腹黒くてドライな妹が、僕と幼馴染をくっつけたがる理由
……今日、洗面所の扉が開かなくなった。
いや、正確には鍵をかけられたと言った方がいいだろうか。
今までうちの家族の中に、浴室に通じる洗面所の鍵を閉めるような迷惑な奴なんて、誰もいなかったのだ。
「なんだよ、せっかく歯磨いて寝ようと思ったのに……。母さん! 洗面所の扉開かないんだけど!?」
「伊吹がお風呂入ってるんでしょ? あの子が出るまで待ってなさい!」
母親がキッチンの方から、わずらわしそうに返答する。
中学一年生になる妹の伊吹は、現在思春期真っ盛り。ついこの間まで、裸同然で家の中を歩き回っていたガキんちょも、今じゃ花も恥じらう乙女気取りってわけだ。
僕だってもう中三だ、百歩譲ってその辺の女の子の事情については分からんでもない。だが許せないのは……。
「たく、いつまで入ってんだよ……。おい、あとどれくらいで出るんだよ!?」
僕は洗面所の扉を叩き、風呂場にいる妹に聞こえるであろう大きな声で問いかける。
しかし、いくら呼び掛けても妹からの返答はなかった。
「この野郎……無視してやがる」
というのも、この妹の伊吹というのがけしからん奴で、この中学三年の偉大なる兄を、まるで虫けら同然に見下しているのだ。
全く、世間一般じゃ、やれ妹萌えだの、やれお兄ちゃんと呼ばれたいだの、妹ってやつに過度な幻想を抱き過ぎなんだよ。
本当の妹なんてものは、親に兄のことを告げ口したり、基本何もなければ向こうからは一切口をきいてこないような、腹黒くてドライなロクでもない存在なんだ。
「鍵なんか閉めやがって……お前の風呂なんて、お金積まれたって誰ものぞかないっつーの」
洗面所の扉を壊すわけにもいかないので、僕は小声で捨て台詞を吐き、部屋に戻ろうとする。
しかし僕が踵を返した瞬間、鍵がかかってビクともしなかった開かずの扉は、何かに反応するように突然開かれたのだ。
「んだよ……やっと出たの……ぎゃ!!」
カコーン! という響きの良い音と共に、振り向きざまの僕の顔面へ風呂桶が命中する。
「イテテテ……何すんだ!!」
「ふん!」
洗面所の中を見ると、湯煙の中、浅黒い体をバスタオルで包んだしかめっ面の妹が、無言のまま再び勢いよく扉を閉めたんだ。
どうやら、先程の僕の捨て台詞がよっぽど気に喰わなかったみたいだな。
「なんだよ、やっぱりちゃんと聞こえてるじゃないか……」
このように、僕の妹が実にけしからん奴だってことが、少なからず分かってもらえたと思う。
まずは皆んな、妹ってもんに対する幻想を捨てるところから始めよう。そんなもの、“人類皆友達”なんていうお花畑な妄想に匹敵するくらい馬鹿げているのさ。
「……こんのクソガキ、ふやけてしまえ!!」
誤った前提からは、誤った答えしか導き出すことはできない。まずはこの最低限の前提を押さえておいて欲しいんだ。
★ ★ ★ ★
明くる日、僕は母親に至極面倒な用事を頼まれた。
「ええ!? 母さん、またー?」
「仕方ないじゃない、あの子は部活で朝早いんだから! 母さんだってね、そう毎日それに合わせてお弁当作れないの!」
あからさまに嫌がる僕を、母親がド正論で咎めた。
僕の中学では現在給食室の改装中であり、その間家から弁当を持参しなければいけなくなっていた。
それはいいのだが、陸上部に入っている妹は朝が早く、母親の弁当が間に合わなかった日は、僕が妹のクラスまで弁当を届けに行かなきゃならなかったんだ。
「吾妻、兄妹なんだからそのくらいしてあげなさい!」
「いや……むしろ兄妹だから嫌なんだが……」
「文句言ってると、あんたの弁当作らないわよ!」
「わかったよ、もう……」
僕がここまで嫌がるのには理由がある。この前あいつのクラスに届けに行った時なんか、本当に酷かったよ。
僕が妹の教室まで行くと、滅茶苦茶都合の悪そうな顔して僕の腕を掴み、教室の外まで無理矢理引っ張って行ったんだ。
それで何て言ったと思う?
『勝手に人の教室に入って来ないでよ! お兄ちゃんと知り合いだと思われちゃうでしょ!』
なんて言いやがったんだ。弁当を届けてやった健気な兄に対する言葉とは思えないだろ?
