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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

家事代行サービスの私が見たーー死神が取り憑いた家

作者: 大濠泉


◆1


 都内とは思えない、大きなお屋敷が目の前にある。

 表札には『藤澤』とあった。


(このお屋敷で、間違いない……)


 今日、私、武田美里たけだみさとは濃い藍色をした、地味なワンピースをまとって、黒いバックを手にしている。

 バックの中には、白いエプロンや、お掃除のための道具なんかが入っている。


(うん、問題ない。頑張るぞ!)


 気合いを入れて、呼び鈴を鳴らす。


 すると、玄関に来るよう、奥様から直々にインターホンで言われた。

 お手入れの行き届いた庭木の間を進み、玄関の引き戸を開ける。


「玄関から失礼します。家事代行サービスのミサトです」


 奥様に出迎えてもらい、応接間に通してもらう。

 小太りの奥様は、花柄をあしらった派手な色合いの服装をしていた。

 化粧も濃い。

 廊下を歩く間、軽く会話した。


「思っていたよりも随分、若いわね。幾つ?」


「十九歳です」


「ほんとうに、その若さで一通りこなせるのかしら」


「ええ。炊事、洗濯、掃除……そういった家事全般は、若い頃からやってきましたので」


「苦労してきたのね」


「いえ……」


 応接間を兼ねたリビングには、旦那様がソファに腰かけていた。

 眼鏡をかけた、白髪が混じったオジサンだ。

 ミサトの姿を見ても、立ち上がろうともしない。

 一瞥いちべつするだけで、奥様に不満げな顔を向ける。


「若すぎるんじゃないか? 大丈夫なのか。お義母かあさんを任せて」


「だって、仕方ないじゃない。他にアテがなかったんだもの」


 旦那様は苦虫を噛み潰した顔をしながら、ようやくミサトに顔を向け、対面のソファに座るように促す。

 ミサトはお辞儀しながらも、遠慮無く座る。

 旦那様の隣に座ると、奥様がさっそく切り出した。


「私の実母ははは寝たきりなの。本当は手すりを伝えば歩いたり、車椅子に乗せれば外出できるかもだけど、転倒して骨を折ったでしょう? 以来、慎重になっちゃって、ベッドから動こうとしないのよ。意識はしっかりしているけど……」


うかがっております。私は介護経験もありますので、ご心配なく」


 対面に座る夫婦は互いに顔を見合わせたあと、露骨に安堵の溜息を洩らす。


 彼ら夫婦は、今日から一週間に渡って、九州に温泉旅行に行く予定になっていた。

 新幹線で博多に到着後、バスで大分県の別府、ついで湯布院、それからJRで鹿児島県に出向いて霧島、指宿と連泊するのだという。


「別府では海が見渡せる部屋を取って、湯布院ではコテージ風の温泉付き別荘を借り切るの。霧島では源泉かけ流しの滝を浴び、指宿では砂風呂に入って、蒼い海を眺めるのよ」


「うらやましいです。私、そんな遠出の旅行をしたことがないので」


「あなたは、まだ若いんだから、これからいくらでも機会があるわよ」


 ミサトと奥様の会話に、旦那様も割って入る。


「仕方ないんだよ。旅行に連れてけって、コレがうるさいからな。いままで母に尽くしてきたんだからって。そんなに手がかかるわけじゃあるまいに」


 奥様は膨れっ面をする。


「じゃあ、あなたが毎度の食事を用意して、下の世話をしてくださるの!?」


「いや……」


「私だって仕事に就いていたのに、介護のために辞めたのよ」


「仕事って言ったって、パートじゃないか」


「なによ。お母さんの年金を丸ごともらったほうが得だからって言ったの、アナタじゃない。私だって、ほんとはまだまだ自由に過ごしたい。施設に入れたっていいのよ。アナタのお母さんのように」


「あれは、兄貴が勝手に決めて……」


 そこまで話して、ようやく旦那は、目の前に年端もいかない若い女性がいることに気がついた。

 

 よく見たら、可愛いな。

 これくらいの年齢の女性は、職場にもいない……などと、ようやく気づいた。


「あなた!」


 奥様に小突かれて、旦那様はやっと我に返って、ソファから立ち上がった。

 露骨に鼻の下を伸ばしていたらしい。


「とにかく、細かい台所については妻から説明してもらって、とりあえず、お義母さんに会ってもらうよ」


「安心して。手が掛からないから」


「はい」


 二人に先導されて廊下を進み、二階にあがる。


 階段を上がってすぐの八畳の和室ーー。


 そこには、ベットで半身を起こし、湯呑みで緑茶を飲む老女がいた。


 そして、もうひとりーーベッドの傍らに、長身で細身の男性が立っていた。

 ミサトは思わず見上げてしまった。


(うわあ……大きいな、この男性ひと……)


 二メートル近くはあるだろうか。

 こぢんまりとした和室にはそぐわない。

 実際、ちょっと背伸びしたら天井に頭がつかえそう。

 窮屈そうにしている。

 ちぢれた前髪が両眼にかかっているが、チラとのぞく瞳は、ジッとこちらを見ている。


 思わずミサトは視線を逸らした。


(こんなヒトがいるなんて、聞いてない……)


『派遣先には、八十代のご婦人と、五十代の娘夫婦がいるだけ』と聞いていた。


(男性は苦手だ……)


 ミサトは、男性を無視するようにして、老女の方に目を遣った。

 老女の視線は、窓の外に向かっていた。

 障子窓の向こうには、紅葉が映えている。

 その彼方には川が流れ、その間、視界をさえぎるものがない。


「素敵な所ですね」


 ミサトがそう口にすると、老女は振り向き、ミサトに目を留め、柔らかに微笑んだ。


「ありがとう。あなたが今日からお世話をしてくださるのね」


「はい」


 横から奥様が、事務的な口調で語り出す。


「食事は朝昼晩、決まった時間に出してね。朝は六時、昼は十一時、夜は午後七時。あと、毎食時の前後に服用するお薬があるから、その種類と個数を書いた紙がベッド・テーブルの上にあるから」


