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透明人間

 朝起きたら透明人間になっていた。


 何を言っているのか分からないと思うが、俺もなぜこうなったのか分からない。


 それは土曜日の朝のことだった。


 部屋の外から「朝ご飯片付かないからさっさと起きなさい」と母さんに急かされ、渋々ベッドから出る。トイレにいって用を済ませ、手を洗いながらふと、洗面台の鏡を見た。するとそこには誰もいなかったのだ。


 いや、誰もいなかったでは語弊があるか。正確には寝間着にしているスウェットが宙に浮いていた。


 夢か、そうでなければまだ寝ぼけているのか。俺は顔を念入りに洗って、再び鏡を見た。しかし、そこにはやっぱり俺がいない。


 昨日、何かやらかしたのか?


 たとえばそう、田舎の古い祠を壊したとか。


 ……いや、昨日は学校が終わって友達とカラオケに行き、いつも通り音痴を笑われただけだ。


 何か良からぬことをしたという記憶に心当たりはまるでない。


 俺は突然のことに理解が追いつかなくて、とりあえず母さんに「なんか透明になったんだけど」と姿を見せた。


 母さんはぽかんと口を開けて、数秒、固まった。


 鳩が豆鉄砲を食ったような、というのはこういう顔のことを言うのだろうな、なんて他人事に思った。


 ダウンロードとインストールが完了したのか、母さんは再起動して、休日出勤中の父さんに電話した。


 父さんは電話越しでは冷静だったようで、「とりあえず救急車じゃないか?」と答えたらしい。


 父さんの冷静さが伝播したのか、母さんも少しだけ平静を取り戻し、電話を切るとすぐ、救急に電話をした。


 そうして俺は、人生で初めて救急車に乗った。


 一見すると怪我も病気もなく、なんだかよく分からない透明化したという理由で。




 さてこの透明化現象だが、結論から言うと、外形失認(がいけいしつにん)症という病気だったらしい。


 中学生頃から二十代半ばくらいまでの若年層で極まれに発症する病であり、世界的に見てもあまり症例はないのだとか。ゆえに治療法や治療薬というものも存在していないし、身体にどのような影響があるのかも分かっていない。判明していることと言えば、透明になるということだけである。


「一生このままってことですか」


 俺は医者に訊ねた。実を言えば、ちょっとワクワクしている節もある。日常生活で困ることが多々あるのかもしれないけれど、身体に害がないなら、人とは違う特別な存在になれた気分だった。


 医者は言葉に迷って、「分かりません」と前置きをしながら、過去に同じ病気を患った人物のことを教えてくれた。


 俺と同じように外形失認症になったのは海外の男性だった。


 その男性もある日突然、自身の体が透明になった。


 あまりの出来事にパニックを起こしたが、透明になった以外に変化はなく、男性は気にしないことにした。


 そうしてまた同時に、あることを思いついてしまう。


 服を脱げば、誰からも認知されないのではないかと。


 男性はさっそく全裸になって街を徘徊した。


 案の定、男性は誰からも認知をされなかった。全裸なのに。


 気を大きくした男性は、徐々にその行動をエスカレートさせていった。


 ある時は人の家に入って窃盗を行い、ある時は女子トイレにカメラを仕掛けて盗撮をした。


 もちろん全裸で。


 それらの犯行が男性のものだとバレることがなかった。


 男性はとうとう、公園にいた女性をレイプし殺害した。


 まさしくやりたい放題だった。


 そんな有頂天になっていた男性は、これまたある日突然、街中で色と形を取り戻したのだ。


 もちろん全裸で。


 すぐに警察に通報され、捕まった。


 さらに、色々と操作の手が伸び、これまでの余罪がわんさか見つかった。


 男性は今も刑務所にいるらしい。


「えっと、それで?」


 話の意図やオチが見えず、つい口を挟んでしまった。


 医者も長話だったと思ったのだろう。咳ばらいをして、「つまり」と話を括った。


「つまり、いつ戻るかは分からないってことです。あまり変なことはしないように」


「それは、まあ、はい」


 小心者の俺には、その男性のような行動はとてもじゃないが真似できないし、しようとも思わない。


「それと、その男性と他にもいた患者の研究結果もありまして、あくまで仮説ですが、その人の夢とか野望みたいなものを叶えると元に戻れるのではないか、ということです。まあ、参考までに」