さすがにこの時ばかりは、温厚な僕でも「餓死してしまえ」と思ったよ。
と、そんなこんなで時間はあっという間に昼休みだ。クラスメイトたちは机を動かし始め、がやがやと思い思いのランチタイムを過ごし始める。
でも、僕には呑気に飯を食い始める余裕なんてない。貴重な昼休みの時間を割いて、あの腹黒くてドライな妹に弁当を届けにゃならんのだから。
「あーあ、憂鬱だな……」
僕が思いっきり気怠げな顔して教室を出ると、不意に隣の教室の方から鬱陶しい声が飛んでくる。
「オッス、あーずま! お昼休みにどっかにお出かけ?」
「……げっ! 毘奈!?」
僕が振り返ると、そこには程よく日に焼けた健康的な肌が印象的で、ポニーテールのやたら元気な女子が手を振っていた。
何を隠そう、この鬱陶しい少女こそが、文武両道でコミュ力モンスター、そして一部の危篤な男子たちの間では、学年可愛い女子ランキング一位とされている僕の完璧過ぎる幼馴染、天城 毘奈なのだ。
「可愛くて優しい幼馴染に“げっ!”はないでしょ! どうしたの? そんな死んだ魚みたいな目して?」
「死んだ魚って、お前な……。まあいいや、この弁当を伊吹の教室まで届けなきゃならないんだよ」
「え? 一年生の教室行くの!? 私も行ってみたい!」
「ええー! また余計な面倒が……って、待てよ……」
普段であれば、毘奈なんかの同行は疲れるのでごめん被るところではある。だが、今回ばかりはこの鬱陶しい幼馴染も役に立つかもしれないぞ。
「そうだな、毘奈! 一緒に懐かしき一年生の教室へ行こうじゃないか!」
「え……? なんかいつもと違ってノリがいいね。まあいいか、よーし! 一緒に伊吹ちゃんの教室までグレートジャーニーだね!」
こうして僕は、毘奈のわけの分からないテンションに付き合いながら、あの腹黒くてドライな妹のいる教室を目指したんだ。
なんだかんだ言って、狭い学校だ。僕と鬱陶しい幼馴染は、ものの数分で一年生の教室まで辿り着いていた。
何も知らずに隣ではしゃいでいる毘奈を見ながら、僕はしめしめと思っていた。
妹の教室に差しかかる直前、僕はさり気なく毘奈にある提案を持ち掛ける。
「あー、悪い毘奈、僕はここで待ってるからさ、伊吹に弁当を渡してきてくれない?」
「えー! なんで?」
「いやー、僕が行くと妹が恥ずかしがるんだよ。な、いいだろ?」
まああれだ、なんとかと鬱陶しい幼馴染は使いようってね。しかし、僕の浅はかな思惑とは裏腹に、毘奈は急に僕の腕を掴んで言った。
「もう、なに眠たいこと言ってんの? せっかくここまで来たんだからさ、一緒に伊吹ちゃんに会いに行こうよ!」
「あ! ちょっ! 毘奈!?」
僕が抵抗する間もなく、毘奈は教室の前まで僕を引っ張って行き、教室中に響き渡るような大声で伊吹に向かって手を振った。
「おーい! イーブキちゃーん! 吾妻と一緒にお弁当届けに来ったよー!!」
「あーもう! そんな大声で……」
当然ながら、教室中の生徒たちがこの破天荒な幼馴染に注目する。あーあ、僕の策略が完全に裏目に出てしまったよ。これなら、まだ一人の方がマシだったかも……。
「ひ……毘奈姉!?」
それに気付いたポニーテールの浅黒い少女、まるで毘奈のコスプレみたいな僕の妹が、酷く焦りながら真っ赤な顔をしてこちらへ駆け寄って来る。
「な、なんで毘奈姉が一緒に来てるの!?」
「吾妻がね、一人で行くのは嫌みたいだからさ、この可愛くて優しい幼馴染が一緒に来てあげたのだよ!」
「毘奈姉が来てくれるのは嬉しいけどさ……恥ずかしいよ」
さすがにこの時ばかりは、妹に少し同情してしまった。僕が妹だったら、穴があったら入りたい気分だろうからさ。
でも、こんな恥ずかしい思いをさせられてるのに、妹の態度は僕が一人で来た時とは雲泥の差だったんだから。
まあ、これも僕が毘奈を連れて来た理由の一端でもある。妹の伊吹は、この陸上部の先輩で、完璧すぎる僕の幼馴染のことを、実の姉……いや、それ以上に慕っているんだ。
何しろ髪型や服装、部活に至るまで、まるで熱心な信者であるかのように毘奈のことを猿まねしてるんだからね。
「兄妹して何言ってんの! ね、吾妻、早くお弁当渡してあげて」
「ん……ああ、そうだな」
毘奈に促されるまま、僕は無愛想に弁当を渡す。妹は毘奈に申し訳なさそうにする一方、僕に対しては「余計なことしやがって……」ってな感じで、睨みつけてきた。
僕としては、小生意気な妹に一泡吹かせてやれて少し気分が良かったが、この奇妙な接触がもたらした特殊効果は、それだけでは終わらなかったんだ。
なにやら、やけに妹のクラスメイトたちが、僕らの周りに集まってきたぞ。
「も、もしかして、陸上部の天城先輩ですか!?」
「すごーい! 伊吹、知合いだったなら早く教えてよ!」
「去年の全中(全日本中学陸上競技選手権大会)見てました! 滅茶苦茶感動しました!!」
「スタイルいい! しかも可愛くて超美人!!」
「おい、あれが可愛くて有名な天城先輩か?」
「マジで!? ウオー! 噂以上だな!」
一瞬にして一年生の教室は、どこぞのアイドルでも来たみたいに大盛り上がりとなっていた。
黄色い声を上げる女子たちは、毘奈の周りをぐるっと取り囲んで、男子たちは距離をとりながらもニヤニヤしながら毘奈を眺めている。
「ありゃりゃ……しまったしまった、私としたことが正体がバレてしまったか!」
「あれだけ目立っといて、よく言うよ……」
どうやら、僕が思っていた以上に、この完璧過ぎる幼馴染の影響力は高かったようだ。
毘奈の周囲を取り巻く状況に、僕は我関せずといった感じでそれを眺めていたが、その災禍は思わぬ形で僕にも飛び火してくる。
「一緒にいるの、伊吹のお兄さんですよね? もしかしてお二人……付き合ってるんですか!?」
「ええ!! 嘘? 天城先輩の彼氏さんなんですか!?」
「な……なぬ!?」
そうか、そう来るのか。僕は想定外の質問にポカンとしてしまう。
そんなもの答えは最初から決まっている。しかし、毘奈は場を盛り上げようと、変なスイッチが入ってしまう。
「ねえねえ吾妻、私の彼氏かって聞かれてるよ! どうなの? どうなの?」