「わかりました」


「言っておきますけど、『お母さんの世話はしたから、あとは知らない』ってわけではないですからね。一階の応接間、寝室の掃除も、お願い。庭のお手入れもね。あなたが食べる分の食器は好きに使っていいから。食費などの費用はとりあえず十万円置いておくから、後で領収書を付けてお釣りを返してね」


 そこで旦那様が口を出す。


「一週間も任せるんだ。間に合うのか、十万で?」


 財布を取り出していくらか補充しようとする。

 それを奥様がピシッと手で叩き、制止する。


「もう! あなたは若い女性と見ると、すぐ甘くなるんだから。この娘は私たちの世代で言えば、子供の年齢じゃない!」


 そして、ミサトに笑顔を向ける。


「ごめんなさいね。私たちには子供がいないから、あなたぐらいの年齢の娘にどう接したらいいか、よくわからないの」


「お構いなく」


「それと、これは強く言っておきますけどね」


 顔を近づけて、奥様は断言する。


「この一週間、誰にもお母さんに会わせないで。たとえご近所のよしみだとか、親類縁者を称しても……特に、弟には!」


「弟さん……奥様の?」


「そう。私の弟。お母さんの子供。藤澤家の長男!」


「どうして……」


「お母さんにたかる連中があとを断たないの。とにかく、誰にも会わせないで」


 お母さんーー大奥様がいる前で、露骨な牽制である。

 大奥様に認知症の発症はない、と聞いている。

 ミサトは思わず大奥様の方を見たが、諦めたように窓の外を見ている。


「わかりました……ところで」


 ようやく口にできた。


「こちらの男性は、どちら様でしょうか?」


 やはり、話にあった、奥様の弟さん、藤澤家のご長男さんだろうか。

 だったら、「お母さんには誰にも会わせないで」という要求はハナから破綻している。

 でも、いまだ二十代ぐらいにしか見えない。

 奥様の弟にしては、年齢が離れすぎている……。


 奥様はキョトンとした顔をしていた。


「こちらの男性って……どこ?」


「いえ……こちらに……」


 長身男の方に視線をやる。

 奥様も視線を向けるが、首をかしげる。


「この部屋にいる男性は、ウチのダンナだけよ」


 奥様は不安そうな顔を、旦那様に向ける。

 旦那様は激しく首を横に振る。

 そこへ、声が響いた。


「お嬢さんは、冗談を言っているだけなのよ。私がしっかりしてるか確かめるために」


 そう言ってくれたのは、ベッドで半身を起こしているお母さんーー大奥様だった。

「ね」とミサトに向かってウインクする。

 私は若い男とお母さんを交互に見比べて、とりあえず話を合わせた。


「はい……」


 旦那様は大きく胸を撫で下ろし、笑った。


「ほんと、驚いたよ。まるでお義母さんのようなことを言うんだから。なんだよ、認知症の確認ってやつか」


 奥様も怒るような表情で、ミサトを叱責した。


「大人をからかうもんじゃないわ。これから私たちは旅行に行くんだから、わかったわね。後は任せたから。見送りは不要よ!」


「はい。すみませんでした……」


 旦那様と奥様は、連れだって一階へと下りていった。

 バタンと玄関ドアが閉まる音がした。

 随分と早い出立だ。


 そう思っていたら、大奥様が笑いながら説明した。


「荷物はとうに車に積んであったのよ。あとはあなたを待って、出かけるのみ、という状態だったの。買い物もあるから、はやめに東京駅に行きたかったみたいね」


「そうですか……ところで……」


 謎の長身男の方を見る。

 大奥様も一緒に目を遣りながら言った。


「よかったわ。あなたにも見えて。幻覚というのは、こんなにハッキリ見えるのか、いよいよ私も認知症を患ったのかって、不安だったの」


 長身男は、ミサトに向かって深々と頭を下げ、低い声で言った。


「お初にお目にかかります。俺は死神です」


「え……!?」


 大奥様を見る。

 が、大奥様はやさしく微笑んだまま。

 謎の男性から低い声が出て、捕捉するように語り出す。


「彼女には俺の声は聞こえない。姿は見えるけど……どうやら、若い頃の恋人かなにかと勘違いしてくれている」


 ミサトは男に身を寄せ、小声でささやく。


「そうなの? で、結局、あなたは何をしに来たの?」


「もちろん、この老女の生命を刈りにきた」


「生命を刈りに??」


 なにをいきなり。物騒な。

 ミサトは思わず後退りながら、声を上げた。


「なぜ?」


「俺は死神だからだ」


 平然とした風情で、若い男は答える。

 が、ミサトの困惑は増すばかり。


(それじゃ、答えになってない……)


 そう思ったが、ミサトは、なにをどう問えばよいか、わからなかった。

 でも、お手伝いに来た短い期間とはいえ、同じ屋根の下で過ごす異性である。

 とりあえず、現状把握ぐらいはしておきたい。


「あなたは、ずっと大奥様の許にいなければならないの?」


「そんなことはない」


「じゃあ、お掃除、手伝ってくれると助かるけど」


「わかった」


(え……!?)


◆2


 ミサトは、お手伝いに派遣された先で、見ず知らずの青年に掃除を手伝ってもらうこととなった。


 冗談のつもりだった。

 まさか、ほんとうに掃除を手伝ってくれるなんて。

 しかも、この「死神」を自称する青年、掃除がなかなか上手い。

 箒で掃かせても、付近で窓の桟を拭かせてみても、手際が良い。

 廊下の雑巾掛けなんかは、ミサトより上手なくらいだった。

 男は雑巾をバケツで絞りながら、上機嫌だった。


「あの娘夫婦がいない今ならば、実体化しても問題ないからね」


 実体化すると、物理的な存在となるから、物にも触れられるし、他人からも普通に見えるようになるらしい。

 箒も握れる。


 男に掃除をしてもらったおかげで、ミサトは、大奥様用の食事をつくることができた。

 焼き魚と筑前煮である。


 においに釣られたかのように、自称死神くんが台所に顔を出してきた。

 掃除は終わったらしい。

 私は鍋に目を向けたまま、問いかけた。


「あなた、死神だって言ってたわね?」


「そうだけど」


「あなたが来たら、人は死ぬの?」


「そうだね。死期が近くなった者には、実体化しなくとも、俺が見えるようになる」


「死が間近になった人は、みんなあなたのような死神を見るの?」


「そんなことはない。俺がやって来るのには理由がある」


「その理由が、あの大奥様にもある、というの?」


「そのうち、わかる」


「……」


 なんか、チグハグな会話だ。

 でも、思いの外、人当たりの良い死神(?)さんで良かった。


 そんなことを思っていると、突然、二階から電子音が響いてきた。

 スマホが鳴る音だ。


 今、この家には、寝たきりの老婆しかいない。


(どうして?)


