第4話:ネイト 第2章
ハーフェルの町の正エドゥアルト教会は、繁華街を十字に貫く大通りを右手側に折れた、集落の先にある。規模は小さく、古びてはいるけれども荘厳な空気に満ちており、敬虔な信者が足しげく通うところは、大都市の教会にも引けを取らない。
アップルパイの美味しいパン屋は中心部の噴水広場近くにあるため、ルカは商店街を一気に駆け抜け、息を切らしながら住宅街を早歩きで過ぎ、教会の尖塔が見えてきたところで、再度駆け出した。「信ずる者すべてを分け隔てなく受け入れる」という教義を体現するかのように開け放たれた門扉の傍に、目指す人物の姿がある。取り敢えずは無事な姿を確認して、ルカは胸を撫で下ろした。
「……ッ、ネイト……!」
苦しい息の中、何とか声を掛けると、ネイトは顔を上げた。書面らしきものを読んでいたらしく、僅かに眉間に皺が寄っている。難しそうな表情は、ルカの姿を見止めた瞬間、幸福の絶頂にあるかの如く、優しく蕩けた。
「ルカ!」
どうやら手紙らしい紙束をサイドポケットにしまいながら、ネイトは両手を広げてルカを出迎えた。周囲に誰も居ないためか、いつも通り熱烈に抱き締められる。
ルカが呼吸を整える間、ネイトは熱に浮かされたかのように、ルカの突然の来訪に対する歓びの言葉を唱え続けた。
「走って来てくれるなんて嬉しいな。昨日に引き続いて、今日も愛らしい君の姿をこの目に焼き付けることが出来て、私はなんて幸せ者なんだろう……!」
「あ、あのね、ネイト……!」
放っておいたらどこまでもエスカレートしていきそうな称賛と歓喜の嵐に、ルカは必死で声を上げた。礼拝堂から人が出てきたこともあって、これ幸いとばかりに抱擁を解く。少し考えてから、幾分か人目に立ちにくいと思われる楡の木陰へと、ネイトの手を引いて誘導した。
「ロッシュさんのことなんだけど――」
「――!」
ルカの口から漏れた名に、ネイトの表情が目に見えて引き締まる。真顔の迫力に気圧されそうになりながらも、ルカはパン屋で聞いたフランツ・ロッシュの行状について、詳しく話して聞かせた。
エドゥアルト教は、全能神エドゥアルトを首座に戴く、この世界最大の宗教である。
ラインベルク王国では国教に指定されており、教団の本部も王都ヴェスティアに置かれている。多神教でもあるため、エドゥアルト以外の神々を特別に信奉することも認められているが、唯一の例外が、冥府の女神エインデルへの信仰だ。
エインデルは弟であるエドゥアルトに、天上と地上の支配権を掛けて戦いを挑み、敗れ去ったと神話は語る。そのため、男系嫡子相続を範とするラインベルク王家では、過去に幾度か簒奪を目論む者達の旗印となってきたことを踏まえて、第11代ローデリヒ1世の時代に禁教に指定された。これは後に、同様の皇位継承を行う国々でも取り入れられ、世界的にもエインデル信仰は禁忌とされる所が多い。
ラインベルクでエインデルに許されたのは、「冥府の統治者」「神話の主要登場人物」としての称号のみで、この女神を描いた絵画やモチーフなどのイコンを所持していることが発覚すると、社会的にも肉体的にも厳重な処罰を受ける。
特に聖職者が「エインデルの使徒」との疑いを掛けられると、厳罰に処された上、永久国外追放は免れない――
ルカが慌てた理由は、まさにそれだった。ロッシュの言動は、「ネイトにはエインデル派の疑いがある」と吹聴して回っているようにしか思えない。何の悪意があってのことかは知らないが、万が一教団本部がこれを取り上げ、ネイトの過去と結び付けでもしたら、大変なことになる。
ルカの報告を受けて、ネイトはまず、にっこりと微笑んだ。
「私を心配して来てくれたんだね、嬉しいよ」
「……それは、そうなんだけど……」
論点はそこではない。そんなことで喜んでくれている場合ではないのではないか。
