「存じ上げませんが、どちら様ですか?」——忘れることが、最も残酷な復讐になった
朝霧が薬草畑に垂れ込める頃が、一日でいちばん好きだった。
まだ陽が低い時刻、露を纏った薬草たちがきらきらと光る。その一つ一つに指先で触れると、冷たい雫が掌に落ちて——ああ、今日も世界はきちんと朝を迎えたのだと、そう思える。
私の名前はフィー。薬師の弟子をしている。
それ以前の私のことは、よく知らない。
「フィー、朝露のうちにカモミールも摘んでおいてくれ」
低い声が背中にかかる。振り向くと、濃い茶色の髪を無造作に掻き上げたルカスさんが、大きな籠を肩に担いで立っていた。
「はい。あ、ルカスさん、そっちの道は昨日の雨で滑りやすくなっていますから、気をつけてくださいね」
「……ああ」
ルカスさんはそれだけ言って、足元に視線を落とす。朝のルカスさんはいつもこうだ。必要なことだけ口にして、あとは黙々と働く。
でも私は知っている。
彼の視線が、すぐにこちらに戻ることを。まるで確かめるみたいに——私がちゃんとここにいるかどうか、確かめるみたいに。
お師匠様——薬師のマルタさんのことを、私はそう呼んでいる。
小柄だけどがっしりした体つきで、白髪交じりの三つ編みをいつも肩に垂らしている。軒先には常に薬草が吊るされていて、小屋のどこにいても干し草と薬草の混じった匂いがする。
「フィー、その乾燥具合はまだ甘いよ。あと半日は吊るしときな」
「はい、お師匠様。……この紫蘇、少し葉が小さい気がするんですが」
「おや、よく気づいたね。今年は春先の冷え込みが長かったからね。実はこの小さい葉のほうが、薬効は強いのさ。ぎゅっと凝縮されてるんだよ」
「わぁ、そうなんですか。小さくても頑張ってるんですね」
お師匠様は目を細めて笑った。皺がいっそう深くなるけれど、その顔がたまらなく好きだ。
「あんたはそういうところが薬師向きだよ、フィー。薬草に話しかけるような子は、ちゃんと育てられる」
私は五年前からここにいる。
それより前の記憶は、ない。
記憶がないと言うと、たいていの人は憐れむような顔をする。村の人たちは最初こそ心配してくれたけれど、今ではもう「フィーはフィーだ」と受け入れてくれている。
時々、ふと考えることはある。
前の私——お師匠様が「フィーネ」と呼ぶ、かつての私——はどんな人だったのだろう。伯爵家の令嬢だったと聞いている。綺麗なドレスを着て、豪奢な館に住んでいたらしい。
でも不思議と、寂しくはない。
「前のフィーネさんがどんな方だったか分かりませんけど、今の私は幸せです」
お師匠様にそう言ったことがある。お師匠様は一瞬だけ目を伏せて、それからいつもの顔で「そうかい」と笑った。
その時、奥の部屋からルカスさんが出てきて——何も言わずに、私の前にお茶を置いた。
湯気の立つ、カモミールのお茶。私が好きだと言ったのを覚えていてくれたのだ。
「……ありがとうございます、ルカスさん」
「ああ」
それだけ。でも、耳の先がほんの少し赤くなっていたのを、私は見逃さなかった。
私がこの村に来た経緯を、お師匠様は淡々と教えてくれたことがある。
五年前のある夜。
お師匠様が王都に薬の納品に行った帰り道、街道の脇で倒れている少女を見つけたのだと言う。
薄い金色の髪が泥だらけで、高価そうなドレスはぼろぼろ。目を開けても、自分が誰かも分からなかった。
「『私は……誰ですか?』って、自分のことをそう聞いたんだよ。自分が誰かも分からないのに、丁寧な言葉遣いだけは残っててねえ。育ちのいい子だってすぐに分かったよ」
お師匠様はそう言って、遠い目をした。
「王都に届け出は出したさ。でも引き取りに来る者は誰もいなかった。だからあたしが預かることにしたのさ。薬師の弟子として——フィーとして」
引き取りに来る者は、誰もいなかった。
