戦場に咲く花②
リブリーは眉をひそめて、懐かしむようにアンナの髪を梳かしていた。
「もうほんと、これっきりにしてください」
小言を言って鏡越しに見たアンナの表情は、満足気な笑みを浮かべている。
屋敷に当主様の怒声が響き渡った直後、リブリーは何事かまたお嬢様がやらかしたなと察して平静を取り戻した。いつもの出来事、日常の一幕にすぎない。そう高を括って、戻ってきたアンナの髪を見たリブリーはあわや気を失いそうになるほど卒倒した。
まさか! 当主様の不興を買って、髪を切られたのではないかと。
しかし、話を聞くと怒られて当然の内容であった。貴族の女にとって時には命より大事な髪を自ら切ってしまうなど自殺に等しい。いかに愚かな行いであったのか、リブリーがぐちぐちと説教を始めたのがつい一時間前のことだ。
もちろん、アンナにとって豚の餌にもならないと分かってはいるけれど、そうでもしなければ腹の虫がおさまりそうになかったのだ。
「これでは王太子殿下になんと申し開きをすればいいのやら」
肩口より少し短く乱雑に切られた髪の毛の先端を整えながら、リブリーはアンナの結婚相手であるこの国の王太子へ申し訳なくなっていた。
なにせアンナは第一王妃として嫁ぐのだ。正妻である。そこらの妾はおろか第二王妃等の側室すら目でもない。ゆくゆくは王太子殿下が王位を継いで、二人はこの国の顔になる。にも関わらず、貴族の女としての矜持を文字通り切り捨てるこの奔放さは、不安以外の何ものでもなかった。
「問題ないわ。殿下の度量は大きいもの」
当の本人はといえば、まるで反省の色がない。限度があるだろう限度が。殿下の苦労が目に浮かぶようである。
王太子殿下は王国史上まれに見る名君になると期待されている。見目も良く、武勇に優れ、文芸や学術など、アンナと唯一タメを張れるくらいには才気に溢れるお方である。
また国民からの人気は熱狂的で、臣からの忠義も厚く、側室や妾にとの申し込みは枚挙にいとまがなかった。
ゆえに、アンナを妬む女は無数に存在していた。
そんな中、長らく政略的な婚約者でしかなかった殿下が、アンナに惚れてプロポーズをしたことは記憶に新しい。
惚れた弱みとでも言うべきだろうか。アンナは殿下の気持ちを利用している節さえあった。
アンナの思惑に気付かないほど盲目していないと信じたいが、殿下の権力を使ってやりたい放題やった過去もある。そういう意味ではたしかに、度量の大きな殿方であるのは間違いないが、殿下と周囲の心労を思えば、少しは大人しくしていて欲しいと願ってしまうものだ。
アンナが大人しくなる。非現実的だ。リブリーは溜め息を吐いた。空から星が落ちてくる方がまだいくばくかの想像がついてしまう。
ただ一つ、万に一つ、可能性があるとすれば、恋だろうか。
恋をすると人が変わる。というのはよく聞く話だ。
惚れた相手には良く見られたいと思うのは当然のこと。それが自身を省みる経験となり、より美しく洗練されていく。無骨なただの石ころがカットを繰り返すことで輝きを放つ宝石に変わるように、あるいは蕾にも満たない芽が満開の花を咲かせるように。
人の恋模様がどういう変遷をたどり、成長するのか。リブリーは歌や劇や小説でたくさん見てきた。リブリーには恋人はいないけれど。いたこともないけれど。
お嬢様にもいつか恋を知る時が来るのだろうか。はたして、どんな花が咲くのか、きっと美しいに違いない、とそんな夢を見ることもあった。
リブリーは恋について言葉を尽くして語って聞かせるも、アンナは「興味ないわね」と吐き捨てた。
「もったいないことです。あの気持ちを知らないなんて」
「あなたも知らないでしょう」
リブリーは代々使用人の家系で、生まれた時からメイドとして働くことが決められていた。そのため、結婚相手はおろか恋人すらいたことがない。しかし、それとこれとは別の話だ、とリブリーは思う。
「頭の中は自由ですからね」
「それもそうね。……ねえ、恋するってどんな感じ」
「あら、興味がないのでは?」
「ないわ。でも、この気持ちの正体を知りたいのよ」
