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第4話:ネイト 第3章

「――」

 ネイトは静かに祈りを捧げる。父、母、行方の分からないハイドフェルト神父――そして、この世の誰より大事な人の、安穏(あんのん)な人生を。どうか貴女の元へお導き(たも)うな、と。

 ネイトが秘密の扉の中に安置した木像とロザリオは、異国の商人から買ったものだ。神学校卒業後の、最初の赴任先の露店で売られていた。(いかづち)は冥府の静寂を乱す者達へ下す鉄槌(てっつい)を、額の第三の目はその力の源を表す――どちらもエインデルの象徴だ。その町は国境から一番近く、つい最近になって入国してきたばかりだという商人は、ラインベルク王国の禁教狩りが他国に比べて厳しいということを、甘く考えていたらしい。

『この国では商人であっても、所持しているだけで罪に問われますよ』

 聖職者からの忠告に、商人は蒼褪めた。ネイトは親切ごかして、これを安値で引き受けたのだ、『私が責任を持ってお預かりします』と。その時手に入れたのは3点、うち金メッキの全身像のみを押収物として本部へ送ったのは、白昼の往来での遣り取りを見ていた者があった場合に備えてのことだった。郵便を扱う店で、敢えて「禁教の偶像を手に入れたので、本部へ送らなければならないんです。くれぐれも慎重にお願いします」と念を押すことも忘れずに。

 かくして、エインデルの木像とロザリオはネイトの物になった。破格とはいえ対価を払って手に入れているため、罪悪感など(はな)からあろうはずもない。所持していては危険なものだが、エインデルの使徒として、手元に置いておきたいという欲求には抗えなかったのだ。

 ――この国の政策は、間違っている。

 諦観の中に、捨てきれない憤怒(ふんぬ)を抱えて、ネイトは顔を上げた。第三の目だけを見開いたエインデルの胸像は、女性的な美を備えながらも、どこか雄々(おお)しい。

 神学を専攻していれば、嫌でもわかる。エインデルは、主神をも凌ぐほどの強さのゆえに、時代を経ると共にエドゥアルト正教の手で邪悪性を付与されていった。いわば悲運の女神なのだ。王家がどれほど取り締まろうと、聖職者から彼女の信奉者が根絶できない理由はそこにある。

 ――それに対して、エドゥアルトの信奉者はどうだ。

 ネイトの唇に嘲笑が浮かんだ。

 不当に(おとし)められる存在を前に、疑問も抱かない。知識を吸収するばかりで、自分の頭で考えようともしない。自分の出世のために、他者を陥れることを恥とも思わない人物もいるではないか――フランツ・ロッシュのように。

 ――『いつか、時代は変わると思います』。

 春のそよ風のような声が脳裏によみがえり、ネイトは渋面(じゅうめん)を解いた。小さく溜め息を落とす口元に、愛おしげな微苦笑が浮かぶ。



 ネイトがルカと出逢ったのは2年前、司祭となってハーフェルの町に赴任してきた時のことだ。

 大魔法使い・黄金のベリンダに連れられてやって来た14歳のルカは、ネイトの目に、飛び抜けて可愛らしいという以外にはこれと言って特徴もない、普通の快活な少年としか映らなかった。むしろ、「予言に振り回される、二つの世界に引き裂かれた子供」だと、憐れんでさえいたくらいだ。

 自分を愚かではない、ハイドフェルト神父のように純粋でもないと考えるネイトが、ルカに禁教徒であることを知られたのは、まったくの偶然が原因だった。

 それから1年後の、ある風の強い日のこと。ネイトは、他国の冒険者によって持ち込まれた絵画――(まぎ)れもない、同志によって描かれたと(おぼ)しきエインデルの雄姿を手に、どう扱うべきかと思い悩んでいた。その時礼拝堂に駆け込んできたのがティムで、それを追い掛けてきたのがルカだ。ベリンダの使いとしてやって来て、そのまま子供達の相手をしてくれていたらしい。彼らの闖入(ちんにゅう)によって、礼拝堂内部にも強風が吹き込み、ネイトの手から女神の絵画を撒き上げた。無邪気なティムはネイトの焦燥に気付かず走り回り、あろうことか絵を踏み付けたのだ。