「ちょ! 毘奈、おまっ!?」
毘奈は僕の腕をたぐり寄せ、体を密着させながらわざとらしく上目遣いをして見せる。
一年生たちは、毘奈のわざとらしいパフォーマンスを鵜呑みにし、右往左往している僕に一気に注目が集まった。
やっぱり、毘奈なんか連れて来るんじゃなかった。僕がそう思った時、横から思わぬ助け船が入る。
「ちょっと、皆んないい加減にしてよ! 毘奈姉とお兄ちゃんはただの幼馴染だよ! 毘奈姉もふざけすぎ、変な誤解されちゃうよ!」
「あははは……ごめんごめん」
「大体、毘奈姉がお兄ちゃんみたいなイケてない男子と、付き合ってるわけないでしょ!」
最初はキッパリ否定してくれた妹に感謝しようとも思ったが、聞けば聞くほど、実に腹の立つ解説だった。
「あらら、ざんね〜ん! 吾妻、私の彼氏になり損なっちゃったね!」
「ああ、危ういところだったよ」
「何それ? 吾妻可愛くない!」
僕の軽口に毘奈はブーたれる。それからしばらく、毘奈は一年生からの質問攻めにあっていた。
その間も一年生たちは、毘奈の一挙手一投足をキラキラした目で見つめていたよ。
妹の伊吹も、毘奈の大人気ぶりに羨望の眼差しを向けている。まあ、少なくとも妹にとっては、毘奈と関係が深いことが知れ渡って、さぞかし鼻が高かったことだろう。
僕としては何もいいことはなかったが、せめて毘奈を連れて来てやったことには、感謝くらいして欲しいものだ。
「あ! 吾妻、話し込んでたら、もうお昼休み半分終わっちゃったね!」
「な……僕の貴重な昼休みが! やっぱり連れて来るんじゃなかった……」
★ ★ ★ ★
その日の帰り、テスト期間中で部活が休みだってこともあり、僕と毘奈と妹は一緒に帰っていた。
別に一緒に帰りたかったわけじゃない。毘奈の家は僕の家の近所だからついて来るし、妹は毘奈の信者みたいなもんだから、自然とそれに続くってわけだ。
「今日さ、毘奈姉が帰ったあとも、皆んなから質問攻めにあって大変だったよ!」
「そうかー、私の人気も捨てたもんじゃなかったみたいだねー」
「そうだよ! うちの学校では毘奈姉有名人なんだから、もっと自覚を持った方がいいと思うよ!」
「あははは……こりゃまいったね」
僕の後ろで、妹がデレデレしながら毘奈を咎めていた。どうやら、毘奈と幼馴染だと思われたことが、よっぽど嬉しかったらしい。
「毘奈姉、毘奈姉! 私ね、またタイム縮んだんだよ!」
「凄いじゃん! 伊吹ちゃん練習頑張ってるからね。一年だし、きっとまだまだ伸びると思うよ!」
「えへへ……もっと頑張れば、私も毘奈姉みたいに一年生で全中に出られるかな!?」
「そうだね……一年の頃は私も必死だったし、簡単ではないけど、頑張れば可能性はあるんじゃないかな?」
「よーし! 私も毘奈姉みたいになれるように、もっと練習頑張らなきゃ!」
昼休みの話が一段落すると、今度は二人の所属している陸上部の話になっていた。
僕としては、陸上なんてものには教師同士のゴルフコンペほども興味がなかったので、内容如何に関わらず基本スルーだった。
「あ、そう言えば吾妻!」
実の姉妹でもあるかのように楽しそうに妹と話していた毘奈が、前を行く僕にむかって、何か思い出したかのように声を上げた。
「え? なんだよいきなり?」
「まだちょっと早いけどさ、進学先どこ受けるかもう決まった?」
なんだかんだで、もうすぐ暦は六月を迎えようとしていた。そろそろ夏に向かって本格的に進学先を決めねばならない。
面倒臭がり屋の僕だって、ちゃんとそのくらいは考えている。
「やっぱり、県立を中心に近いところで固めるかな……」
「ふーん、そうなんだー」
「そういうお前はどうするんだよ?」
すると、毘奈は不意に僕の隣まで駆け寄ってきて、僕の顔をのぞき込むようにして言った。
「私さ、推薦で皇海学園へ行こうかと思ってるんだけど、吾妻も受けてみない?」
「皇海か……確かに近くていいんだけど、一般だと結構レベル高いし、私立で授業料も高そうだからな……」
私立皇海学園高校は、この辺では割と名の知れた進学校だ。部活動にも力を入れていて、中学陸上で名を馳せている毘奈にとっては順当な進学先だった。
まあ、毘奈は勉強も僕よりできるから、学業でも部活の方でもどちらでも推薦枠をもらえることだろう。
「校舎も綺麗だしさ、授業料も私立にしては安い方だよ。大学進学にも有利だし、吾妻の成績なら狙えないこともないでしょ? 一緒に行ってみない?」
「ああ……魅力的ではあるかもしれないけど、やっぱり俺は県立で気楽にやってた方が性にあってるよ」
「……そうか……そうだよね、幼馴染だからって、いつまでも一緒なわけにはいかないもんね……」
僕としては、丁重に毘奈の誘いを断ったつもりではあったけど、毘奈の嬉々としていた表情は淀み、何だか変な空気になってしまった。
間もなくして、僕らは毘奈の家に差しかかって、毘奈は僕らに別れを告げる。
「……それじゃ、吾妻、伊吹ちゃん、また明日ね!」
「ああ……また明日」
「毘奈姉、じゃあね!」
毘奈は何もなさそうに装ってはいたけど、やはりいつもの鬱陶しいくらいの快活さに欠けた。
むしろ、このくらいの方が調度いいような気もしたが、しおらしい毘奈というのは、それはそれで気持ちの悪いものだ。
「ちょっと、お兄ちゃん!」
「……え?」
毘奈の様子に首を傾げていると、普段はよっぽどのことがないと話しかけてこない妹から、不意に呼び止められる。
振返って見ると、先程まで見ていた毘奈の劣化コピーみたいな妹が、すこぶる機嫌悪そうに僕を睨んでいた。
「毘奈姉の誘い、本当に断っちゃって良かったの?」
「皇海学園なんて行ったら、授業も難しいだろうし勉強大変だろ? 大体、なんでお前がそんなこと気にするんだよ?」
「別にお兄ちゃんのことなんてどーでもいいけどさ、毘奈姉の気持ちも少しは考えてあげなよ。それに、毘奈姉みたいな人が近くにいること、あんまり当り前だと思わない方がいいよ」
「は? 言ってる意味が分からないんだけど。毘奈も幼馴染だからって、いつまでも一緒にはいられないって言ってただろ?」
「はぁー……もう知らない、勝手にすれば!!」
