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「存じ上げませんが、どちら様ですか?」——忘れることが、最も残酷な復讐になった

作者: 歩人
掲載日:2026/03/22

 朝霧が薬草畑に垂れ込める頃が、一日でいちばん好きだった。


 まだ陽が低い時刻、露を纏った薬草たちがきらきらと光る。その一つ一つに指先で触れると、冷たい雫が掌に落ちて——ああ、今日も世界はきちんと朝を迎えたのだと、そう思える。


 私の名前はフィー。薬師の弟子をしている。


 それ以前の私のことは、よく知らない。


「フィー、朝露のうちにカモミールも摘んでおいてくれ」


 低い声が背中にかかる。振り向くと、濃い茶色の髪を無造作に掻き上げたルカスさんが、大きな籠を肩に担いで立っていた。


「はい。あ、ルカスさん、そっちの道は昨日の雨で滑りやすくなっていますから、気をつけてくださいね」


「……ああ」


 ルカスさんはそれだけ言って、足元に視線を落とす。朝のルカスさんはいつもこうだ。必要なことだけ口にして、あとは黙々と働く。


 でも私は知っている。


 彼の視線が、すぐにこちらに戻ることを。まるで確かめるみたいに——私がちゃんとここにいるかどうか、確かめるみたいに。




 お師匠様——薬師のマルタさんのことを、私はそう呼んでいる。


 小柄だけどがっしりした体つきで、白髪交じりの三つ編みをいつも肩に垂らしている。軒先には常に薬草が吊るされていて、小屋のどこにいても干し草と薬草の混じった匂いがする。


