0-5
次の朝。
娘は、目覚めるとすぐに、大きな窓に目を向けた。そのまま吸い寄せられるように窓に張り付くと、窓の外の空を眺めた。燦燦と降り注ぐ陽の光に目を細めてから、ゆっくりとその景色を一望する。
黒の四角い屋根や、濃い青色の三角屋根の建物。壁はベージュや灰色の、地味な色の建物ばかりが、狭い隙間を空けて無秩序にびっしりと並んでいる。もう少し遠くを見ると、背の高いビルが幾つも並んで建っている。けれど、やはり街並みには一貫性がなく、どれも地味な色ばかりで、向きもバラバラに並んでいる。
「特別な部屋……」
娘は視線を近くに戻すと、窓の直下に見える砂の小道を見た。人の姿も無く、太陽に照らされた砂が眩しい。その小道を挟んで向かいに建っているガラス張りの建物を見て、自分も二階にいるのだとわかると同時に、その建物の一室に娘は釘付けになった。
ちょうど正面の部屋に、ツカサとケントの姿を見つけた。向かい側の建物は壁一面がガラス張りになっていて、二人の表情まではっきりと見える。
椅子に座るツカサは、複数のデバイスの画面に向かっており、娘には背を向けている。画面はチラチラと光り、何かを表示しているようだけれど、その中に何が映し出されているのかまではわからない。ツカサの脇にケントが立っており、ジェスチャーを交えながら二人で会話をしている。娘は、窓にぴたりと両手を当てたまま、二人の姿を見つめた。
動かないツカサよりも、ケントの姿に自然と目がいった。しばらくそうしていると、ケントが娘の存在に気付き、ぴたりと動きを止めた。ケントは斜めに立って片手を腰に当てると、唇を動かした。そうすると、ツカサが椅子ごと向きを変えて、娘の方へと振り返った。
娘はツカサの姿を見つめた。白いシャツが陽の光のせいか、眩しく見える。昨日まで見ていたツカサとは、どこか違うツカサだ。何が違うのだろう、そう思った次の瞬間、ツカサが微笑んで、こちらに向けて手を振った。娘もツカサを真似て笑顔になって手を振った。ツカサは少しの間、手を振っていてくれた。ケントは硬い表情でこちらを見ているけれども、手を振ることはなかった。
やがてツカサが手を下ろすと、ケントに向かって何かを呟いた。すると、ケントが片手をひらりと上げて、部屋の奥へと消えていく。ツカサはそのまま椅子の向きを変えて、また娘に背を向けてしまった。
それでもまだ、娘はツカサの背中を見つめていた。何をしているのかが気になるというよりは、またこちらを見て、手を振ってくれるかもしれないと思っていた。それでも、ツカサは娘の方を見ることはなかった。
向かい側の建物には他にも部屋があるけれど、二人の他に人影は見当たらない。白い廊下と階段、座り心地の良さそうな椅子が幾つも置かれている部屋も見えていたけれど、どの部屋にも娘の気を引くようなものはなかった。ガラス張りなのに、中が見えない部屋もある。そこには何があるのだろう、そう思ったとき、娘の後ろからドンドン、と何かを叩くような音が聞こえた。
娘ははっとして後ろを振り返った。そこでようやく、娘は自分のいる部屋が、昨日までいた部屋とは明らかに違うことを認識した。絨毯の床に、柔らかなベージュの壁。ベッドも昨日まで寝ていたものより大きく、他にもチェストやクローゼットといった家具もある。
再び扉からドンドン、と音が聞こえる。誰かが叩いているのだろうと思ったものの、娘はどうしたらよいのかわからずにその扉に近づいてみた。またドンドンと聞こえるだろうか、そう思いながらじっと扉を見ていた。
「おい、開けるぞ」
曇った声が聞こえる。ツカサの声じゃない。娘がそう思っていると、扉がガチャッと音を立てて開いた。扉の隙間からケントが姿を現すと、娘は無言でケントを見上げた。
「うわっ、気付いてんなら返事くらいしろよ」
ケントは勝手に驚いて、眉間に皺を寄せて不機嫌顔になる。娘はケントの表情がころころと変わるのをじっと見ていた。ケントはツカサと違って笑顔になることはないけれど、とても自分の感情に素直だ。困っているとか、驚いているとか、つまらないとか、そういった感情が表情を見るだけですぐにわかる。
「ボスの……ツカサさんのところに行くか」
そう言うと、ケントは隣の建物に向けてクイッと首を動かした。
「うん」
