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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

慄える日常

茜色の放課後

作者: 鬼平主水

※注意!この作品にはいじめに関係する描写が含まれています。作者にいじめを助長する意図はありませんが、苦手な方はご注意ください。

 ある中学校では、二人の男子生徒が常に注目の的となっていた。

 そのうちの一人、佐渡(さど)(ゆずる)は成績優秀でスポーツ万能、それでいて(おご)ることなく真面目で、端正なルックスも相俟(あいま)って学内の女子生徒たちからも人気の高いことで有名な中学生である。もし彼が裏で悪事を働いていると聞けば、同級生はもちろん、全生徒全教師が衝撃の渦に飲まれることになるだろう。

 譲はいじめの首謀者だった。仲間内三人とともに一人の男子生徒をいじめていたのである。

 彼のターゲットになっていた生徒の名は真園(まぞの)直人(なおと)という。譲と同じく成績は優秀なのだが、スポーツに関しては不得手だった。見た目も色白で病弱な印象を与えるが、譲とは方向性の違う美男子であった。他の生徒と絡むことがなく、常に孤独な雰囲気があったが、それが女子の人気を集める要因にもなっていた。校内ではこの二人の人気で二分していたと言ってもいい。

 譲はこれまで『挫折』とか『屈辱』とかいう言葉とは無縁だった。小学校の頃から彼は、全教科の成績が常にトップであり、同級生からも一目置かれていた。譲の周りには彼を慕う者しかおらず、教師からも、公立の中学校ではなく名門の進学校に入学した方が良いのではと言われていた。ところが彼の家庭環境には進学校へ行けるほどの経済的余裕がなかった。貧乏と言うほどではないものの、一般のサラリーマン家庭では、高校以降の学費も考えれば中学にまで学費を払える余裕はなかったであろう。事実本人も進学校への入学を考えてはいなかった。譲は気づいていたのである。学力競争の荒波に揉まれるよりも、公立の学校を選んだ方が自身への尊敬の目が離れることがないことに。

 しかし譲のこの予想を裏切った人物が現れたのである。それが直人だった。中学生になって初めての定期試験である中間テストで、譲はクラス内一位の成績を無事に獲得した。この時点で彼は――小学校時代の同級生たちが噂していたこともあって――学年内でも優秀な生徒として見られていたため、点数でその証明を果たすことができた。ところが学年全体の成績は違った。この学校では校内の掲示板に定期試験の成績の上位十名の名前が貼り出されるのだが、そこに書かれていた譲の名前は二位だったのである。譲はそれを見て初めて『屈辱』を覚えた。すぐに掲示板の前にかじりつくと、自分の上にある人物の名前を確認した。『真園直人』――聞いたことのない名前であった。さらに譲を驚かしたのは直人の点数だった。国語、数学、社会、理科、英語――五教科全て満点だった。

 近くで真園の小学校時代の同級生二人が話していた。

「ひゃあ、佐渡君より勉強できる奴がいるんだなあ」

「真園ってあれだろ、運動が全然だめな奴」

「なんか聞いたことあるな。じゃあ頭脳に全振りしてるってことか」

 直人は隣のクラスであるらしいことが分かった。隣のクラスの前に人だかりができていたからである。譲がその人だかりに入ることはなかったが、どうしても直人の顔を見て見たいと思い、ホームルームが終わるとすぐに隣のクラスへ足を運んだ。

 最初に直人の印象を病弱で色白な美少年と書いたが、譲が初めて彼を見た時も、それとほとんど同じような印象を受けたと言っていい。そして譲は思い出していた。入学式の時からいやに清潔感があって美しい少年がいたことを。時折、どこか陰のある雰囲気を漂わせながら人を寄せ付けない、それでいて人に不快感をもたらさない少年とすれ違っていたことを。その美少年こそが、この直人のことだったのである。

「君すごいね、全部満点だったんだろ」

 譲が直人と言葉を交わしたのはこれが初めてだった。読書中だった直人は本を閉じ、譲の方を振り向いた。

「僕、君のこと知ってるよ。佐渡譲君でしょ」

 譲は内心喜んだ。彼にも自分の噂が聞かれていたからだ。

「そんなに俺のこと有名なの?」

「知らない人はいないんじゃないかな。掲示板見たよ。噂通り、すごい成績だね」

「君の方がすごいよ、全部満点なんて。成績で負けたのは初めてだよ」

 譲の言葉を聞いて、直人は少し微笑んだ。彼によく似合う、優しくて美しい微笑だった。

「別に僕は勝ち負けとか気にしてないんだ。誰が上とか下とかどうでもいいんだ。僕は僕、君は君さ」

 直人はそれを言いながら荷物を片付けていた。片付け終わると、「じゃあ」と言って颯爽と帰ってしまった。譲は立ち尽くした。決して直人が強がっているわけではないことは、譲にも伝わった。直人は誰かと切磋琢磨して能力を高めようなどという考えは毛頭なかったのである。

