ただいま
晃樹は玄関のドアノブに手を掛けて、長く息を吐いた。
手が震えている。緊張が体外に表れるくらい、実家に帰ってくることが覚悟を必要とする行為だった。
かれこれ数分はこうして玄関の前に立ち尽くし、中に入る決心がつかないでいた。
平日の昼前なので人通りは少ないが、このままではただの不審者である。
——この深呼吸をしたら行く。
と言い聞かせてから三度の深呼吸をしてようやく、晃樹はドアを開けた。
ドアの閉まった家の中は一層暗い。
晃樹は持参した使い捨てのスリッパを履いてリビングへと出た。
閉じ切ったカーテンの隙間から差し込む陽の光に埃が浮いている。
一年間開けていない押し入れのような臭いと、偏見からくる異臭が鼻につく。
「ただいま」
とりあえず呟いてみたものの、違和感が凄まじい。
——そんな資格はないか。
晃樹は自嘲するみたいにふっと笑って、それぞれの部屋を見て回ることにした。
まずはリビングとダイニング。
ここは区切りがない一つの部屋になっていて、リビングの方に人がいることはほとんどない。寝室に布団を敷いて寝るのを面倒くさがった父が、腹を出して眠っていたくらいのものだ。用がある場合はダイニングのテーブルにいることが多かった。
朝食はみんなバラバラに食べる。
一早く起きて朝食の用意をした母は他の家事をして、まず父が食べる。
父が仕事に出かけるくらいに晃樹が起きてきて朝食を食べる。
晃樹が高校へ登校するくらいに弟が起きてきて朝食を食べる。
男三人が家を出た頃、母が残った朝食を食べて片づけをする。
夕食もバラバラになることが多かったけれど、休日は揃うことも多かった。
弟が中学生になってからは、三人で食べることが増えたけれど、それでも家族の団らんは確かに存在していた。
玄関からリビングを真っ直ぐ通った先には畳の敷かれた和室がある。ここは父と母の寝室である。
たまに深夜にトイレで目が覚めて二階から下りていくと、その和室から音がすることがあった。
小学生の頃の晃樹はそれが怖くて、夜中にトイレを我慢していた。
母に「変な音がする」だとか「お化けがいる」だとか言って、本気で心配したこともある。
母はばつが悪そうに「大丈夫。お化けなんていないよ」と困った顔をして笑っていた。
意味が分かる年頃になってからは、なるべく音を立てないように下りることを心掛けていた。
リビングに戻って階段を上がった。
二階には部屋が二つある。一つは晃樹の部屋で、一つは弟の部屋だ。
最初は二人で一部屋だったが、晃樹が中学生になったタイミングで一人部屋にしてもらった。
晃樹は自室だった部屋のドアノブに手を掛けて躊躇い、弟の部屋のドアを開けた。
玄関を開けて家に入った時とはまた異なる臭いに、吐き気を催した晃樹は思わず嘔吐いて顔を背けた。
それは一日中セックスだけをした部屋みたいな、据えた精液の臭いがした。
顔をしかめながらしかし、晃樹は弟の部屋に踏み込んだ。
弟の部屋は晃樹の記憶のそれとはまるで違っていた。
まず、勉強机が無くなっている。代わりにL字デスクとゲーミングチェアが鎮座していた。デスクの上には三枚のモニター、マウスやキーボードやマイクなどの周辺機器が置かれている。デスクの下には二台のPCもあった。
本棚にはずらりと漫画が並んでおり、教科書や参考書の類はまるでない。辛うじて、自己啓発本みたいなビジネス書や心理学の解説書といった書籍が床に積まれている。
壁の所々に開いた穴も相まって、晃樹はその部屋が「思春期だから」で片付けるには異質に思えてならなかった。
自分が中学生の頃はこんな風に育っていないし、何より記憶の中の弟は、口下手で不器用だけど努力家で、何か一つのことに情熱を注げる人間だったはずだ。
まるで知らない国に来てしまったような戸惑いを覚えながら、晃樹はざっと見回して部屋を出た。
そうしてようやく、自身の部屋のドアを開けた。
——そりゃそうか。
晃樹の部屋は埃っぽい以外に変化はなかった。鉄砲玉みたいに家を飛び出した時そのままが保存されている。ほっと胸を撫でおろすのと同時に、後ろめたさと、どうせなら跡形もなく壊れていて欲しかったという、失望が心を満たした。
小学生の頃から使っている木製の勉強机。
机の上の本立てに並ぶ、通っていた工業高校の専攻分野の教科書たち。
キャスター付きの本棚に詰め込まれた小説。
小さなテレビを置いた台座とゲーム機たち。
カーペットに足跡を残した折り畳み式の白い丸テーブル。
くたびれたマットレスと掛け布団が敷かれたベッド。
ベッドの横に置かれたプラスチック製の衣装タンス。
長さを間違えて買った短い紺色のカーテン。
クローゼットを開ければ、制服やパーカーやダウンジャケットが掛けられている。
——帰ってきたんだ。
色々な出来事が濁流のように流れてくる。
友達を呼んで飽きずにゲームや漫画を読み漁ったこと。
泊りがけで遊んで、母に「早く寝なさい」と窘められたこと。
高校受験のために深夜まで勉強をして寝落ちしていたこと。
初めてできた彼女を連れてきて、家中がそわそわしていたこと。
物音を立てないように、小声で話しながら、イチャイチャしたこと。