娘は頷くと、もう一度ケントの顔を見上げる。ケントはツカサと違って筋肉質で身体が大きく、体格が良い。扉の前に立っていると、向こうが何も見えない。
「あぁ、そうか……」
ケントはしかめっ面で何かを理解して、娘から視線をそらした。
「ついてこい」
娘は、ぶっきらぼうで笑顔のないケントを見ていると、正しくしなければならないと思った。
正しい、というのが何なのかはよく説明できないけれど、きっとそれは礼儀とか姿勢とか、そういったケントの目に映る自分を、正しくする、ということだろう。どんな相手にだって、たとえばツカサの前でも、そうするべきなのかもしれない。でも、ケントのときは、なおさら気をつけなくてはならない、そんな気がした。
なるべく、正しくしなければならない。そう思ったけれど、娘は考えれば考えるほど、正しくするということがどんなことで、どうすればいいのかもよくわからなかった。ケントはツカサのように手を差し伸べてくれないので、はぐれてしまわないようにケントの背中を見ていた。大きな背中は、途中で止まったり動いたりした。娘はそれに合わせて止まったり動いたりした。
「昨晩は、よく眠れたかい」
気がつくと、ツカサの声が聞こえた。はっとして辺りを見渡すと、いつの間にか窓の向こう側に見えていた部屋に移動していた。小さな収納が両側の壁一面にびっしりと並び、部屋の広さの割に圧迫感がある。小道に面している壁一面だけはガラス張りなので、部屋のなかはとても明るい。そのガラス張りの壁のほうに大きな机があり、真ん中に座るツカサを囲うように机が並んで、その上にも幾つものデバイスが並んでいる。
ツカサはいつも笑顔だ。優しく微笑んで、話しかけてくる。
「眠れた」
娘は小さな声でそう答えた。けれど、よく眠る、という言葉の意味もわからない。眠っているときの記憶など無いのだから、よく眠っているのかどうかなんて、自分でわかるはずがないのに、と思った。
それでもツカサは娘の答えをそのまま受け止めて、目を細める。
「それは良かった。あそこは君の部屋だから、自由に使うといい。昨夜までいた部屋よりも、ずっといい部屋だからね」
娘はツカサの肩越しに見える建物を見つめながら頷いた。さっきまで自分が張り付いていた大きな窓が、よく見える。向こう側からこちら側がよく見えていたように、自分がいた部屋の隅までよく見える。ふと娘は、ケントの表情をちらりと見た。ケントは娘と目を合わせることもなく、無表情のまま腕を組んで壁にもたれかかっている。
「今日はお客さんも来ないから、ここでゆっくり過ごすといい。いや、今日だけじゃない。これからずっと、目覚めたらここに来るんだ」
ツカサの笑顔に促され、娘は無表情のまま頷いた。そのままツカサの座る椅子の脇に歩いていくと横に並んで、ツカサが眺めていたデバイスを順番に見つめた。画面に映し出された文字の羅列をじっと見ていると、娘が片手で持てる程度の小さなサイズのデバイスを、ツカサが娘に差し出した。
「何か欲しいものはないかい」
娘が差し出されたデバイスを手に取ると、デバイスの画面がパッと明るくなった。娘の持っているデバイスをツカサが横からタップすると、ECサイトが表示される。そこには様々なアイテムが、数字とともに羅列されている。
「なんでも好きなものを買うといい」
娘はデバイスをじっと見つめてから、顔を上げる。
「なんでも」
ツカサは目を細めて微笑むと、ゆっくり頷いた。けれど、娘はツカサから視線を反らして、口をぎゅっと噤む。
「なんにも要らない」
娘の言葉に、ツカサは再び、ゆっくりと頷いた。
「それでも君は生きているんだ。重要なことは、あの雨の中に置いてきた過去よりも、今現在と、これから先の未来のことだ。いつまでも患者衣で過ごすわけにはいかないだろうし、そうだな」
娘は眉尻を下げてツカサを見つめる。
「そんなの、わかんない。わたしは置いてくるのは嫌だった。何も失いたくなかった。でも、だから、また失くしてしまうのは嫌なの」
ツカサは娘の言葉を聞きながら、小さく、何度も頷いた。
「そうだね、でも大丈夫。もう何も失うことは無いのだからね」
娘は表情を曇らせて、デバイスを持ったまま床にぺたんと座り込んだ。そして、無言でデバイスの画面をスクロールさせる。娘を見ていたツカサは、ゆっくりと身体の向きを変えて、机の上に並ぶ自身のデバイスの操作を始めた。