちが真剣な面持ちで、カメラの角度がどうなの、渚の速度を知るためにはこの位置が良いだのと指示を出している。
審判を取り仕切る人物たちも中央で立っていたり、上座に当たるところには校長までいるのだからどうしようもない。
そして、隅の方には香奈の姿まで見えた。
うまい具合に背景に溶け込んでいる。
もし香奈の存在がバレたら(渚の双子の妹ということ)とんでもない騒ぎになるだろう。
(がんばってね)
テレパシーはしなかったが、そんな声が聞こえた気がした。
まさかここまで大勢が押し寄せてくるとは思っていなかった。夏休みの一大イベントを提供してしまったようだ。
まあかえって瑠璃子にとってはよかったのかもしれない。そう割り切ることにした。
だが、肝心の瑠璃子はなんとも言えない様子だった。
『本気を出さない』と言っただけであんなに怒るものだろうか。
ここまでお膳立てしたものを無駄にはしないだろうか。
そんな不安な思いが胸のなかに芽生えたのは事実だった。
そう物思いにふけっていると、入口で歓声があがる。
瑠璃子も入ってきたのだ。
面以外を付けたの完全装備だ。
高身長の瑠璃子が袴姿をみせるとキリリとして物凄く絵になる。
その立ち姿を見ただけで、瑠璃子の力量を推し量れようものなのだが……。
今回ばかりはそれどころではないようだ。
その表情は暗く沈んでおり、いつも燦々と輝いている瞳もどんよりとしている。
周りの人など目に入っていないのだろう。
外の刺激を一切受け取っていないのだ。
普通の人が見たら集中しているように見えるのだろうが、渚も香奈もはっきりわかった。
身に入っていない。
普段の瑠璃子であれば、これだけの人数に、ましてやクラスメイトたちに囲まれればおどおどするはずである。
それが試合になると一転、『別人になるかのような』集中力を発揮するのだ。
そのギャップの差がバネとなり、とんでもない力を出すのだが、今の状態はおどおどもしていないし集中してるわけでもない。
心ここにあらず、そんな状態だ。
(こんな状態でお前は戦えるのか? いつもの調子はどうした? ここに集まった人たちは『本当にあの黒神渚よりも強いのか?』それだけを見に来ているんだぞ。もし不甲斐ない試合をしてみやがれ、今までやってきた苦労が水の泡になっちまうんだぞ!?)
互いに向き合い、中央へと入る。
審判、副審を務める人たちは、教士八段の先生たちのようだ。
本来であればこんな高校の、ただの稽古の審判をするような人たちではないはずだ。
一つの分野をしっかり収めた者が漂わせる雰囲気を、渚は感じ取っていた。
すでに立ち振る舞いが絵になるような、そんな人物たちなのだ。
これでは自分が必要以上に手を抜いて瑠璃子を勝たせても、即ばれるだろう。
もはや誤魔化しは効かないのだ。
開始線に付く。
お互い面をつけているために相手の表情を読み取れないが、瑠璃子の雰囲気はさきほどから少しも変わっていなかった。
ここまで来て、まだ変なこだわりを持っているらしい。
――オレが本気を出さないのがそんなに嫌か?
――そんなことを言ってる場合かよ?
確かに頼まれたわけではない。
「私の代わりに兄を探してください」と言われたわけではないのだ。
瑠璃子に大きなお世話と言われればそのとおりなのかもしれない。
だが、オレが本気を出さないと言っただけでこうも抜け殻になるとは。
(許せない……)
純粋に怒りが湧いてきた渚だ。
ゆっくり息を吸った。
――お前はこの程度だったのか?
――オレに勝ちたいと言った時の気迫はどこへいった?
(この一年、無駄だったなんて言わせねーかんな!!)
渚のインタビューによって固唾を飲んで見守る観戦者たちだったが、開始の声が掛かるやいないや、だれも息を止めたかのような静寂が場内を包んだ。
いつもの渚であれば、開始と同時に飛び込むものであり、全員がそれを期待していたのだが、そうはならなかった。
関東大会決勝で見せたように、瑠璃子の挙動を注意深く見ているのが伝わってきたのだ。
あの時は今季大会唯一、渚の剣を止めるほどの剣士だった。
ということは、今回もやはり、朝川瑠璃子という剣士が何かを『持っている』という表れなのか。
そんな緊張感が漂っているのだ。
そんな観戦者をよそに、事情を全て知っている香奈は心の中で大声を上げていた。
それはまさにテレパシーを飛ばすほどの勢いだ。
(「ナギ姉! それはダメー!!」)
香奈の目には渚の体から立ち上るオーラがはっきりと見えた。
どこまでも鮮やかに、どこまでも煌びやかに、どこまでも深い、黒い炎。
しかし、邪悪な印象はまったく受けない。
とてつもなく清らかで優しく暖かい黒い炎だった。
渚の魂の色である。
ゆっくりと息を吐く。
(リミッター解除20%!!)