ルカの不満を鋭敏に感じ取ってか、ネイトは申し訳なさそうな苦笑を浮かべて、肩を竦める。
「確かに彼は、私を調査に来た審査官だよ。友好的な顔こそしているけどね」
「やっぱり!」
「でも、私の秘密については、何も知らないはずだ」
「私は愚かではないからね」と、ネイトは楽しそうに唇の端を吊り上げた。少しだけ意地悪そうに見えるのは、彼がロッシュをこそ「愚か」だと認識しているからに違いない。ボロを出すような真似はしていないとの自信もあるようだ。
ネイトが門の方へ向かって頭を下げた。つられるようにして視線を送ると、老夫婦が一組、ネイトに向かってお辞儀をしている。教区の者が教会を訪れ、見掛けた司祭に頭を垂れるのは自然な行動だろう。二人は寄り添うように、ゆっくりと礼拝堂に吸い込まれていった。現代日本で育ったルカにとっては、その信仰心の厚さが、少しだけ眩しく見える。
前庭にひと気がなくなるのを待って、ネイトは「だが」と口を開いた。
「だが、彼が私をよく思っていないことは、間違いない」
「!」
思った通りの事の深刻さに、ルカは改めて息を呑む。本人はうまく取り繕えているつもりでも、悪意というのは伝わるものだ。相手が自分よりも賢ければ尚更。
ネイトは一教区を任されているとはいえ、22歳とまだ若い。一方のロッシュは、既に30代も半ばまでを過ぎている。妬むなという方が、無理な話なのかもしれない。
教団関係者であれば、ネイトの過去については、いくらでも知る機会はある。ネイト自身がその情報を差し出すことで、自身の潔白を証明しているようなものなのだから、本当に誰でも知り得る経歴なのだ。要はそれを受け取った人間が、悪用する意思があるかどうかということだろう。
そしてそのロッシュは、教会に宿泊しているが、今日も単独で町へ繰り出している。ネイトを調べるというよりは、噂をばらまくことで、「ネイト=禁教徒説」の信憑性を増そうと画策しているのは間違いない。この行動からロッシュは、ネイトがエインデルの使徒であるという証拠は掴んでいないと思われる。しかしそれは同時に、彼がそもそも証拠など必要としていないことも表していた。
「証拠もないのに私を探りに来て、一生懸命噂を流しているということは、私の過去を利用して、失脚を狙っているのかもしれないね」
「……!」
面白くもなさそうに真顔で呟かれて、ルカは戦慄した。相手は証拠もないまま、ネイトの過去だけを取り上げて、「罪」を捏造しようとしている。冷静な誰かが証拠を要求したとしても、それで身辺を隈なく調査されでもしたら、ネイトの身が危ない。教団本部がロッシュを送り込んできたのは、紛れもない事実なのだ。
最悪の想像に俯いてしまったルカを安心させるように、ネイトが肩に手を掛けてきた。見上げると、労わるような笑顔が、ルカの瞳を覗き込んでいる。
「大丈夫だよ。私も充分気を付ける」
「うん……ホントに、気を付けてね」
念を押すように繰り返してから、ルカは「じゃあ、今日は帰るね」と笑って見せた。ネイトに引き留める素振りがないのは昨日と同じ――彼はおそらく、ルカ達が自分と親しくしているところを、ロッシュに見られまいとしている。
取り敢えず、今の時点でルカに出来ることは、もうない。
フィンレーのために買ったアップルパイを無駄にせぬよう、忘れずに手渡して、ルカは後ろ髪を引かれる思いで、教会を後にした。
●
現在ハーフェルの教会の孤児院では、3人の子供を養育している。
最年長のケイシーは13歳、唯一の女児であるアンジェリカは10歳、最年少のティムは6歳。収容時の年齢や、抱えた事情も様々だが、今は全員が落ち着きを取り戻し、(規模の小ささゆえ)唯一の職員でもあるネイトを、保護者として慕ってくれている。
