短編 一枚
書く相手がおりません。
小さな鳥の鳴き声が窓の外を通り過ぎる。差し込んだ日の光が瞼越しに朝を告げていた。薄くぼんやりとした視界のままリビングへと向かったが、そこには姿がなかった。時計の針は120度を示すようにきっちりとした姿勢で俺を見ている。そうだ、土曜日は朝から買い物に行くと言っていたっけ。生あくびを噛み殺しながら、キッチンへと向かう。コーヒーでも飲んでしゃきっとさせてから、休日の予定でも組み立てようじゃないか、と考えていた頭が凍りつく。
いつものように置かれたコーヒーカップと、トーストと目玉焼き、小さな器に盛られたサラダと、文鎮代わりのフォーク。そして、その三文字が心臓を鷲掴みにし、離すこと無く握力を強めていく。告白した時の花束と同じ色をした、いくつかの枠線が視界へと飛び込んできた。実物を目にしたのは初めてだが、そうか、こういうフォーマットになっているのか。
間違ってこぼしたらまずい事になる、そう考えて朝食セットをソファー前のテーブルへと運んだ。心拍数を元に戻すためだけにテレビを点ける。朝のニュース番組では動物の赤ちゃんが生まれた事を告げる優しい映像が流れており、一秒ごとに元の状態へと戻してくれた。この状況では摂取したトーストやコーヒーの味なんて覚えていられるはずがない。空になった食器もそのままにし、先程の紙と向き合うことにした。
婚姻届。初めて書くことになり、最後にすべきであるこの契約書には、いずれ立ち向かわなければならなかった。同棲するようになってから色々と考えていたものの、いつでも書けるさと逃げ続けてきた強敵であり、最後の壁。こんなにも薄いのにぶち破る事も出来ない、鋼鉄を超える強度の一枚。そばに置かれたボールペンが正しくインクを出せるか別の紙で試し書きし、震える指で紙へと乗せる。
書き方が、わからない。いくつかの項目には説明書きがあるものの、作法が分からないのだ。役所としては読めれば問題はないのだろうが、通例……めでたい席でのマナーのようなものがあるに違いない。寝室からスマホを取ってくると、紙に並べるように置きながらいくつかのサイトを読んだ。次男が二男、ほら、やっぱり違うじゃないか。調べておいて正解だった。
正解、なのか。ゆっくりと丁寧に動かしていたペンが止まる。同棲して三年の月日が経ち、告白してからは五年となる。紙の最上段に書かれた日付は、丁度五年前と同じ日付で来週を意味するものだった。猶予はまだあるが、彼女を幸せにする自信はない。遠い未来のことを約束するなんて、そんな無責任な事をしてしまっていいのだろうか。自分が何から逃げ続け、なぜ逃げなければならなかったのか。この壁に手を付きながら、もう一度自問自答する。結婚という形を取らなくても十分幸せじゃないのか、今のままでもいいじゃないかと囁く自分に腹が立つ。責任と書かれた看板で背中を殴りつける自分も真横に居る。こいつらを倒せる何かは無いのかと周りを見渡しても、何も無い。有るのは「幸せにしたい」という小さな、漠然とした気持ちだけだった。
紙面へと文字を叩きつけながら、壁を打ち破る。字の乱れなんて気にするべきではなかった。この数年間、彼女はいつ切り出そうか悩んでいたに違いない。マガジンラックに置かれた、あの冊子を読む姿はあんなにも寂しそうだったじゃないか。俺が、いつまでも逃げ腰だったから。
最後の一文字を書き終え、反転した自分の名字を見つめて、問う。
本当にいいのか、何があってもお前のせいだし、お前のおかげだ。
気がつくと、自分の背中を自分で押していた。
今夜、俺はもう一度同じ色の花束を贈る。紙の上の赤い丸に誓いながら。
いつも読んでくださって、ありがとうございます。拙い文章のままであることが心苦しいのですが。感情の変化や言っておきたい事などがありましたら、ぜひお聞かせください。