プロローグ 五百年前(1)
荒野に雨が降っていた。
視界の端に虹色の羽根が舞っている。
忌々しい光を放つをそれらを払いのけたいが、あいにく両手が塞がっていた。
「……アルティミシア、死ぬな」
腕に抱えた人族の雌の腹には俺の片手がめり込んでいる。
腹から手を抜けば血があふれ、雌の死期を早めてしまう。
人族の雌――アルティミシアはうっすらと目を開いた。
「魔獣の君が、人を傷つけて、そんな顔をするなんてね」
アルティミシアが俺に向かって手を伸ばした。俺の頬から額、そして角へと指を滑らせ、力なく笑う。
このまま彼女と穏やかに語り合えたらどれだけ幸せか――。
『オーガ、おれタち、うら――った』
『神さま、オーガ、くって、イイ、いっrs♯×』
『オーガ、tpったら、つよくなれる』
砂埃舞う戦場で願いが叶うはずもなく、無数の魔獣どもが獰猛に瞳を光らせ、よだれを垂らす。俺は魔獣であるのに魔獣族の言葉が理解できない。
俺が牙をむき唸ると、有象無象どもは怯み遠ざかった。
息をする度、背中が痛む。無数に刺さる人族の武器が、肺に穴をあけているのかもしれない。
足元はアルティミシアと俺の血で、どす黒く染まっていた。
何が、暴食公だ。
何が、上位魔獣だ。
何が、動く災厄だ。
「俺は、弱い」
「……そんなこと、ないよ」
アルティミシアの青い瞳は左右にふらふらと揺れ、焦点があっていない。
指先が俺の頬から離れ、宙をさまよっている。
俺はアルティミシアの血と泥で汚れた顔をぬぐってやった。
「きみは、ほんとうに、やさしいね」
「俺を、置いていくな」
「……わたしの、、血を受け継ぐものが、きみの友人に、なる。だから、さみしくないよ。……だから、生きてくれ」
アルティミシアは瞼をとじた。
まつげが小刻みに震え、呼吸が浅くなっていく。
何の因果か、捕食対象である人族、それも俺を殺しに来た勇者とだけ、俺は心を通わせることができた。
己以外の生物と触れ合うことで、孤独を知ってしまった。
なあ、おい、シア、勝手に逝くなよ。
いや違う、俺だ。俺がこいつを死に追いやったんだ。クソ鳥と戦うのを面倒臭がって、だからアルティミシアは死んでしまうんだ。
俺の身勝手なわがままで――。
遠くから雄叫びが聞こえた。人族の援軍だろうか。
俺はアルティミシアを抱えて丸くなる。
アルティミシアの喉が、ヒュー、ヒューとかすかに鳴っている。
いよいよ置いて行かれてしまうと焦った俺は、アルティミシアの腹から手を抜き、みずからの胸に爪を捻じ込んだ。
「ぐっ……う」
肉や骨を掻き分け、心臓を取り出した。痙攣する肉塊を握りしめる。
指の間から血がしたたるも、雨が洗い流していった。
爪がてのひらに食い込むまで握り込む。拳の中で暴れる心臓を握りしめること数秒。
指を開くと、心臓は赤い石に変化していた。
石は俺の呼吸と同じ速さで明滅を繰り返している。
赤い石をアルティミシアの血まみれの手に握らせた。
「これで、ずっと、一緒だ」
視界が傾く。倒れると地響きがして、弱った俺に群がろうとしていた魔獣どもが蜘蛛の子を散らすようにいなくなる。
天を向くアルティミシアは安らかに瞳を閉じていた。金色の髪は顔の周りで波打っている。かつては銀色に輝いていた鎧はいまや傷だらけだ。そのうちのいくつかは俺がつけた傷である。
俺は物言わぬ友と同じように仰向けになった。
空がかすんで見えるのが、砂埃のせいなのか、俺の意識が遠ざかりつつあるせいなのか、わからない。
約束を破った俺を、アルティミシアは怒るだろうか。
けれどお前のいない世界で生き永らえるなんて耐えられないんだ。
俺の願いは――。
「お前と、旅を、してみたかった……」
魔獣と人族が肩を並べて歩くなど、夢のまた夢。
けれど死の間際に思い描くことくらい、許されるはずだ。
なあ、アルティミシア。俺の――。