 奥様がなにか言い忘れたとか?

 でも、だったら、私のスマホに連絡を入れたらいいのに……。


 不安に思いながら、ミサトは階段をあがった。


 二階に上がってみたら、なんと、寝たきりの大奥様が電話をしていた。

 スマホを枕の下に隠し持っていたのだ。


 通話を終えると、大奥様はミサトの方を見て、指を一本立てる。


「娘夫婦には内緒ね」


 ミサトは小首をかしげた。

 大奥様が誰かと連絡を取ることを、奥様はあれほど嫌っていた。

 それなのに、どうしてスマホを持っているのか。


「どうやって、スマホを手に入れたんですか?」


 大奥様は照れたように笑う。


「息子がくれたの。私と話がしたいって」


「え……息子さんが、こちらへいらっしゃるんですか?」


「ええ」


 依頼主たる奥様は、『誰にも会わせるな、特に弟には』と念を押していた。

 でも、介護する相手である大奥様が、実の息子に会う約束を取り付けている。

 それなのに、無礙むげに追い返すことなどできるだろうか……。


 奥様が弟を忌避するさまを、大奥様も聞いていたはず。

 だから、私に気を遣い、「息子に会わせて貰いたい」と懇願してきた。


息子あのこは優しい子なの」


 大奥様の年齢から考えたら、「優しい子」などといっても、ご子息の年齢は四、五十代なのだろう。


「この家で同居してるのはお姉ちゃんの方なの。お父さんが、あのばかりを可愛がったからねえ」


 大奥様の旦那様は四年前に亡くなったが、晩年は徘徊するようになり、介護が大変だったという。

 だから、娘夫婦との同居に踏み切り、娘にも手伝ってもらった。

 そうして、夫をようやく見送ったかと思ったら、今度は自分が階段から落ちて腰を打ち、それ以来、立てなくなった。

 どうしても外に出なければならないときは、車椅子で移動する。

 が、普段はベッドで半身を起こして読書をしたり、外を眺めたり、TVを見て過ごしている。


「そこの箪笥たんすの引き出しを開けてきて」


 写真を取るように言われる。

 小学生の入学式の写真。

 可愛らしい男の子が写っている。


 写真を見ながら、ミサトは大奥様と話をした。


「息子さんは、今、なにを……」


「お父さんの勧めで大企業に就職したの。でも、肌が合わなかったみたいで……。だけど、心配なんかしてないわ。あの子はいずれ偉くなる。大器晩成型なのよ」


「はあ……」


「私とお父さんの息子なのよ。きっと立派になる。私にはよくわからないけど、そうねえ、お友達と会社でも興すんじゃないかしら。なんでしたっけ、IT関連とか」


 齢四、五十で起業するのは、遅過ぎないかしら?

 そうは思うけど、高校出たての私にはよくわからない。


「息子さんは同居しなかったんですか」


「あなたは息子に介護させようってんですか!? 息子は藤澤家の長男。男なんですよ!」


 料理や掃除、洗濯なんかをさせるわけにはいかない。

 ましてや下の世話などもってのほか、というわけだった。


(まあ、お年寄り世代は、そう思うものよね……)


 ミサトは取り急ぎ、一階の台所から食事を運んで来た。

 お薬を飲まなければいけない関係上、食事を欠かすわけにはいかない。

 時計を見ながら配膳し、大奥様が箸を動かすのを見詰める。

 自分の食事はもちろん後回しだ。


 大奥様は煮物を口にする間も、ずっと息子さんのことを褒め称えていた。

 子供の頃から、いかに優しくて、優秀であったか、と。


 そして、箸を止め、ミサトの方に目を向け、いきなり提案してきた。


「そうだ。あなた、息子の嫁にならない?」


 ミサトは思わず声を張り上げた。


「わ、私、まだ十九歳ですよ!?」


 息子さんが四十代だとしても、ほとんど親子の年齢差だ。

 常識的にあり得ない。

 でも、大奥様には聞く耳がないようで、上機嫌に言い募る。


「すれていないからいいのよ。それに、こんなにご飯をおいしく作れるし、掃除だって行き届いてる」


 とりあえず、話を逸そう。

 そう思って、ミサトは問いかける。


「息子さんは、いままでご結婚は……」


「一度したわ。でも、ひどい女でね」


 夫たる息子を立てない、仕事もやめようとしない、義母である自分に楯突くーーなどと大奥様は一頻ひとしき愚痴ぐちる。

 それから胸を張った。


「とにかく、ろくでもない女だったから、私が追い出してやったわ」


「……」


 呼び鈴が鳴る。

 誰が来たのだろうか?