それはいつぞやか、瑠璃子の反応速度をもってしても知覚させなかった、渚最強の技だった。
その打突を受けた瑠璃子はそのまま病院送りにされたのはつい一年前のことだ。
その時とまったく同じ解除率、同じ技を繰り出す。
「突きーーーーっ!!」
渚の突きを初めて見た関係者一同はあまりの出来事に目を剥いた。
打突を受けて人が飛ぶなど、未だかつて見たことが無かったからだ。
その距離は信じがたいものだった。
場外線を超え転がり、壁に激突することでようやく止まったのだ。
今までの渚は最低限、対戦相手を考慮して手加減していた。
怪我をさせるつもりはなかったし、規則で一本を取ればよかったからだ。
だが、今回ばかりはそうもいかない。
自分が勝つことに意味は無いのだ。
本当だったら本気を出すつもりなどなかった。
馬鹿弟子のあまりの不甲斐なさに、喝を入れるつもりでリミッターを解除したのだ。
この一撃で終わってしまうなど、一切考えなかった。
そうなったら瑠璃子という剣士はそれまでの存在なのだと割り切ってさっさと帰っただろう。
だが、渚は信じていた。
瑠璃子と今日までやってきた、一年にも及ぶ稽古の日々を。
瑠璃子という剣士を。才能を。
自分が誰かに対してここまで肩入れするとは思っていなかった。
楽しかったのだ。
初めて友達と呼べる存在ができて、初めて弟子ができて、初めて剣道が楽しいと思ったのだ。
だからこそ信じて突いた。
その突きにメッセージを込めて。
(いいか?)
そして、瑠璃子はそれに答えてくれた。
(オレは本気を出さないと言った)
自分が打った打突に手応えが一切無かったのだ。
(だが、負けてやるとは一言も言ってない!!)
瑠璃子は自分の最強の技である突きを後方に飛ぶことで威力を相殺したのだ。
派手に吹っ飛んだのは、殆ど自力で飛んだものだろう。
転がったのは何度も受身を取る関係上仕方なくそうしたはずだ。
瑠璃子はゆらりと立ち上がる。
去年の時は、反応すらできなかった渚の打突を、自分の体捌き一つで受け流したのだ。
渚の吹き出した圧倒的なまでの殺気を感じ取ったのだろう。
これまでの一年は無駄ではなかったことを証明したのだ。
(「オレに勝ってみせろ! バカ弟子!!」)
(「ハイッ!!」)
このときだけは、何故か渚と瑠璃子はテレパシーで会話ができたのだった。
観戦者たちは瑠璃子が立ち上がったのを見て一息ついたが、立った瑠璃子の様子がこれまでと違うことに気付いた。
明らかに雰囲気が違う、まとっている空気が違うのだ。
それはどんな素人でも感じ取れるほどだ。
そして素人ではない渚と香奈はそろって驚いた。
瑠璃子を取り巻くオーラの色は、青白く……ない。
どこまでも澄んだ、青い青い瑠璃色だった。
覚醒したのだ。
今、この瞬間に。
立ち会っている渚は肌が泡立つ感覚に襲われた。
現れたのだ、本当の意味で自分を負かすことができる存在が、今目の前に。
それと同時に、生まれて初めて味わうライバルとも呼べる存在、その気配に、歓喜したのだ。
先ほどの突きは渚の一本ということを審判が伝えていた。
だが、ここからが本当の勝負だ。
二本目の開始が宣告される。
その瞬間、渚得意の飛び込み面を繰り出す。
だが、今の瑠璃子にそんな技は通用しなかった。
しっかりと迎撃されてしまう。それどころかそれを打ち払い、返し面を入れてくる始末だ。
渚は必死に体を捻ることで恐るべき一撃を回避するが、内心は冷や汗ものだった。
未だかつて、これほど刹那の極で回避を迫まれた覚えなど無かったからだ。
まさかこれほどまでとはと、叫びたい心境だ。
それと同時に喜びに打ち震える。
(くっく、よかった瑠璃子は偽物じゃねぇんだな)
ここからの剣戟の激しさは凄まじいものになる。
渚が攻める。
右へ左へと縦横無尽に駆け回り、人間離れしたスピードで翻弄していく。
渚の真骨頂はこの圧倒的なまでのスピードだろう
かと思いきや強烈なぶちかましも加えてくる。
小さな体のどこにそんなパワーがあるんだと思わず目を剥くほどの破壊力だ。
全国大会、それどころか昨年の全日本選手権大会ですらお目にかかれなかった技の数々を瑠璃子にぶつけていく。
この動き、身体能力はまさに獣じみたと言ってもいいだろう。
だが、瑠璃子もやられっぱなしではない。