『!!』

 怒りに突き動かされるまま、ネイトはティムの小さな身体を突き飛ばしていた。ルカは凍り付いたように動きを止め、ティムは信じられないものを見るような目でネイトを凝視した後、火が着いたように泣き始める。「礼拝堂で遊んでごめんなさい」と泣きじゃくるのを、ネイトは慌てて抱き締めた。ティムの謝罪は反省ではなく、恐怖から出たものだ。彼は両親に虐待された末に、生家から離れたハーフェルの孤児院に収容されている。ネイトから受けた(彼にとっては)(いわ)れのない暴力に、パニックを起こしたのだろう。

 必死に謝罪を繰り返していたネイトは、ルカが絵画を拾うのを見て、我に返った。ネイトの願いも虚しく、ルカは描かれたものを見て、ギョッとしたように大きな瞳を見開く。その目が自分を捉えた瞬間、ネイトは後悔した。普段は温厚な神父が、エインデルの絵を踏んだ子供を突き飛ばすほどの激昂(げっこう)を見せただけでも充分怪しいのに、言い訳も忘れて顔を引き攣らせているのだ。誰がどう見ても、ネイトの行動はおかしい。

 処世術として身に着けていたはずの笑顔は、いざという時に全く役に立ってはくれなかった。

 ――終わりだ。

 緊張に冷たくなった手で、ただティムを抱き締めるネイトにゆっくりと近付き、ルカは伏せた状態で絵を差し出した。受け取ることも出来ずに礼拝堂の床を凝視していると、そこにポーションを満載にしたバスケットが置かれる。ベリンダから預かってきたものだろう。ルカはその中に、エインデルの勇姿を隠すようにして、絵画をそっとしまいこんだ。

 彼がどんな表情で、何を言い残して立ち去ったのか、確認することは出来なかった。


 それからのネイトは、恐々(きょうきょう)とした日々を送ることになった。

 禁忌の信仰を持った時から、露見の際の覚悟はしてきたつもりだったが、いざその立場に立ってみると、恐怖は(ぬぐ)いがたい。ティムの謝罪を受け入れるという形で仲直りをし、これまでと同じように人々と笑顔で接しながらも、常に憲兵(けんぺい)の足音に怯えている。

 しかし、待てど暮らせど、法の手はネイトを(とら)えには来なかった。

 最初の数日間こそ、ルカは誰かにネイトの秘密を漏らす前にあちらの世界へ還ったのだろうか、などと考えていたものの、存在自体が目立つ予言の子供は、常にハーフェルの住民達の話題にのぼる。今日はベリンダさんと一緒にうちの店に来てくれただの、落としたハンカチを拾ってくれたけど近くで見たらホントに可愛いだの、ネイトが思うよりずっと頻繁に、こちらの世界へやってきている様子だ。

 それなのに、ネイトの秘密が知れ渡る気配はない。

『――どういうつもりですか』

 ついに堪えきれなくなったネイトは、ひと月後、ベリンダからの差し入れを持って現れたルカを、礼拝堂の壁際に追い詰めた。「窮鼠(きゅうそ)猫を噛む」状態は、見る人があれば、ひと気がないのを幸いと、司祭が美少年を襲っているようにしか見えなかっただろう。

 気まずそうにしてやって来たルカは、壁に両肩を押し付けるようにして拘束された状態で、顔を赤らめたり青ざめさせたりしていた。こんなに簡単に取り押さえられるような存在に、生殺与奪の権を握られていることが、腹立たしくて堪らない。