「フィー、その乾燥具合はまだ甘いよ。あと半日は吊るしときな」


「はい、お師匠様。……この紫蘇しそ、少し葉が小さい気がするんですが」


「おや、よく気づいたね。今年は春先の冷え込みが長かったからね。実はこの小さい葉のほうが、薬効は強いのさ。ぎゅっと凝縮されてるんだよ」


「わぁ、そうなんですか。小さくても頑張ってるんですね」


 お師匠様は目を細めて笑った。皺がいっそう深くなるけれど、その顔がたまらなく好きだ。


「あんたはそういうところが薬師向きだよ、フィー。薬草に話しかけるような子は、ちゃんと育てられる」


 私は五年前からここにいる。


 それより前の記憶は、ない。




 記憶がないと言うと、たいていの人は憐れむような顔をする。村の人たちは最初こそ心配してくれたけれど、今ではもう「フィーはフィーだ」と受け入れてくれている。


 時々、ふと考えることはある。


 前の私——お師匠様が「フィーネ」と呼ぶ、かつての私——はどんな人だったのだろう。伯爵家の令嬢だったと聞いている。綺麗なドレスを着て、豪奢な館に住んでいたらしい。


 でも不思議と、寂しくはない。


「前のフィーネさんがどんな方だったか分かりませんけど、今の私は幸せです」


 お師匠様にそう言ったことがある。お師匠様は一瞬だけ目を伏せて、それからいつもの顔で「そうかい」と笑った。


 その時、奥の部屋からルカスさんが出てきて——何も言わずに、私の前にお茶を置いた。


 湯気の立つ、カモミールのお茶。私が好きだと言ったのを覚えていてくれたのだ。


「……ありがとうございます、ルカスさん」


「ああ」


 それだけ。でも、耳の先がほんの少し赤くなっていたのを、私は見逃さなかった。




 私がこの村に来た経緯を、お師匠様は淡々と教えてくれたことがある。


 五年前のある夜。


 お師匠様が王都に薬の納品に行った帰り道、街道の脇で倒れている少女を見つけたのだと言う。


 薄い金色の髪が泥だらけで、高価そうなドレスはぼろぼろ。目を開けても、自分が誰かも分からなかった。


「『私は……誰ですか?』って、自分のことをそう聞いたんだよ。自分が誰かも分からないのに、丁寧な言葉遣いだけは残っててねえ。育ちのいい子だってすぐに分かったよ」


 お師匠様はそう言って、遠い目をした。


「王都に届け出は出したさ。でも引き取りに来る者は誰もいなかった。だからあたしが預かることにしたのさ。薬師の弟子として——フィーとして」


 引き取りに来る者は、誰もいなかった。


 その言葉が何を意味するのか、今の私には分からない。でも、お師匠様はそれ以上を語らなかったし、私も聞かなかった。


 分からないままでいい。


 だって今、ここで十分に幸せなのだから。




 薬師の仕事は忙しい。


 朝は薬草の世話と収穫。昼は乾燥と調合。村の人が怪我や病気で訪ねてくれば診る。午後は薬の瓶詰めと在庫の管理。


 私は特に調合が好きだった。


 薬草の組み合わせには無限の可能性がある。お師匠様でさえ「あんたの調合の勘は天性のものだよ」と褒めてくれる。ルカスさんに至っては——


「俺は調合がからきしだからな。フィーがいなきゃ困る」


 ルカスさんがそんなに長い文章を話すのは珍しい。私が驚いて目を丸くすると、彼はぷいっとそっぽを向いてしまった。


 でもその横顔が、どことなく照れているように見えた。


 ルカスさんは薬草の採取と力仕事が担当だ。山道を何時間も歩いて、崖の上に自生する貴重な薬草を摘んでくる。傷だらけの手は、いつも土と草の匂いがした。


「ルカスさん、手、また切ってますよ。見せてください」


「いい。大したことない」


「だめです。お薬塗りますから」


 彼の大きな手を取って、軟膏を塗る。私が作った傷薬だ。


 ルカスさんの手は固くて温かい。何も言わずにじっとこちらを見ている——と思って顔を上げたら、やっぱり視線をそらされた。


「……すまない」


「どうして謝るんですか?」


「手間をかけた」


「手間なんかじゃないです。薬師の仕事ですから」


 そう言うと、ルカスさんは少しだけ口元を緩めた。笑った——と言うにはあまりに微かだけれど、私にはそれが分かる。五年も一緒にいるのだから。




 夕焼けの丘は、薬師小屋から少し歩いた高台にある。


 辺境の山々が連なる向こうに陽が沈むと、空が赤と橙と紫に染まる。その色は日によって微妙に違って、何度見ても飽きることがない。


 いつからか、夕方にはルカスさんと二人でここに来るようになっていた。


「今日の夕焼け、特別綺麗ですね」


「……ああ」


「ルカスさんは、どの色がいちばん好きですか?」


「色?」


「はい。赤い空と、橙色の空と、紫がかった空と。私は紫が混ざるときが好きです。菫みたいで」


 ルカスさんは黙って夕焼けを見つめた。長い沈黙の後、ぽつりと言った。


「……菫色」


「え?」


「菫色が、いい」


 それは夕焼けの色のことだろうか。私の目の色——菫色と同じだと気づいたのは、ずっとあとになってからだ。




 穏やかな日々だった。


 記憶がないことは、不幸ではなかった。むしろ、余計なものを持たずに済んでいるような——身軽さすら感じていた。


 前のフィーネさんは幸せだったのだろうか。


 分からない。でも、少なくとも今の私は幸せだ。


 お師匠様がいて、ルカスさんがいて、薬草がある。村の人たちが「フィー、この前の薬よく効いたよ」と笑顔で言ってくれる。子どもたちが「フィーねえちゃん、今日のお花なぁに?」と駆け寄ってくる。


