追想
台所の縁に腰を預け、煙草に火を点けて、思い出したように換気扇を回した。
先端から伸びる煙も、溜め息と共に吐き出した煙も、分け隔たれることなく吸い込まれていく。
スマホの電源を入れて、私は顔をしかめた。
リビングから漏れ出る陽の光で影を作るここでは、スマホの光量が眩しすぎる。
スマホの待ち受けには、色褪せることのないあの頃の私たちが写っていた。
高校の卒業式で、泣きながら、笑いながら、「ずっと一緒だよ」って言ったあなたとの写真。
あれからもう十年も経っていた。あの頃の私たちには途方もない年月である。
二人の奥に広がる青空が目に沁みた。
「十年」
呟いてみれば、案外、大したことはない。
指紋認証に使った指は、ロックの開錠を終えると、何の躊躇いもなく写真フォルダをタップしていた。
二、三回スクロールすればあの頃に行き着く。
高校一年生の時、私たちは付き合いだした。
告白してきたのは香織の方から。
香織の熱量と初めて受けた告白に舞い上がって、二つ返事で了承した。
初デートは学校から駅までの帰り道だった。
ただただ楽しくて、あっという間に駅に着いてしまった。
別れ際にひどく寂しくなったことを昨日のことのように思い出せる。
ちょっと泣きそうになったっけ。
それから、カラオケに行ったり、カフェに行ったり、ゲーセンに行ったり。
下着を買いに行きたいって香織が言って、二人で試着室に入って、初めてキスをした。
香織の家に泊まりに行って、声を押し殺して過ごす夜を知った。
高校二年生の時、泊りがけでディズニーランドに行った。
二人してはしゃいで、帰宅してから二人して風邪を引いた。
学校を休んでベッドの上に毛布でくるまりながら、夜もすがら電話で長話。
文化祭の出し物を二人で回って、隠れてキスをしているところを見られて、私たちの関係は公になった。
香織は「堂々とイチャイチャできるね」なんて言ったから、私たちは学校のカップル代表になった。
それから、それから。……
卒業式の日に香織は言ったんだ。
「ずっと一緒だよ」って。
私たちは別々の大学に行くけど、大人になっても一緒だよって。
「うん」って、私はただ頷いたの。香織の言葉を信じて頷いたの。
それなのに、大学生になったら、香織の存在がどんどん遠くなっていった。
私だけがあの頃に取り残されて、香織の匂いだけが薄くなっていった。
それでも香織の言葉を信じて、思い出の中に私はいることを選んだ。
大学を卒業して、就職して、擦り切れていく日々の中で、あの言葉を大事に抱えていた。
短くなった煙草を灰皿の底に押し潰す。
写真フォルダを閉じて、スマホの電源を切った。
リビングに戻れば、テーブルに投げた一通のハガキがどうしようもなく目に留まる。
連絡を取らなくなって三年、香織から届いた結婚式の招待状を拾い上げた。
「どうしよう」
私は溜め息を吐いて、招待状を元の位置に投げた。
ドレスを着たのは一年ぶりだろうか。
会社の先輩の結婚式に参列したのを最後に、クローゼットの肥やしとなっていた。
ふと、その先輩の言葉が脳裏を過ぎった。
「あなたも結婚した方がいいよ」
羨ましいです、なんて返したけど。
いい人が中々見つからなくて。愛想笑いで誤魔化す自分が恥ずかしかった。
結婚なんてするわけがない。出来るわけも、ない。
そうやって現実から目を背けていることを自覚しながら、否定するのは本当に情けなかった。
ヒールの高い靴は苦手だ。歩いて十五分くらいだというのにもう足が痛い。
あの頃は何時間でも歩けていたのに。
結婚式の会場は有名なホテルだった。
受け付け開始時間は午前十時から。腕時計では十時五分を指し示している。
受け付けを済ませて中に入ると、知らない人がたくさんいた。
私の後ろからもどんどんやってくる。
身内や親しい間柄の人間だけを呼んだわけではなさそうだった。
少しして式が始まる。
音楽が鳴った。私の知らない曲だった。
新郎が入場する。背が高くてガタイのいい誠実そうな人だ。香織はもっと柔和で細身のタイプが好きなものだとばかり思っていたけれど、好みが変わったのかもしれない。
新婦が入場する。心臓がキュッと苦しくなった。真っ白なウェディングドレスは、まさしく香織に着てもらうために存在していた。
私と目が合って、香織は小さく微笑んだ。
鼻の奥が熱くなる。喉に力を入れていないと泣き叫んでしまいそうだった。
でも、なんで私じゃないの。
隣に立っているのは誰。
本当なら、そこは私の居場所だったのに。
私を置いていかないでよ。
そこにいるのが香織の姿形をした別人に思えてならなかった。
記憶の中の、あの頃の香織ではないのだ。
私の中にしか存在しないのだ。
……そうか。私はもう、一人なんだ。
気が付けば挙式は終わっていた。
披露宴の準備時間にホテルから出て行った。
あそこに私の居場所はなかったから。
言葉を交わしてしまったら、死んでしまいそうだったから。
私も、あの頃を置いて、歩き出さないといけなかったから。
ヒールの音が鼓膜を打つ、一人で歩く帰り道はひどく風が冷たかった。
目の奥が滲んで、空を見上げる。
あの頃よりも少しだけ、青が濃くなっていた。