『密告もせず、私を脅迫でもするつもりなんですか』

 これ以上の弱味を見せまいと、ニヤリと笑いながら顔を近付けたネイトに、ルカは瞳を瞬かせた。白い肌に、長い睫毛の落とす影までが美しい。

『……僕の居る所でも、昔、同じようなことがあったらしいので』

 少し考えてから、ルカは答えた。『そんなに詳しい訳じゃないんですけど』と断りを入れてから、たどたどしく話したのは、いわゆる「キリシタンの迫害」についてだ。改宗を迫るために行われた拷問は筆舌に尽くしがたく、多数の殉教者を生み出したと、歴史の授業で教わった。ルカには、目の前でエインデルの絵画を踏みつけられた先日のネイトが、絵踏みの刑に晒されるキリシタンのように見えたらしい。

『あっちでは、今は「信教の自由」っていうのが認められてるんです。もちろん、カルトとかのおかしな宗教は別ですけど』

 笑顔を取り繕うことも忘れ、話に聞き入るネイトに、ルカは小さく肩を竦めて見せる。

『神父様は、誰かを傷付けるような信仰を持つ人には見えないから』

『…………』

 肩を押さえ付けていた手を放し、ネイトはやや呆然と、予言の子供を見下ろした。

 それが、ネイトを密告しない理由だというのか。こんな子供に自分の何がわかるというのだろう――反論は脳裏に溢れていたが、1つとして言葉にはならない。

 それはネイトが同時に、ルカの物事の捉え方に感じ入っていたせいでもあった。エインデルの使徒は密告されるのが当たり前の世界にあって、自分の目で見たネイトの姿こそが真実であると捉え、断罪には及ばぬと結論付ける。別な世界を知っているというのは、こういうことなのだろうか、と。

『……ッ……』

 ネイトはルカの視線から逃れるように俯いた。

 壁に両手を着いたまま、細い肩に額を埋める。

『今は、神父様達にとってはつらい時代かもしれないけど、いつか時代は変わると思います』

 ルカの言葉は気休めでしかなかったが、それでも慈愛に満ちていた。大したことは言われていない。けれど、ハイドフェルト神父と生き別れて以降、すべてを(あざむ)きながら生き続けてきたネイトが、5年ぶりに他者に受け入れられたと感じた瞬間だった。

 恐る恐るといった様子で背中に手が回され、ポンポンと幼子(おさなご)をあやすように優しく撫でられる。

『――ッ』

 暖かい(てのひら)の感触に、ネイトは反射的にルカの小さな身体を抱き締めた。張り詰めていた気持ちが不意に緩み、そうしていないとその場に崩れ落ちてしまいそうだと思ったからだ。

 声もなく涙を流すネイトを、ルカはただ黙って受け入れてくれている。

 他人を信じるのは怖い。だが、信じたいのだと心が叫んでいる。

 2つの世界を渡る、予言の子供。人類の知恵の及ばぬ、神秘の存在。

 ――ルカはこの時から、ネイトにとっての光、ただひとつの希望になったのだ。



「………………」

 唇を引き結んで、ネイトは音もなく立ち上がった。

 ルカにも言った通り、エインデルへの禁じられた信仰が露見するような、愚かな真似はしていない。ルカに気付かれたのは完全な不可抗力であって、あれ以降ネイトは、例え目の前で信奉する女神を(おとし)められたとしても顔色ひとつ変えないよう、鋼鉄の笑顔を被って生きてきた。

 しかし、相手は逆恨みで、世論を操作してまで他人を陥れることに、何の躊躇もなさそうな人間だ。そもそも査察を受ける覚えもないので最初から警戒はしていたものの、万が一にも大事なルカを巻き込む訳にはいかない。ロッシュの前で親しげな様子を見せないようにしたのも、その為だった。

 ――ルカに手を出そうものなら、生まれてきたことを後悔するような目に遭わせてやるまでだ。

 この上なく物騒なことを考えながら、エインデルの使徒は、秘密の祭壇の扉を硬く閉ざした。

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