 それ以来、学校内では譲と直人の話題が必ず一度はなされるようになった。特に定期試験の時期になると、今回は譲が一位を取るのか、それとも直人が逃げ切るのか、というのが学校内の議題になっていた。そのことを譲が意識しないわけがない。彼は直人にどうすれば勝てるのかということしか考えていなかった。だが譲がどんな勉強法を使っても、直人の満点の牙城を崩すことができなかった。

 第一学年最後の期末試験でのこと。ついに譲は五教科全てで満点を獲得した。掲示板の成績順は直人と並んで堂々の一位だった。

「お疲れ、ようやく真園君と同じ満点が取れたよ」

 譲は学校の帰り道で直人を見かけると、走り寄って声をかけた。しかし直人は少し溜息を吐くとこう言った。

「君、僕よりもスポーツ得意なんだからさ、とっくに僕に勝ってると思うよ」

 だからそれ以上勝ち負けの話はしなくていいよ――直人の目はそう言っているように見えた。

 あの時と同じく、譲は呆然と立ち尽くすしかなかった。あれだけ毎日のように話題にされていながら、直人はこの一年間、全く譲を意識していなかったのである。

 譲に初めて『嫉妬』が生まれた瞬間だった。


 直人への『嫉妬』を沈める方法――それは『嫉妬』を生んだ張本人に()()()()()()()()()『屈辱』を与えることだった。

 二年生になると、譲が仲良くしていた三人の男子と同じクラスになった。この友人たちはある意味で譲の言いなりになっていたと言っていい。その代わり譲はこの三人に特別授業を行うなどしてサポートしていた。この三人を利用する手はなかった。彼等は譲に指示されれば、直人が抵抗できないように押さえつけることもあるし、譲が必要とする道具があれば事前にそれを調達してきた。

 譲は直人が学校を出てどの方向へ帰っていくのかを知っていた。家がどこかまでは知らなくてもいい。学校から離れて、誰にもばれることなく直人に『屈辱』を与えればいいのだから。

 譲のいじめは、単純な暴力の時もあれば精神的な屈辱を与えるようなものもあった。泥パックと称して顔中に泥を塗りたくったこともあれば、禽獣(きんじゅう)の真似事をさせたこともあった。さすがに死の境目を彷徨(さまよ)うまでに至るようないじめはしなかったが、それでもここまで追い詰めてしまえば、常人の相手であれば自殺を考えてもおかしくなかったであろう。

 ところが直人は自殺はおろか譲たちの()すがままになっていた。それどころか、彼等の悪行は一切学校にばれているようなこともなかった。このことに関して、譲は全く考えを巡らすことはしなかった――正確に言えば、直人が仮に教師や他の生徒に告げ口したところで、誰も譲の悪事を信じることはないと信じ込んでいたのである。そのために、というわけだけではないが、真面目で勤勉で実直な生徒であるというイメージを周囲に植え付けなければならなかったのだから――とにかく譲は直人が憎かった。自分の自己欲求さえ満たせられれば、それで良かったのである。


 夏休みも明けて、二学期になっていた。前期の中間・期末試験共に直人に負けたのは言わずもがなである。

 どれだけ『屈辱』を与えても、直人は怯まずに常にトップの成績を出し続けている。譲はとうとう荒れるようになった。とは言っても、表向きはそのような素振りを見せないから、家族ですら彼の心情を察することができなかった。古典的だが最も早く不良に近づける方法――譲は夏休みの間に煙草を覚えたのである。煙草屋の主人が面倒くさがりで年齢確認をしないのを良いことに、彼はその店で煙草を手にしていたのである。

 夏休み中は、家の中でなければどこで吸おうが構わなかったが、二学期になればそうはいかない。けれども譲は、煙草を学校へ持ち込むようなことはしなかった。彼の帰り道からはずれたところにある岩壁に、ちょうど煙草の箱が入る大きさの隙間があった。譲はその辺りが人目につきにくいのを良いことに、そこに箱を入れておいて、帰り道に一本吸っていたのだった。