 ミサトはとりあえず玄関に迎えに行った。

 インターホンのカメラ映像には、七三に頭を分けた、スーツ姿のメガネ男が映っていた。

 細身で神経質そうな雰囲気だ。


「どちらさまで……」


「あのう……母が会いたいと言うので伺ったのですが……失礼ですが、あなた様は?」


「……家事代行サービスとして派遣されて来ました」


「ああ、なるほど。そうですか。ごくろうさまです。ところで、私、上がってもよろしいでしょうか。母に呼ばれたもので……」


 見るからに大人しそうなヒトだった。

 奥様が、あれほど、大奥様に合わせたがらない理由がわからない。


 とはいえ、一応、ミサトは言いつけ通り、職務を果たした。


「奥様から、誰にも大奥様に会わせてはいけない、と言われておりますので……」


「そうですかーーでも、今現在は、奥様《お姉さん》は不在なんでしょう? 母から電話で聞きました。『会いたい。寂しい』って」


「……」


「決して長居はいたしません。姉の不在時にしか、顔を合わせられないんです。ほんの一、二時間ばかり、顔を合わせて、お茶する程度でいいんです。なんとか、なりませんか」


「……わかりました」


 悩んだが、結局、弟さんを招き入れることにした。

 大奥様がスマホで連絡を取っている以上、息子さんと会わせない理由を、部外者であるミサトが言い立てることができない。

 なにより、想像してたより、弟さんが、よほど線が細く、おとなしそうな姿をしていたので、ちょっと家に入れるぐらい構わないだろう、と思ったからだった。


 だが、それが間違いだった。

 引き戸を開けて靴を脱ぎ、玄関を上がった途端、中年の息子さんは豹変したのである。


◆3


〈招かれざる客〉である、中年の息子さんが、藤澤家のお屋敷に上がり込む。

 そして、そのままズカズカと廊下を進んで、階段を昇った。

 ミサトをいないかのごとく無視して、二階の和室へと大股で歩いていく。


「ママ! ママ! 来たよ。ボクだよ! シゲルだよ」


 言葉に似合わない、おっさんらしいダミ声で叫ぶと、部屋からは、


「ああ、会いたかったわ、シゲル!」


 といった甲高い声が跳ね返ってきていた。


 息子が脱ぎ散らかした靴を揃えてから、ミサトは息子さんの後を追いかけた。

 が、強引に振り払われる。

 危うく階段から転げ落ちそうになった。

 そんな彼女を抱え込むようにして支えてくれたのが、長身の若い男ーー死神さんだった。


「あの息子さん、あなたが見えなかったみたい」


 廊下を通り過ぎるとき、すぐ近くにいたのに、息子さんはまるで気に留めていなかった。

 死神さんはどこか得意げな表情だった。


「そうだろう。あいつの近くに立ったときは非実体だったからな」


 今は実体化しているから、ミサトの手を取れる、とのこと。

 死神さんは和室の方を見遣りながら、なにがおかしいのか、始終、ニコニコしていた。

 その一方で、ミサトは青ざめていた。

 玄関の外にいた雰囲気と、敷居を跨いだ後の様子がまるで違って、びっくりしたのだ。


 大奥様が見せてくれた写真の「息子」の姿を思い出し、溜息をついた。


「あんなに可愛かった子が……」


 死神さんは穏やかな表情で言う。


「ね。キミも、あの老女の生命を刈らねばならないーー少なくとも、生命を終わらせてやったほうが良いって思うだろ?」


 いきなり物騒なことを言う。

 ミサトは思わず声を上げる。


「なぜ!? どーして大奥様なの?」


 あのオッサン息子が死神に殺されるのは、失礼ながら、わかる気もする。

 でも、だからといって、どうして寝たきりになっている老母の生命が刈られなければならないのか?


 食い入るように見詰めるミサトを見下ろしながら、死神は薄らと笑みを浮かべた。


「そのうち、わかる」


(そればっか……)


