瘤翼竜
1-0028
――瘤翼竜――
上空に昇った太陽は暖かな光を送って来る。リクリアはゆっくりと体を動かしてみるがまだ体はこわばって良く動かない。
少し離れた場所に台地が去っていくのが見える。巨大なその姿は地平線の向こうまで続いて見える。
台地の下にはそれを支える無数の足が有り、それがウゾウゾと動いて台地を移動させているのだ。
その足は先端で土を食いながら進み、上空からその糞を後ろにばら撒いていく。台地が通過した後には柔らかな糞の大地が広がって行くのだ。
リクリアは落ちる前に父親が言っていた事を思い出す。
『ここは台地の左翼だから台地を見ながら左の方に向かって歩いて行きなさい。20キロ位歩けば固い大地にたどり着くだろう。しかし糞の中を歩くのは難しいだろう、その時は慌てず横になって這っていきなさい。そして固い大地にたどり着いたら草を食い木の根をかじって生き抜くのだ。そして大地の民に助けを求めなさい』
大地の民と言うのはおそらく狼人族の事だろう、しかし彼女は狼人族を見た事は無かった。
果たして台地の民であるリクリアを受け入れてくれるのだろうか?そんな思いが心を過ぎる。
それでも動かなければ待っているのは死だけだ。痛む体を引きずって起き上がると這うように移動を始める。
「私は、死ねないんだから」
そうは言った物の体は痛むし、『糞』で出来た地面は柔らかく移動するだけで体力を消耗する。
『糞』とは言ってもそれはダリルが地面を食って吐き出す物で土と変わる事は無い。ダリルを支える足で地面を食い、体に吸収したのちに老廃物を吐き出すのが『糞』だ。
周りを見渡すと小さな緑色の物が見える。『糞』に含まれていた植物の種が発芽を始めたのだ。
数日中にこの大地は緑に覆われるだろう。土の中に潜んでいた植物の種が台地に消化されずにそのまま排出されているのだ。
緑の色を見た途端にお腹が空いている事に気付く。夕べから何も食べてはいないのだ。
「お腹空いた……何か食べなくちゃ…」
この小さな体に蓄えられたエネルギーはそんなに多くは無い、しかし目に見える範囲には食べられる物はおろか水すらも無い。
リクリアが隠れていた『台地の足』の先には、葉の付いた木が残っている。その葉はまだ生きており瑞々しさを保っていた。
その緑の葉っぱを見るとゴクリと喉がなる。あの葉であればリクリアの食料になる。そう考えて這いずる様にその方向に向かって歩いて行く。
大きな木に茂っている葉っぱは、既に固くあまり美味しい食料では無かった。むしろ下生えの草の方が柔らかくて美味しかった。リクリアは降り積もった『糞』を払いながらゆっくりと食べて行った。
兎人族の食料は植物である。芋や根菜、葉物野菜が主食だが雑草や葉っぱでも命は繋げる。植物には水も含まれているので水が無くとも相当程度我慢は出来るだろう。
しかし草食動物故に肉を食べる事は無い、昆虫や蟲を食う事も無いのである。
斜めになっている幹にしがみ付きながら葉っぱを食べていると少しづつ元気が出てくる。
「体の痛みが少し楽になってきた…」
それでも腹が膨れると昼間の疲れが出てどっと眠気が襲ってくる。既にダリルは遠くに去っており僧兵が追ってくる気配は無かった。
普通であれば獣の襲撃を恐れてこの様な場所で眠ることは非常な危険性が有ると考えるようになったのは随分後の事である。
しかし台地で生まれ育ったリクリアにはその様な考えは無かった。そこには人を襲う魔獣は存在せず誰もその様な警戒を行わない世界だったからだ。
もっともこの大地にはまだ植物も生えてはいない、だからそれを食べる動物もいないのだ。リクリアを襲う獣もいる筈が無かったので、無人の大地の中で一人樹の枝の間にしがみついて眠った。
やがて日が暮れると月が出てきて周囲を照らす。夜中に風の音で目を覚ました。しかし風が吹いている様子は無い。
『…なに?この嫌な感じは?』
上空を見上げると巨大な影が月を横切るのが見える。
「瘤翼竜……?」
全長約200メートル、尻尾を除く体の部分だけで120メートルは有る巨大な生物が夜空を悠々と飛行しているのである。
「まさか、こっちに来る?」
瘤翼竜は巨大すぎるが故に空中に止まっている様に見える。実際には非常に速い速度でリクリアのいる方に向かって飛んで来ているのだ。
ビリビリと空気が震える様な感覚が有り、葉っぱが振動しているのがわかる。
あれだけの大きさの怪物が魔力を使って飛んでいるのだ、その反動が地面に現れるのは当然の現象である。
リクリアは倒れている木の根元の方に身を寄せて体を隠す。
怪物の発する魔力が周囲の大気をかき回し強い風を起こす。
しかし瘤翼竜は気にもかけていないようにその上空を通過していき、木の下で飛ばされない様に必死で枝にしがみつくと、ガタガタと木の幹も震え始める。
吹きすさぶ風はリクリアの周囲に土を巻き上げ彼女の体を土に埋め込んでいく。激しい風に目も開けられず呼吸もままならない。
体が殆ど土に埋もれた頃、上空の怪物は悠々と夜空を横切って去って行った。
土の中から顔を出して大きく息をつくが、すっかり体力を消耗しており、その後日が明けるまで木の下で眠ることも無く隠れ続けていた。
日が昇ると露が台地を湿らせる。昨日小さく見えた草の芽は少し大きくなって台地に色がついてきた様に見える。
台地が露でやや固くなっていた。これなら地面を立って歩けるかもしれない。
昨晩の風は木の葉をずいぶん拭き飛ばしてしまっていたが、残っていた若そうな葉っぱを食べると少し元気が出た。
ダリルの左側にいて落ちたのだから、去って行くダリルを右側に見て歩き続ければ必ず固い大地にたどり着けるはずだ、そう父は言っていた。
そう思って立ち上がるが台地から落ちたショックで体中が痛んだ。昨日はそれほど感じなかったが今日は体中が砕ける程に痛む。
それでもここでじっとしている訳にはいかない、また僧兵たちが来ないとも限らないのだ。
慌てることなくゆっくりと大地が有ると言われた方向に歩き始める。急げばまた足が土に埋まってしまう。
体重の軽いリクリアであれば、さして苦労する事も無く歩き続ける事が出来た。
周囲に生き物の気配は無い、台地はだいぶ離れた場所に有るがまだ大きく地平線まで広がっている。
僧兵たちは諦めたのだろうか?それとも装備を整えて再度追って来るのだろうか?