僕の的を得ない返答に、妹は溜息を吐きながらすたすたと歩き去って行く。
全く、何だって言うんだよ。毘奈にしろ妹にしろ、さっきまであんだけ楽しそうだったのに、女ってやつは本当にわけの分からない生き物だ。
★ ★ ★ ★
それからしばらく経った頃だった。いつも僕限定で不機嫌だった伊吹が、父親や母親にまで反抗的な態度を見せるようになっていたんだ。
さすがに目に余るところであったので、僕はある日の昼休み、隣のクラスの毘奈に何か知らないか聞きに言った。
「……え? 伊吹ちゃんの様子がおかしい?」
「そうなんだ、前から小生意気な奴だったけど、最近じゃ親にまで反抗的でさ」
「そうか……」
「何か知ってるの?」
毘奈は少し困った表情をして、僕の顔を見上げた。
「たぶんね、もうすぐ大会が近いからだと思う……」
「それって、そんなに重要な大会なの?」
「伊吹ちゃん全中に出たいって言ってたでしょ? でも、それに出る為には各地区の大きな大会で、参加標準記録を超えないといけないの」
「今度の大会がその大きな大会ってこと?」
「ううん……その大きな大会に出る為に、今度の大会で結果を残さないといけないんだよ」
陸上のことに興味のない僕にとっては、なんのこっちゃって話だった。とりあえず、その全中だかなんだかっていうのは、余程狭き門であるらしい。
「今度の大会に出る為にもね、校内で選抜があって、伊吹ちゃんは一年生だけどそれに選ばれたんだよ」
「ふーん、あいつそんなに速かったんだ」
「私みたいに一年で全中に出るんだって、相当頑張ってたからね。でも最近は、記録が伸び悩んでいるみたい……それが原因じゃないかな?」
そうか、憧れの毘奈に追いつこうと頑張ってはいるものの、思うように結果が出ないわけだ。全く、あいつは一体何と戦ってるんだか……。
「で、どうなの? 正直なところ、伊吹は頑張ればその標準記録ってやつを超えられそうなのか?」
「うーん……そうだね……」
毘奈のこの曇った表情から、答えは聞く前から明白であった。まあ、そうでなければ、妹もああはならないか。
「正直言っちゃうと、結構厳しいとこなのかな……でも、頑張ってる伊吹ちゃんに、そんなこと言えないでしょ?」
「まあ、誰にでもあるようなことだからな……しばらく様子を見てみるよ」
「ごめんね、力になれなくて……私も部活のときは、できるだけフォローできるようにするからさ」
用事を済ませて教室を出ようとする僕を、毘奈が申し訳なさそうに呼び止める。
「あ……吾妻!」
「ん……なんだよ? 何か他に気になることでもあるのか?」
「ううん、えーとさ……皇海学園の件なんだけど……やっぱり無理かな?」
「ああ、その件か……悪いけど、やっぱり俺はいいや」
僕がそう言うと、毘奈は少し名残惜しそうに唇を噛み、やはり何もなかったみたいに微笑んだ。
「あははは……そうだよね、何回もくだらないこと聞いちゃってごめんね、吾妻」
表面上はさもいつも通りのようであるが、どうもこいつも、ここのところ少し様子がおかしい。気に喰わないようなことがあれば、もっと我慢しない奴だったからな。
調子が狂ってしまうところではあるけど、今は妹の件で大変だ。これ以上余計なことを気にするのはやめとこう。
★ ★ ★ ★
毘奈と話してからもう数日経っていた。妹の状況は改善するばかりか、日を追うごとに更に悪くなっている気がする。
大会が近づくにつれ、伊吹は部活以外でも夜一人で練習を始め、肉体的にも精神的にも憔悴しきっているように見えていた。
「おい、伊吹どうしたんだよ!?」
ある夜の夕食後、麦茶でも飲もうと僕が一階に降りてみたところ、玄関に運動着姿の伊吹が倒れていた。
これはヤバいと思い、僕は慌てて妹の元へ駆け寄る。
「……お、お兄ちゃん? あれ! 今何時?」
「もう九時過ぎだぞ! もしかして、こんなところで寝てたのか?」
「嘘!? 早く走って来なきゃ!」
伊吹は心配する僕の手を振り払い、真っ暗闇の中を外に飛び出して行こうとする。
「おいおい、ちょっと待てよ! ぶっ倒れてたのに、まだ練習とか正気かよ?」
「別にお兄ちゃんには関係ないでしょ? ほっといてよ!」
伊吹のつっけんどんな返答に、今回ばかりは妹を心配していた僕もイラッとしてしまった。
「そういうのってオーバーワークって言うんじゃないのか? そんなんで、記録が良くなるとは思えないけどな」
「お兄ちゃんに何が分かるっていうの? 何も知らないくせに、知ったようなこと言わないで!」
「ああ、分からないな。毘奈みたいになりたいからって、身の丈に合わない夢見て、潰れそうになってる奴のことなんてな!」
あーあ、反抗的な妹に不満が溜まってたからって、つい本音をぶちまけてしまったよ。案外伊吹も自覚していたのか、顔を真っ赤にして僕に食ってかかってくる。
「そ……それの何が悪いの? 毘奈姉に憧れて何が悪いの!? お兄ちゃんに何か迷惑かけた!?」
「そういうとこだよ! 記録が自分の思うように伸びないからってな、周りに当たり散らされたって迷惑なんだよ!」
「うるさいうるさいうるさい!! 私は一年で全中に出て、毘奈姉みたいになりたいの! 何も頑張ってないお兄ちゃんが、邪魔しないで!!」
ダメだダメだ。このまま僕までヒートアップしてしまっては、状況が悪くなる一方だ。
僕は少し頭を冷やし、血走った瞳に涙を滲ませる妹へ、諭すような態度で言う。
「お前は伊吹だ。毘奈にはなれないし、なる必要もないんだよ。あいつは勉強も運動も、普通にやってるだけでトップになっちまうような、特別な奴なんだよ」
「知ってるよ、そんなの! だから憧れるんでしょ! 特別だからって、お兄ちゃんは毘奈姉に負けてばっかりで、何とも思わないの? 悔しくないの!?」
「悔しいこともあるさ、でもな、ああいう本当に特別な人間と本気で張り合ったところで、お前みたいに自分の身を滅ぼすだけなんだよ」
言われるまでもなく、僕だって毘奈にコンプレックスは持ってる。今まで散々劣等感を抱きながらも、何とか割り切って生きてきたんだ。
