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第2部・第10話:正と邪の交わる時 第3章

 脱出を念頭に入れるなら、上階ではなく下階へ向かうのが定石(じょうせき)だろう。

 ルカは恐る恐る石段を下り始めた。階層ごとに真っ直ぐな階段が、折れ曲がるようにして続いているらしい。階と階の間に小さな明り取りの窓があり、何とか視界は確保できた。とはいえ、相変わらず入ってくる光は緑や青、時折紫といった不可思議な色合いで、じわじわと不安を駆り立てられる。

 一階層分を降りたところで、ルカは周囲を見回した。微妙な自然光では、ほんの数メートル先の構造すら見通せない。しかし、灯りがないということは、何者かに出くわす危険性が低い、ということでもあるはず。ひとまずはそう判断して、更に下層へと下っていく。

 覚束ない足取りで各階を確認しながら、五階層分は降りたところだっただろうか。

「!」

 薄暗い通路の先に、初めて灯りが漏れるのを見止めて、ルカはギュッと(てのひら)を握り締めた。

 ――どうしよう。

 迷いが胸の奥をざわめかせる。一刻も早くこの場を立ち去るべきだろうか。それとも、念のため状況を確認すべきだろうか。

 自分の身を守ることを優先するなら、危険からは遠ざかるのが最良の選択だ。しかし、仲間達との合流後を考えれば、ここで見聞きしたことが何らかの役に立つこともあるかもしれない……。

 ルカは意を決し、灯りに向かって歩き出した。足音を忍ばせながら近付いてみると、やはり扉の隙間から、向こうの光が漏れているらしい。

 ドキドキと高鳴る心臓を宥めつつ、そっと中を覗いて――そしてルカは、驚愕に瞳を見開いた。

 暖炉に燃える紫色の炎に照らし出されたのは、アルトゥナの町の宿で出逢った、あの黒髪の美女だったからだ。

「――!!」

 咄嗟に壁に手を掛けると、扉はあっさり部屋の方へ向かって開いた。構造的にそのように設計されているのだろうが、今はそんなことを考えているような余裕もない。

 転がるように飛び込んできたルカに、ソファの肘掛けに凭れていた美女は、ハッと顔を上げた。沈鬱に沈んでいた表情が、愕然としたものに変わる。

 絡み合った視線、見開かれた紫色の瞳の、何と美しいことか。

「――そなた、どうして……」

 低めの重々しい口調のその先は、唇が震えて言葉にならないようだ。

 癖のない黒髪を背に流した彼女は、今日も闇のように真っ黒なドレスを身に纏っている。露出が少ないからこそ、しなだれかかる身体のラインが、とてもセクシーに見えた。

 憂いに満ちた表情の美しさに陶然としかけながらも、ルカはそれ以上に気に掛かっていたことを真っ先に問う。

「まさか、お姉さんも攫われたの!?」

「……え……」

 ――魔王というからにはやはり、美しい女性が好みなのかもしれない。

 いわゆる「一般的な魔王のイメージ」から、ルカは瞬時にそう判断した。このお姉様も、美貌のゆえに魔王に見出されてしまったのではないか。そのために、こんなにも苦悩に満ちた表情で、打ちひしがれているのかもしれない、と。

 勇気と責任感、何よりも男としての矜持(きょうじ)に背中を押され、ルカは殊更(ことさら)明るく笑って見せた。

「一緒に逃げよう! 大丈夫だよ、僕こう見えても、結構強いんだから!」

 そして、励ますように、美女の冷たく柔らかな手を取る。

「…………」

 重ねられた手を、彼女は半ば呆然とした様子で、しばらく見詰めていた。やがてゆるゆると視線を上げ、微笑むルカの顔をじっと凝視する。

 ルカが照れるよりも先に、きめ細かな眉根が寄せられた。驚くのと同時に、美女は反対の手で胸元を押さえて、顔を背ける。

「えっ、えっ、どうしたの、どこか痛い? 大丈夫!?」

 狼狽するルカに、美女は苦痛を堪えるようにして、細い首を横に振る。

「そうではない……そうではないのだ。()()()()()よ……」

「!」

 呼び掛けられ、ルカは瞬間的に総毛立った。彼女に身分を明かしたことはない。にも関わらずの呼称に、血の気が引く。

 ――まさか、そんな。

 必死の否定は、即座に脳内で打ち砕かれる。

 そういえば、こうして攫われる原因も、彼女によく似た少女の幻影に引き寄せられてしまったせいだった。――となれば、やはり、彼女も魔王の手先だったのだろうか。

 カインの正体を知った時以上の、衝撃と悲しみが胸の中に満ちてくる。

 そこへ追い打ちを掛けるように、バタバタと複数の足音が聞こえてきた。――もはや万事休すだ。

「………………」

 ルカはその場に崩れ落ちるようにして膝を着いた。


                  ●


 白ヒイラギの聖水と、黄金のベリンダの強大な魔力によって、北の魔境一帯に張り巡らされた結界を一時的に解除した魔王軍斥候隊(せっこうたい)は、怒涛の快進撃を見せていた。

 青や緑の霧が立ち込め、紫色の稲妻の走る不気味な空間を、翼竜(よくりゅう)一家の機動力を頼りに、一気に飛び越える。

 そうして辿り着いた魔王の居城は、中央部に尖塔を備えた、石造りの広大な屋敷だった。その中からわらわらと溢れ出てきたのは、異形の怪人や、隷属する魔物達。どうやらこれが、魔王軍の主力部隊ということなのだろう。

 まずは父竜が大きく口を開け、巨大な旋風を起こした。周囲のものを無差別に巻き込みながら竜巻にまで成長していく猛威に、統制の取れていない魔物達が、耳障りな悲鳴を上げて逃げ惑う。

 この隙に動いたのはメルヒオールだ。濃紺の髪をなびかせながら、勇ましくも母竜の背から飛び降りる。その身体は落下の途中で、本性である巨大な蛇の姿に変化(へんげ)した。牙の覗く大きな口から威嚇音を発したメルヒオールは、巨躯に似合わぬ素早い動きで、頭から城に突っ込んでいく。逃げ遅れた魔物達を踏み潰しながら、硬い鱗で居城ごと破壊するつもりらしい。

 外部を彼らの、暴風や水撃といった大掛かりな力に任せて、斥候隊の面々は城の中へ突入した。

 遠距離攻撃には魔法で応戦し、斬り掛かって来た者、進路を妨害する者を斬り捨て、ネイトのみが補助魔法に徹して確固撃破――これが基本陣形だ。敵に囲まれた際は、ベリンダが拘束魔法を放ち、ネイトがバリア、残った3人と1頭で物理と魔法の二段攻撃を食らわせる。

 これまで否応なしに培われてきたチームワークを遺憾なく発揮しながら、魔王軍斥候隊はルカの姿を求めて、上階へと進軍していった。バリアの解除に成功して以降、ベリンダと翼竜一家、神であるメルヒオールには、これまで辿ることの出来なくなっていたルカの気配を、明確に感じ取れるようになっている。そのため、彼らの歩みに迷いはない。――強いて言うなら、群がる()()()()()()()()()()()()()ような気もしないではないが、これは好都合以外の何ものでもなかった。

 ――一刻も早くルカの元へ。

「ルカ……!」

 誰もが愛しいルカの無事を信じ、破竹の勢いで敵を制圧していく。

 やがて最上階の広間に辿り着いた魔王軍斥候隊は、禍々しい()を放つ巨大な扉を、勢いよく開け放った――。

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