命がけの反撃
この小説は「命」がテーマの企画に参加し、執筆した小説です。キーワード「命小説」で検索いたしますと、企画に参加した他の先生方の小説を読めます。
大和にある郡山藩士として郡山城の門番を勤めていた佐々木駒次郎という壮年の男がいる。彼は藩校の総稽古所において剣の腕は切り紙であったが、師範を勤める年配の男から度々言われ続けていた点があった。いわく、お主の剣は軽い。いわく、撃剣においてのみ通じる小技ばかり上手くなる。
だが駒次郎は何度言われようと自身の技を見直そうとはしなかった。真剣を使って斬り合う機会なぞそうそう巡って来る訳もないだろう、といった考えを持っていた面も確にあったのだが、それとはまた別に、駒次郎は俊敏な剣の腕を高く評価する者達からもてはやされていて、その事が彼の自尊心を高めていたので、事実にして切り紙となったのだから悪く言われる筋合いなど無い筈だ、という反発する心もあったのだった。
そんな彼がある日の夜脱藩した。刃傷沙汰を起こして逃げ出したのだ。
泰平の世にあって退屈な見張りの仕事に飽々し、不満を募らせていた駒次郎は、常日頃から同僚に愚痴を溢していた。ある日の夜、その同僚と居酒屋の暖簾をくぐった駒次郎は、奥の長床几に腰をかけ、酒と煮豆を注文し、そうしていつもの様に飲みながら愚痴を漏らしていた。
そのうち、聞くに耐えなくなった同僚が突然激昂した事から口論となり、やがてその口論は互いに刀を抜き合わすという所まで発展した。
斬り合うつもりなどはなかった二人であったが、揉合いとなったおり、駒次郎は誤って同僚を斬ってしまった。脅かすつもりで振った刀が同僚の腹を斬ってしまったのだ。
彼は真剣を抜いて誰かと対峙する事は初めてだった。当然、人を斬った事もこの日が初めて。だから駒次郎は柄から伝わってきた生身の人間を斬った手応え、同僚の腹から噴き出て来る血流、更には、えらい事をしでかしてしまった、という自責の念にかられた事から、蒼白となって店から飛び出し、そのまま郡山から逃げ出したのだった。
郡山を出奔してからの駒次郎は、関所や番所を巧みに避け、山道間道を東に向かってひた走った。特に向かうべき場所などはない。あても無く東へ向かっただけである。
駒次郎は夜通し逃げ続けた。その間、彼の脳裏を駆け巡るのは、手違いとはいえ彼自身の手によって殺してしまった同僚の事ばかりではない。確かに同僚に対しては、気の毒な事をしてしまった、という後悔の念があるものの、長い付き合いという訳でもなく、また、特別仲のいい間柄という訳でもなかったので、どちらかと言えば真剣を使って人を斬った事実自体に強い動揺を覚えたにとどまる。
だから逃げ歩いている間、同僚を斬ってしまった事への動揺は次第に収まりゆき、変わって思いを馳たのは残して来た妻子と両親の事であった。
脱藩は主君を見限ったと見なされる為、重罪となる。駒次郎が出奔した事実は、皆の知るところではない。それだけの事であれば家族に罪が及ぶ事も無いだろうが、駒次郎は人を斬った上で逃げ出したのだ。殺人犯の家族として周囲の者らから疎まれるだろう事は容易に想像がつく。
その事を思うと心が痛む。しかし時既にもう遅い。居酒屋では客の目があった。あのまま留どまっていれば駒次郎は殺人の罪によって下手人、則ち斬首刑に処されるしかない。どの様な形であれ、生きてさえいればいずれ家族に詫びを入れる機会も巡って来よう。しかし死んでしまえばそれでさえ出来ないのだ。また、詫びを入れたところで、妻子らがこれから味わうであろう責め苦の日々が霧散霧消する筈もないのだが、そう考える事で自身を慰めつつ逃げ続けるのだった。
駒次郎は柳生の里を迂回して大和国から脱し、伊賀を抜け、やがて伊勢を前にして山中で休息を取っていた。時既に三日がたち、道なき道を通って来た駒次郎の着衣はあちこち擦り切れて汚れも酷い。
途中、沢蟹を取ったり、草木を口にしたりして飢えをしのいで来た。何度となく、山を降り、町に出て、小綺麗に身繕いをし直し、まともな物を食べたい、といった欲求が湧き出て来たのだが、その度に、今の姿のまま町に降りると役人の目に止まって捕まってしまいかねない、と自身に言い聞かせて我慢した。
しかしそれももう限界に近い。彼は伊勢にたどりついたら町に出よう、などと考えていた。
捕まるのは承知の上だ。
かの地には観音寺前の大通りを中心に城下町が広がっていて大層栄えている、といった話を聞いた事があった。その事を思い出した駒次郎は、きっと郡山では味わった事も無い美味な料理を出す店が軒を連ねているに違いない、といった想像が湧き出て来る。伊勢を目前にして休息を取る彼の期待は、膨れ上がる一方であった。
