第2部・第2話:美貌の悪魔 第7章
爆発的に能力を開花させたユージーンのお陰で、イェルヘイヴンに蔓延る邪悪な氣は、悉く浄化された。
白い豹の木像もすっかり邪気が祓われ、ただの優れた工芸品に戻っている。
ゲオルグ老人は、本来は魔法適性のない普通の人間だった。精霊の吐き出した氣を視認する能力もないため、多少気分を悪くする程度で、悪氣の渦に汚染された木材を伐採して持ち帰ってしまったのは、不幸な偶然でしかない。白木の木目を利用し白豹の像を制作する過程で、元々抱え込んでいた悩みや悪感情を増幅され、それを魔王の配下に見出されて利用された。ユージーンを「悪魔」だと思い込んだのも、悪氣の渦と、エドゥアルトの使いを騙った魔王配下の魔力の、相乗効果だったのだろう。
ゲオルグ老人が白い豹から渡されたという、紫色の石の付いた腕輪には、魔王の魔力が籠められていた。宿や、ルカの部屋の施錠を解除し、隣で眠るレフに目覚めの遠のく魔法を掛けたのも、すべて腕輪のなせる業だったようだ。
そしてこの腕輪は、白い豹が鴉に変化して逃げ出した瞬間、パキリと二つに割れて、ゲオルグ老人の手から離れた。駆け付けたベリンダによってこの世から存在ごと消滅させられたが、これには当然ながら、常人が用いるには相応のリスクがあったらしい。ゲオルグの身体的不調は、悪氣の渦と魔王の魔力に蝕まれた結果であり、その呪縛から解放されたことで、健康を取り戻したそうだ。
とはいえ、成人男性体のレフに力いっぱいぶん殴られた傷は、ベリンダが(レフの主であるルカの保護者の)責任を持ってきれいに治癒させたことで、からくも重傷を免れた形だ。
――そのゲオルグ老人が宿を訪れたのは、ベリンダ達が周辺の森の浄化の最終確認のために、出払った直後のこと。
「――申し訳ない」
勧めたベッドサイドの椅子に腰を下ろしたゲオルグ老人は、上体を起こしたルカに向かって頭を下げた。
悪氣は祓われても、長年の懊悩までが消え去った訳ではない。眉間に刻まれた皺が、彼の後悔をそのまま映し出しているようにも見える。
大事を取り、今日一日はしっかり休養を取るよう厳命されただけで、もうすっかり本調子のルカは微苦笑を浮かべた。
「いいよ。ゲオルグさんも被害者みたいなものだし」
酷い目には遭わされたけど怒る気にはなれない、と笑うルカの足元には、普段寝る時と同じように、ライオン体のレフが寝そべっている。ゲオルグを睨み付ける彼の首元で、オレンジ色の石を付けたチョーカーがキラリと光った。ベリンダの加護付きの装飾品は、今回まんまと敵の術中に嵌ったことを悔いて、彼が自ら望んで作ってもらった魔法除けだ。
レフの不満そうな表情には、「ルカは甘すぎる」との思考がありありと浮かんでおり、ルカは宥めるように、柔らかい鬣を撫でてやった。
とはいえ、これだけは釘を指しておかねばならない。ライオンがゴロゴロと喉を鳴らすのを聞きながら、ルカはゲオルグ老人に向き直る。
「僕は良いけど、ユージーンにはちゃんと謝ってね!」
きょとんと瞳を瞬かせたのは、まるで自分の祖父に対するかのように砕けた口調に驚いたゲオルグ老人だけではなかった。万が一の用心のために、開けたままの扉に寄り掛かったユージーンもまた、切れ長の瞳を小さく見開く。大きな力を使った直後の彼は、今日はベリンダ直々に、ルカの護衛を兼ねた休息を命じられているのだ。
「綺麗なことが罪って訳じゃないんだから。要はその人の、心の有り様だと思うよ」
頑固な相手に言い聞かせるように人差し指を立てたルカに、ふと室内の空気が緩む。
自分がどう扱われるかよりも、幼馴染みを悪く言われることの方が、我慢がならない。ゲオルグの娘を攫うように駆け落ちしてしまった男と、ユージーンは違う――それがルカの主張なのだ。
「そうだな」と、ゲオルグ老人が口元に笑みを浮かべた。手を伸ばし、「初めて笑うところを見た!」と驚くルカの頭を、武骨な手でわしゃわしゃと撫で回す。
「本当に、助けてくれてありがとうよ。――アンタもな」
『……』
視線を向けられたレフは、フンと鼻を鳴らして、前足に顎を載せた。そのまま瞳を閉じたのは、無視というよりも、ゲオルグに対する警戒の念を解いたとの意思表示だったのだろう。
「――へへ」
何となく、みんな打ち解けられたような気分になって、ルカは思わず照れ笑いを零した。
こうしてみると、ゲオルグ老人は年の割になかなか渋味があって、イケてる爺さん、といった感じだ。キャラクターは全然違うが、フィンレーの父親のヘクター卿を思い出す。もしかしたらルカは、自分と真逆にいる「髭の似合う渋いオッサン」に、無意識に憧れるところがあるのかもしれない。
幼馴染みが聞いたら発狂しそうなことを考えながら、ルカは小さく安堵の息をついた。
今回も、ルカに何が出来たという訳ではない。けれど、自分の言動が何かしらゲオルグ老人の救いになったというのなら良かった。そう思うことにしよう――。