 今時の、それもただの男子高校生に夢や野望なんてあるわけないだろ。


 口には出さなかったが顔に出ていたのかもしれない。


 医者は「とりあえず経過を見ましょう」とだけ言った。


 こうして俺は、透明なまま日常生活を送ることになった。




 月曜日、学校に登校しながら気が付いた。


 人は他人のことをあまり見ていないことに。


 傍から見れば制服とリュックが宙に浮いた状態で移動しているのだが、奇怪な目を向けられた感覚はなかった。


 そして、そうと認識すると途端に、好奇心は倫理観やマナーみたいなものを凌駕するのだ。


 通学時には朝の満員電車に乗るのだが、そこではさすがに透明であることに気付く人が多かった。


 じろじろと視線を向けられるだけならまだいいけれど、スマホのカメラを向けて写真を撮られたり、制服から男だと分かっているからか体を触られたりした。


 なんなら声を掛けてくる人までいた。


 まるで動物園の猿にでもなった気分だった。


 学校に着いてからも、他の生徒からの視線は集中していたように思う。


 担任の先生にはあらかじめ説明をしていたが、ホームルームの前に改めて会いに行くと、「本当に透明なんだな」と心底驚いていた。俺が逆の立場だったら、同じ反応になっていただろう。


 クラスメイトは意外にも話しかけてくることがなかった。


 普段からあまり話したりしない方なので、当然と言えば当然だし、いつも通りと言えばその通りだ。


「え、ほんとに透明じゃん!」


「マジだ。すっげー」


 学校で唯一の友達である二人は、登校してくるなり他のクラスからやってきて、俺の机を囲んだ。


 べたべたと触ってくるし、写真も撮っていたけれど、今朝の電車内ほど不快感はなかった。


「でも、どうせなら女子に透明になってほしかった」


「それな」


「なんで?」


「だってさ、下着覗き放題だろ」


「あ、そっちか」


 前言撤回だ。そして、俺を同類にするのはやめてほしい。


「でもちょっと待てよ。別に覗き放題じゃなくね」


「というと?」


「女子なんて背低いし、電車とか乗ったら覗かれ放題じゃん。お前より馬鹿な女子なら分からんけど、俺に想像できるんだから、誰でも想像できるだろ」


「はあ? この前のテストの合計点俺の方が高かっただろ」


 たしか五教科の合計が二百五十点と二百四十五点とかだったはずである。つまりどんぐりの背比べだ。


「俺は赤点なかったから実質勝ちだろ。で、下着覗かれ放題を放置するやつは痴女だ。大体の女子は痴女ではない。痴女であってもそう思われたくない。つまり、覗かれると分かっているなら、下着は着けない!」


「……たしかに。いや待て。ってことは、ノーパンノーブラってことか!」


「その通り」


 友人の一人は指を鳴らした。


 まさしく男子高校生の会話という感じで、俺も「たしかに」と声に出してしまったが、よくよく考えればここは女子もいる教室である。こういう会話は人のいないところでしたかった。