 その日も譲は直人をいじめて帰るつもりだった。いつもの仲間を引き連れて直人を探していると、すぐに彼は見つかった。仲間の一人が後ろから直人を抱き上げると、いつも彼をいじめるのに使っている、人目に付きにくい良い塩梅の広場に連れて行った。

「さーて、今日はどうしよっかなあ」譲はすでに決めている仕打ちを、さも今考えているかのようにふるまった。「決めた、おい、誰かロープ持ってる奴いないか?」

「良いのがあるぜ」

 いつどこで手に入れたのか、仲間の一人がロープを取り出す。

「脱がせてやれよ」

 譲の一言で、残りの仲間が直人を押さえつけた。この時まで直人はじっと正座して微動だにしなかった。脱がされている間も、抵抗は一切しない。

「下は?」

「上だけで良い」

 ロープを持つ譲の格好は、悪人に拷問を与える前の獄卒のようであった。譲はロープを裸の直人に巻きつけた。病弱な印象を与える直人ではあったが、彼の裸は瘦せてこそいるが均整が十分に取れており、変に鍛え上げてしまえば彼の美しさが大きく下げられてしまうのではないかと思われた。

 直人は後ろ手に縛られてしまった。その姿を見て、譲の仲間たちはゲラゲラと笑った。

「これから一つ言うことを聞いたらすぐにほどいてやる」そういうと譲は片方の靴を脱ぎ、靴下も取って素足になった。「俺の足、舐めれるよな?」

 目の前に差し出された譲の足を、直人はじっと見つめていた。そして、何の躊躇(ためら)いもなく、足の甲を舐め始めた。さながら皿のミルクを舐める猫のように。

「おい、こいつ男の足舐めて興奮してるぞ」譲と仲間たちは笑いあった。「そこばっかりじゃねえ、他のところも舐めるんだよ」

 譲はしゃがみこむと、舐められている足を少し上げた。直人は指も裏も丹念に舐め回す。

「そんなに良いのか? 気持ち悪い、猫か何かかよ」

 譲は足の裏を直人の顔に(こす)り付けた。土と唾液の混ざった何かが、直人の顔にへばり付く。

「佐渡、もう良いんじゃね? いくら人いないからって、長居は危ないぞ」

 仲間の一人の提案を譲は承知した。足をティッシュで拭いている間、仲間たちが直人の縄をほどいた。

「じゃあ、また明日な」

 譲は足を拭いたティッシュを直人に投げつけて帰った。直人は服を着ようともせず、その場に座り込んでいた。


 仲間と別れた後、譲はいつものように岩壁に隠した煙草を取り出して吸い始めた。

「佐渡君って煙草吸うんだね」

 突然声をかけられて驚いた譲は、声の方を振り返った。そこには先程置き去りにしたはずの直人が立っていたのである。顔はどこかで洗ったのか、すっかり綺麗である。

「見てたのか」

 譲はできるだけ冷静になろうと努めた。直人は少し微笑んでから言葉を発した。

「心配しなくて良いよ。別に誰かに言おうとか思ってないし」

 それを聞いた譲は鼻で笑った。

「お前が告げ口しても誰も信じないだろうな。知ってるよな? 俺が学校で評判が良いの。成績優秀で真面目な男子学生が煙草を吸ってる、なんて、ゴシップレベルだ」

「……」直人は黙っている。自分の意見に反論ができないのだろう、と譲は高を括っていたが、「本当にそう思ってるの?」

「何が言いたい?」

 直人は再び微笑を取り戻した。そして思いもかけないことを口にした。

「もし暇なら、(うち)に来なよ」

 あまりにも意想外のことだった。直人は何を企んでいるのか?

「君と話したいことがあったんだよ。変に思わなくて良いよ」

 譲はこれを直人からの挑戦と取って、彼の誘いに応じた。


「ここが僕の家」

 譲の目の前に大きな門扉(もんぴ)が現れた。その奥には城のような豪邸が(そび)えている。譲は何度かこの前を通ったことがあるが、ずっとホテルか何かだと思っていた。まさか住宅、それも同級生の住宅とは、考えてもみないことだった。よく見れば表札には『真園』と立派な行書体で書かれていた。

「ここってお前と親以外に誰が住んでるんだ?」

 家へ向かいながら譲が訊ねた。

「両親は海外の仕事だから、お正月とか夏休み以外はずっといないよ」直人は平然と答えた。さすがの譲も、余計なことを言った、と思ったが、直人は気にも止めていない。「執事とかメイドはいるけどね。でも何か言ってくるわけでもないから、基本的には自由なんだ」