見渡す限り均された大地には所々に落ちている台地の残骸以外に見る物は何もなかった。
痛む体を引きずりながら這うように前に進む、幼い体には大きな負担であった。
少しずつ休みながら前進を続ける。所々に台地の残骸が落ちていて、こびりついていたわずかな草が元気を与えてくれた。
かつて、リクリアの妹は、あの瘤翼竜に食われたのだ。
草食獣の筈の瘤翼竜が当時2歳の妹を襲って飛び去った。神官達はそんな事はあり得ない、瘤翼竜は肉を食わないと言っていた。
しかしそれは起きたのだ、母とリクリアの目の前であの大きな口に妹が地面ごと飲み込まれるのを見たのだ。
その噂が大きくなり始めると神官長は、龍神ダイガンドの下僕である瘤翼竜によって妹は竜人様に召されたのだと言い始め、その後は神官達も何も言わなくなった。
母親は巫女として神殿本館に勤めていたが、神官長の発言に大きなショックを受けたようで、塞ぎこんでしまい神殿の仕事も行わなくなってしまった。
無理もない、信仰していた龍神教の下僕と言われていた瘤翼竜によって幼い娘を奪われたのだ。
神殿に対する大きな不信感を持つことになったのだろう
当時リクリアは6歳で既に神殿本館の巫女学校に通っていた。
巫女学校は義務教育で感能者を見つけ出すことを目的とした教育機関である。
無論教育機関であるから通常の勉強を行う学校であるが、それに加えて神殿の巫女達によって才能のある人間を見出して洗礼を行わせるのである。
巫女となることは子供たちのあこがれであり、能力の低い感能者で神殿に務められなくとも、他で良い仕事に就くことができた。
ところがリクリアの母親は自宅で真逆の教育を始めた。巫女能力を低く見せる訓練である。
自らが巫女である母親はリクリアの才能を早くから感じていたのだろう。それは妹も同様で、妹はかなり幼い時から強い感能力を示していたのだ。
妹が瘤翼竜に食われた理由がそこにあると信じた母親が、子供を守ろうとした行動であった。
それでも龍神教の巫女であり、一度宗教に染まった心は簡単には消えないものである。
父親は同じように神殿本館に努めてはいたが神官ではなく通常の雑務を行っていた。
仕事をしながら情報を集めていたのか、あるいは偶然何かの事実に触れたのかはわからなかった。
ある晩母は父と激しく口論をしていた。そして母を突き飛ばしリクリアを連れて逃げ出すことになった。
最初は何故逃げるのか理解できなかった、けれど神殿の僧兵たちがリクリア達を攻撃してきたのだ。その時すでに父は腹に怪我をしていたようだった。
彼らの目的がリクリア達の殺害だと父さんは言っていた。そしてリクリアを台地から突き落としたのだ。
僧兵に大地の端に追い詰められての行動だったのだろうが、母は無事なのだろうか?
落とされる前に父は大地の民に援助を頼れと言っていた。
大地の民は狼人族と呼ばれ肉を食うと言う。それ故に台地の民からは強く忌避をされていた。そんな民族がリクリアを助けてくれるのだろうか?
3日目になると大地は若い草に覆われ始める。リクリアはそれを食べながら歩を進める。もう食料も水も心配は無かった。
『…何か見える』
果てまで続くと思われた何もない緩やかにうねった大地の向こうに、ようやく地面から立ち上がった灰色の物が見えるようになってきた。
近づく程に見えてくるそれは生命のあふれる森では無く、枯れて崩れ落ちたかつて森で有った物の残骸であった。
まる一日歩き続けるとようやく『糞』の無い大地にたどり着いた。