 中年息子は母親の許に直行していた。


 和室の扉を開け、ミサトは死神さんと二人して中の様子を窺う。


 母親はベッドから起き上がらんばかりに、元気良く息子を迎えていた。


「シゲル、よく来たねえ」


 老婆の母親と、おっさんの息子がヒシと抱き合い、それからベタベタ触れ合う。


「ちょっと臭いよ、ママ。それより、ね、お願い!」


「ごめんね。お母さん、寝てばかりで、あまりお風呂に入れないから」


 いそいそと枕元からお金を出して、息子に手渡す。

 十万円もあった。


「ええ、これっぽっち?」


「ごめんね。自由に出来るお金が少なくて……」


 息子さんの口調がどんどん悪くなっていく。

 札束を数えながら、大きく舌打ちした。


「姉貴のヤツ、がめついからな。それに、あの旦那。余所者のくせに、ボクのウチで好き勝手しやがって」


「シゲル。今日はお手伝いさんが来てくれたから、ゆっくりしていくといいよ」


「ああ。そうする」


 息子はさすがに実家なだけあって、随分とのびのびしていた。

 ネクタイを緩め、母親のベッド脇に腰掛け、タバコを吸い始める。


 大奥様はミサトが部屋に入ってきたのに気づくと、言いつけた。


「十万円は、シゲルちゃんに、お小遣いとして渡すから。いいわね」


 やはり十万円は、ミサトが奥様から当面の生活費として渡された、あの十万円だった。

 バックの中に封筒ごと入れたはずなのに、いつの間にか、大奥様が盗んだらしい。

 和室の隅にバックを置いていたので、手すりか何かを伝って、取ってきたようだ。

「寝たきり」とは名ばかりで、かなり立って歩けるようだ。


 呆れてミサトは問いかける。


「じゃあ、これからの食事はどうするんですか?」


「そんなの、出前を毎日頼めばいいでしょう。お寿司でも、うなぎでも、なんでもお店に頼めばいいのよ」


 ふと見れば、息子さんがスマホで高級寿司の注文を始めていた。

 ミサトは血の気が引く思いだった。


「食事は、私が作ります。そんなことしてたら、お金がもちません!」


 大奥様はせせら笑う。

 そして、息子さんに向けてウインクする。


「心配要らない。通帳と印鑑は、一階奥の洋間にある箪笥の二番目の引き出しにしまってあるわ。暗証番号は、たしかーー」


 驚いたことに、大奥様は、娘夫婦が大切に隠してあるもの、それら全部を知っていて、息子に教え始めた。

 金庫の番号すらもーー。


 凄い勢いで階段を駆け降りた息子さんは、部屋に帰ってきた時には、上機嫌に鼻歌を歌っていた。


「あんたにも、あげるよ」


 と言って、ミサトにポンと現金を投げ渡す。

 金庫を開けて、手に入れたらしい。

 帯がついた札束だった。


「そんな。それは奥様はご夫婦のものでしょう? それを勝手に、息子さんに開けさせるって……」


 私が呆れていると、息子さんではなく、大奥様が甲高い声を張り上げた。


「なに言ってるの! 娘夫婦《あの人たち》は居候いそうろう! 本来のあるじであるシゲルちゃんが、娘夫婦の持ち物をどう使おうと勝手だわ!」


 母親の絶叫を受け、オッサン息子はますます調子づく。

 急にスーツの上衣や靴下を脱ぎ始め、そこらじゅうに放り出した。


「風呂はどうしたの? お風呂!」


 ミサトはそれら脱ぎ散らかした衣服を集めつつ、口にした。


「あの……早く帰っていただけませんか。奥様から、きつく言われてるんです。お母様には誰にも会わすな、と」


「ボクはママの息子なんだ。この藤澤家の長男なんだぞ!」


「でも……」


 にこやかに微笑むお母様を背にして、息子はじろりとミサトに目を向ける。

 そして、ミサトの身体を上から下まで舐め廻すように見詰める。


「いいから風呂に入れろよ。話はそれからだ」


「はい……」


 ミサトは一階のバス・ルームへ出向く。

 磨りガラスの扉を開けてみたら、浴槽にはまだ水が張ってあった。

 昨夜の残り湯か。


(残り湯で掃除するために、とってあるのかしら)


 が、周囲を見回してみれば、壁や床のタイルの合間は黒ずんで黴びている。

 奥様は、掃除をあまりしたがらないタイプのようだ。

 いくら旅行に出かけるとはいえ、指輪やネックレスを嵌め、派手な化粧をしている様を思い出す。


(大奥様は清楚なかんじなんだけど……)


 浴槽の水を抜くと、洗面台の下からスポンジを取り出し、壁のタイル隙間をゴシゴシと磨きはじめる。


 すると、いつのまにか黒い男ーー死神が後ろに立っていた。


「掃除はあとにしたほうがいい」


「お風呂を沸かす間に、やっておこうと思って」


「そんな悠長にやっていると、二階の和室も、一階のリビングも大混乱だ」


「え!?」


 急いで廊下を走り、キッチンに直結するリビングに入る。


「な、なにしてるんですか!?」


 床には男性用のシャツとパンツが散らかり、ソファ・テーブルにはタバコの火が押しつけられ、さらにはリンゴが囓られたまま放置されていた。

 そして、中年オヤジが全裸で、ワインを瓶のままでラッパ飲みをしている最中だった。


「ふぃ~~。いやあ、風呂上がりまで我慢しようと思ってたけど、つい、ね」


「服くらい、着てください!」


 ミサトは手で目を覆うような仕種をする。

 それを見て、中年オヤジはニヤニヤ笑う。


「着替えぐらい持ってきてくださいよぉ。きみ、家政婦ハウス・キーパーなんでしょ?」


「とりあえず、これでも着ていて……」


 ミサトが、脱ぎ散らかされたした下着に手を伸ばしたら、すえた匂いがした。

 思わず鼻をつまむ。


 そのさまを見て、息子はヘラヘラ笑う。


「ね、そいつ、匂うでしょ? もう何日も着た切り雀だから」


 中年オヤジはメガネを外して目ヤニを取りつつ、得意げに話す。


「競馬で全額スッたんですよ。いやぁ、ママが助けてくれなきゃ、ヤバイとこだった」


 夏の間は公園のベンチで寝て、日雇いバイトで食いつなぐ。

 そして手にした稼ぎは全額、ギャンブルに注ぎ込む日々だという。


「大奥様は、あなたがそんな生活を送っているとは……」


「知るわけないでしょ。そんなこと教えたら、ママが可哀想じゃん。ショックで死んじゃうよ、ヘタしたら」


「……」


「ねえ、はやく着替え持ってきてよ」


「お着替えが、どこにあるか……」


 ミサトがまごついてると、いきなり階段方面から甲高い声が響いてきた。


「シゲルちゃんが困ってるでしょ! どこからでもいいから、男モノの服を取ってきなさい。はやく!」


 手すりを伝いながら、大奥様が二階から降りてきたのだ。


「娘婿の服、無駄に多いんだから、シャツだろうとパンツだろうと、好きに着たらいいのよ。シゲルちゃんが、藤澤家の跡取りなんだから。ほんとは、この家全部がシゲルちゃんのものなの!」


 大奥様が背後からミサトに迫り、もたれかかってくる。


「危ないです! 車椅子持ってきますから、そこのソファに座ってください」


 足腰が立たない老女をソファにまで運び、次いで娘夫婦の寝室に向かう。

 まったく理不尽な手間だ。

 涙が出て来た。


 廊下では、ずっと死神がたたずんでいた。


「大変そうだね。手伝おうか?」


 ミサトは涙を拭いながら、反射的に「結構です!」と答える。

 実際、現在のドタバタは、誰かが手伝ってくれて解消するとは思われなかった。


 もちろん、死神さんには実体化してもらって、オッサンを外へ放り出してもらいたい。

 が、全裸のまま放り出せば、間違いなく近所が騒ぎ出す。

 警察すら呼ばれかねない。

 そうなると、旅行中のご夫婦にまで連絡がいって、旅行は取り止めになる。

 どれだけ怒られるかわからない。

 当然、給金はナシになるだろう。


 それに、死神さんが実体化したら、あのオッサンにも姿が見えるようになるわけだから、間違いなく私が若い男を連れ込んだ、と思うだろう。

 そうなると、ヤバい。


 こんなでも、オッサンは依頼主の親族だ。

 ご夫婦が留守なのを良いことに、若い男を連れ込んでいた、と決めつけられると、間違いなく、これから先、家事代行の仕事ができなくなる。


 泣く泣く、ご夫婦の寝室に入ると、箪笥を適当に漁って、男物の下着を手にして、居間に引き戻った。

 そして、下着を投げ渡す。

 が、オッサンはパンツすら履こうとしない。


「考えてみれば、ボクが裸でも、構わないよね。だって、ここ、ボクん家なんだから」


 大奥様が「そうよ、そうよ」とうなずく。


 ミサトは顔を紅くして、大声をあげた。


「でも、私がいます!」


 中年男はニヤニヤと、いやらしい笑みを浮かべ、わざと股を開く。


「最近の娘は、これぐらい、平気だろ?」


 ミサトはきびすを返した。


「セクハラですよ! 上に許可を貰って、私、もう、帰ります!」


 職務放棄と言われようと、今回はイレギュラーだ。

 だいたい、大奥様がこのオッサンを呼び込んだんだから、私の責任じゃない。


 でも、大奥様に、ピシャリと言われた。


「なに言ってるの、ミサトさん! このまま出て行くなんて、無責任に過ぎます。私だって、時間になったら、お薬を飲ませてもらわなければいけないし、第一、シゲルちゃんの面倒を誰が見るの!? 私は足が不自由なんですよ!」