 それだけで、十分だった。




 だから、その日のことは本当に突然だった。


 午後の調合をしていたときだ。小屋の外で馬の蹄の音がして、続いて聞き慣れない声が響いた。


「すまない、ここは薬師の——マルタという方の家か」


 声は男のものだった。低くて、かすれていて——どこか必死な響きがあった。


 お師匠様が出ていく気配がする。私は調合の手を止めて、窓からそっと外を覗いた。


 見たことのない男の人が立っていた。


 赤銅色の髪は乱れ、灰色の目は落ちくぼんでいる。かつては上等だったのだろう外套は擦り切れ、頬は削げ、全身に長い旅の疲労が染みついていた。


 貴族——だと思った。ぼろぼろでもどこか気品のある立ち姿は、そう判断させるに十分だった。


「マルタだけど、何の用だい?」


 お師匠様の声がいつもより硬い。まるで最初から警戒しているみたいだった。


「五年前……五年前に、この辺りで記憶を失った少女を保護したと聞いた。金髪の、菫色の目の——」


 男の声が震えた。


「フィーネ・フォン・ヴァイスという名の少女を。彼女は、ここにいるのか」


 フィーネ。


 それは——前の私の名前。


 私はお師匠様が何と答えるか分からないまま、小屋の奥で息を潜めていた。するとお師匠様が振り返って、静かに言った。


「フィー。出ておいで」




 小屋の前に出ると、男の人は一歩、二歩とよろめくように近づいてきた。


 灰色の目が大きく見開かれる。そこに浮かんでいたのは——驚きと、安堵と、そしてどうしようもない後悔が混ざったような、複雑な感情だった。


「フィーネ……」


 名前を呼ばれた。


 前のフィーネさんの名前。


「フィーネ、やっと見つけた。五年だ。五年かかった」


 男の人は声を震わせた。やつれた顔に、涙が伝う。


「迎えに来た。一緒に帰ろう、フィーネ」


 私は首を傾げた。


 目の前の人が誰なのか、本当に分からなかった。記憶を辿ろうにも、五年前より向こうには何もない。白い霧に包まれたような、空白しかない。


 だから、素直に聞いた。


「申し訳ありません。存じ上げませんが、どちら様ですか?」


 男の人の顔から、血の気が引いた。


 ゆっくりと、本当にゆっくりと。まるで突き刺さった剣の痛みがじわじわと広がるように、その言葉の意味を理解した——そんな顔だった。


「覚えて、いないのか……?」


「はい。ごめんなさい、お会いしたことがありますか? 私、五年前より前のことを覚えていなくて」


 嘘ではない。演技でもない。


 本当に、何も覚えていないのだ。


 男の人——あとでオスカーという名前だと知った——は、その場に崩れ落ちそうになるのを必死にこらえていた。唇が音もなく震えて、何度か言葉を探すように口を開閉する。


「俺は——俺は、オスカーだ。オスカー・フォン・リヒテン。お前の……お前の婚約者だった男だ」


 婚約者。


 その言葉を聞いても、胸の奥には何の波紋も立たなかった。他人の話を聞いているようだ。


「そうでしたか。前のフィーネさんの婚約者様だったんですね」


 前のフィーネさん。


 私は無意識にそう口にしていた。オスカーさんはその言い方に一瞬だけ目を見開いた。




 お師匠様が場を仕切ってくれた。


「立ち話もなんだよ。中に入りな。お茶くらいは出すからさ」


 小屋の中、四人で卓を囲んだ。お師匠様と私が向かい合い、オスカーさんはお師匠様の隣——私の正面ではなく、少しずらした位置に座らされた。お師匠様の配慮だろう。


 ルカスさんは入口近くの壁に背を預けて立っていた。座らないのは——たぶん、いつでも動けるようにするためだ。


「それで、今さら何の用だい。お貴族様」


 お師匠様の声には棘があった。辺境訛りの柔らかさとは裏腹に、その目は鋭い。


「フィーネを……迎えに来た」


「五年も経ってからかい」


「探していた。ずっと、五年間」


 オスカーさんは卓の上で拳を握り締めた。爪が食い込んで、指の関節が白くなっている。


「俺が悪かった。全て俺のせいだ。婚約を破棄して、フィーネを追い出して——あのとき、俺は別の女に惑わされた。だが彼女は俺を利用しただけで、金を搾り取って消えた。家は傾き、爵位も危うい。残ったのは後悔だけだ」


 長い、長い告白だった。


 私は黙って聞いていた。悲しいとか、怒りとか、そういう感情は湧いてこなかった。ただ——ああ、この人は苦しんできたんだな、と思った。


「だから、戻ってきてくれ。フィーネ」


「あの……」


「覚えていなくてもいい。いや、覚えていないなら——一からやり直せる。俺は変わった。今度こそ、お前を大切にする」


 覚えていないなら、一からやり直せる。


 その言葉に、お師匠様の目がすっと細くなった。




「ちょっと待ちな」


 お師匠様が卓を掌で叩いた。乾いた音が小屋に響く。


「あんた、自分が何を言ってるか分かってるのかい? 覚えていないからやり直せる? それは——この子が記憶を失ったことを利用しようってことだよ」


「違う、そういうつもりじゃ——」


「じゃあどういうつもりだい? あんたがこの子を捨てたんだろう? 婚約を破棄して、行き場をなくしたこの子が記憶をなくすほどの衝撃を受けた。その原因はあんただ」


 お師匠様の声は静かだったが、重かった。


「五年間、この子がどれだけ頑張ったか知ってるのかい? 名前も分からない。家族も分からない。自分が何者かも分からない。それでも泣き言ひとつ言わずに薬を作る事を覚えて、村の人に頼りにされるまでになった。あんたが壊したものを、この子は自分の手で一つずつ作り直したんだよ」