子供達と一緒に質素な食事を摂り、ルカからのお土産――元々はあの「親友という都合のいい関係を笠に着た公子」への贈り物だったというのは気に食わないが――を堪能して、全員が入浴を終えるのを確認してから、ネイトは私室へ戻った。ケイシーとアンジェリカは共に面倒見の良い性格であるため、ネイトが細かく指示を出さずとも、年少のティムの世話を進んで買ってくれる。寝かし付けに関してはネイトよりも優秀だ。ケイシーには妹がおり、アンジェリカは弟が欲しいと願っていたというから、亡くした家族の代わりにティムの面倒を見ることで、彼らの心の均衡が保てているところもあるのかもしれない。
「――」
襟元のカラーを緩めて、ネイトは大きく息をついた。信徒を導くことも子供達の相手も苦ではない。ネイトは器用で、基本的に誰のことも特別には思っていないから、大抵のことは笑顔でやり過ごせる。不快な人物は言葉の力だけで捻じ伏せることも可能だったが、わざわざ表立って敵を作る必要もないから、見逃してやっているだけのことだ。
そんなネイトにとっても、休息前のひと時は、一日の中で唯一気の抜ける時間だった。
簡素な部屋の扉を入った左手側には、簡易ベッドが設えられている。長身のネイトには少々窮屈だが、寝るだけなら何の問題もない。真横の壁には、陽の光の降り注ぐ森の絵が飾られていた。どこの誰が描いたとも知れぬ作品だが、ネイトが2年前に赴任した時から、ずっと同じ位置にある。
カーテン越しに差し込む月明りのみを頼りに、ネイトは額縁に手を添えた。音を立てぬよう細心の注意を払いながら、これを壁から取り外す。そこに現れたのは、縦20センチ、横30センチ程度の小さな扉。右端に取っ手があり、厳重に施錠されているようだ。
続いてネイトは、キャソックの下から、ネックレスの先に付けられた古めかしい鍵を取り出した。肌身離さず持ち歩いているものだが、襟の高い司祭の制服はネックレスの存在そのものを隠してくれるため、非常に重宝している。
ドアの外、壁の向こう側にも神経を張り巡らしながら、ネイトは荘厳な気持ちで鍵を開けた。小さな空間には、向かって右側に雷を象ったロザリオ、左側には豊かな髪を背になびかせ、額に第三の目、右手に雷を具現化させた女神の胸元までの姿を彫り込んだ木像が安置されている――冥府の女神・エインデルだ。
「……!」
ネイトはベッドの前に片膝を着いた。頭を垂れ、組んだ両手を額に押し当てるようにして祈りを捧げる。
部屋は住居棟の最東端に位置しており、代々の神父が私室としてきた。東側の壁を分厚くしてまで、わざわざ拵えられたこの隠し扉に何の目的があったのかは、もはや誰も知らない。赴任直後にこれを発見したネイトは、まさに女神のお導きであると感じたものだ。
ネイトが禁忌の信仰に目覚めたのは、14歳の頃のこと。
生まれる前に父を事故で亡くし、9歳で母も病で喪ったネイトは、親戚の手を煩わせるよりはと、自ら進んで教会の孤児院へ入った。兄弟のなかった父の両親は既に他界していたし、母には妹が居たが、既に家庭を持っていた。その夫には酒乱の気があり、従兄も優秀なネイトを嫌っている様子だったので、どう転んでも幸福な人生など望めはしないことが明白だったからだ。事実、彼らはそれから一度も、ネイトに会いに来たことはない。
つましい生活を送りながら、ネイトはあらゆる学問を身に着け、11歳になる頃には癒しの力も発現した。癒しはこの世界で神職に就くには必須の能力であり、彼は将来を嘱望される存在となる。