そして、ついに妹の行き過ぎた毘奈への憧れと、僕の諦めのような毘奈へのコンプレックスが激しくぶつかり、単なる兄弟同士の言い争いは、最悪の結末を迎えてしまう。
「私はお兄ちゃんみたいに、最初から諦めて何もしないような負け犬にはなりたくない! どんなに努力してでも、頑張って毘奈姉みたいになるんだもん!!!」
「だから、お前なんかじゃ無理だって言ってんだよ!!!!」
伊吹が僕のことを負け犬なんて言うもんだから、ついカッとなって大人げなく怒鳴り散らしてしまった。
すると、伊吹はいよいよ大粒の涙をボロボロ流しながら感情を爆発させ、大声で喚き散らすように泣き出したんだ。
「うう……ああぁぁあぁぁぁぁー!!! もう嫌い嫌い嫌い嫌い、大っ嫌い!!! お兄ちゃんなんか大っ嫌い!!!!!」
「あ……その、伊吹?」
伊吹の尋常じゃない大泣きに、母親が一体何事かと二階から下りて来る。僕ではもう収拾がつかないので、ある意味良かったとも言える。だがどう見てもこれは……。
「吾妻! あんた中学三年にもなって妹を泣かして! 一体どういうことなの!!」
「いや、それは……ええー!?」
理由はともあれ、僕はいい歳して妹を泣かしたことについて母親からこっ酷く絞られ、そしてその後、伊吹は本当に僕と口をきいてくれなくなった。
★ ★ ★ ★
妹を大泣きさせてからまた数日、妹は僕のことを完全無視し続けており、僕は僕でそんな妹の態度が気に喰わなかった。
おかげさまで、このなんの生産性もない兄妹ゲンカは、長期化の様相を呈していたんだ。しかも……。
「ここにきてまた弁当かよ……」
この日も例の如く母親の弁当が間に合わなかった為、僕が妹に弁当を届けに行くハメになっていた。
一体この状況で、どの面さげて妹に弁当を届けに行けっていうんだよ。
そうこうしているうちに、あっという間に昼休みが訪れ、僕は途方に暮れながら廊下へ出る。
「オッス、あーずま! 今日もどうしたの? そんな浮かない顔して?」
「あ……毘奈か」
偶然教室から出てきた毘奈と、僕は示し合わせたかのように廊下で鉢合わせる。
「また妹に弁当届けなきゃいけないんだけど、今ケンカしてて口もきいてくれないんだよ……」
「え? 兄妹ゲンカ!? もしかして、伊吹ちゃんに部屋に隠してあったエチィ本でも見つかっちゃったの!?」
「な……なんでお前がそんなこと知って……じゃなかった、んなわけねーだろ!」
最近少し大人しめの毘奈だったが、こっちの方は日を追うごとに元の鬱陶しい系の幼馴染に戻りつつあった。
だが今の僕にとってみれば、このお節介で鬱陶しい幼馴染でさえも、救いの女神のように見えてしまう。
「この前相談してたことで口論になっちゃってさ、伊吹があんまり酷い言いようだったから、つい言い過ぎて泣かしちゃったんだよ……」
「うっわー……それは大変だったね。分かった、それじゃ吾妻も顔を合わせにくいだろうし、私も無関係じゃないからさ、一緒に行ってあげるよ!」
「毘奈……お前って意外といい奴だったんだな……」
「ちょっと! 私のことなんだと思ってたの? 昔っから、可愛くて優しい幼馴染だったでしょ!」
ああ、何でもいいが今は心強い限りだ。そもそもケンカの原因は毘奈のことだから、ある意味こいつが一番悪いんじゃないかって気もしないでもないけどね……。
そうして僕らは、何の因果か再び一緒に妹の教室へ弁当を届けに行くことになったのだ。
妹の教室まであと少しってところで、僕はお約束のように立ち止まっていた。
「なあ、毘奈、やっぱり届けて来てもらうのってダメかな?」
「何言ってんの吾妻! いつまで伊吹ちゃんとケンカしてるつもり?」
僕の後ろ向きな態度を、毘奈は結構真面目に窘めた。いつも鬱陶しい幼馴染の発言ながら、ごもっともだ。
「ちょっと、毘奈姉? お……お兄ちゃん?」
僕が廊下でモタモタしていたもんだから、おそらく中々到着しない弁当に痺れを切らした妹が、廊下に出て僕らの存在に気付いてしまう。
「あれれ、調度良かった! 伊吹ちゃん、今日もお弁当届けにきったよー!」
「な……なんでまた毘奈姉が?」
予想していなかった毘奈の再訪に、僕とのこともあってか非常に気まずそうだった。
「伊吹ちゃん、吾妻と兄妹ゲンカしてるんだって? 吾妻も言い過ぎたって反省してるしさ、今回は私に免じて仲直りしてあげてよ!」
「ちょっ! 毘奈、お前!?」
そしてここで毘奈のお節介が炸裂する。誰も頼んでないのに、ケンカの仲裁をしだしたんだ。
僕は慌ててそれを制止しようとするが、伊吹は不意に僕の元へと歩み寄り、何も言わずにそっと手を差出した。
「あ……ああ、弁当か、これな!」
「お弁当、届けてくれてありがとう……」
妹は無表情のままお弁当を受け取ると、やけに丁寧な態度で頭を軽く下げた。
妹らしくもない慇懃な態度に、僕も毘奈もポカンとしてしまった。なんだ、意外と可愛いとこもあるじゃないか。確かにこの前は僕も言い過ぎたし、ここは僕が謝って穏便に……。
「あ……その……この前は、俺も悪かっ……」
「呆れた……最低だね」
「……え?」
伊吹は僕をケダモノでも見るような目で蔑み、僕は思わず謝罪の言葉を飲み込んでしまった。
「私とケンカしてるからってさ、毘奈姉が一緒じゃなきゃお弁当一つ届けられないんだね。あげくにケンカの仲介なんてさせて、毘奈姉におんぶにだっこじゃん。本当に呆れた……」
「い、伊吹……お前な!」
「違うんだよ、伊吹ちゃん! 私が勝手について来ただけだし、二人に早く仲直りして欲しいと思ったから!!」
それは半分誤解で、もう半分は図星であった。痛いところをつかれたことに、僕は声を上げ、毘奈は必死に弁解を試みたのだが。
「毘奈姉がいなきゃ自分じゃ何もできないくせしてさ、大人ぶって毘奈姉のこと邪険にして……そういうのかっこ悪いから、やめた方がいいよ」
「伊吹ちゃん、言い過ぎだよ! 吾妻は私なんていなくたって……」
それでも伊吹は、淡々と僕に対する悪態を吐いていく。僕は危うくこの前みたいにブチキレそうだったが、顔を歪めながら必死に怒りを堪えていた。
「毘奈姉も毘奈姉だよ。いつまでもこんな人に構ってばっかりいたら、きっと幸せになれないよ……」