その言葉が何を意味するのか、今の私には分からない。でも、お師匠様はそれ以上を語らなかったし、私も聞かなかった。
分からないままでいい。
だって今、ここで十分に幸せなのだから。
薬師の仕事は忙しい。
朝は薬草の世話と収穫。昼は乾燥と調合。村の人が怪我や病気で訪ねてくれば診る。午後は薬の瓶詰めと在庫の管理。
私は特に調合が好きだった。
薬草の組み合わせには無限の可能性がある。お師匠様でさえ「あんたの調合の勘は天性のものだよ」と褒めてくれる。ルカスさんに至っては——
「俺は調合がからきしだからな。フィーがいなきゃ困る」
ルカスさんがそんなに長い文章を話すのは珍しい。私が驚いて目を丸くすると、彼はぷいっとそっぽを向いてしまった。
でもその横顔が、どことなく照れているように見えた。
ルカスさんは薬草の採取と力仕事が担当だ。山道を何時間も歩いて、崖の上に自生する貴重な薬草を摘んでくる。傷だらけの手は、いつも土と草の匂いがした。
「ルカスさん、手、また切ってますよ。見せてください」
「いい。大したことない」
「だめです。お薬塗りますから」
彼の大きな手を取って、軟膏を塗る。私が作った傷薬だ。
ルカスさんの手は固くて温かい。何も言わずにじっとこちらを見ている——と思って顔を上げたら、やっぱり視線をそらされた。
「……すまない」
「どうして謝るんですか?」
「手間をかけた」
「手間なんかじゃないです。薬師の仕事ですから」
そう言うと、ルカスさんは少しだけ口元を緩めた。笑った——と言うにはあまりに微かだけれど、私にはそれが分かる。五年も一緒にいるのだから。
夕焼けの丘は、薬師小屋から少し歩いた高台にある。
辺境の山々が連なる向こうに陽が沈むと、空が赤と橙と紫に染まる。その色は日によって微妙に違って、何度見ても飽きることがない。
いつからか、夕方にはルカスさんと二人でここに来るようになっていた。
「今日の夕焼け、特別綺麗ですね」
「……ああ」
「ルカスさんは、どの色がいちばん好きですか?」
「色?」
「はい。赤い空と、橙色の空と、紫がかった空と。私は紫が混ざるときが好きです。菫みたいで」
ルカスさんは黙って夕焼けを見つめた。長い沈黙の後、ぽつりと言った。
「……菫色」
「え?」
「菫色が、いい」
それは夕焼けの色のことだろうか。私の目の色——菫色と同じだと気づいたのは、ずっとあとになってからだ。
穏やかな日々だった。
記憶がないことは、不幸ではなかった。むしろ、余計なものを持たずに済んでいるような——身軽さすら感じていた。
前のフィーネさんは幸せだったのだろうか。
分からない。でも、少なくとも今の私は幸せだ。
お師匠様がいて、ルカスさんがいて、薬草がある。村の人たちが「フィー、この前の薬よく効いたよ」と笑顔で言ってくれる。子どもたちが「フィーねえちゃん、今日のお花なぁに?」と駆け寄ってくる。
それだけで、十分だった。
だから、その日のことは本当に突然だった。
午後の調合をしていたときだ。小屋の外で馬の蹄の音がして、続いて聞き慣れない声が響いた。
「すまない、ここは薬師の——マルタという方の家か」
声は男のものだった。低くて、かすれていて——どこか必死な響きがあった。
お師匠様が出ていく気配がする。私は調合の手を止めて、窓からそっと外を覗いた。
見たことのない男の人が立っていた。
赤銅色の髪は乱れ、灰色の目は落ちくぼんでいる。かつては上等だったのだろう外套は擦り切れ、頬は削げ、全身に長い旅の疲労が染みついていた。
貴族——だと思った。ぼろぼろでもどこか気品のある立ち姿は、そう判断させるに十分だった。
「マルタだけど、何の用だい?」
お師匠様の声がいつもより硬い。まるで最初から警戒しているみたいだった。
「五年前……五年前に、この辺りで記憶を失った少女を保護したと聞いた。金髪の、菫色の目の——」
男の声が震えた。
「フィーネ・フォン・ヴァイスという名の少女を。彼女は、ここにいるのか」
