17話 すれ違い、そして喪失
神器と俺の肉体は融合しつつある。前世の身体と溶け合ったら、人族としての意識は保ったままでいられるのだろうか。
人族、魔族見境なく喰い殺していた暴食公に戻るのだろうか。
自我が保てないのであれば、神器もろとも滅びるべきだろう。
死にたくはないが、俺が存在しないことで全て丸く収まるのであれば悪くない選択肢だ。
考えたところで答えが出るわけではない。
このまま帝都へ向かおうか。
俺は腕に抱えた箱を見下ろす。
「勝手に神器を持ち出さないで頂戴」
凛とした声音に振り返ると、ベアトリクスがいた。
手にしたろうそくが険しい表情を照らし出している。
「神器を返しなさい」
俺が箱を差し出すと、ベアトリクスはホッとした様子で肩をなでおろす。
果たしてこのまま渡してしまっていいものか。
俺はしばし考え込む。
「殿下。仮面を俺に預けてもらえないでしょうか?」
「嫌よ。お前が身につければ外せなくなる可能性が高いもの」
「外せなくなるのは好機かと」
「……私が持っていたらすぐに奪われると言いたいの?」
ベアトリクスは腕を組んで不機嫌そうにした。
青い瞳が俺を睨みつける。その瞳には、夜空に輝く星々よりも鮮烈な光が宿っていた。
直視できない。俺は顔を背ける。
「……ひとりで帝都に戻るつもりね」
「いえ、そんなことは」
「私の目を見て、断言なさい」
ベアトリクスはかがんで俺の顔を下から睨み上げる。逃げ道を塞がれ、俺は息を呑んだ。
「殿下は御身の安全を第一にお考えください」
「……私を置いて、白銀竜と行くつもりね」
俺は目をしばたたいた。
ラヴィーネは俺たちを助けてくれたが、それは仮面を守るためだ。
そんな彼女が神器を壊す計画に加担するわけがない。
「誤解です」
「嘘おっしゃい。私が寝てる間に、白銀竜は出て行ったのよ。お前を追いかけてね」
「少し話をしてました」
「何を話してたの?」
ベアトリクスは不安げな声を出した。
隠していることが多すぎて、下手に答えられない。
俺はその場で膝を折る。
「正直に答えなさい。これは命令よ。私に黙って何をしようとしているのかしら」
「……帝都へ向かおうと思います」
「奇遇ね。私も戻ろうとしていたところよ。夜が明けたら出発するわよ」
ベアトリクスは踵を返す。
「神器は俺と融合してしまっていて取り外せないとラヴィーネ様は仰っています」
神殿の入り口に差し掛かったところで、ベアトリクスは足を止めた。
「……我が帝国の宮廷魔術師なら解除できるわ。魔獣の戯言を信じるなんて愚か者のすることよ」
ベアトリクスは目を細める。
殺気のこもったまなざしに、俺は一歩後退った。
「主人である私の言葉は信じないとでも?」
「……俺は殿下に生きていてほしいのです」
「では頑張って私の盾になりなさい」
「はい。ですから――」
「私のそばで死ぬ気で私を守りなさいと言っているの」
腕を組み、俺を尊大に見下ろすベアトリクス。
幾度となく見た光景である。だからこそわかる。
ベアトリクスは人に頼み事をすることができない。
皇女としての誇りからなのか、生来の気質からなのか。
皮肉にもアルティミシアも他人を頼るのが下手だった。
俺はベアトリクスにアルティミシアを重ね、彼女の言葉に耳を傾ける。
「神器は皇帝家のものよ。下僕が勝手に破壊すれば、お前は帝国の至宝を損なった者として罪に問われるわ」
「――それでも俺は殿下のお力になりたいのです」
命を張れば見える景色がある。
俺は前世の願いを叶えた。
「短い期間でしたが、殿下にお供できたこと、大変嬉しく思います」
旅、というにはあまりにも短かった。
人族の身体は脆弱で、木の枝が掠っただけで皮膚は破れ、血が噴き出す。