 大奥様は顔を真っ赤にして、本気で怒ってる……。

 今まで、息子さんの横暴に振り回されてる気がしてたけど、この、大奥様も相当、おかしい。

 いや、むしろ、大奥様がこんなふうだから、息子さんがダメ男になったに違いない。


 ミサトが呆気に取られていると、ちょうど、そのタイミングで、お風呂が沸いた合図が鳴った。


「じゃあ、ボクはひとっ風呂浴びてくるから、冷えたビールとつまみを出しておいてよ。それが終わったら帰ってもいいから」


 全裸のオッサンが股間まで丸見えの姿でニタニタ笑っている。

 気色悪い。

 なのに、大奥様は酷い追い打ちをかけてくる。


「ねえねえ。ちょうどいいじゃない? ミサトさん、シゲルちゃんの背中を流してあげて。一緒に入るには、お風呂がちょっと狭いけど、なんとかなるわよ」


 私の服の裾を引っ張りながら、老女もニタニタ笑っている。

 こうして見ると、息子さんと笑顔がそっくりなことに気がつき、思わず身震いがした。


「キモいよ、もう!」


 ミサトはつい声に出して、大奥様の手を振り払った。

 すると、いきなり強い衝撃が背後から襲いかかった。

 オッサン息子が、ミサトの背中を蹴り上げたのである。


「なにすんだ! ママが可哀想だろ!」


 ミサトは吹っ飛んで、頭から柱にぶつかる。


「まあ!」


 大奥様が両手を口に当てて、大声をあげた。


「シゲルちゃん、ダメよ! ミサトさんは、あなたのお嫁さんになる女性ヒトなんだから、大事にしなきゃ! シゲルちゃんの跡取りを産む身体なのよ」


 ミサトは額の腫れに手を当てながら、恥じていた。

 依頼主夫婦が大奥様には「特に弟に会わせるな」と言っていたのは、弟がこんな調子なのを知っていたからなんだ。


 オッサン息子が母親の許にすり寄る。

 俄然、勢いづいた大奥様は、ソファで腰掛けたまま、りんとした声を上げた。


「お願い、ミサトさん。万年筆と紙、用意してくれないかしら。あそこの鏡台の引き出しに入ってるわ」


 遺言書を書くという。

 今日の日付けを書いて、大奥様の名前と住所。押印。

 肝心の文言は……。


「すべての財産を長男・茂に残す」


「え!?」


 面倒を見てくれていた奥様は……?


「あのには立派な夫がいるじゃない! でも、シゲルちゃんは独り身。可哀想でしょ」


「でも……」


 あんなオッサンにいくらお金を渡しても、ギャンブルで消えるだけじゃ……。

 そうした旨をゴニョゴニョ口にしたが、大奥様に激怒された。


「私のお金をどう使おうと、私の勝手でしょ! 私は長い間、おとうさんの我が儘に付き合ってきた。だから、夫が残してくれたお金もみんな、私のもの」


「でも、奥様夫婦と同居しているわけだから、これからもお世話になるのでしょう。そんな遺言を知ったら……」


「知らせなきゃいいのよ」


「でも、遺言書と記したモノが家にあったら、いずれは……」


「そうねーーあ、そうだ。たしか、法務局か何処かに遺言書が預けられるんでしょ。あなた、行ってくださらない?」


「そんな、私は部外者ですよ。完全に。でも……たしかに、奥様でしたら、その遺言書通りになることを必死で邪魔だてするのでは……」


「そうね。あの娘は、昔から、私がシゲルちゃんを甘やかしすぎる、と文句ばかりだったから……そうだわ。この家! この家の名義は私になってるんだった。これを名義変更するのよ。今すぐ。もちろん、名義はシゲルちゃんに! 生きてるうちに、しっかり、シゲルちゃんにくれてやるのよ」


「それでは、奥様があまりに……」


「いい気味よ! あの娘、いつもおとうさんに可愛がられて、内心で私をバカにしていたのよ。今でもよ。良い大学に行ったからって、シゲルちゃんをバカにして。シゲルちゃんが、今、うだつが上がらなくなってるのも、おとうさんとあののせいなんだから!」


「もうそろそろ時間だ」


 いつの間にか、死神さんがミサトの傍らに立っていた。


「なんの?」


 とミサトが問うと、当然だろ、とばかりに死神は答えた。


「あの婆さんの生命を刈るんだよ」


◆4


 当初は、クズなのは、オッサンーー息子の方だとばかり思ってた。

 でも、今ならわかる。

 真に酷いのはーークズ製造機ともいえる大奥様の方だと。


 でも、どうして大奥様だけなのか。

 オッサン息子を、あのまま放置していて良いのか。


 中途半端な裁きな気もする。


 やはり、誰であれ、こっちで意図して、誰かの生命を奪うのは良くない気がする。


「あのバカ息子だって、たいがいでしょ? だからーー」


 大奥様の生命も助けてあげればーーと、ミサトは続けようとする。

 が、死神さんは無表情でつぶやく。


「でも、息子アレの魂はまだけがれていない……」


 穢れーーなにそれ?