「伊吹ちゃん、そんな言い方……」
「もういい! 毘奈、帰ろうぜ! 用事は済んだんだからな!」
「ちょっと、吾妻待ってよ!!」
僕は妹と完全に袂を分かつように踵を返し、怒りに震えながらその場を離れた。
こうして僕と伊吹の兄妹ゲンカは、原因の一端であった毘奈を巻込み、より泥沼化していったんだ。
★ ★ ★ ★
その日の放課後、僕は自分のクラスで補習授業を受けていた。誤解するなよ。別に僕が馬鹿だってわけじゃないからな。
如何に僕が進学校を目指さないとは言っても、受験生は受験生だ。志望校の県立にいく為に、最低限の勉強はしなきゃならない。
まあ、希望する生徒向けの受験対策みたいなもんさ。
「ふぁーあ! やっと終わったか……」
授業が終わって、教師や生徒たちはあっという間に教室の外へと出て行く。
僕は徐々に薄暗くなっていく遠くの空を見つめ、妹の件についてどうしたものかと心を悩ませていた。
「あーあ……面倒だな」
学校はともかくとして、家に帰ったら食事などのときは必ず顔を合わせないとならない。
家族とぎくしゃくするのはストレスが溜まるが、それにしてもあいつの言いようには勘弁ならなかった。
考えていても解決するわけじゃない。僕は深い溜息を吐くと、荷物をまとめて席を立った。
「吾妻! よかった……ハア……ハア……まだいたんだね!」
「え……毘奈?」
陸上部のユニフォームを着た毘奈が、酷く慌てた様子で教室に駆け込んで来た。
毘奈は息を切らしながら、僕に訴えかけるように言う。
「伊吹ちゃんがね……いなくなっちゃったの!!」
「は……? どういうことだよ?」
僕は首を傾げた。毘奈の慌てぶりから、ことの重大さは伝わってくるのだが、これだけじゃ何も見えてこない。
「練習中にね、伊吹ちゃん転んで足を捻っちゃってさ! 保健室に行ったんだけど、先生が目を離した隙にどっか行っちゃったみたいなの!!」
「どっか行ったって……足は大丈夫なのか?」
「検査はしてないから確かなことは言えないけど、先生の話だと捻挫じゃないかって……」
「そんな足で……あいつ!」
「先生からさ、今度の大会はもう無理だって言われてね……凄く落ち込んでたみたいなの」
言わんこっちゃない。散々無理をしてたし、練習で精細さを欠いても全く不思議ではなかった。こんなんじゃ、本末転倒じゃないか。
「部室にも教室にも、学校にはどこにもいないみたいなの! 携帯も出ないし、家にも帰ってないみたい……あんな足で長く歩いたら、もっと悪くしちゃうよ! 吾妻、どうしよう?」
「いいんじゃないか、別に放っておけば……」
「……え?」
僕の冷然とした返答に、毘奈は何と言われたか理解できないようだった。
「どっかに行ったってことは、そんなに悪くないんだろ? 周りに散々迷惑かけて、エラそうなことばかり言って……少しは一人で頭でも冷やした方がいいんだよ」
「吾妻……本気で言ってるの?」
「あいつに振り回されるのはもううんざりだ、どうせ腹でも減れば家に帰って来るだろうし、わざわざこっちから捜してやる必要なんて――」
淡々と妹への悪態を言い連ねていく僕の右頬を、毘奈の掌がパンッと打ち払っていた。
僕は引っ叩かれた自分の頬を押さえながら、ポカンとした顔で毘奈を見つめる。彼女は目に涙を滲ませながら怒りに震えていた。
「ひ……毘奈?」
「吾妻の妹でしょ!? なんでそんな酷いこと……あの子にとってね、お兄ちゃんは吾妻だけなんだよ!!!」
「だけどあいつが……」
「もういい! 見損なったよ、吾妻!! 私が絶対に伊吹ちゃんを見つける!!」
毘奈はそう言い捨てて、教室を出て行った。
僕はしばらくの間右頬を押さえながら立ち尽くし、途方に暮れてしまっていた。
そしてふと、僕は妹が生まれてきた日のことを思い出していたんだ。
遠い昔に見た夢のような薄っすらとぼやけた、そしてどこか温かな懐かしい記憶。
あんな小さかったのに、今でも忘れずに覚えている。
――ほら、見てごらん。あれがお前の妹だよ、今日からアズマはお兄ちゃんになるんだ。
――……
「……何なんだよ、もう! 都合のいいときだけ、お兄ちゃんさせんなよ!」
僕は先程吐き捨てた言葉とは裏腹に、カバンを手に毘奈を追うように教室を飛び出していた。
★ ★ ★ ★
――お兄ちゃん、ヒナ姉、待ってよ!
――何やってんだよイブキ、早くしないとおいてくぞ。
――アズマ、イブキちゃん、すっごく楽しいよ! 早くこっちに来てみなよ!
――……
学校からいなくなった妹の姿を捜し、僕は夕暮れの滲む通りを息を切らしながら走り抜けていた。
「どこだ……どこにいるんだよ!?」
妹が行きそうな場所。最近はあまり話もしていなかったから、僕が知ってるとすれば、昔よく毘奈と三人で遊んだ場所くらいだ。
可能性は低いかもしれないけど、そういった場所をしらみつぶしにあたって行くしかない。
だからと言って、怪我した足でそんなに遠くへはいけない。人目にもつきたくはないはずだから、公園か……あるいは……。
「……ここか?」
高い木に覆われて、周囲より薄暗くなった寂しげな敷地。僕はその小さな社の鳥居をくぐって境内を進んで行く。
そこは、周囲に住宅街や商店があるとは思えないほど、悲しいくらい静まりかえった場所だった。
「……伊吹?」
そして境内の一番奥、まるで林の中にひっそりと佇むような本堂の階段には、陸上のユニフォーム姿の妹が、項垂れるように座っていた。
なんと声をかけたらいいものかと頭を悩ませながらも、僕は抜け殻のようになった妹に向かってゆっくりと歩いて行く。
「全く、こんなところで何やってるんだよ?」
僕の声を聞いて、妹はゆっくりと顔を上げる。酷く泣き腫らした顔であった。
「なんだ……お兄ちゃんか……」
「なんだって……」
「最初に私を見つけたのがお兄ちゃんとか、つくづく最低……」
妹は消え入りそうなか細い声で悪態を吐いた。まあ仕方ない、今のこいつに本気で怒っても大人げないってもんだ。
「そんだけ軽口叩ければ、大丈夫そうだな。肩貸してやるから帰るぞ、毘奈も心配して――」
「お兄ちゃんの言う通りだったね……」
「……は?」
