16. びっくり? がっかり?
スイウの部屋に一人残されたクドクは、借りてきた猫のように大人しくしながらも、落ち着かない気持ちを持て余していた。
ただでさえ年頃になった愛しい婚約者の部屋。
周りには自分の部屋には無いスイウらしい物で溢れて、なんだかいい匂いさえしてくる。
別にやましいことをするわけではないけれど、二人きりというシチュエーションも悪い。良すぎて悪い。
この条件だけでも最高に幸せな気分でいられるのに、どういうわけかスイウは「着替えてくる」と障子の向こうに消えてしまった。
ひとつ障子を隔てて、大好きな女の子が着替えている。
その事実に狼狽しない男がいるだろうか。いるとしたら何なのか。感情を失ったのか?
めったにないシチュエーションのせいで、クドクは頭の中が沸騰してしまいそうになっていた。
衣擦れのような音に心臓を跳ね上げさせられること少しして、障子からスイウの声がした。
「終わったよー!」
「えっ、あああ、うん! 俺はどうしたらいい!?」
「あのね、障子の前に来てほしいの」
「分かったッ!」
冷静さなんてとうの昔に死滅したクドクが、もたつきながら障子まで歩く。その数歩でクドクは、心臓が胸から飛び出さないかいささか心配になった。
いったいスイウは何をしようとしているのか。着替えるって何に?
もしかすると部屋着かもしれない。
それなら今まで見たことがあるので、まだ心臓は大丈夫なはずだ。
とはいえ障子一枚を隔てて着替えるなんて無防備さに、クドクは簡単に翻弄されてしまっているが。
ぐるぐると考えながらやっと障子の前で息を整え、クドクは「いいよ」と向こうのスイウに声をかける。
そうして、そっとスイウが障子を開けて姿を現した。
一瞬後、クドクはヒュッと息を飲んだ。
スイウが着替えたのは、母の手掛けるブランドの新作だ。発売されて間もなく、クドクはまだ目にしたことがなかった。
スイウやクドクが普段着ているのは、三百年ほど前に確立した上流階級の服を、現代風にアレンジされながら引き継がれた伝統的な衣装。
格式の高い場では五百年前の貴族の式典衣装が元になっているが、基本的にどちらも似通ったつくりで、ゆったりとした着心地だ。
だが今回の新作は違う。
よくある夜真兎式の服からさらに千五百年は時代を遡った物がルーツの、一周まわって『新しい』服になっている。
普通の夜真兎式なら帯の位置は腰にあるのだが、それが胸の下にある。
おそらく当時の――二千年以上前なら麻か毛皮を使っていただろうデザインは、教科書で見た限りはごわごわとしてもたついたシルエットをしていた。
しかしスイウの母は現代で主流になった、薄くて軽い、透け切らない生地を重ね、古風ながらもどこかモダンでもある作品に仕上げた。
胸下の帯から流れるドレープは気品も感じられ、なるほどこれは西岸式のワンピースを「下品」「はしたない」と嫌厭する保守的な国民にも受け入れられるだろうと思わせる。
そうでなくても、昨今ブームになっている西岸式デザインに対抗する大勝負にでたことは、間違いない。
ところが今のクドクには、そんな服飾業界の事情など全く頭から抜けていた。
頭を占めるのは、ただただ目の前の大好きな女の子のことだけだ。
「クドク、あのね、これお母さんの新作なんだって」
「……か」
「か?」
「か、かわ、かわわ……かわいい……すごく、かわいい……」
クドクは顔がとろけてしまっているんじゃないかと心配した。
なにせ大好きなスイウが、目の前で見たこともない服を着て、恥ずかしそうに頬を染めて、ちらちらとクドクを見上げているのだから。
一瞬でも気を抜けばドロドロに溶けてしまいそうになるが、脳裏でスイウの父の――いいや義父の、「不純な行為は許さないからな! 結婚までは清い関係でいたまえよ?!」という叫びがこだまする。
不本意ながらも、おかげさまでなけなしの理性は保たれそうだ。
クドクの忖度のない称賛にスイウはさらに頬を真っ赤にするが、いやいやそうじゃないと顔を横に振って喜びをふりきる。
「そうじゃなくてね、クドク。胸。胸を見て!」
「胸?」
クドクはそっと見下ろした。
一般的な夜真兎式の服は、袖なしのインナーの上に上着を重ねるもので、多くは左右の身頃を外から見て右前に合わせて帯か腰ひもで留める。
十年単位のスパンで、左右の身頃を離しあえてインナーを主役にするよう留める着こなしも流行るが、たいがいは前で合わせるものだ。
それも夜真兎式が、身体のシルエットの出にくい装いだという理由の一つだ。
だが今回の新作は合わせ方が違っている。
左肩から右わきまで一枚の布が覆い、右わきの下にリボンで縦に二つ留めてある。その下で改めてぐるりと巻くように、帯紐で留めてある。
一見、合わせの部分は、左身頃の上に右身頃を重ねているのかのように思えた。そうすると胸の前に、布が最低でも二枚は重なることになる。
実際には左身頃は胸を少し覆いかぶさるくらいで、布の合わさる面積は少ない。身体の中心で重なる布地は、幅広の右身頃のみだ。
今回の服に使用されている生地は透け感のある素材であるから、インナーの色が透けて見え、なるほど涼し気でオシャレなわけだとクドクは思った。
毛皮かごわごわの麻が主流の二千年以上前では、こうはいかなかっただろう。
そんなことを分析すれば、スイウが「ちっがーう! そこじゃないの!」と叫んだ。
「胸! 胸を見てってば! 何かこう……、びっくりしたり……しない?」
「びっくり?」
「びっくりとか……がっかり、とか……」
「がっかり?」
新作のデザインはクドクの分析通り、胸の前を覆う布地が少ない。インナーも透けはしないが薄い生地で、つまるところ身体の線が驚くほどでやすい。
スイウの目的は、この新作を着た自分を見てもらうことで、さりげなく実際に近い胸の大きさを目測させることにある。
そうすれば自然と「あ、ワンピースを作った時に予想してたより小さいな」と分かるはずだ。
がっかりならがっかりでいいのだ。
たとえ今「がっかり」でも、スイウには育乳という手札がまだ残っているのだから!
しかし相手はスイウに首ったけのクドク。
スイウの目論見も分からぬまま胸を見下ろし、じっと見て、そっと目をそらす。
「どう!?」
「いや、その……」
「びっくり? がっかり?」
「なんていうか……俺には、刺激が強いかな……」
クドクはぽっと頬を赤らめて、鼻と口を手で覆った。
そんな反応をされると、なんだか自分がとんでもないことを要求している気になってしまう。
まだいかがわしいことなんて一つもしていない、清らかな二人であるのに。
スイウまで恥ずかしがりながら、「ちが、違うの、決して変な意味で言ったんじゃ……!」と焦りだす。