フィーネ。
それは——前の私の名前。
私はお師匠様が何と答えるか分からないまま、小屋の奥で息を潜めていた。するとお師匠様が振り返って、静かに言った。
「フィー。出ておいで」
小屋の前に出ると、男の人は一歩、二歩とよろめくように近づいてきた。
灰色の目が大きく見開かれる。そこに浮かんでいたのは——驚きと、安堵と、そしてどうしようもない後悔が混ざったような、複雑な感情だった。
「フィーネ……」
名前を呼ばれた。
前のフィーネさんの名前。
「フィーネ、やっと見つけた。五年だ。五年かかった」
男の人は声を震わせた。やつれた顔に、涙が伝う。
「迎えに来た。一緒に帰ろう、フィーネ」
私は首を傾げた。
目の前の人が誰なのか、本当に分からなかった。記憶を辿ろうにも、五年前より向こうには何もない。白い霧に包まれたような、空白しかない。
だから、素直に聞いた。
「申し訳ありません。存じ上げませんが、どちら様ですか?」
男の人の顔から、血の気が引いた。
ゆっくりと、本当にゆっくりと。まるで突き刺さった剣の痛みがじわじわと広がるように、その言葉の意味を理解した——そんな顔だった。
「覚えて、いないのか……?」
「はい。ごめんなさい、お会いしたことがありますか? 私、五年前より前のことを覚えていなくて」
嘘ではない。演技でもない。
本当に、何も覚えていないのだ。
男の人——あとでオスカーという名前だと知った——は、その場に崩れ落ちそうになるのを必死にこらえていた。唇が音もなく震えて、何度か言葉を探すように口を開閉する。
「俺は——俺は、オスカーだ。オスカー・フォン・リヒテン。お前の……お前の婚約者だった男だ」
婚約者。
その言葉を聞いても、胸の奥には何の波紋も立たなかった。他人の話を聞いているようだ。
「そうでしたか。前のフィーネさんの婚約者様だったんですね」
前のフィーネさん。
私は無意識にそう口にしていた。オスカーさんはその言い方に一瞬だけ目を見開いた。
お師匠様が場を仕切ってくれた。
「立ち話もなんだよ。中に入りな。お茶くらいは出すからさ」
小屋の中、四人で卓を囲んだ。お師匠様と私が向かい合い、オスカーさんはお師匠様の隣——私の正面ではなく、少しずらした位置に座らされた。お師匠様の配慮だろう。
ルカスさんは入口近くの壁に背を預けて立っていた。座らないのは——たぶん、いつでも動けるようにするためだ。
「それで、今さら何の用だい。お貴族様」
お師匠様の声には棘があった。辺境訛りの柔らかさとは裏腹に、その目は鋭い。
「フィーネを……迎えに来た」
「五年も経ってからかい」
「探していた。ずっと、五年間」
オスカーさんは卓の上で拳を握り締めた。爪が食い込んで、指の関節が白くなっている。
「俺が悪かった。全て俺のせいだ。婚約を破棄して、フィーネを追い出して——あのとき、俺は別の女に惑わされた。だが彼女は俺を利用しただけで、金を搾り取って消えた。家は傾き、爵位も危うい。残ったのは後悔だけだ」
長い、長い告白だった。
私は黙って聞いていた。悲しいとか、怒りとか、そういう感情は湧いてこなかった。ただ——ああ、この人は苦しんできたんだな、と思った。
「だから、戻ってきてくれ。フィーネ」
「あの……」
「覚えていなくてもいい。いや、覚えていないなら——一からやり直せる。俺は変わった。今度こそ、お前を大切にする」
覚えていないなら、一からやり直せる。
その言葉に、お師匠様の目がすっと細くなった。
「ちょっと待ちな」
お師匠様が卓を掌で叩いた。乾いた音が小屋に響く。
「あんた、自分が何を言ってるか分かってるのかい? 覚えていないからやり直せる? それは——この子が記憶を失ったことを利用しようってことだよ」
「違う、そういうつもりじゃ——」