「じゃあ、大奥様の魂は穢れてるっていうの!?」


 ミサトの問いに、死神は真面目な顔で答えた。


「あのばあさんは、もう遅い。白い紙に一滴の墨汁が零れてしまったら、もう真っ黒に染まってしまうのと同じように、それまで、どれほど綺麗な心掛けで生きてきたとしても、一度穢れに染まってしまうと、もう……」


 大奥様の方を振り向くと、その背後から黒い煙が出ているように見えた。

 その表情は、私を気遣うかのように、優しく微笑んでいる。

 でも、ミサトは知っている。

 彼女は、あくまで「シゲルちゃんのお嫁さん」ーーそれも、言いなりになるペットぐらいのつもりで、私のことを見ていることを。


 大奥様は壊れた機械のように、何度も何度も、同じ内容の文言を繰り返した。


「私の産んだ、大切なシゲルちゃん。シゲルちゃんは大切な跡取り。この家のすべてはシゲルちゃんのもの。いいえ。シゲルちゃんが世界で一番、大切で偉いのよ。ミサトさんも、なにカマトトぶってるのよ。シゲルちゃんの財産を増やしたほうが、お嫁に来たとき、楽できるでしょ? 

わざとらしく娘夫婦を気遣うのはやめて、正直になりなさい!」


 厳しげな顔つきになってる大奥様の隣では、オッサン息子がウンウンうなずいている。


 その隣、大奥様の身体全体から、新たにブワッと黒い霧が発散した。

 ミサトの身体が強張る。


 背後から死神さんの声がする。


「もう見えるだろう? あの黒い霧が障気しょうきなんだ。あれはね、周囲の生き物の心に伝染するんだ」


 いつの間にか、死神さんの手に大鎌が握られていた。

 振り下ろす気だ。


「待って! あなたの姿、大奥様からも見えてること、忘れてんの!?」


 死神はハッとする。

 実際、老女は彼が手にする大鎌の光を目にして、顔を強張らせている。


 怯える大奥様を見て、ミサトは声を張り上げた。


「やっぱり、殺すのはおかしいと思うの」


 遺言書も何処にも出していないんだし、土地の権利書だって書き換えてもいない。

 実際、あのお母さんは車椅子に乗れるとはいえ、基本、寝たきりなんだから、何も出来ない。

 今日だって、息子さんが来て好き放題してるのも、依頼主の娘夫婦が留守だからであって、普段は家に近寄ることもできない。

 だからーー。


「だったら、どうだと?」


 死神は疑問符を付ける。

 ミサトは拳を握り締める。


「殺されるほどの悪事はしてないって言うのよ」


 死神さんは不思議そうに首をかしげる。


「おかしなことをいう。そもそも、あの老女の財産はすべて彼女のモノだ。だから、当然、好きにしていいはず。遺言書をどう書こうが、土地の名義を息子に変えようが、それは勝手だろう」


「え……でも、殺すって……」


「だから、それは悪事を行ったからではない。黒い霧ーーけがれがあの老女の体内に巣くったからだ。その生命体の生命を刈る、それだけだ」


「え? 悪を行ったから生命を奪うんじゃないの?」


「いつ、そんなことを言った?」


「いえ……ただ、なんとなく、常識的にそう思っただけで……」


「そもそも生命をつかさどる法則は、人間がこの世で作った常識ではまるで計れないよ。善も悪も、そんなの、人間の都合だけで決められてるからね」


「じゃあ、どうして黒い霧は発生するの?」


「わからない。ただ、それが発生したら、魂を汚すから、その魂のためにも、生命を絶ってあげなきゃならない。この世にある他の魂のためにも。また、汚されるそのヒトのためにも」


「……」


 ミサトは絶句した。

 なにを言ったら良いのか、わからない。

 モヤモヤしてる。


 そのとき、いきなり真正面から、衝撃が。

 オッサン息子が抱きついてきたのだ。


「きゃああ!」


「なんだよ、抵抗しないでくださいよぅ」


 オッサンは抱きつきついでに、ミサトの胸を無造作に揉み始めた。


「そんなふうに一人でブツブツ言ってるところを見ると、アンタ、頭がちょっとおかしいんじゃないの? そんなだから、派遣のお手伝いさんみたいな汚れ仕事してんでしょ? だったら、金をやるから。ほら!」


 ミサトの目の前に十万円。

 先程、大奥様から貰ったお金ーー。


「これやるから、らせてくれよぉ! 長いこと、ご無沙汰してるんだ」


 上衣を裂かれる。


「いやあああ!」


 オッサンに押し切られ、ミサトは一緒になって倒れる。

 すると、息子の痴態を目に前にした大奥様が、やおら立ち上がる。

 さすがに息子を叱責すると思いきや、違った。


「そうよ! 女に言うことを聞かせるには、殴ればいいのよ。女はなんだかんだ言って、強い男が好きなんだから。私も旦那さんによく殴られたものだわ。気に入ったんなら手籠めにしてみなさいよ。あなたも男でしょう?」


 ほんとうにおかしいんだ、このおばあさん……!


 ついさっきまで、彼女のことを弁護してたのが、ほんとうに愚かしく思えた。

 穢れてるんだ、魂までーー。


 ミサトは死神さんをキッと見詰める。

 救けを求める。

 死神を名乗る青年は、オッサンの眼中にない。

 ほんとうに見えていない。

 そして、死神さんは今、オッサンの背後にいる。


「たすけて!」


 ミサトが死神に向かって、救けを求める。

 それを、自分に向けたものと勘違いしたオッサン息子が、舌舐めずりする。


「へっ、誰に向かって叫んでんだ。無駄だよ」


 オッサンの細身の顔が、すぐ間近まで接近した。


(こんなオッサンに、初めての唇を奪われるなんて!)


 ミサトの目に涙が溢れる。


 その刹那ーー。


 オッサンの首がスパンッと弾けた。

 太った身体から首が離れて、宙に舞う。

 大鎌が白く輝く。

 大鎌でオッサンの首が刈られたのだ。


(え……!?)


 急に、オッサンの身体から力がなくなり、廊下に崩れ落ちる。

 みると、いつの間にか、刈られたはずの首が、身体にくっついている。


(幻覚……?)


