松吉の鍋
むかし、とある長屋に松吉というだらしのない男が住んでいた。女房と二人暮らしで、日銭稼いでは安酒をあおり、足りなくなれば、人に金を借りてしのぐ始末。当人は毎日酒さえ飲めればいいという気楽な性分だった。だが、そんな暮らしがいつまでも続くはずがない。ある日のこと――。
「ねえ、そろそろお金を返してくれませんかね」
「す、すみません。うちの人が……その、今いなくて……」
「返してもらわないと、棺桶を担いでもらうことになるかもしれませんよ……」
「ひっ、ほんとによく言って聞かせますので……はい、すみません……はい、どうも……はあ……」
「……帰ったか? ふう、まったく困ったもんだな」
「困ったもんだな、じゃないよ! あんな人にまで金を借りるなんて、何考えてんだい!」
「そ、そんなに怒るなよ。せいぜい仕事を手伝わされるだけだろう……」
「どうだか……ああ、恐ろしい……」
不気味な借金取りが催促に来たというのに、松吉ときたらへらへらと笑って、相変わらずお気楽だった。だが、女房はそうはいかない。間もなく子供が生まれるというのに、このままでは家族ごと沈没してしまう。とうとう愛想を尽かし、家を出て行ってしまった。
さすがの松吉も、これはまずいと青ざめた。慌てて安定した仕事を探し始めたが、何せ町内でも評判の怠け者。どこに行っても門前払いを食らった。心を入れ替えたと口では言っても、すぐには信用されないものだ。
「どうしたものかな……お?」
途方に暮れて町を歩いていると、大きな屋敷の前で男たちがせっせと荷物を運び込んでいるのが目に入った。
松吉はすぐさま笑みを浮かべ、揉み手をしながら近寄っていった。そして、「へへっ、手伝いますよ」と頼まれもしないのに、勝手に荷運びを始めた。単なる小遣い目当てだったが、その働きぶりを見た屋敷の旦那がやってきて、松吉を褒めた。
話によると、旦那はこの町で新しく商売を始めるらしい。それを聞いた松吉は、ここぞとばかりに頭を下げた。
「旦那、ぜひあっしを雇ってくだせえ!」
しかし、旦那。さすが商人というべきか、簡単には頷かない。見ず知らずの人間をおいそれと雇うわけにはいかないと答えた。ただ、旦那としてもこの町に根を下ろすには地元の人間を雇いたいという考えがあった。そこで、旦那は松吉に一つの課題を与えた。
「鍋……ですか?」
「そう、わたしゃ鍋に目がないんだ。鍋を食えば、その料理人の人柄が見えるってもんさ」
「お任せくだせえ! 鍋料理なら、そりゃもう得意中の得意でして、とびきりうまい、極楽浄土にあんぽんたん、ぴーっとなってけけけけっと笑っちまうような鍋をごちそうしますよ!」
「よくわからないが、楽しみにしてるよ。今夜、お宅に伺うとしよう」
「へへえ!」
松吉は深々と頭を下げ、手を振りながら別れた。そして、屋敷の角を曲がった瞬間、全力疾走を始めた。
鍋料理なんて作ったことがないどころか、そもそも鍋そのものがない。こりゃ大変だ、大変だ。松吉はあちこち走り回って、必要なものの調達に取りかかった。
「鍋を貸せだと? その前に貸した金を返したらどうなんだい?」
「いやあ、それがその……あっ! いい具材が手に入ったんで、お詫びと感謝を兼ねて鍋料理をごちそうしようと思ったんだよ。へへへ……」
初めは難色を示していた知り合いたちも、こう言われると悪い気はしない。松吉は順調に鍋や具材、調味料を次々とかき集めていった。
しかし、肝心の肉だけがどうしても手に入らない。しかも、いい肉でなければ、あの旦那は満足しないだろう。松吉は必死に走り回り、とうとう夜を迎えた。
長屋に戻った松吉は、急いで鍋の準備に取りかかった。続々と訪ねてくる知り合いたちに愛想を振りまきながら調理を進める。なんとか鍋が完成した頃、ちょうどあの旦那がやってきた。