 オスカーさんは何も言えなかった。顔を俯けて、その言葉の一つ一つを受け止めているように見えた。


「あたしが言えるのはこれだけさ。決めるのはフィーだよ。でもね——あんたに、この子を連れて帰る権利なんてない」




 沈黙が落ちた。


 秋の午後の、静かな時間。窓の外で風が木々を揺らす音だけが聞こえる。


 私は——正直に言えば、困っていた。


 怒るべきなのだろうか。泣くべきなのだろうか。前のフィーネさんなら、きっと何か感じるのだろう。でも私には、この人との記憶がない。喜びも悲しみも、恋も憎しみも——何も。


「オスカー様」


 名前を呼ぶと、彼が顔を上げた。灰色の目に必死な光がある。


「あなたが苦しんでこられたことは、なんとなく分かります。五年も探してくださったんですね」


「ああ——ああ、そうだ」


「ありがとうございます。前のフィーネさんも、きっと……そうですね、複雑な気持ちだったと思います」


 前のフィーネさん。


 また、その言い方をした。オスカーさんの顔がこわばる。


「なぜ、そんな呼び方をする。お前はフィーネだ。同じ人間だろう」


「そうかもしれません。でも、私にとっては——五年前より前の自分は、よく知らない人なんです」


 上手く伝えられているだろうか。


 私にとって、前のフィーネさんは「別の人」なのだ。同じ体で、同じ顔で、同じ名前かもしれないけれど——記憶がない以上、彼女の悲しみも、彼女の怒りも、私には受け継がれていない。


