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【短編小説】娑婆訶永遠か

掲載日:2025/12/21

 気付いた時にはもう遅かった。

 鼻先を殴られたような、サッカーボールがぶつかったような、地味でツンとした痛みが走る。

 けれど殴られた訳でもボールがぶつかった訳でも無い。いつもこうなのだ。



 俺は顔を俯けて足速に過ぎ去ろうとしたけれど、そいつは正面に立つどころか並んで歩きながら俺の顔を下から覗き込んできた。

「なぁ、見てたろ」

 俺は顔を上げて空欠伸をしながら無視を決め込むが、そいつは食い下がる。

「見てたろ、ワカってんだよ」

 視界の端でニヤニヤと笑う顔が見えた。

「おい、てめぇいつまでシカトしてんだコラ」

 時代遅れのポンパドール、薄い眉毛と細いサングラス。漢字刺繍の白いツナギは歩くチャンプロード増刊号にしか見えない。


 俺はその漢字を見ながら連想ゲームを始める。

 曇天弁天不倶戴天。

 消失点快楽天南無日輪摩利支天。

 南無南無南無南無南無阿弥陀仏。

 般若波羅密多時。

「娑婆訶!」

 心の声が漏れ出る。

 壮年サラリーマンが不審そうな顔で俺を振り向く。


 チャンプロードは鼻で嗤う。

「やめろよ、なんだそれ」

 俺はため息をつく。

「やっぱ効かないな」

 チャンプロードは眉毛を捩る。2ストバイクのチャンバーみたいだと思った。

「ざけんな、漢字なら良いってんじゃねぇぞ」

 嘘をつけ、お前ら漢字ならなんでも好きだろう。俺は諦めてチャンプロードに話かける。

「ちょっと普通に話しかけないで貰えます?ほら、みんな見てるじゃないですか。変な人に思われたく無いんですけど」


 チャンプロードはニヤリと笑った。

「デェジョブだよ、みんな電車に乗る頃には忘れちまわぁ」

 まぁそんなもんだ。

 アンガーマネージメントみたいなもので、独り言を言う不審者だとかの余計な情報なんて少しでも減らしたい。

 だからってチャンプロードと話したい訳がない。

「……」

 チャンプロードが細いサングラスの向こうで目玉をギョロギョロと動かす。

「おい、だからシカトすんなって」

「……」

 南無妙法蓮華。

「だからお経とか効かねえんだって」

「……」

 愛羅武勇。

「漢字なら良い訳じゃねぇから」


 この世で目を合わせてはダメなものが3つある。不良とメンヘラと幽霊だ。

 存在に気づいて貰えるのが嬉しくて過剰に絡んでしまう、社会の弾かれ者たち。

「なんだ、そのメンヘラって」

「不良の自覚くらいは有りそうで助かりました」

 チャンプロードの眉毛が再びチャンバーになる。

「あん?」

「死んだ自覚は無さそうですからね」

「なんだ、それ」

「あなたの業界用語で言うところの”不運”と”踊”っちまった、ってところです」


 一応、チャンプロードの文化に敬意を払ったと言うか配慮をしたつもりだったが反応は芳しくなかった。

「なんだ、それ」

「アンタいつ死んだんですか」

 ぶっ拓より前かよ。

「あ?」

 チャンプロードが口を開ける。

 深淵がこちらを見ている。

「あんた、もう死んでるんですよ」

 深淵がこちらを見ている時、俺もまた深淵を見ているのだ。

「あ?」

 チャンプロードよ、さらば。

「だから、もう二度と産まれてくる事のないように」

 それは俺の願いだ。


 深淵の中から俺が俺を見ている。

「リインカーネーション」

 チャンプロードの深淵が発する音。

 俺は俺を見ながら続ける。

「生きる事は苦しむ事なので」

 自己対話と自己批判と自省と自戒。

「リインカーネーション」

 チャンプロードが繰り返す。

「光あれ」

 それは俺の願いだ。


 チャンプロードは青白い光を放ちながら徐々に体を膨らませていく。

「さようなら!」

 そうだ。

 俺はむかし、公園近くの煙草屋で駄菓子を買うついでにババアから貰ったソフトグライダーで空を飛んだんだ。

 あの優しかったババアは狂って死んだらしい。

 もしかしたら俺にソフトグライダーをくれた時から既に狂っていたのかも知れない。


 俺の祖母もそうだった。

 俺と孫と他人の違いが曖昧になると言う事は人生の補完に近い。

 だがそれは俺の女が知らない誰かに抱かれると言う事だし、俺が抱く女が知らない誰かだと言う事でもある。

 つまり人生は欠落で出来ている。

 俺たちは足を踏み外さないようにしているだけだ。



 アイデンティティだとかメメントモリだとかキオクシアだとか色々と呟きながら湯船に潜る。

「もう解放してくれ」

 運動場の隅っこに置かれた金網の中で悪魔が泣く。

「もうお前は月曜の朝礼に出たりしないだろう」

 そうだ。

 俺が朝礼に出るのはその朝礼で話題にされる時だけだ。表彰のはずがない。事件だ。

 校長先生が登壇する。

 生徒たちは口々に「ざわ……ざわ……」と言う。校長先生は深々と頭を下げながら「ファックユー!ぶち殺すぞ!」と叫び、仕立ての良いスーツを破り棄てるとラバーボンテージ姿で走り出す。


「俺たちにはそう言う自由があったはずだ」

 チャンプロードは俺だったんだな。

「瞬きもせずに俺たちは光の渦に」

 いや、俺がチャンプロードだったのか。

「巻き込まれ行く、雲の隙間に」

 俺が完成したなら、それで良いか。

「もうええわ」

 娑婆訶、永遠か。

「せやな」

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