 そうこうしているとチャイムが鳴り、二人は自分の教室へと戻っていった。


 入れ替わるように担任の先生がホームルームにやってきて、俺の透明化について簡単に説明してくれた。


 その後はいつも通りの授業を受けて、何事もなく下校時間になった。




 校内の掃除を終え、俺たちは三人は帰路に着いた。


 三人とも部活をしていないし、駅までの帰り道は同じなので、自然と集まることが多かった。


「その透明化って治んの?」


 やけに真剣なトーンで尋ねられたので、「分からん」と前置きしながら、医者から言われたことをそのまま伝えた。


「将来の夢、ね」


「脱童貞! とか?」


「お前じゃねーんだから」


「童貞ちゃうわ」


「で、実際どうなん」


「どうって?」


「夢ってあんの」


「ない、と思う」


 医者から聞かされてから、一応考えてみたけれど、これといった具体的なものは思いつかなかった。


 そもそも夢というものは、高額な課金アイテムという印象が強い。


 俺みたいな無課金か、せいぜいが微課金勢といった具合の凡人などが手を出せるものではないのだ。


「いや、そんな大それた感じじゃなくてさ。もっとこう、あるじゃん」


「今の言い方めっちゃ馬鹿っぽいな」


「頭の出来は大差ないだろ」


「そうは言ってもなぁ」


「例えばさ、子供の頃の夢とか」


「ああ、そういう」


 子供の頃の夢、と口ずさんで、はっとする。偶然隠し部屋の装置を動かせてしまったみたいに、頭の奥底に押し込めていた記憶が溢れ出した。




 あれは俺が小学六年生の頃のことだ。


 当時の俺は音楽が好きだった。聞くのも歌うのも大好きだった。


 両親が言うには、二歳とか三歳くらいから、四六時中歌を聴いては歌いを繰り返していたらしい。若干だけど、その記憶を思い出すこともできる。


 歳を重ねても、重ねるほどに、好きになってのめり込んでいった。


 今となっては恥ずかしいばかりだが、自分で歌詞を書いたりメロディを作っていたのも懐かしい。


 至極当然のことのように、歌手になることが俺の夢になっていた。


 ただ、小学生最後の合唱コンクールのクラス練習で、隣の女子から「音痴じゃん」って笑われたのだ。


 密かに恋心を寄せていた女子から言われたということも起因しているのだろう。


 俺はめちゃくちゃショックを受けた。


 音痴と言われたことそのものにではない。


 大好きで、心の支えで、人生そのものと思えるほど大事な音楽を自分自身で汚してしまっているように感じたからだ。


 言い訳だ。本音を言えば、音楽が怖くなったのだ。


 気付いてからしばらくの間、隙あらば聴いていた音楽を歌うどころか、聴くことさえできなかった。


 そうしてそのまま、合唱コンクールでは口パクで乗り切った。


 中学生の頃は口パクすらしなかった。


 受験勉強の際に、慈悲を乞う浮浪者のように音楽を聴いた。


 高校生になって、友人からカラオケに誘われ、「音痴だな」と笑われるなら、という条件で自分を許した。


 歌うことそのものが、自分への罰みたいなものだったのだ。




 というようなことを、かいつまみながら友人に語った。


 笑われるかもしれないと思った。


 まあ、笑われることは慣れているので今さらだけど。


 それよりも、「歌手になること」を自分の夢だと宣言することが、音楽と和解する一歩のように思えた。


「いいんじゃね別に」


「だな。俺の夢と比べたらまともだわ」


 予想外の反応に「いやでも」と否定の言葉を探した。


「そんな簡単なことじゃないだろ」


「そりゃそう」


「現実的じゃないし」


「まあ俺の夢よりは現実味ないよな」


「だろ。だから、いいんだよ別に。俺は普通に働いて普通に生きる方が似合ってる」


「仕事は夢じゃないだろ」


「は?」


「だって生きていくのに金が必要で、金を稼ぐために働くんだろ。仕事=夢って人もいるけどさ、少数派だろそういうの。だから夢と仕事は別だ」


「屁理屈うまいな」


「お前と一緒にすんな。ま、そういうことだからやってみろよ」


「そーそー、ダメもとでいいじゃん。んで、デビューしたらさ、アイドルとの合コンセッティングしてくれ」


「俺は女優な」


「ファンクラブの会員番号一桁も追加で」


「そんなん取ってどうすんだよ」


「転売」


「ゴミだな」


 そんなやりとりを聞いていたら、どうしようもなく笑いが込み上げてきて、鼻水まで出てきた。


「泣いてんの?」


 と言われたが、そんなことはない。


 断じてない。


 顔を覗くな。どうせ見えないんだから。


「つーか、お前の夢って結局なんなん?」


「そりゃあれよ」


「どれだよ」


「……童貞卒業」


「無理だな」


「無理だな」


「うるせぇ。ん?」


「どうした?」


「なんか色戻ってね」


「んなわけ。夕陽でそう見えるだけだろ」


 そんな風にくだらないことを言い合いながら、俺たちは駅で別れた。


 直前に言われた通り、色と輪郭が少しだけ戻った感じもあるけれど、多分、気のせいだろう。

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