妙なことを口走った妹は、僕の顔を見ると、今にも泣き出しそうな表情で儚げに笑っていた。
「あんなにエラそうなこと言って、散々もがいた結果がこれ……ざまー見ろって思ってるんでしょ?」
「お前な……俺はそんなこと!」
「いいよ、無理しなくて……今までお兄ちゃんに沢山酷いこと言ってきたもん。何言われても仕方ないよ……」
一見大丈夫そうに見えた妹は、やはり挫折のショックで自暴自棄になっているようだった。
こんな妹を見て、僕はもどかしくて仕方がなかった。ケンカをしていたのもある。だがそれ以上に、僕はこんなときかけてやれる言葉を知らなかったし、ましてや、抱きしめてやることなんてできるはずもなかった。
「伊吹ちゃん!!?」
「……毘奈?」
振返ると、これまたユニフォーム姿の毘奈が息を切らせて立っていた。妹は目を丸くする。
「ひ……毘奈姉!?」
「もう馬鹿!!」
毘奈は僕が声をかける間もなく、妹の元へと駆け寄ると、自分の胸へ妹の顔を埋めるようにきつく抱きしめていた。
「怪我してるのに急にいなくなっちゃって! すっごく心配したんだから!!」
「ごめん、毘奈姉……でも私……もうダメだよ」
「何言ってるの? 伊吹ちゃんの三年間はね、まだ始まったばかりなんだよ! 怪我なんか早く治して、また一緒に頑張ろ!」
毘奈の優しい励ましの言葉を聞いて、妹は毘奈の胸の中で涙を流しながら言った。
「でもね……私、何をやっても毘奈姉みたいに上手くできないよ……」
それは、今まで僕の知らなかった妹の……伊吹の本当の気持ちだった。
なんだかんだ要領よくやってるようで、こいつだって僕と同じように、完璧すぎる毘奈への劣等感に苛まれ、それに抗おうと必死に戦っていたんだ。
そうと知っていれば、僕もあの時、もっと言いようはあったのかもしれない。
妹のその悲痛な叫びを耳元で聞いていた毘奈は、妹の背中を撫でながら優し気に問いかける。
「確かにね、私は勉強とかスポーツには少し恵まれたみたいだけど、伊吹ちゃんは私のことが羨ましい?」
「……え?」
「私はね、小さな頃から、ずっと伊吹ちゃんと吾妻が羨ましかったんだよ」
毘奈の思わぬ言葉に、妹は毘奈の顔を見上げる。僕だってそんな言葉初耳だった。
「私ひとりっ子でしょ? 吾妻には伊吹ちゃんみたいに可愛い妹がいて、伊吹ちゃんには吾妻みたいに優しいお兄ちゃんがいてね。ずっと羨ましかった……」
「でも、ケンカばっかだよ。私お兄ちゃんにいつも酷いことばかり言って、お兄ちゃんだって私のこと……」
「吾妻はね、なんだかんだ言って、伊吹ちゃんのことちゃんと心配してるんだよ。さっきも、口では突き放すようなこと言ってたけど、結局一番最初に伊吹ちゃんを見つけてるんだから……ね、吾妻!」
「べ……別にたまたまだよ! 家族のことで、あまり迷惑かけるわけにはいかないからな……」
毘奈は振返って僕にアイコンタクトをしてきたので、僕は慌てて誤魔化すようなことを口走る。
そんな僕を見て、毘奈は微笑みながら言葉を紡いだ。
「昔はね、吾妻と伊吹ちゃんと遊んだ後、私だけ家で一人になるのが凄く嫌だったの。だからさ、家で妹か弟が欲しいって、散々駄々こねてママとパパを困らせてたんだよ」
「……ホントに? あの毘奈姉が?」
「伊吹ちゃんの欲しいものを私が持ってて、私が欲しいものを伊吹ちゃんが持ってる。きっとさ、ただそれだけの事なんだよ。だからね、伊吹ちゃんは伊吹ちゃんのまま、頑張ればいいんだと思うよ」
僕らは誰かに勝ったとか負けたとか、いつもそうやって思い込んで勝手に苦しんできた。だけど結局は、皆んなそれぞれ持ってるものが違うだけで、単なるじゃんけんの勝敗に一喜一憂していただけなのかもしれない。
毘奈のこの温かな言葉は、傷ついた妹はおろか、僕にまで春の雪解けのようなポカポカとした気持ちを抱かせていた。
なんだか、毘奈においしいところを全て持っていかれてしまった気もする。
だけど、僕ではきっと妹を慰められなかったのだから、結果的にこの鬱陶しくて完璧すぎる幼馴染に助けられたのだろう。
「さあ、私と伊吹ちゃんユニフォームのままだし、早く学校戻らなきゃ! 吾妻、伊吹ちゃんをおんぶしてあげて!」
「は……はい?」
「これ以上怪我が悪化したら大変なの! お兄ちゃんでしょ?」
「ぐぬぬ……はい」
妹は少し恥ずかしがりながら、申し訳なさそうに僕に背負われる。
そして僕らは、幼い頃よく遊んだ小さな神社を出て、すっかり薄暗くなってしまった通りを学校へ向かって歩いて行く。
「私ね……毘奈姉のこと、ずっと本当のお姉ちゃんみたいに思ってたよ!」
「おお! 嬉しいこと言ってくれるね! 私も伊吹ちゃんのこと、可愛い妹だと思ってるよ! ……で、吾妻は手の掛かる弟かな」
「……って! なんで俺がお前の弟なんだよ!」
「そうだね、毘奈姉の方がお姉さんっぽいもんね……」
「でしょでしょ! 弟よ、お姉さんの言うことはちゃんと聞くのだぞ!」
「何なんだよ、もう……」
それは遊び疲れ、道路の先に沈んで行く夕暮れを目指して帰って行った、まだ幼かったあの頃の僕らのように。
――いつか毘奈姉が……本当のお姉ちゃんになったらいいのにな……」
★ ★ ★ ★
僕と妹の長期に及んだ兄妹ゲンカも、あの日の一件でようやく終焉を迎え、僕らはこれまでと変わらない普通の日常を過ごしていた。
妹の怪我も、検査の結果ただの捻挫だったことがわかり、目指していた大会への出場は見送られたものの、間もなく復帰予定だ。
「吾妻、ちょっとお母さんのとこいらっしゃい!」
調度そんな時だった。僕はある夜母親に呼び出されて、一階のリビングへと下りていく。
「母さん、何か用?」
「いいから、そこに座りなさい!」
僕は母親に言われるがまま、母親とテーブルを挟んで対面のソファーに腰を下した。
妹が隣のダイニングで、落ち着かない感じでちらちらとこちらを伺っている。
「あんた、もう行く高校はちゃんと決めたの?」
「あ……ああ、その話? 前にも言ったと思うけど、県立に行こうかなって……」
「皇海学園に行きなさい!」
「……は?」
母親の何の脈絡もない発言に、僕は思わずポカンとしてしまった。なんなの、この展開?