「じゃあどういうつもりだい? あんたがこの子を捨てたんだろう? 婚約を破棄して、行き場をなくしたこの子が記憶をなくすほどの衝撃を受けた。その原因はあんただ」
お師匠様の声は静かだったが、重かった。
「五年間、この子がどれだけ頑張ったか知ってるのかい? 名前も分からない。家族も分からない。自分が何者かも分からない。それでも泣き言ひとつ言わずに薬を作る事を覚えて、村の人に頼りにされるまでになった。あんたが壊したものを、この子は自分の手で一つずつ作り直したんだよ」
オスカーさんは何も言えなかった。顔を俯けて、その言葉の一つ一つを受け止めているように見えた。
「あたしが言えるのはこれだけさ。決めるのはフィーだよ。でもね——あんたに、この子を連れて帰る権利なんてない」
沈黙が落ちた。
秋の午後の、静かな時間。窓の外で風が木々を揺らす音だけが聞こえる。
私は——正直に言えば、困っていた。
怒るべきなのだろうか。泣くべきなのだろうか。前のフィーネさんなら、きっと何か感じるのだろう。でも私には、この人との記憶がない。喜びも悲しみも、恋も憎しみも——何も。
「オスカー様」
名前を呼ぶと、彼が顔を上げた。灰色の目に必死な光がある。
「あなたが苦しんでこられたことは、なんとなく分かります。五年も探してくださったんですね」
「ああ——ああ、そうだ」
「ありがとうございます。前のフィーネさんも、きっと……そうですね、複雑な気持ちだったと思います」
前のフィーネさん。
また、その言い方をした。オスカーさんの顔がこわばる。
「なぜ、そんな呼び方をする。お前はフィーネだ。同じ人間だろう」
「そうかもしれません。でも、私にとっては——五年前より前の自分は、よく知らない人なんです」
上手く伝えられているだろうか。
私にとって、前のフィーネさんは「別の人」なのだ。同じ体で、同じ顔で、同じ名前かもしれないけれど——記憶がない以上、彼女の悲しみも、彼女の怒りも、私には受け継がれていない。
「あなたが迎えに来たフィーネさんは、もういないと思います。申し訳ないのですが」
オスカーさんの目から光が消えた。
違う——消えたのではなく、もっと深いところに沈んだのだ。それは怒りではなく、諦めでもなく、ただ底のない喪失だった。
「忘れた、のではないんだな。記憶がないから、最初から——」
「はい。嘘ではありません」
「……ああ。分かっている。お前が——フィーネが嘘をつかないことくらい、覚えている」
その一言だけが、前のフィーネさんとの繋がりを示していた。
その時だった。
ずっと黙っていたルカスさんが、壁から背を離した。
「話は終わりか」
低い声。いつもの短い言葉。でも、その響きにはいつもと違う——静かな、けれどはっきりとした力があった。
「ルカス——」
「フィーはここにいる」
それだけだった。
それだけの言葉を、ルカスさんは真っ直ぐにオスカーさんに向けて言った。
「五年、ここにいた。これからも、いる」
オスカーさんがルカスさんを見つめる。二人の視線がぶつかった。
ルカスさんの目に、怒りはなかった。敵意もなかった。ただ、動かない岩のような——覚悟があった。
「あんたが誰で、何があったか、俺は知らない。でも、フィーは今ここで笑ってる。それだけだ」
「……お前に、何が分かる」
「分からない。でも——フィーが幸せかどうかは、分かる」
オスカーさんは何か言い返そうとして、口を噤んだ。
それはたぶん——ルカスさんの言葉が正しいと、心のどこかで分かっていたからだと思う。
結局、オスカーさんは一晩だけ村に泊まることになった。
お師匠様が村長に頼んで、宿を手配してくれた。「うちには泊めないけどね」とお師匠様は言った。優しさなのか冷淡さなのか、たぶん両方だろう。
夕方になって、私は一人で夕焼けの丘に向かった。
考えたいことがあったから——ではなく、いつもの習慣だからだ。でも今日は、ルカスさんが先に来ていた。
「……珍しいですね、先に来てるの」