ふと、物音が聞こえた気になって耳を澄ました。逃亡の最中、彼は幾度となく微かにでも物音を聞いた時には、こうして聞耳を立てていた。多くは、そよいだ風に触れた草葉の擦れ合う音であったが、今回の場合は様子が違う。山肌を擦る草履の音が混じっている。
人が近付いて来る、と駒次郎は察して律然となった。役人ではないだろうが駒次郎を追って来た郡山藩の手の者の可能性は十分ある。
駒次郎は草葉の影に隠れ忍び、全神経を足音のする方に向けて聞き入った。
足音は次第にはっきりと聞き取れる様になってくる。随分と近付いて来た様子に駒次郎の緊張感も高まってくる。
駒次郎は追っ手でない事を心中祈った。杣伐りの人足や、道に迷った単なる旅の者であるかもしれない、といった希望にすがりたく念じ続ける。
駒次郎の目が人影を認めた。草葉を掻き別けて近付いて来る人影。やがて擦り切れた着物を着流した浪人者だという事に気付いて、何故この様なところに浪人なんぞがやって来るのだ? と、駒次郎の動悸は一層烈しくなる。
浪人者は草葉を掻き別けつつ、辺りを見回して誰かを探している様子だ。その様を観察しているうち、やはり自分を探しに来た輩だろうか? と、駒次郎は考え、更に、食いぶち欲しさに雇われた輩かも知れん、と思い至り、身震いした。
もしそうであれば、突く棒を手にした捕り方よりもたちが悪い、食い詰めた浪人などというのは何をしでかすか分からん連中ばかりだ、僅かばかりの報酬の為には人を斬るのもいとわないだろう、と思考を進めた駒次郎は、更に、仮に雇われてはいないにしても俺の首を手にして褒章金にありつこう、との考えを持っていたところで何ら不思議でもないだろう、などといった悲観に満ちた事ばかり考える。同僚に手をかけ、己の身ばかり案じ家族らを残して逃げ出してきた悔恨の念が、彼をそうした考えに至らしめているのかも知れない。
やがて、早い事ここから逃げ出さ無ければ命が危ない、との考えに至り、迫り来る浪人の隙を見逃さんばかりに神経を尖らせて注視した。すると、浪人がふいに屈み込んだ。そこは休息を取る前に駒次郎が用を足したところである。
今だ、と思って駆けようと立ち上がった駒次郎。踏ん張った一瞬、迂濶にも足を滑らせて尻餅をついてしまった。
しまった! と駒次郎が思った直後、何奴っ!? という誰何とともに浪人が走り込んで来た。
慌てて立ち上がろうした駒次郎だが、草葉を別け入って来た浪人と目が合った瞬間強張った。見つかってしまった、という思いもさることながら、人を斬った事のある者が持つ陰惨な気配を感じ取って気圧されたのだ。
「駒次郎ってのはお前の事だな?」
あざとい片笑みを浮かべて問うてきた浪人の表現は、狙っていた獲物を見付だした獰猛な野犬さながらに舌舐めずりせんばかりだ。
「駒次郎? そんな奴ぁ知らん」
「しらばっくれんじゃねぇ!」
浪人は激昂したのち懐から紙を一枚取り出し、駒次郎へ見せるように突き出した。かの者を捕えてきた者には金十両を渡すものとする、といった内容の文が記載されてある人相書きであった。
「郡山城下で配っていた手配書よ。この面ぁてめえ以外何者でもねぇだろ。どうだ? ん?」
下卑たニヤケ面をする浪人者が持つ手配書を眺め見て駒次郎は、もう駄目だ、となかば観念した。実戦慣れした手練であろうこの男の手から、逃れえぬ事は明白であった。
しかし突然、抜けよ、と浪人者が言った。咄嗟には判断つきかねる駒次郎に苛立った浪人者が、抜けっつってんだろ、と声を荒げる。
「抜けって……刀をか?」
「それ以外何がある。おら、早く抜けよ。でないと今すぐ叩っ斬ってやるぞ」
浪人者の怒気に気負された駒次郎は、いかがわしい思いを抱きつつも立ち上がり、腰帯に差していた刀の鯉口を切ると、すらりと抜いた。誤って同僚の命を絶った刀身が、山奥にて再び採光を放つ。
「ようし、それでいい」
浪人者は満足そうに頷いたが、駒次郎には意図が見えない。何がしたいのだ、との駒次郎の思いとはよそに、浪人者は無言のまま刀を抜いた。
斬り合いたいのか? という考えが駒次郎の脳裏をよぎり、鼓動が一層早くなる。
しかし、さきの手配書には
「捕えた者には金十両」
と書いてあった。報償金目当てであるのは明白だ。斬り殺そうとまでは考えんだろう、といった甘い考えが駒次郎にはあったのだが、何のてらいも無く刀を抜いた浪人に、恐ろしい殺気を感じ取った。
駒次郎は思わず、斬るのか? という問掛けを口にした。浪人は、そうだ、と駒次郎を不気味に見据える。そうして駒次郎に、抵抗したならばこれを斬って藩に首を持って来い、とのお達しが出ている事をながば笑い、そうする事で圧っしながら伝えた。