以前は皇海学園の“す”の字も言ったことのなかった母親が、急に豹変してしまったんだ。
「聞いたわよ、あんた毘奈ちゃんに皇海学園行かないか誘われたのに、あまり勉強したくないからって断ったらしいじゃない!」
「な……なんでそれを!? もしや伊吹?」
僕が妹に目をやると、したり顔でこちらを見ていた。あのクソガキ、余計な事チクりやがって……。
「県立行って楽しようなんて、そうはいかないわよ! 皇海学園に行って、ちゃんと勉強してもらいますから!」
「ち、違うよ母さん! 僕は別に勉強サボりたいわけじゃなくて……えーと、そうそう、私立は授業料高いからさ! 家計のことを考えて……」
本当にそれも理由の一つだった。ただし、純粋に家計を心配してたんじゃない。授業料が高いと、必然的に勉強しなかったときの親からの当たりが強くなるからだ。
だが、僕のそんな取って付けたような弁解も、妹に言い包められてその気になった母親には、全く通用しないのであった。
「あんたはそんなこと気にしなくていいの! あんたの授業料なんかね、お父さんが今より多く残業してくれば、事足りるんだから!」
「ぶぅぅぅーー!!」
「やだ! お父さん汚い!」
隣のダイニングで、父親が盛大にお茶を噴き出していた。
そんな迫害を受ける父親が、僕の味方についてくれることも考えたが、それは到底無理なお話だ。我が家はこの通り、女尊男卑なんだから。
「とにかく、あんたは毘奈ちゃんと一緒に皇海学園に行きなさい! いいわね!」
「でもほら! 一応皇海は進学校なわけだし……受かるかどうかは……」
「何言ってるの! だから今から頑張って、受かるように勉強するんでしょ!!」
「ええー!!」
最悪皇海を受けるだけ受けて、わざと落ちるという高度な戦略もあったが、それすらも我が母親は計算済みのようで、
「もし皇海に受からなかったら、高校一年から三年まで、みっちり予備校に通ってもらうからね!」
という、とんでもないカウンターパンチが返ってきた。これではもう、皇海学園に行く選択肢しかないも同然じゃないか。
言うなれば、これで僕の“中学三年、受験生なのに楽して県立お手軽プラン”は終了のお知らせってわけだ……。
「わ……分かったよ。やるだけやってみるよ」
「そうそう、最初から素直にそう言えばいいの。これで高校も毘奈ちゃんと一緒で安心だわ!」
妹の策略にまんまとハメられてしまった僕は、肩を落としてとぼとぼと自分の部屋へと帰って行く。
階段を登っていると、僕の去ったリビングからは、妹と母親の話声が聞こえてきていた。
「良かったわ! 伊吹が教えてくれたおかげで、吾妻も勉強する気になったみたい! やっぱり、あの子には毘奈ちゃんがついててくれないと、不安だものね」
「そうそう、あとお兄ちゃんなんか、毘奈姉に見捨てられたら一生独身間違いないから、私が面倒見なきゃいけなくなるもんね!」
全く、僕がいないからって好き勝手言いやがって。しかしながら、我が家族ながら本当に腹黒い妹だよ。一体誰に似たんだか……。
「ふふん、これで私の“毘奈姉をいつか本当のお姉ちゃんに作戦”も一歩前進だね!」
「そうね、これで上手く毘奈ちゃんが吾妻のお嫁に来てくれたら、お母さんの老後も安泰だわ!」
母さん、やっぱりあんたか……。
こうして、我が家の腹黒い女性陣によって、那木 吾妻補完計画は着々と進められていくのであった。
僕と腹黒くてドライな妹、そして完璧すぎる幼馴染。この不思議な三角関係によって、僕はこの後皇海学園への進学を決めるわけだ。
でもまあ、今となってはそれも悪くなかったのかもしれない。
この奇妙な三角方程式によって導き出された答えが、僕とあの少女との出会いへ繫がっていくのだから。
最後までお読み頂きありがとうございます。
この作品は、ラブコメ短編企画の三本目で書いたものとなります。
本格的な(?)妹ものを始めて書きましたが、これが果たしてラブコメなのかは怪しいです。
自分としては、正直微妙な作品になった感はありましたが、友人に読んでもらったところ、割と良かったみたいです。
おかげさまで関連作品も結構増えましたので、吾妻君や毘奈ちゃんの出てくる他の作品も紹介しておきます。
この作品の続編、前日談は↓の作品をチェックして下さい。
【現実世界が舞台 正規ラブコメルートはこちら】
『クラスのマドンナ的美少女にいきなり告白されたと思ったら、幼馴染にエチィ本を買ってるところを見つかってゆすられる青春ラブコメ』
★なんと、あの吾妻君にクラス一の美少女が告白!? しかし、幼馴染の毘奈ちゃんにとある弱味を握られてしまい……。吾妻君の栄光と挫折、幸福と悲劇を描いた十四歳の青春ラブコメ。
この小説のURL : https://ncode.syosetu.com/n6603he/
■■本作品の正統続編 2021/11/24連載スタート予定です■■
『高校デビューに失敗した僕。甘くて危険なクーデレ狼に懐かれる』
★高校生になった吾妻君と毘奈ちゃん、今度は学園一危険な美少女と三角関係に!? 学園中から恐れられる霧島 摩利香の秘密とは?
※以前書いた短編の連載版です。
【吾妻君が異世界へ召還!? 異世界転移ルートへ】
そもそもの話、以前連載物で書いていたラブコメ要素の強い異世界転移ものを、ラブコメ作品として再構築した作品となります。
ですので、一番最初の原作は下記の作品となります。
高校生になり、毘奈ちゃんに彼氏ができて傷ついている吾妻君を、謎の美少女 霧島 摩利香が異世界ハシエンダへと召還します。
まあ、今回の作品を異世界ものに繋げてしまうのは、世界観的に少し無理があります。
ただ、連載物で分量も多いので、よろしかったらどうぞ。
『失恋勇者~世界を売った少女と始める異世界往来記~』
★失恋から始まる二つの世界を股にかけた剣と魔法の異世界ラプソディ
この小説のURL : https://ncode.syosetu.com/n4934el/
■ご感想・評価等はお気軽にお願いします。一言とかでも滅茶苦茶嬉しいです。
コメント等に関する返事は、内容にかかわらず時間がかかっても必ずお返しします。