「ああ」
隣に座る。草の匂い、風の冷たさ、遠くの山の輪郭。いつもと同じ夕焼け。でも今日は、少しだけ空気が張り詰めている。
「ルカスさん」
「なんだ」
「さっきの——ありがとうございました」
「礼を言われることじゃない」
「いいえ。とても嬉しかったです」
ルカスさんはしばらく黙って空を見ていた。夕焼けの赤が彼の横顔を染める。
「フィー」
「はい」
「……記憶が、戻るかもしれない」
それはお師匠様も言っていたことだ。可能性はゼロではない、と。
「戻ったら——どうする」
ルカスさんの声が、ほんの少し震えた。
ああ、この人は怖いのだ、と思った。
私の記憶が戻ったら。前のフィーネさんが帰ってきたら。伯爵令嬢だった自分を思い出したら——ここにいる理由がなくなるかもしれない。ルカスさんのことを忘れるかもしれない。
それを、ずっと恐れていたのだ。
「ルカスさん」
「……なんだ」
「記憶が戻っても、戻らなくても——」
言葉を選んだ。大事なことだから、ちゃんと伝えたかった。
「ここが、私の居場所です」
ルカスさんが息を呑む音が聞こえた。
「お師匠様がいて、ルカスさんがいて、薬草があって。村のみんながいて。五年かけて作った、私の居場所です。記憶が戻ったくらいで、なくなるものじゃありません」
「……そうか」
「はい」
「そう、か」
二度繰り返した。表情は変わらない。でも、固く握られていた拳が、そっと開かれるのが見えた。
空が紫に変わりはじめていた。ルカスさんが好きだと言った、菫色の空。
「ルカスさん」
「ああ」
「手、見せてください。今朝の傷、ちゃんと薬を塗り直さないと」
「……今じゃなくていい」
「今がいいんです」
彼の手を取った。固くて温かい手。傷だらけで、土の匂いがして。
この手が摘んでくる薬草で、私は薬を作る。その薬で、村の人たちが元気になる。
なんて素敵な循環だろう。
軟膏を塗りながら、ふとルカスさんの顔を見上げた。
夕焼けに染まった横顔。深い茶色の目がこちらを見ていた——今度は、そらさなかった。
耳の先は、やっぱり赤かった。
翌朝。
オスカーさんが発つ前に、もう一度だけ話をした。
小屋の前。朝霧がまだ残る中、彼は馬の手綱を握って立っていた。一晩で顔色が少し良くなったように見えたのは、村の宿で温かい食事を摂れたからだろうか。
「フィーネ」
「はい」
「……いや。フィー、と呼んだほうがいいのか」
「フィーネでもフィーでも、お好きなように」
オスカーさんは苦く笑った。笑うと、やつれた顔にかすかに昔の面影——私は知らないけれど、かつての面影が浮かぶようだった。
「俺は——間違えた。五年前も、今も」
「今も、ですか?」
「ああ。『覚えていないなら、やり直せる』と思った。それ自体が間違いだ。やり直すのではなく——お前は、新しく始めていたんだな。俺のいない場所で」
その言葉に、少し驚いた。
一晩で——いや、たぶんお師匠様やルカスさんの言葉を反芻して、この結論に至ったのだろう。
「帰るよ。もう、邪魔はしない」
「邪魔だなんて思っていません」
「……お前は昔からそうだった。誰にでも優しい。その優しさに、俺は甘えていたんだろうな」
前の私のことを、この人は知っている。五年前の私を覚えている。
それは——少しだけ、不思議な気持ちだった。
「オスカー様」
「なんだ」
「前のフィーネさんは、あなたのことが好きだったんでしょうか」
オスカーさんの歩みが止まった。
長い沈黙の後、彼は振り返らずに答えた。
「ああ……好きだったよ。間違いなく」
「そうですか」
なぜか、胸が少しだけ痛んだ。記憶はないのに、体が覚えているのかもしれない。
「それなら——前のフィーネさんの分も、ちゃんとお伝えします」
「……何を」
「さようなら、オスカー様。どうかお元気で」
オスカーさんの肩が震えた。
一歩、また一歩と、彼は歩き出した。振り返らなかった。