「あなたが迎えに来たフィーネさんは、もういないと思います。申し訳ないのですが」


 オスカーさんの目から光が消えた。


 違う——消えたのではなく、もっと深いところに沈んだのだ。それは怒りではなく、諦めでもなく、ただ底のない喪失だった。


「忘れた、のではないんだな。記憶がないから、最初から——」


「はい。嘘ではありません」


「……ああ。分かっている。お前が——フィーネが嘘をつかないことくらい、覚えている」


 その一言だけが、前のフィーネさんとの繋がりを示していた。




 その時だった。


 ずっと黙っていたルカスさんが、壁から背を離した。


「話は終わりか」


 低い声。いつもの短い言葉。でも、その響きにはいつもと違う——静かな、けれどはっきりとした力があった。


「ルカス——」


「フィーはここにいる」


 それだけだった。


 それだけの言葉を、ルカスさんは真っ直ぐにオスカーさんに向けて言った。


「五年、ここにいた。これからも、いる」


 オスカーさんがルカスさんを見つめる。二人の視線がぶつかった。


 ルカスさんの目に、怒りはなかった。敵意もなかった。ただ、動かない岩のような——覚悟があった。


「あんたが誰で、何があったか、俺は知らない。でも、フィーは今ここで笑ってる。それだけだ」


「……お前に、何が分かる」


「分からない。でも——フィーが幸せかどうかは、分かる」


 オスカーさんは何か言い返そうとして、口を噤んだ。


 それはたぶん——ルカスさんの言葉が正しいと、心のどこかで分かっていたからだと思う。




 結局、オスカーさんは一晩だけ村に泊まることになった。


 お師匠様が村長に頼んで、宿を手配してくれた。「うちには泊めないけどね」とお師匠様は言った。優しさなのか冷淡さなのか、たぶん両方だろう。


 夕方になって、私は一人で夕焼けの丘に向かった。


 考えたいことがあったから——ではなく、いつもの習慣だからだ。でも今日は、ルカスさんが先に来ていた。


「……珍しいですね、先に来てるの」


「ああ」


 隣に座る。草の匂い、風の冷たさ、遠くの山の輪郭。いつもと同じ夕焼け。でも今日は、少しだけ空気が張り詰めている。


「ルカスさん」


「なんだ」


「さっきの——ありがとうございました」


「礼を言われることじゃない」


「いいえ。とても嬉しかったです」


 ルカスさんはしばらく黙って空を見ていた。夕焼けの赤が彼の横顔を染める。


「フィー」


「はい」


「……記憶が、戻るかもしれない」


 それはお師匠様も言っていたことだ。可能性はゼロではない、と。


「戻ったら——どうする」


 ルカスさんの声が、ほんの少し震えた。


 ああ、この人は怖いのだ、と思った。


 私の記憶が戻ったら。前のフィーネさんが帰ってきたら。伯爵令嬢だった自分を思い出したら——ここにいる理由がなくなるかもしれない。ルカスさんのことを忘れるかもしれない。