駒次郎は身がすくんだ。八双に構えた浪人が腰を落とし、ゆっくりと間を詰めて来る。殺気づいた浪人の眼光に気後れした駒次郎は、刀を正眼において後退する。
殺される。恐怖した駒次郎の口から、歯の噛み合わさらない音がする。そのままじりじりと後退する駒次郎。
「観念しろや駒次郎さんとやらよぉ」
浪人者はニヤケた笑みを張り付かせたまま威嚇し、直後一歩踏み込んで斬り付けてきた。
ひぃっ、という声が漏れた駒次郎だが、咄嗟の打ち払いで何とか退ける。浪人者が打ち込んできた瞬間、驚きのあまり目を閉じる始末だから、まさに偶然の産物である。
この一合わせで技量の差異は明白であった。
駒次郎が単なる木偶でしかない事を浪人者はすぐに察した。
浪人者が気合いの打ち込みを繰り出した。振り被るなり真っ向から斬り下ろす。体を捌いて辛うじて避ける駒次郎。追い掛ける様に打ち振るう浪人者の刀を、駒次郎は掬い上げて跳ね返す。実戦経験の無い駒次郎であったが、次から次へと打ち込んでくる浪人者の斬り付けに、何とか喰らい付いてしのいでいく。
道場剣法で培った体用。恐怖して畏縮してはいるもののの、切り紙者として敏捷な動きみせる駒次郎。しかし、反撃の去に出る事は迂濶には出来ない。
畏縮したままでは体の根ざさない小手先の動作となっていたずらに隙をみせる形となり、虚しく斬られるのは目に見えている。だから防御に徹するしかないのである。だがそれも、目前の死が先送りになっただけであるかの様に、次第に圧されていくのだった。
かわされる度に浪人者から気合いの乗った打ち込みが繰り出されてくる。着衣のあちこちが薄く切れる。するどい突きが小鬢をかすめる。いよいよ捌き切れなくなって来た時、おのれっ! という浪人者が発っした気合いの掛け声とともに激しい斬り下ろしが駒次郎を襲った。
駒次郎の肩先から血飛沫が舞った。身を翻して避けたつもりが、避けきれずに斬られたのだ。
しかしその途端、激憤した駒次郎が反撃に出た。浅手ではあったものの、己の血を見た瞬間、このままでは殺られてしまう、という思いに駆られた事によって、反って気が激しくいきり立ったのだ。 防戦一方であった駒次郎の必死の袈裟斬り。浪人者は驚きはしたが、これを打ち払うつもりで合わせにいく。
しかし、駒次郎の捨て身の一撃は、気が激した事で奥した心が打ち払われ、鋭い打ち込みとなり、受けるつもりだった浪人者の刀を逆に弾き返した。
心気力一致した駒次郎の剣。
目を見張る浪人者。直後、駒次郎は鍔本で浪人者の頭をかち割らんばかりに大きく踏み込む。気が激するまま浪人者の股下にまで足を踏み入れた駒次郎は、そのまま右袈裟に斬り下ろす。
浪人者からすると、目前に駒次郎の顔面を見た直後、己の体が斬られた形だ。やられた、という思いが脳裏を走るより先に、激しい痛みが彼を襲った事であろう。
浪人者の体から血流が迸った。次いでがっくりと膝をつき、刀を落とし、ついには体が崩れ落ちた。 うつ伏せに倒れた浪人者の体の下の地面が、流れでる血で染まっていく。残心のままその様を見る駒次郎の肩が、荒い呼吸の為に上下している。同僚を斬った時とはまた違う手応えが、駒次郎の手に残っている。
生き延びたのか?
駒次郎は、信じられないといった風に茫然としていた。自発的に人を初めて斬った。これが真剣の斬りあいなのか、と徐々に実感せられてくる。
やがて呼吸も落ち着いてくると、残心を解き、血振りし、納刀した。
道場での剣術とは違った真剣での斬り合い。道場では爪先だって半身となり、手先ばかりの霞め打ちであった事が今に更ながらに思い出される。ようやく師範の言っていた意味がわかった気がする。心であり、気力。それなければ、奥してしまって斬りあうには至らないのだ。
駒次郎は仏となった浪人者を一瞥すると、その場を立ち去っていった。これから先、幾度もこうした手合いと斬り結ぶ事になるだろうが、どんな事をしても斬りふせてやる、といった気概を持ち合わせねば、命はいくつあっても足りないのだ。
その事を察した駒次郎は、いつか敵と相対した時、直ちに斬りかかる去に出るだろう。そうする事で、己が生きる事に繋がるのだ。
駒次郎の逃亡は今尚続けく。家族と合いまみえるまで。
了
投稿後に気付いていた修正すべき点を手直ししました。また、評価コメントを頂いて参考にし、それを自分なりに加筆修正してもみました。多分、多少はよくなっているだろうとは思いますが、よろしければまた指摘あればコメント下さるとありがたいですm(_ _)m