でも、馬に跨がる直前——一度だけ、空を仰いだ。朝の空は薄く青くて、どこまでも透明だった。
その横顔に浮かんでいた感情を、私は正確には読み取れなかった。後悔か、解放か、あるいはその両方か。
ただ——忘れられることは、嫌われるよりも残酷なのかもしれないと、ふと思った。
嫌われるということは、少なくとも相手の中に自分が存在しているということだ。怒りであれ、憎しみであれ、感情がある。
でも忘れられるということは——存在そのものが消えるということだ。
オスカーさんにとって、今日のことはきっと、どんな罰よりも重かっただろう。
私は罰を与えたかったわけではない。ただ、本当に覚えていなかっただけだ。
それが——いちばん残酷なことだったのだと思う。
馬蹄の音が遠ざかっていく。
隣に、いつの間にかルカスさんが立っていた。
「行ったか」
「はい」
「……大丈夫か」
「はい。大丈夫です」
大丈夫だった。本当に。
でも、ルカスさんは何も言わずに、そっと私の横に立ち続けてくれた。馬蹄の音が完全に消えるまで、ずっと。
「ルカスさん」
「なんだ」
「朝ごはん、まだでしたよね。お師匠様の焼いたパンがありますから、一緒に食べませんか」
「……ああ」
「それから、今日は東の斜面でラベンダーを摘みたいんです。一緒に来てくれますか?」
「ああ」
「カモミールも、そろそろ二番花が咲く頃ですよね。楽しみです」
「……ああ」
三回の「ああ」。でも、三つとも少しずつ声の色が違った。
最初のは了承。次のは同意。最後のは——たぶん、安堵。
私はくすっと笑った。
「ルカスさん、最近ちょっとだけおしゃべりになりましたね」
「……なってない」
「なってます。前は一日に五回くらいしか喋らなかったのに、今日はもう十回は超えてます」
「数えるな」
ぶっきらぼうに言って、ルカスさんは先に歩き出した。
でも——少しだけ歩幅が狭い。私が追いつけるように。
ルカスさんはいつもそうだ。言葉にはしないけれど、行動のすべてが優しさで出来ている。私が寒がれば黙って上着をかけてくれる。私が重い籠を持っていれば、何も言わずに取り上げる。私が悲しそうな顔をしていれば——何も言わずに、隣にいてくれる。
不器用で、無口で、言葉にするのが苦手な人。
でもだから——その数少ない言葉が、とても重い。
「フィーはここにいる。それだけだ」
昨日のあの一言を、きっと私はずっと忘れない。
薬師小屋に戻ると、お師匠様が軒先で薬草を吊るしていた。
「あら、二人とも。パンが冷めちまうよ」
「すみません、お師匠様」
「行ったかい、あの人」
「はい」
お師匠様は薬草の束を結びながら、穏やかに言った。
「フィー。あんた、よくやったよ」
「え? 私、何もしてませんけど……」
「そうさ。何もしなかった。怒りもしなかった、悲しみもしなかった、許しもしなかった。ただ——覚えていない、と事実を言っただけだ。それがいちばん正直で、いちばん強い」
お師匠様はこういう時、難しいことを簡単な言葉で言う。
「記憶がないのは不幸じゃないよ。あんたは五年間で、ちゃんと自分の幸せを作った。それは誰にも壊せない」
「……お師匠様」
「さ、泣くんじゃないよ。朝からパンが塩辛くなる」
泣いてなんかいない——と言おうとして、頬に手を当てたら、少しだけ濡れていた。
あれ、おかしいな。悲しくはないのに。
「お師匠様、これ、なんでしょう。悲しいわけではないんですけど」
「嬉しい涙ってもんがあるのさ。薬草は雨を受けて育つだろう? 人も同じだよ」
お師匠様は私の頭をぽんぽんと叩いて、小屋の中に入っていった。
パンを食べながら、ルカスさんが小さな瓶を差し出した。
「……これ」
「え? なんですか?」
「新しい軟膏。フィーのレシピを参考にした」
受け取って蓋を開ける。ラベンダーの香りがふわりと広がった。
「ルカスさんが作ったんですか?」