12歳になった頃、ネイトの居た孤児院の付属する教会に赴任してきたのが、エルンスト・ハイドフェルト神父だ。温厚な人格者であるハイドフェルト神父は信者にも子供達にも好かれたが、優秀ではあっても年頃の子供らしくなく厭世的なネイトを、殊の外気に掛けてくれた。神父の慈愛に触れることで、ネイトの傷付きやすい頑なな心は、ようやく安らぎを得たと言っていいだろう。ハイドフェルト神父を父とも慕い、他の子供達への接し方も改まったネイトは、孤児達の取り纏め役を任されるようになる。
ネイトがエルンスト・ハイドフェルトの禁忌の信仰に気付いたのは、恐らくは優れた頭脳のゆえだ。信者や子供達に神話や説話を語って聞かせる時、神父は正エドゥアルト教会の司祭でありながら、エインデル女神を悪く言ったことは一度もない。エドゥアルトに打ち負かされるエインデルの絵画を見た時など、痛ましそうに眉根を寄せる。疑惑が確信に変わった時、ネイトはたまらずハイドフェルト神父に忠告した。「貴方の信仰をとやかく言うつもりはありません。ですが、そんなあからさまな態度では、僕以外にも気付かれてしまいますよ」と。
ネイトの進言に一瞬表情を強張らせた神父は、ややあって「適わないな」と苦笑を漏らした。教会で育ったとはいえ、賢いネイトにエインデル信仰への偏見はなく、ましてや自分を密告しようなどとは考えていないことが伝わったためだろう。
ハイドフェルト神父はネイトを近くへ呼び寄せ、冥府の女神についての想いを語って聞かせた。神学校へ通っていた頃、神父の故郷の町が魔物に襲われるという事件があり、神父は一夜にして天涯孤独の身となった。喪失感は大きく、また、突然の災禍に見舞われた祖母や、父や母、幼い妹達は、どれほど恐ろしい思いをしながら死んでいったのかと考えると、世の不条理と己の無力さに、怒りさえ湧いてくる。――そんな神父の心を救ってくれたのが、エインデルへの信仰だった。
冥府の女神は元々、死者に慈悲をもたらす存在である。長い歴史の中で、生前の行いに応じて死者に罪科を問う恐ろしい存在へと変容させられていったのであって、非業の死を遂げた神父の家族に安らぎを与えてくれる、唯一の存在なのだ、と。
ハイドフェルト神父の話は、ネイトの心に深く響いた。ネイトもまた、幼くして両親を失っている。母の話から、父がネイトの誕生を心待ちにしてくれていたことは確かであるし、その母は言うまでもなく、ネイトの持つ数少ない優しい思い出の一つだ。自分を遺して逝った、無条件に自分を愛してくれた家族の魂の安らぎを、エインデルは守ってくれる――ネイトが神父と同じように、エインデルに救いを見出すのは、必然だった。
ネイトはハイドフェルト神父を生涯の師と仰ぎ、その教えを吸収しながら、密かに信仰を深めていく。
しかし、それから2年も経たないうちに、神父の信仰は露見した。肌身離さず身に着けていたロザリオのチェーンが切れ、それをたまたま居合わせた信徒に目撃されたのが原因だった。神父が憲兵に連行された時、ネイトは年長の子供達と共に募金活動に出掛けていたため難を逃れた――というより、ハイドフェルト神父はこういった万が一の場合を見越して、唯一の理解者であり後継者でもあったネイトに、イコンの類いを与えてはいなかったのだろう。憲兵は厳重な家探しののち、他の教会及び孤児院の職員や子供達には、禁教の罪はないとの判断を下した。ハイドフェルト神父は位を剥奪され、規定通り罪人の烙印を押されると共に、国外追放に処されたというが、その後の消息はわからない。
信頼する庇護者を奪われたことで、ネイトの厭世的な性質は一層強まった。教会そのものから離れることを幾度となく考えたが、後ろ盾のない孤児の身分で極められるのは神学くらいのものだと、その都度思い直すことを繰り返す。優秀さを見込まれ、孤児院の支援者からの寄付を受けて神学校へ通い、そのまま正エドゥアルト教会の聖職者となった。
生きていくには神父になるしかなかったが、決してエインデル神への信仰を捨てた訳ではない。