渚が繰り出してくる打突を正確無比に切り払い、体当たりをしっかり受け流す。
その動きも、もはや尋常ではなかった。
渚がどれだけ最速の打突を出そうとも、どんなに手数を増やしたフェイントを入れようとも、今の瑠璃子には一切通用しないのだ。
寸分の無駄もなく、ぴたりと渚の本命を止めてくる。
それどころか、的確なカウンターまで仕掛けてくるのだ。
その驚異的な技の根源は、足捌きによるものだった。
渚の竹刀を受けるときには、すでに体は踏み込んでいるのだ。
いくら渚と言えど、こうまで正確な技を出されては苦しかった。
一年間稽古をつけてきた渚は知っている。
ここまで正確無比な技を今まで瑠璃子は持っていなかった。
覚醒したことが関係しているのだろう。
今まで『別人になるかのような』と表現していたが、これではもはや『別人』である。
見えているのだろう。
渚の一挙手一投足が。
圧倒的なまでに高められた集中力は驚異的な動体視力を与え、渚の指導により足捌きを延々と反復したことによる敏捷性とが、今まさに噛み合ったのだ。
攻める渚、守る瑠璃子であったが、その様子が次第に変わっていく。
無駄のない瑠璃子の動きが少しずつだが確実に、渚を追い込んでいった。
驚くことに、気づいたときには攻守逆転していたのだった。
攻められているのだ。あの渚が。
剣の重さも、速度も、経験も、全て渚のほうが勝っている。
なのに百戦錬磨の渚が自分のスタイルすら出せずに攻め込まれているのだ。
一手ごとに渚が劣勢に追いやられる様子がはっきりとわかるほどだ。
『返し技の剣士である瑠璃子はカウンターを狙う』
当初の渚はそう思い込んでいた。
単純に、自分の攻撃力が上か、瑠璃子の防御力が上か、そういう勝負だと思い込んでいたのだ。
だが、実際は違った。
超絶動体視力と敏捷性により超反応をみせる今の瑠璃子にそんな甘い考えなど微塵も存在しなかった。
攻撃をされても反応できるのであれば、恐れる必要がない。
こちらから攻めてやろう。
そう思ったのだろう。
もし、渚が一つでも受け答えを間違えたら?
もし、渚が自分の攻撃を捌ききれなくなったら?
もし、渚が劣勢の状況を打破するため苦し紛れの攻撃をしてきたら?
それをこちらから誘えばいい。
待つ必要など一切ないのだ。
その瞬間が来たら、瑠璃子は逃さず薙いでいくだろう。
今の瑠璃子にはそれを言えるだけの気迫がみなぎっていた。
しかし渚は渚で今の状況を理解し、劣勢ではあるが、こちらも隙をうかがっていた。
もし、瑠璃子が攻めあぐね、少しでももたつけば、高速の打突の持ち主である自分は一瞬にしてそこを奪える。
だからこそ渚は持てる力を振り絞り、必死に凌いでいくのだった。
その緊張感は見ている観戦者たちにも伝わっていた。
このやり取りだけで瑠璃子の実力を、渚が言った「毎日負けている」と言った意味が理解できたのだ。
こうして何度繰り返されたかわからない、またもや瑠璃子からの打突が渚を襲う。
長身を生かした渚の上から被せるような面打ちだ。
渚は当然のごとく反応し、待ってましたと言わんばかりにそれを返す。
この瞬間、渚が完全に『後の先』を取った。
普通であればこれで一本になるだろう。
それぐらいタイミングは完璧だった。
しかし瑠璃子はそこからさらに一手多く取ったのだ。
言うなれば、瑠璃子の『先の後の先』とでもいうのだろうか。
渚の面返し面をさらに返したのだ。
これには教士八段の先生だろうと、多くの剣道の試合撮ってきたカメラマンだろうと、見たことの無い絶技だった。
瑠璃子の一本である。
剣道場は大きくどよめいた。
公式戦ですら渚が一本を取られたことなど無かったからだ。
渚自身、一本を取られることなど久しく無かった。
というよりも初めて通った道場以来だろう。
この瞬間、渚の心の中で複雑なものがぐるぐる回っていた。
強くなってほしい、自分を倒せる存在になってほしい。
そう思って育てた弟子である。
自分から一本を奪ったことに嬉しく思う反面、素直に喜べない自分もいる。
この日のために用意した舞台だ。
周りには渚と瑠璃子を応援するクラスメイト、カメラマン、剣道関係者、先生、多くの人たちが見ている。
その中心で覚醒した瑠璃子と向き合っている自分。
勝ちを譲るのは簡単だ。
だが、次はあるのか?