 それを、ずっと恐れていたのだ。


「ルカスさん」


「……なんだ」


「記憶が戻っても、戻らなくても——」


 言葉を選んだ。大事なことだから、ちゃんと伝えたかった。


「ここが、私の居場所です」


 ルカスさんが息を呑む音が聞こえた。


「お師匠様がいて、ルカスさんがいて、薬草があって。村のみんながいて。五年かけて作った、私の居場所です。記憶が戻ったくらいで、なくなるものじゃありません」


「……そうか」


「はい」


「そう、か」


 二度繰り返した。表情は変わらない。でも、固く握られていた拳が、そっと開かれるのが見えた。


 空が紫に変わりはじめていた。ルカスさんが好きだと言った、菫色の空。


「ルカスさん」


「ああ」


「手、見せてください。今朝の傷、ちゃんと薬を塗り直さないと」


「……今じゃなくていい」


「今がいいんです」


 彼の手を取った。固くて温かい手。傷だらけで、土の匂いがして。


 この手が摘んでくる薬草で、私は薬を作る。その薬で、村の人たちが元気になる。


 なんて素敵な循環だろう。


 軟膏を塗りながら、ふとルカスさんの顔を見上げた。


 夕焼けに染まった横顔。深い茶色の目がこちらを見ていた——今度は、そらさなかった。


 耳の先は、やっぱり赤かった。




 翌朝。


 オスカーさんが発つ前に、もう一度だけ話をした。


 小屋の前。朝霧がまだ残る中、彼は馬の手綱を握って立っていた。一晩で顔色が少し良くなったように見えたのは、村の宿で温かい食事を摂れたからだろうか。


「フィーネ」


「はい」


「……いや。フィー、と呼んだほうがいいのか」


「フィーネでもフィーでも、お好きなように」


 オスカーさんは苦く笑った。笑うと、やつれた顔にかすかに昔の面影——私は知らないけれど、かつての面影が浮かぶようだった。


「俺は——間違えた。五年前も、今も」


「今も、ですか?」


「ああ。『覚えていないなら、やり直せる』と思った。それ自体が間違いだ。やり直すのではなく——お前は、新しく始めていたんだな。俺のいない場所で」


 その言葉に、少し驚いた。


 一晩で——いや、たぶんお師匠様やルカスさんの言葉を反芻して、この結論に至ったのだろう。


「帰るよ。もう、邪魔はしない」


「邪魔だなんて思っていません」


「……お前は昔からそうだった。誰にでも優しい。その優しさに、俺は甘えていたんだろうな」


 前の私のことを、この人は知っている。五年前の私を覚えている。


 それは——少しだけ、不思議な気持ちだった。


「オスカー様」


「なんだ」


「前のフィーネさんは、あなたのことが好きだったんでしょうか」


 オスカーさんの歩みが止まった。


 長い沈黙の後、彼は振り返らずに答えた。


「ああ……好きだったよ。間違いなく」


「そうですか」


 なぜか、胸が少しだけ痛んだ。記憶はないのに、体が覚えているのかもしれない。


「それなら——前のフィーネさんの分も、ちゃんとお伝えします」


「……何を」


「さようなら、オスカー様。どうかお元気で」


 オスカーさんの肩が震えた。


 一歩、また一歩と、彼は歩き出した。振り返らなかった。


 でも、馬に跨がる直前——一度だけ、空を仰いだ。朝の空は薄く青くて、どこまでも透明だった。


 その横顔に浮かんでいた感情を、私は正確には読み取れなかった。後悔か、解放か、あるいはその両方か。


 ただ——忘れられることは、嫌われるよりも残酷なのかもしれないと、ふと思った。


 嫌われるということは、少なくとも相手の中に自分が存在しているということだ。怒りであれ、憎しみであれ、感情がある。


 でも忘れられるということは——存在そのものが消えるということだ。


 オスカーさんにとって、今日のことはきっと、どんな罰よりも重かっただろう。


 私は罰を与えたかったわけではない。ただ、本当に覚えていなかっただけだ。


 それが——いちばん残酷なことだったのだと思う。




 馬蹄の音が遠ざかっていく。


 隣に、いつの間にかルカスさんが立っていた。


「行ったか」


「はい」


「……大丈夫か」


「はい。大丈夫です」


 大丈夫だった。本当に。


 でも、ルカスさんは何も言わずに、そっと私の横に立ち続けてくれた。馬蹄の音が完全に消えるまで、ずっと。


「ルカスさん」


「なんだ」


「朝ごはん、まだでしたよね。お師匠様の焼いたパンがありますから、一緒に食べませんか」


「……ああ」


「それから、今日は東の斜面でラベンダーを摘みたいんです。一緒に来てくれますか?」


「ああ」


「カモミールも、そろそろ二番花が咲く頃ですよね。楽しみです」


「……ああ」


 三回の「ああ」。でも、三つとも少しずつ声の色が違った。


 最初のは了承。次のは同意。最後のは——たぶん、安堵。


 私はくすっと笑った。


「ルカスさん、最近ちょっとだけおしゃべりになりましたね」


「……なってない」


「なってます。前は一日に五回くらいしか喋らなかったのに、今日はもう十回は超えてます」


「数えるな」


 ぶっきらぼうに言って、ルカスさんは先に歩き出した。


 でも——少しだけ歩幅が狭い。私が追いつけるように。


 ルカスさんはいつもそうだ。言葉にはしないけれど、行動のすべてが優しさで出来ている。私が寒がれば黙って上着をかけてくれる。私が重い籠を持っていれば、何も言わずに取り上げる。私が悲しそうな顔をしていれば——何も言わずに、隣にいてくれる。


 不器用で、無口で、言葉にするのが苦手な人。


 でもだから——その数少ない言葉が、とても重い。


「フィーはここにいる。それだけだ」


 昨日のあの一言を、きっと私はずっと忘れない。




 薬師小屋に戻ると、お師匠様が軒先で薬草を吊るしていた。


「あら、二人とも。パンが冷めちまうよ」


「すみません、お師匠様」


「行ったかい、あの人」


「はい」


 お師匠様は薬草の束を結びながら、穏やかに言った。


「フィー。あんた、よくやったよ」


「え? 私、何もしてませんけど……」


「そうさ。何もしなかった。怒りもしなかった、悲しみもしなかった、許しもしなかった。ただ——覚えていない、と事実を言っただけだ。それがいちばん正直で、いちばん強い」