「……調合は苦手だ。三回失敗した」
「三回も! でも、ちゃんとできてますよ。香りもいいし、硬さもちょうどいい」
「母さんに手伝ってもらった」
お師匠様が奥から「ほとんどあたしがやったけどね」と声を出した。ルカスさんの耳が赤くなる。
「でも嬉しいです。ルカスさんが作ってくれたんですから」
「……たいしたもんじゃない」
「たいしたものです。私の宝物にします」
ルカスさんは黙ってパンをかじった。でも口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
午後、東の斜面でラベンダーを摘んだ。
紫の花畑が風に揺れる。蜂が花から花へ飛び回り、遠くの山では鳥の声がする。
ルカスさんは黙々と籠に花を入れていく。私はその隣で、一本一本丁寧に茎を切る。
「ルカスさん」
「なんだ」
「私、前の自分より今の自分が好きです」
以前にも言ったことのある言葉。でも今日は、少しだけ意味が違う気がした。
「前のフィーネさんがどんな人だったか分かりません。伯爵令嬢で、婚約者がいて、たぶん綺麗なドレスを着ていて——でも、今の私には薬草があって、お師匠様がいて、村のみんながいて」
ルカスさんを見上げた。
「ルカスさんがいます」
彼の手が止まった。ラベンダーの茎を握ったまま、じっとこちらを見ている。
深い茶色の目。無口で、不器用で、でも——いつだって私のことを見てくれている目。
「だから、今が好きです。記憶がなくても、ここが私の世界です」
ルカスさんは何も言わなかった。
ただ——不意に手を伸ばして、私の髪に張りついた花びらをそっと取った。
指先が耳に触れた。
一瞬だけ。本当に一瞬だけ。
でもその温かさは、どんな言葉よりも雄弁だった。
「……帰るか。日が暮れる」
「はい」
二人で丘を下りた。西の空が赤く染まりはじめている。
ルカスさんの歩幅は、やっぱり少しだけ狭かった。
夕焼けの丘で、いつものように二人で空を見た。
今日の空は特別に綺麗で、赤から橙、橙から紫へとゆっくりと変わっていく。
「菫色ですね」
「……ああ」
「ルカスさんの好きな色」
「……ああ」
今度は、なぜ菫色が好きなのか、分かっていた。
でもあえて聞かない。ルカスさんは、自分の言葉で言えるようになるまで、待ってあげたい。
私もまだ、自分の気持ちにちゃんと名前を付けられていないから。
でも——たぶん。
いつか、ここで。
夕焼けが紫に変わるとき、この人はきっと言葉にしてくれる。
それまで、隣にいよう。
薬草の匂いと、夕焼けと、この人の温かさ。
それが、私の世界の全てだ。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回のお話は「忘れることが最も残酷な復讐になる」というテーマで書きました。復讐劇というと怒りや策略が描かれることが多いですが、フィーネは怒ることすらできない。なぜなら本当に覚えていないから。意図せず行われる「最も残酷な罰」というものを描きたかったのが着想のきっかけです。
記憶を失ったフィーネが五年の間に見つけた幸せは、誰にも奪えないものです。伯爵令嬢の肩書きも、婚約者も、豪華な暮らしも失って——でも薬草と、お師匠様と、ルカスさんという「自分で選んだもの」に囲まれて、彼女は前の自分より今の自分を好きになれた。それがいちばん書きたかったことです。
ルカスさんは五年間ずっとフィーネの隣にいて、でも一度も「好きだ」とは言わない。「フィーはここにいる。それだけだ」——この不器用な一言に全てを込めました。言葉にできない人の気持ちが伝わっていたら嬉しいです。
■ シリーズ「捨てられ令嬢は最後に笑う」
他のお話はこちらからどうぞ→ https://mypage.syosetu.com/mypage/novellist/userid/1410792/