今ここで負けてやったとしても、また同じように瑠璃子と真剣勝負ができるのか?
こうして神経をすり減らすほどの試合、緊張感、焦がれていたのだ。
今、初めて真剣勝負を味わっている。
自分が負けるかもしれない、そんな勝負をしてみたかったのだ。
今がまさにそれなのだ。
初めて味わうこの感覚に勝ちたいと望む気持ちが生まれてしまったのだ。
だが、瑠璃子に勝ちを譲らなければならない。
そのために今までやってきたのだ。
勝ちたい気持ちと、勝ちを譲らなければならない心がぐちゃぐちゃになってしまったのだった。
今までこんなに迷って竹刀を持ったことが無かった渚だった。
どんなに動機が不順だろうと、どんなに相手を舐めてかかろうと、防具を付け竹刀を持った時点で相手を叩きのめすことしか頭になかった。
一度入り込んでしまうと、払拭するのは困難だった。
今は試合中である。
悩んでいる場合ではないのだ。
なのに、あれやこれやと考える。
どんどん焦っていく。深みにはまっていく。頭が冷静にならない悪循環。
渚ほどの達人であろうとも、まだ17歳の少女なのだ。
(どうする!? どうすればいい!? オレは、オレは……どうしたら……どうしたらいい……?)
当然だが、答えはでない。
次で決着をつけなければならない。
勝ちにいってもいいのか?
いや、瑠璃子に譲らなければ……。
勝たせたとしても、次はあるのか?
もし、このまま本気を出さずにいたら一生後悔するかもしれない。
これ程の試合をドブに捨てるような真似は勿体ないのではないか。
答えがでないまま三本目が宣告される。
当然、渚の身体は動かない。動けなかった。
明らかに精彩を欠くものの雰囲気だった。
そして、瑠璃子も動かなかった。
考え事に夢中になっていた渚はこのとき一本を取られた後、初めて瑠璃子を見たのだった。
ハッとした。
我に返るとはこのことを言うのかと思った。
瑠璃子の身体から今まで以上に強いオーラが溢れ出ていた。
こちらに何かを訴えかけてくるようであり、殺気に近いものでもある。
自分が突きを出したときと同じゆらぎだった。
瑠璃子から見て渚の精彩を欠く様子がはっきりわかったのだろう。
奇しくも先ほどの渚と同じ気持ちになったようだ。
(今さら、今さら!! ここまでやって負けるつもりですか!? ならさっきの突きは何だったんですか!? 言ったじゃないですか、負けるつもりは無いって!)
(…………)
(このまま終わりにしたら許しませんからね!! 絶交ですよ!!)
闘志満々の瑠璃子である。
試合中である会話したわけではない。
しかし、その想いは渚まで届くのだった。
(ナギさん!)
(ちっバカ弟子がぁ! 人の気も知らねぇで好き勝手言いやがって!!)
(使ってきてください、あれを! 私はそれを、返してみせます!!)
渚の頭の中から迷いが吹き飛んだ。
瑠璃子から吹き出す闘志、殺気が渚の心に再び火を付けたのだった。
覚悟は決まった。
『リミッター解除は使わない』
(だが、負けてやるつもりもない! オレは今のこの力だけでお前に勝ってみせる!!)
