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0-3

 次の朝。


 ツカサは、また3番の部屋にやってきた。昨晩と同じように部屋を開けて静かに部屋に入り、ベッドサイドにある小さなテーブルの上にドリンク剤をひとつだけ置いた。娘はまだ眠っていて、ツカサの足音にも反応しなかった。ツカサは娘が眠っていることを確認すると、他に何をするでもなく、部屋を出ていった。


 3番の扉の横にあるセキュリティボックスは、赤色に点灯している。日が高くなるにつれて、建物内には様々な足音が響いてきたものの、誰もその扉を開ける者はいなかった。そんな足音も聞こえなくなって日が翳り始める頃になり、ようやく娘は目を覚ました。


 娘は体を起こし、小さな部屋の中を見渡した。小さな部屋の白い壁と白い天井を順番にゆっくり眺めてから、ベッドの横にある大きな窓の外を見た。そこには隣の建物の質素な外壁が見えているだけで、他には何もない。それでも娘は窓の外を見たまま、動かなかった。しばらくして窓から目を離し、ようやく机の上に置かれているドリンク剤に気がついた。


 娘はベッドから足をおろし、両手でそっとドリンク剤を持ち上げた。ボトルにはベリー味と書かれているだけだったけれど、それでもそれが自分のために置かれた飲み物であるということは認識できた。封を開けて顔を近付けてみると、甘い香りが漂う。少し口に含んでみると、甘い味のあとに僅かな苦味を感じた。娘は、美味しいとか不味いとかいった味覚よりも、液体が体に染み込んでいくのを感じた。その感覚だけを頼りに、娘は少しずつドリンクを飲み続けた。半分ほど飲んだところで、扉をコンコンと叩く音が聞こえて、娘は飲むのをやめて、さっとドリンク剤を机の上に置いた。


 静かに扉が開くと、ツカサが部屋へと入ってきた。昨日と同じように黒い服を着て、黒い革手袋を嵌めている。帽子は被っていなかったので、目にかかるほどの黒く長い前髪が昨日と違って見えた。


「目が覚めたんだね」


 娘は返事をせずにツカサを直視した。ツカサは微笑んでいて、細い目で娘を見つめている。娘は起きたままの姿で髪は乱れていて、ベッドからだらんと両脚が下ろされている。


 ツカサは扉を閉めると、コツコツと足音を立てながら娘の方へと歩み寄っていく。娘はツカサの足元を見ながら、ツカサが近づくのを見ていた。そして、自分のすぐ前でツカサが視線の高さを合わせるようにしゃがみこんだので、ツカサの顔を見つめた。不揃いな前髪が目にかかっていることや、肌が少しくすんで見えること、それから唇は右側だけが少し上に上がっていることに気がついて、それらをもう一度確かめるように順番に見つめていた。


「君のことは、なんと呼べばいいかな。名前は何と言うんだい」


 娘は虚空を見上げてから、視線を落とすとツカサの眼を見つめた。


「知らない」


 娘の答えに、ツカサはゆっくりと頷いた。


「そうか。それならば、何か欲しいものは無いかい。ソイルとドリンクをもう少し持ってこようか」


 娘はすぐにはツカサの質問に答えない。瞬きする間も惜しむかのように目を見開いて、何か不思議なものでも見るようにツカサのことを見ている。ぼさぼさの髪や衣服の乱れも気にせず、腿から足の先までツカサに見られることに恥じらう様子もない。


「それと同じのがいい」


 ツカサは、その娘の態度が純真無垢な子供のようなものだからなのか、別の理由なのかを見極めようとしていた。


「それならもう一つ、同じものを持ってこよう」


 ツカサはそう言いながら、娘の腿に触れていた。娘は、触られたことに気付いて自分の腿をゆっくりと滑らせるツカサの手を見つめた。


「他に何か欲しいものはないかい」


 娘は何も答えず、ツカサの手先をじっと見ていた。ツカサは娘の表情を確認すると、腿を隠すようにスカートの裾を直して、その手を離した。ようやく娘はツカサの顔を見上げる。


 娘は無表情だった。ツカサはそれでも、娘に微笑みかける。


「無理はしなくていい、何か欲しいものがあれば言うんだよ。欲しいものは何でもあげよう」


 娘は視線を逸らして、自分の胸元に手を当てた。


「わからない」


 ツカサは頷くと、その場で立ち上がる。


「ゆっくり休むといい。きっと、疲れているんだ」


 娘は返事をせずに手を伸ばすと、ドリンクを手に取った。そしてその手元だけをじっと見つめながら、目を細めた。


「はじめて、飲むもの」


 ツカサは娘の声を聞くと、もう一度その場にしゃがみこんだ。娘が少しずつドリンク剤を飲むのを見て、口端を少し釣り上げた。


「それは特別な栄養剤だから、飲んだことは無いかもしれないね」


 娘はドリンク剤と一緒に小さく頷く。ツカサは微笑んだまま、娘の表情を伺った。痩せた小さな肩で小さなボトルを両手で持って飲む姿は、たとえ雨が降っていたとしても、この街の夜に相応しくないのだ。


「どうしてあんなところにいたんだい」


 甘い香りが、二人の間に立ち込める。娘はその香りをたくさん吸い込んでから、何度か瞬きをしてツカサの顔を見上げた。


「わからない、なんにもわからない」


 ツカサは小さく頷いた。


「それじゃ、僕の名前は覚えてくれるかな」


 娘はこくんと頷く。


「僕の名前はツカサだ、ツカサ。覚えられるかい」


 娘はにっこりと笑って、頷いた。


「ツカサ」


 ツカサも微笑んで、娘を見つめた。


「そう、覚えてくれて嬉しいよ」


 娘は足をぱたぱたと動かして、またドリンク剤を少し飲んだ。


「あと何本か持ってきておこう。すぐに戻るよ」


 ツカサはもう一度立ち上がると、急いで部屋を出て行った。娘はその後をじっと見つめてから、足をぱたぱた動かしながらドリンク剤を少しずつ飲んだ。


 言葉の通り、ツカサはすぐに戻ってきた。そして小脇に抱えていた3本のドリンク剤を、テーブルに並べた。


「違うフレーバーも持ってきてみたんだ」


 娘は、自分の持っているドリンク剤のボトルとテーブルに置かれたボトルを見比べてから、ツカサの顔を見た。


「違うフレーバー」


 ツカサは微笑んで、頷いた。


「それはベリーフレーバーで、こっちはバニラフレーバーなんだ。栄養価は変わらないから、どれを飲んでもいい。少し……」


 ツカサは話しかけて、途中でふと何かに気付いて言葉を止めた。娘に栄養価の話などしても無意味だと気付いたからだ。


「少しずつ飲めばいい、足りなくなったらいつでも持ってくるからね」


 娘は目を細めてにっと笑って、またドリンク剤と一緒に頷いた。

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