えっ。リブリーは衝撃のあまり櫛を落としてしまった。鏡に映るアンナの表情は間違いなく恋する女のそれだ。見ているこちらが心臓の鼓動を高鳴らせ、惚れてしまいそうになるほど破壊的な威力があった。
落とした櫛を拾い上げたリブリーは、同時に、「まずいのでは?」と思い至る。
先述の通り、アンナは結婚を控えている。恋した相手が殿下なら何も問題はないが、もしそうでない場合、下手をすれば打ち首なんてことになるかもしれない。女の不貞はそれだけ重たいし、相手が次期国王というのも拍車をかけている。
物語でならそういう展開も大歓迎である。叶わぬ恋も複雑な三角関係も大好物である。ところがどっこい、これは現実。聞きたくなかった、というのがリブリーの率直な感想だった。
「ち、ちなみに、お相手は」
「ふふっ。ないしょ」
ああ、女の顔だ。今まさに酸いと甘いに舌鼓を打っている、一番楽しい時期にいる女の顔だ。
さらなるショックに思考を停止させて固まる侍女をよそに、アンナはお相手との運命的な出会いを思い出していた。
それは遡ること一週間前のこと。
深夜、皆が寝静まった時分に、アンナの寝室に暗殺者がやってきた。
無論、暗殺者はアンナを殺害するために侵入した。暗殺者にとってしてみれば簡単な任務であった。いくら功罪の天秤が若干功績側に傾くくらい話題の尽きない人物であっても、寝込みを襲って殺すことなど朝飯前。相手が成人前の女とくれば難易度はさらに下がる。屋敷に侵入した時点で勝敗は決していたはずだった。
暗殺者はその手に持った業物の短剣を構え、アンナの寝ているベッドに刃を突き立てようとした。
しかし、致命の一撃をくらったのは暗殺者の方であった。
というのも、何かと敵の多いアンナは、自室に許可なく入ってきた者を報せる罠を張っており、暗殺者の来訪に気が付いていたのだ。寝たふりをして、暗殺者が最も油断する瞬間をじっと待ち、カウンターをお見舞いしたというわけだった。
「もう終わり?」
顎を打たれた暗殺者の焦点は定まらず、平衡感覚を失い、意識を失わないだけで精一杯といった具合でへたり込んでいた。
感じたことのない胸の高鳴り。
そして、落胆。アンナは退屈と言わんばかりに溜め息を吐いた。
実は、こうも直接的に命を狙われるのは初めてだったのだ。いつもは誘拐とか脅迫とかで、命の危機を感じるのは実験の方がはるかに多い。ゆえに、生きるか死ぬか、刹那の命のやり取りそのものに、アンナはもう少しで何か新しい感覚を掴めそうなもどかしさを覚えていた。
言い換えれば、トキメいたのだ。
——この感情の答えを知りたい。
欲求に忠実なアンナは、暗殺者にとある選択肢を与えた。
一つ、このまま帰る。戦利品として短剣はもらう。
二つ、このまま死ぬ。戦利品として短剣はもらう。
暗殺者にとってしてみれば、どちらの選択も大差はない。どの道、暗殺に失敗した時点で、帰ったとしても殺されるからだ。
沈黙する暗殺者にアンナはさらに続けた。
「一カ月後の戦争に私も出陣してあげる。それも護衛の兵士を少なくして。そこで私を殺しに来なさい」
そうすれば見逃してあげるし、特別に軍の情報も渡してあげる。
何を言っているのか分からない。という表情の暗殺者に、アンナはベッドから下りて机の引き出しから紙の束を見せびらかした。
「ここに次の戦争の機密情報があるわ。暗殺失敗の負債を帳消しにするくらいの、ね。あなた、どうせ戦争相手の国の人間でしょう」
「……なぜ」
「短剣の意匠を見れば分かるわよ」
質問の意図はそちらではなかったのだが、と言う勇気は暗殺者になかった。答えていいのは、この提案を受け入れるか否か、ただそれだけである。
手ぶらで帰れば殺される。このままここにいても殺される。どちらの選択でも結果が変わらないのなら、生存の確率がわずかでもある方を。暗殺者は数秒の逡巡ののち、アンナの提案を受け入れることにした。
「あ、短剣はもらっていくわよ」
忘れていなかったらしい。
ともあれ、密約は交わされ、各々が思惑を抱えたまま、時は過ぎていった。