「おお、えらい大人数だね」
「へえ、すみません、旦那さん。いやあ、いい匂いに釣られて、わんさか集まってきちまいまして。ほんともう、この辺りは食い意地が張った奴らばかりでしてね、ははははは!」
「なあに、いいってことよ。鍋は大勢でつつくもんさ。顔も売れるし、むしろいい」
「さすが旦那! 心がお広い! あ! ほらそこ! さっきも言っただろ! 旦那より先に手をつけるんじゃないよ! ささ、旦那、さっそくどうぞ。こちらにお座りになって、お召し上がりください。へへへ……」
「ああ、ありがとね。ほう、ずいぶん大きな鍋じゃないか。具材はなんだい?」
「はい、なんでもござれの寄せ鍋でございやす。極上も極上、天にも昇るような味に仕上げやした。どうぞ、ご堪能くださいませ」
「ははは、言うねえ。ほお、しかし確かにこれは大きい。立派な肉じゃないか。どれどれ……」
鍋を一口食べた旦那は目を見開き、びっくり仰天。
「うまい! こりゃ絶品だ!」
それを合図に、知り合いたちも次々に箸を伸ばし、「うまい!」「なんだこの出汁は!」と歓声を上げた。ばくばくもぐもぐと箸が止まらず、酒も進み、いつの間にか宴はどんちゃん騒ぎに。
笑い声が絶えない中、旦那が松吉のそばに寄ってきて、そっと言った。
「いやあ、良い鍋だねえ。実はね、鍋を食えばその人の人柄がわかるってのは、料理そのものじゃなくて、その人の周りを見てるんだよ。もしあんたが、誰も呼ばずにわたしと二人で鍋をつつくことになってたら、雇いやしなかったよ。でも、見てごらんよ、この温かい空気。いやあ、心に染みるねえ」
旦那の目尻にはじんわりと涙が浮かんでいた。松吉も思わずしんみりとした。そして、きりっと顔を引き締めて両手の拳を床につき、深々と頭を下げた。
「旦那……未熟者ですが、精一杯働かせていただきます」
旦那は優しく松吉の肩を叩き、にっこり笑ったのだった。……と、そこへ――。
「おやおや、驚いた。こりゃまあ、ずいぶん賑やかだねえ。誰か死んだのかい?」
突然戸が開き、男がぬっと顔を出した。今朝、金の返済を迫ってきた、あの不気味な男だ。
松吉は引きつった笑みを浮かべながら、慌てて戸口へ駆け寄った。
「いやいや、さっきはどうも……。あの、返す目途はついたんで、金の件はもう少し待ってもらえたらと……」
「ああ、いいんだよ。明日、仕事を手伝ってくれればね。さっき、それを伝え損ねたから来たんだけど……しかし、良い匂いだね。鍋かい?」
「あ、ああ……」
男がじろりと部屋の中を見渡した。その視線に釣られるように松吉が振り返ると、男の異様な雰囲気に気づいたのか、ほとんどの者が箸を止め、じっと二人の様子を窺っていた。
「具材はなんだい?」
「それはその、野菜とかいろいろ……た、食べてくかい?」
「ふーん、肉は入っているのかい? 私はあれが苦手でね。入ってるなら遠慮させてもらおうかね」
「ああ、それは残念、たっぷり入ってますぜ! はははは……」
「ところで松吉さん。あんた、さっきうちから持っていった“あれ”はどうしたんだい? どこへ――」
その瞬間だった。鍋をつついていた知り合いの一人が、突然叫んだ。
「うえっ! おい、松吉! この鍋、爪が入ってたぞ!」
「え、あっ! こっちには髪の毛の塊だ!」
「おいおい、こりゃ、歯じゃねえか……?」
「ひ、ひえええ! 鰻かと思ったら、こ、こりゃ、アレじゃねえかあああ! おええええ!」
歓喜の宴は一瞬にして阿鼻叫喚、地獄の様相。箸を投げ出し、椀をひっくり返し、喉に手を突っ込んで吐き出そうとする者、泡を吹いて倒れる者。ゲーゲーゲロゲロブクブクブク――。“葬儀屋”の男は呆然と鍋を見つめ、固まる。
そんな中、松吉は小さな声で、ぽつりと呟いた。
「まさに、極楽浄土の味ってことで……」