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ルカをレフに任せ、礼儀として宿の外まで見送りに出たユージーンに向かい、改めてゲオルグ老人が頭を下げた。
「悪かったな」
謝罪ならば、これまでにも数回受けている。その上での言葉は、ルカとの約束のためだろう。「ええ」と受け流して、ユージーンは軽く頷いた。
ルカを危険に晒したことは許し難いが、確かに、彼も操られていた被害者であることは間違いない。ユージーンに関していえば、今回の騒動のお陰で、浄化能力が高められたのも事実だ。今後は憎きベイリー神父に嘲られることもなくなると思えば、結果としては悪くないと言える。
通りがかったご婦人に会釈を返し、ユージーンは見るともなく並木道を眺めた。
精霊達の吐き出した悪氣の渦と、これに吸い寄せられる人々の悪感情から解き放たれた町は、魔法使いの目には、霧が晴れたように明るく見える。
この分ではもしかしたら、ほぼ初対面の自分の部屋に忍んできた女性二人の蛮行も、悪氣の渦のせいに出来るかもしれない――というより、そうでなければ、今後も色々と面倒過ぎる。
どうでもいいことを思い出して、小さく肩を竦めたユージーンをよそに、ゲオルグ老人は宿の建物を振り返った。こちらも文字通り、憑き物の落ちたような表情で見上げたのは、2階のルカの部屋の窓だ。
「ありゃぁ良い子だな……まるで……」
「俺の娘に似ている、とは言わないで下さいよ。あなたの娘が、ルカほど可愛いはずがない」
最後まで言わせず、スパンと切って捨てたユージーンに、ゲオルグが言葉を詰まらせる。悔しげに「言い切るかよ」と唸るからには、やはりユージーンの予想は間違っていなかったのだろう。――まったく、どんな世迷言だ。
ユージーンがゲオルグに対して辛辣なのは、自分に無礼を働いたことや、ルカに対する狼藉、にも関わらず彼に懐かれているのが妬ましいだとか、そういったことではなかった。彼もまたルカと同じように、この武骨な老人に対して、少々親しみを感じ始めているのである。
それが伝わっているのか、ゲオルグ老人は、口元に薄く笑みを刷いた。
「大事なんだな」
「ええ」
主語はなくても、ルカのことであるのはわかる。
迷いのない回答に笑みを深めてから、ゲオルグは、蒼く晴れた空を振り仰いだ。
「――俺も、大事にしてたつもりだったんだがな。伝わらねえもんだ」
「……」
妙にスッキリとした口調には、逆に深い悔恨が滲んでいるように思われる。これは彼の娘・エマについての言及であると悟ったユージーンは、安易な相槌を控えた。
ゲオルグは、娘と吟遊詩人との仲を反対したらしい。武骨な職人にとって、地に足の付いていないような職業の男に、大事な娘をやる気には、とてもなれなかったのだろう。その気持ちはわからなくもない。
とはいえ、ゲオルグ親子に足らなかったのは、対話だ。彼が元気なうちに、娘の方で和解する気持ちになってくれると良いのだが、こればかりは娘の情に期待するよりほかない。
ふと真顔になって、ゲオルグ老人がユージーンに向き直った。
「お前はくれぐれも、ベリンダ様を悲しませるようなことはするなよ」
「……言われなくても」
返答に間が空いたのは、あまりにも当たり前の釘を指されたためだ。敬愛する師から、ルカを奪うような真似をするはずがない。ベリンダには魔法だけでなく、ルカのことも含めて認めて貰うつもりでいるし、彼女の中での、ルカのパートナーとしての最有力候補は自分であるとの自負もある。
美しい顔を、さも憤慨したと言わんばかりに顰めたユージーンに、ゲオルグは口調を和らげた。
「あの野郎も、お前みたいな気概を見せてくれりゃあ良かったんだがなぁ」
それは、掛け値なしの、ゲオルグの本音だったのだろう。吟遊詩人とやらが、自らの生業への誇りと、娘を守るための気骨を言葉で表していれば。或いは娘の方が、父の想いを汲み、対話での解決を望みさえすれば、誰も悲しい思いはせずに済んだのかもしれない。
――僕は絶対に、そんな愚かな選択はしない。
ゲオルグ老人の言葉に、ユージーンは改めて、ルカへの想いを確認した。
今はまだ、自分はルカにとって、保護者の域をいくらも出ていないのかもしれない。――だが。
「大丈夫ですよ。僕は周囲の祝福を得られる形で、正式にルカを手に入れるつもりです」
珍しく強気の本音を口にしたのは、老人が旅の途中で出会っただけの相手であるためかもしれない。
しかし同時に、自分達と同じ轍を踏んでほしくないという、ゲオルグの心遣いに対する感謝の念も、確かにユージーンの中に存在する。
「保護者がいつの間にか恋人に――だなんて、よくある話でしょう?」
美青年のウィンクに、ゲオルグ老人は僅かに両目を見開いた後、「頑張れよ」と優しい微苦笑を漏らした。
第2部・第2話 END