俺は俺の身体が動かなくなる危険に気を配りながら、ベアトリクスの動きにも目を光らせた。人族の身では森の中で動き回るのは面倒である。
しかしアルティミシアが感じたであろう旅の困難さを想像し、心が満たされた。
本来であれば、俺は五百年前に終わっていた。
アルティミシアが見せてくれた夢だと思えば、これ以上を望むのは贅沢というものだ。
「……ふさげないで」
ベアトリクスは声をふるわせた。
「私を逃がして、お前は一人で兄上を降参させて、神器を壊す。……そんなことをして私が喜ぶとでも思っているの? 舐めないで頂戴。私はステルラ帝国第二皇女ベアトリクス・フォン・ステルラよ。誇り高い英雄アルティミシアの末裔なの。下僕の後ろに隠れ、手柄だけをかすめ取ろうなんて、姑息な真似はしないわ」
ベアトリクスは腰のベルトから鞘を外すと、切っ先で俺の顎を上向かせる。
「お前はなぜ私を助けようとする?」
ベアトリクスに忠誠を誓ったのに、これではまるで、孤児院で魔獣だと疑われたときに逆戻りしたようではないか。
俺はゆっくり瞬きをした。
ベアトリクスは小首を傾げる。
「お前に恩を感じてもらえるほど何かをした記憶がないの。純粋に不思議なのよ、どうして私を守ろうと必死なの?」
「……殿下を守っておられた近衛騎士様方と理由は同じかと」
「彼らは代々、皇帝家に仕える貴族の出よ。皇帝家への忠誠心を幼い頃より叩き込まれているわ。けれどお前は孤児。皇帝家から恩恵を受けたことはないはずよ」
隠し通すのは限界か。
いっそのことすべてぶちまけるか。
正体を明かしたところで、彼女が大人しく俺の言うことを聞いてくれるとは思えないが……。
逆に忌々しい魔獣めと、レイピアを振りまわしてくるに違いない。
「答えなければ、首を刎ねるわよ」
ベアトリクスは鞘からレイピアを抜き放った。
銀色の切っ先が顎先に触れる。冷たい。
なぜベアトリクスを助けるのか?
最初はアルティミシアの末裔、ただそれだけの理由だった。今でもその思いは変わらない。
けれど本当にそれだけか?
「殿下は俺を人族にしてくれたからです」
これでは己を魔獣だと認めているようなものだ。
ベアトリクスは黙っている。
俺の言葉を待っているのか。
俺はぽつりぽつりと思いを吐き出した。
「殿下を守ることで、生きていると感じることができるのです」
レイピアの切っ先が、遠ざかる。
代わりに「神器を返しなさい」と強張った声で命じた。
俺は箱を両手で捧げ持つ。ベアトリクスは箱を引ったくり、神殿の奥へと姿を消した。
ベアトリクスから神器を奪うのは、たやすい。
力ずくで奪えば信用を完全に失うことになる。
「今さらか」
俺はその場に跪いたまま、ベアトリクスの足音が聞こえなくなるまで床をぼんやり見つめていた。
羽が数枚、視界を横切る。
どこから振ってきたのかと天井を見上げた、その時。
「何よこれ!」
神殿の奥からベアトリクスの慌てた声がした。
俺は弾かれたように、暗い廊下を全速力で駆け抜ける。
ベアトリクスの足元が輝き、周囲には無数の羽が舞っていた。羽は虹色に輝いている。
夢のなかで見た、瀕死のアルティミシアが脳裏に浮かぶ。
「殿下!」
ベアトリクスに手を伸ばした瞬間、彼女の姿が消えた。
突然のことに、俺はその場に立ち尽くす。
『下賤なる者よ、ベアトリクスを返してほしくば、帝都に来い。貴様の神器と交換だ』
聞き覚えのある声、帝都の上空で響いていたジェラルドの声だ。
神殿の高い天井に声が反響する。
『逃げたければ、逃げるがよい。ステルラの皇帝である余から逃げ切れるのは容易ではないがな』
くつくつと喉をならす嗤い声を残し、ジェラルドの声は闇の中に消えた。