 ふと、正面を仰ぎ見ると、死神さんがオッサンの首を……いや、首だけじゃなく、身体ごと抱きかかえていた。

 ミサトは地面に倒れているオッサンと、死神さんが背中にしょったオッサンとを何度も見比べた。


 死神は、ミサトの疑問を察して語る。


「そこに転がってるのが〈実体〉。ボクが抱えているのが〈霊体〉」


「じゃあ、このオジサンは……」


「死んでるよ。もう」


「ほら」


 死神は斜め上を指さす。

 白く輝く、小さな球体が宙に浮かんでいた。


「これが魂。これが綺麗なままだと、次の世界に行けるんだ」


「……死因は」


「心不全かなにかになるだろうね。健康な人が突然死んだら、たいがいは心不全にされるからね、日本では」


「け……警察沙汰になるのは……」


 これからのことを考えて、混乱し、涙が再び溢れてくる。


「そこまで心配しなくてもいいよ」


 死神さんがオッサンの「霊体」を宙に掲げると、廊下で倒れ込んでいたオッサンの「実体」が起き上がって、動き出した。


「な……!?」


「ここに来る前にいた処に、自分で戻ってもらう。どうやら、近くの公園のベンチで寝てたみたいだから、そこで再び寝るだろう。そこで誰かに発見されるだろうね。死体として」


「……ご、ごめんなさい。私のせいで」


「ほんと、ついつい鎌を別の人に振るっちゃったじゃないか。仕方ないなあ」


 死神さんは苦笑いを浮かべながら、ミサトの脇を通り抜け、ソファに座ったまま動けない老女のもとに向かう。


「ま、待って。大奥様も殺すの!?」


「もちろん。それが目的だからね」


「やめて!」


 ミサトは青年に追いすがる。

 が、その必要はなかった。

 青年の動きが止まる。

 ミサトはその背中にぶつかる。


「ほう、おもしろい」


「どうしたの……?」


「生命を刈る必要がなくなった」


 大奥様は、いつの間にか、ソファの上で寝ていた。

 近寄ったら、小さく息をしている。

 死んでない。


「たすけてくれたの?」


「いや。だって、今では穢れが湧いてないだろ。だったら、生命を刈る必要はない」


 それから一時間後ーー。

 目覚めた大奥様に、ミサトは言った。

 息子のシゲルさんは、突然、家から出て行った、と。


 大奥様は深く溜息をついた。


「だったら、仕方ないわね。あなたにも迷惑をかけたわ……」


 そう言って、リビングの周囲を見回す。


「あの若い男のヒトは、何処へ……?」


 大奥様は死神さんが見えなくなったようだ。

 まだ私の背後にいるんだけど。

 いっさい振り向かず、ミサトは大奥様に向けて満面の笑みで答えた。


「あの青年ヒトも出て行きました。最後まで大奥様を気遣っておられたようですよ」


「そう……みんな、いなくなってしまって、残念ね。寂しくなったわ」


 その時である。

 新たに呼び鈴が鳴った。


 まさか、オッサン息子が舞い戻ってきたのでは、とミサトは警戒し、大奥様は怪しく両目を輝かせる。

 だが、来訪してきたのは、シゲルちゃんではなかった。


「ごめんください。笹寿司ですけど、特上三人前、お届けにあがりましたーー」


 ミサトはインターホンのモニターから振り返る。


「……息子さんが注文なさったお寿司が届きました。お食べになります?」


「ええ。なんだか、おなかがすいたわ」


 大奥様は頭を横に振ってから、半身を起こす。

 そのままダイニング・テーブルの椅子に座ってもらう。

 あとは、玄関で受け取って来た高級寿司を置けばいい。


 ミサトはようやく安堵の溜息を洩らした。

 息子がいなくなったら、上品な大奥様にすっかり戻っていた。


◇◇◇


 一週間後ーー。


 依頼主の夫婦が旅行から帰宅してきて、ミサトの仕事は終了した。


「誰にも会わせなかったでしょうね」


「はい……」


 大奥様からも、「息子が来訪してきたことは、娘には黙っていて」と言い渡されていた。

 老女はいまでもスマホを枕の下にしのばせて、息子からの連絡を秘かに待っている。

 彼女は息子が死神に魂を刈られたことは知らない。

 ちょっと胸が痛む。


 娘さんご夫婦からは、経費込みの値段で、給料を振り込んでもらうことになった。


 そして、ミサトは藤澤家から退出した。

 が、いまだに死神を自称する黒づくめの青年が、ミサトの背後にくっついて来ていた。


「あなたは、これから何処へ行くの?」


「別にアテがあるわけじゃないから、しばらくはキミの許にいたい」


「え……!? それって、私の生命を刈る……?」


「いやいや、キミの魂に穢れの徴候はないから、大丈夫だよ。そのう……実体化していない俺が見える存在は少ないからーー」


「お仲間はいないの?」


「ここ何十年と、死神《同業者》は見ていない。他の人外なら、何度も見かけるが……」


 若い男がモジモジした感じで言う。


「ついでに言えば、人間だろうと人外だろうと、他人と話をしたのはひさしぶりなんだ」


 コミュ障なのか、この死神は。


 ミサトはしばらく青い空を見上げ、明るい声を上げた。


「だったら、いいわよ」


「え……!?」


「なにを驚いてるのよ」


「いや、意外だなって思って。てっきり警戒されて、断られるかと思った」


「断ったところで、たいがいの人からは目にも見えないあなたを、私が追い払えるの?」


「それは無理だけど……ボクはキミがついてくるな、と言われたら、退散する気でいたんだけど」


「別にいいわよ。私のとこまでついて来ても。ただし、実体化してくれないかな。できるんでしょ。誰からも見える姿になること」


「……」


「なに黙ってるの?」

 

「いや、ますます驚いてるんで。どうして? 若い女の子であるキミに、実体化して連れ添ったら、迷惑じゃないのか?」


 ミサトは得意げな顔で答えた。


「そのうち、わかる」


 最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

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 今後の創作活動の励みになります。


 さらに、以下の作品を連載投稿しておりますので、ホラー作品ではありませんが、こちらもどうぞよろしくお願いいたします!


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