 お師匠様はこういう時、難しいことを簡単な言葉で言う。


「記憶がないのは不幸じゃないよ。あんたは五年間で、ちゃんと自分の幸せを作った。それは誰にも壊せない」


「……お師匠様」


「さ、泣くんじゃないよ。朝からパンが塩辛くなる」


 泣いてなんかいない——と言おうとして、頬に手を当てたら、少しだけ濡れていた。


 あれ、おかしいな。悲しくはないのに。


「お師匠様、これ、なんでしょう。悲しいわけではないんですけど」


「嬉しい涙ってもんがあるのさ。薬草は雨を受けて育つだろう? 人も同じだよ」


 お師匠様は私の頭をぽんぽんと叩いて、小屋の中に入っていった。




 パンを食べながら、ルカスさんが小さな瓶を差し出した。


「……これ」


「え? なんですか?」


「新しい軟膏。フィーのレシピを参考にした」


 受け取って蓋を開ける。ラベンダーの香りがふわりと広がった。


「ルカスさんが作ったんですか?」


「……調合は苦手だ。三回失敗した」


「三回も! でも、ちゃんとできてますよ。香りもいいし、硬さもちょうどいい」


「母さんに手伝ってもらった」


 お師匠様が奥から「ほとんどあたしがやったけどね」と声を出した。ルカスさんの耳が赤くなる。


「でも嬉しいです。ルカスさんが作ってくれたんですから」


「……たいしたもんじゃない」


「たいしたものです。私の宝物にします」


 ルカスさんは黙ってパンをかじった。でも口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。




 午後、東の斜面でラベンダーを摘んだ。


 紫の花畑が風に揺れる。蜂が花から花へ飛び回り、遠くの山では鳥の声がする。


 ルカスさんは黙々と籠に花を入れていく。私はその隣で、一本一本丁寧に茎を切る。


「ルカスさん」


「なんだ」


「私、前の自分より今の自分が好きです」


 以前にも言ったことのある言葉。でも今日は、少しだけ意味が違う気がした。


「前のフィーネさんがどんな人だったか分かりません。伯爵令嬢で、婚約者がいて、たぶん綺麗なドレスを着ていて——でも、今の私には薬草があって、お師匠様がいて、村のみんながいて」


 ルカスさんを見上げた。


「ルカスさんがいます」


 彼の手が止まった。ラベンダーの茎を握ったまま、じっとこちらを見ている。


 深い茶色の目。無口で、不器用で、でも——いつだって私のことを見てくれている目。


「だから、今が好きです。記憶がなくても、ここが私の世界です」


 ルカスさんは何も言わなかった。


 ただ——不意に手を伸ばして、私の髪に張りついた花びらをそっと取った。


 指先が耳に触れた。


 一瞬だけ。本当に一瞬だけ。


 でもその温かさは、どんな言葉よりも雄弁だった。


「……帰るか。日が暮れる」


「はい」


 二人で丘を下りた。西の空が赤く染まりはじめている。


 ルカスさんの歩幅は、やっぱり少しだけ狭かった。




 夕焼けの丘で、いつものように二人で空を見た。


 今日の空は特別に綺麗で、赤から橙、橙から紫へとゆっくりと変わっていく。


「菫色ですね」


「……ああ」


「ルカスさんの好きな色」


「……ああ」


 今度は、なぜ菫色が好きなのか、分かっていた。


 でもあえて聞かない。ルカスさんは、自分の言葉で言えるようになるまで、待ってあげたい。


 私もまだ、自分の気持ちにちゃんと名前を付けられていないから。


 でも——たぶん。


 いつか、ここで。


 夕焼けが紫に変わるとき、この人はきっと言葉にしてくれる。


 それまで、隣にいよう。


 薬草の匂いと、夕焼けと、この人の温かさ。


 それが、私の世界の全てだ。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 今回のお話は「忘れることが最も残酷な復讐になる」というテーマで書きました。復讐劇というと怒りや策略が描かれることが多いですが、フィーネは怒ることすらできない。なぜなら本当に覚えていないから。意図せず行われる「最も残酷な罰」というものを描きたかったのが着想のきっかけです。


 記憶を失ったフィーネが五年の間に見つけた幸せは、誰にも奪えないものです。伯爵令嬢の肩書きも、婚約者も、豪華な暮らしも失って——でも薬草と、お師匠様と、ルカスさんという「自分で選んだもの」に囲まれて、彼女は前の自分より今の自分を好きになれた。それがいちばん書きたかったことです。


 ルカスさんは五年間ずっとフィーネの隣にいて、でも一度も「好きだ」とは言わない。「フィーはここにいる。それだけだ」——この不器用な一言に全てを込めました。言葉にできない人の気持ちが伝わっていたら嬉しいです。


■ シリーズ「捨てられ令嬢は最後に笑う」

他のお話はこちらからどうぞ→ https://mypage.syosetu.com/mypage/novellist/userid/1410792/

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― 新着の感想 ―
ちゃんと届けを出したのに引き取る相手が来なかった。これが全てでしょうなぁ……。 貴方の探してる人はもうこの世にはいないのだと告げられた訳ですもんね。まぁ女に騙されたくらいで身上失うんだからそうなるでし…
記憶無くしてから平民の生活しかしてないフィーネが今更迎えに来られても貴族の生活出来るわけがないだろう(;・∀・)
五年前捨てた婚約者を五年間探し続けたわけないんですけど! バカ男が女に騙されて家が没落しそうになる展開が1ヶ月以内のスピードとかないと思います バカが婚約破棄→いろいろ不都合→女バックレあるいは開き…
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