彼女にフラれてふて寝したこと。
ゴキブリが出現して、一時間にも及ぶ大乱闘をしたこと。
その他にも、たくさん、たくさん。些細なことから色褪せることのない一大事件まで、何もかもが懐かしい。
「よしっ」
晃樹は自分にだけ聞こえるくらいの声量で言った。
カーテンを開け、窓を全開放する。
自分の部屋だけでなく、弟の部屋や一階の和室やリビングの窓も開け、風呂やトイレやキッチンの換気扇を点けた。
まずは換気をして、約一年間放置された掃除を行う。
晃樹はテーブルや食器棚の埃を拭いて掃除機をかけた。
水回りはかび臭かったり、水垢がができていたりしていたので、念入りにブラシとスポンジで擦った。
一通り終わると、時刻は午後四時を回っており、家の中は薄暗くなっていた。
晃樹は開け放したままの窓から入る秋風の冷たさに身を震わせた。
窓とカーテンを閉め、各部屋の電気を点けた。
——遺品整理は明日にしよう。
掃除が一段落し、気持ち的にもやり切った感があった。
加えて、晃樹を含めた四人分の、それも十数年分を一人で整理するのはさすがに骨が折れる。
今日はゆっくり休んで、また明日からの方が効率的だろう。
そう自分に言い聞かせた晃樹は、外に出て自分の車に乗り、近くのスーパーに行って夕食を買って帰ってきた。
「ただいま」
何気なしに言うと、「おかえり」返事が返ってくるようだった。
独り暮らしで静かな食事は慣れているはずなのに、晃樹はダイニングテーブルで食べる夕飯をひどく寂しく感じた。
そうしてまた、遺品整理が終わってこの家を売りに出してしまえば、家族の存在した痕跡が自身の頭の中にしか残らないことに、晃樹は自覚的だった。
ふと、つい一年前の夏の終わりの頃のことを思い出す。
仕事から帰ってスマホを見ると、着信履歴に二十件近くの連絡が入っていた。
知らない電話番号ではあるものの、同じところから何度も掛かってきていては無視するわけにもいかない。
晃樹が電話を掛けると、相手は警察を名乗った。
曰く、家族が全員亡くなったとのことだった。
詳しいことはまだ言えないが、近く、事情聴取させて欲しいと。
晃樹は理解が追いつかず、新手の詐欺ではないかと疑った。
しかし、後日本当に警察が来て、最寄りの署で事情聴取を受けた。
どうやら本当に、晃樹を残して一家全員が亡くなったらしい。
外部からの犯行の線は薄く、警察としては自殺か一家心中ではないかとのことだった。
それを知った晃樹の感想が「やっぱりな」だったことに、当の本人も驚いていた。
きっかけが何かは分からないが、中学一年生の終わり頃、弟が不登校になった。
弟は四つ年下で、晃樹も父も母も、今時珍しくはないと楽観しながら受け入れていた。
弟は少しずつ荒れはじめ、母に金銭などを過剰に要求し、無理と分かると暴力を振るったり、癇癪を起すようになった。時には親のクレジットカードを使って課金をしたりもしていたらしい。
母は弟を精神科の病院に通わせた。何か病名が付いて、母はほっとした様子で帰ってきた。
母が宗教というか、もっとカジュアルでスピリチュアルなものにハマり出したのもそのぐらいだった。
父は寛容な態度を取っていたように思う。ただ距離を置きたかっただけかもしれないが。
そんな父が不倫をしたとかで母と口論になった。
小さなボタンの掛け違いが、取り返しのつかない事態になっている感覚を晃樹は味わっていた。
それはまるで小学生の頃に深夜の和室から聞こえてきた奇怪な物音のような、得体のしれないモノへの恐怖に似ていた。
晃樹は高校を卒業すると同時に、遠く離れた地で就職し、以来五年間、音信不通のまま実家に帰ることをしてこなかったのだ。
そうして久しぶりに聞いた家族の近況が訃報となってしまったことに、晃樹は後悔よりも安堵を覚えた。またそのことが、自分もあの家族の一員なのだという証明を自らしているようでもあった。
仕事の傍ら、一年ほどかけて葬儀やら親族への説明やらが落ち着き、こうして遺品整理に来ていた。
すっかり夜も更け、晃樹はリビングに寝袋を敷いて寝る準備をした。
いくら掃除したとはいえ埃臭いのと、ダニがいそうなので、自室のベッドで寝るのは避けた。
かつての父と同じ場所で眠ることに、奇妙な安息を感じながら、晃樹は眠りについた。
それから四日間、晃樹は遺品整理を行った。
途中、近所の方から通報されて警察がやってくるというハプニングも起きたが、作業は概ね順調だった。
あと一日、二日もあれば完全に片が付く。
しかし、仕事の関係上、これ以上休むことができなかった。
ただでさえ無理を言って、三日間も有休を取らせてもらったのだ。
残りは来週か、再来週か。
意外にも重労働だったことと、寝袋で床に寝ていたことで、五日目の朝には晃樹の体はバキバキになっていた。
持ってきた荷物や自分の部屋にあったモノを車に積み込む。
忘れ物がないか部屋を見て回り、晃樹は靴を履いて玄関のドアを開けた。
「行ってきます」
『行ってらっしゃい』
声が聞こえた気がした。
気のせいだろう、と晃樹は振り返らなかった。
外は少し、冷えた朝だった。