三本目を宣告されてから、時間が大分すぎていた。
このやり取りの間、互いに身動き一つ取らなかったのだ。
これには見ていた観戦者の方が何事かと思ったくらいだ。
だが、二人から漂う緊張感が尋常ではないということも感じ取っていた。
これは自分たちがわからない何かがあるのだろうと、そう思ったのだ。
その時だ。図ったように二人が動きだした。
それは先ほどまでのような素早い動きではない。
ずるりずるりと地を這うように、互いが互いの間合いを詰めていくのだ。
この様子にどんなに素人の観戦者でもわかった
間合いに入ったが最後、勝負は一瞬で付くと。
二人の雰囲気が如実に物語っている。
『このまま引き分けてなるものか』
互いからなんとしても勝ってやるという強い意思が感じられるのだ。
素人の観戦者たちでもそれがわかるほどの緊迫感だ。
もはや、物音一つ、呼吸音一つ聞こえなかった。
誰もが呼吸をするのを忘れてしまうくらい、瞬きをするのが惜しむくらい、この試合に釘付けになっていた。
お互いが相手の様子を注意深く見ている。
さらに距離が詰まる。
そのまま一足一刀と呼ばれる、一歩踏み込めば竹刀が届く距離に達する。
ここでも図ったようにぴたりと動きを止める二人だった。
睨めあっているだけにのように見える二人だが、空気がぎりぎりまで張り詰めていた。
気迫のぶつけ合い。
押されたほうが負ける。
一歩でも引いてしまったら、このぎりぎりの空気に飲まれてしまうだろう。
はたしてどちらが先に動くのだろうか。
こうなるとどちらが『先』を取るかで勝負が決まるはずだ。
『高速の打突』が最速を誇って瑠璃子を打ち抜くのか、『驚異の絶技』が鉄壁の守りで渚を切り払うのか。
かたずを飲んで見守る観戦者たち。
見ているだけなのに汗がじっとりと滲んでくる。
数秒が果てしないほど長い時間と思われる。
そして、この空気に誰かが堪えきれなくなったのだろう。
誰かが「ほっ」とため息を吐いたのだった。
二人が動く。
驚異の運動能力を誇る渚と、覚醒状態の敏捷性を持った瑠璃子である。
その疾さは常軌を逸したものだった。
「やあ――――っ!!」
「…………ッ!!」
あっと言う間にお互いに面を打ち合っていた。
勝者は、
この打ち合いは一瞬の出来事だったはずだった。
なのに、誰一人として決着を見逃していなかった。
見逃すというよりも、何故かわかってしまったのだ。
それは小指の先ほどもないと思われるほど些細な差だ。
だがしかし、確実に片方の剣が疾かったのだ。
勝者は、
渚だった。
おそらく、気合の声を発した渚のほうが、僅かに。ほんのちょっとだけ剣が走ったのだ。
この瞬間、この剣道場が湧き上がったのは言うまでもない。
全国大会の決勝でもこうまで盛り上がらなかっただろう、そのくらいの大拍手が巻き起こった。
観戦した誰もがこの場に居合わせたことに感謝する思いだった。
あるものは興奮に顔を真っ赤にし、あるものは目から涙を流し、あるものは惜しみない拍手をこの二人に与え続けた。
香奈はこの様子を感じ取って、体から力を抜き、大きくため息を吐いていた。
何事も起きなく、無事に済んでくれたこと神に感謝したいくらいだった。
決着がどうなるかはどうでもよかった。
どちらが勝つにせよ、あの二人が戦うのだ。
ドラマが生まれないわけがない。
それよりも瑠璃子が怪我をするようなことになったらと、それだけが心配だったのだ。
無事で本当に良かったと思っていたのだが、渚の様子を見やって首を傾げる。
「―――い! 最後手抜きやがっただろう!?」
「…………」
「ふざけるな!! 何で本気で打ち込んでこなかった!? 何勝ち譲ってんだ! 最後までちゃんと勝負しろ!!」
そんなことを喚き散らしているのだ。
呆れたように天を見やった香奈だった。
途中で何かあったにせよ、あれだけ散々「オレは本気を出さない」「オレが勝っても意味ねーだろう」などと言っていたくせに何を言っているんだ、と。
もはや目的が変わっているではないか。
そんな渚を冷静に見つめ、静かに返す瑠璃子だった。
「ナギさん。納得できないのでしたらまた今度試合をしましょう。私はどこへも逃げません」
それだけ言ってその場を後にする瑠璃子だった。
当然、渚はおさまろうはずもない。
「お、お、お前!! 誰に向かってそんな口利きやがる!! 今度じゃねぇ今試合しろ!! もう一度だ! っておい聞いてんのか!? 戻ってきやがれぇ!!」
もはや怒りのために呂律が回らない渚だったが、この姿をみた全員はどちらが本当の勝者はどちらなのか勝手に解釈していくことになる。
「ねえねえ、勝ったのは渚さんみたいだけど……」
「うーん、あの様子だとどっちが勝ったのかわからないわね」
「試合内容的に朝川瑠璃子のほうが終始押していたよな」
「それに、本人たちのあの話、本当に勝ちを譲ったのか?」
「瑠璃子って子は女流最強剣士に花を持たせたのか、今の年齢ながら恐るべき子だな」
そんな感じである。
まさに王者の風格を見せつけた瑠璃子に対し、負け犬の遠吠えのように喚き散らすことしかできない渚だった。
渚のその姿はもはや最強剣士の威厳はどこへやら、到底呼べるものでなくなっていた。
タイトルこそ存在しないが、事実上の新女王、誕生であった。