 中も予想に(たが)わない広さだった。ホールの中心から奥に大階段が延びており、そこにまた大きな扉があった。

「土足で良いからね」

 靴を脱ぐ場所を探していた譲を見て、直人が声をかけた。譲は体面を取り繕うために、大階段の奥の部屋の話をしだした。

「あの部屋は何?」

「あそこが社交場。ダンスホールって言った方がいいかな。誕生日パーティーもそこでやるんだ」

 直人は大階段から二階に上がった。譲も慌ててついていく。

 直人が言っていた執事やメイドたちが、彼に向かって、お帰りなさいませ、と礼をしながら声をかけてくる。ドラマのような光景であった。

「ここが僕の部屋」社交場の前を右に曲がって最初に現れた扉が直人の部屋だと言う。「ジュースだけ持ってきてくれたら、しばらく僕の部屋に入らないでね」近くにいたメイドに直人は声をかけた。

「社交場の隣なのか」

「僕がそうしてって言ったんだ」

 部屋も広かった。まず目に入るのは、壁の真ん中に(そび)える床から天井まである大きな窓だった。ここからバルコニーに出ることもできる。西日がこの窓を通して、巨大なスポットライトのように部屋を茜色に染めていた。右手の奥には一人で寝るには大きすぎるダブルベッドが、手前には勉強机だと思われる、これも大きなデスクが置いてある。左手には特に何もなかったが、壁に赤い幕が下ろされていた。部屋の中心から右手にずれたところ――そこはちょうど窓からの光が当たらない場所であった――そこにソファとテーブルがあった。ソファは二脚あり、カーテンが見える位置、つまりベッドを背にした位置にあるのが二人掛け用の、窓が見える位置、つまり部屋の入り口を背にした位置にあるのが一人掛け用のソファだった。

「ここからは靴は脱いでね」足下を見ると、扉の前の一部がタイル敷きになっており、この場所に靴を置いておくような仕組みにされていた。「荷物も適当に置いてくれていいよ」

 譲は一人掛けのソファに座り、荷物を足下に置いた。するとその時、先程のメイドがジュースを運びに現れた。直人はジュースの乗ったトレーを受け取り、彼女を早々に部屋から出した。

「で、何の話?」

 譲は早速本題に入ることにした。直人はトレーをテーブルに置いて、二人掛けのソファに座った。少しの沈黙の後、直人が質問してきた。

「佐渡くんってさ、もしかして僕に嫉妬してる?」

 まさかの問いだった。

「何でそう思った?」

「だって試験の時、明らかに僕を意識してたじゃん。でも僕が君のこと気にしてないから、それに腹が立って()()()()()()()()()屈辱を与えてやろうとでも思ったんじゃないの?」

 図星を指される、とはこのことである。譲の心理状況は、直人に見透かされていたのだった。

 反論してこない譲の様子を見て、直人はさらに煽った。

「その感じからして図星みたいだね。やっぱ考えてることが単純だよねえ、中学生って」

「それを言いたいがために呼んだのか、くだらねえ」

 譲が不貞腐れたような顔をすると、直人はいたずらっ子のように吹き出した。

「そうじゃないよ、僕は君と契約しようと思ったんだ」

「契約?」

「佐渡君が僕に嫉妬してるってことは僕に負けてるって思ってるわけでしょ? だから自分と対等になるように僕をいじめてたんだよね? でもそれは違う。前に言ったよね、僕よりもスポーツが得意なんだから、とっくに僕に勝ってると思うって。だから僕だって嫉妬してるんだよ、君に」

「俺に?」

「僕は運動も苦手だし人と喋るのも好きじゃない。でも君はスポーツ万能で社交的、点数では僕が勝ってるかもしれないけど勉強できることには変わりない。対等どころか、佐渡君の方が僕なんかよりも何倍も上だよ」

「それがどうした? トレーニングにでも付き合ってほしいのか?」

「まだ分からないかなあ、つまり君()()が僕に屈辱を与えるのはお門違いなんだよ。僕だって君に屈辱を与える権利はあると思うんだけど」言いながら直人が立ち上がった。彼は勉強机へ向かい、引き出しを漁り始めた。その様子を譲は怪訝そうに見つめていた。「君が煙草を吸ってたことは誰にも言わない。その代わり、僕とのことも誰にも言わないでほしいんだ。それが契約」

 直人が引き出しから取り出したのは、一本のロープだった。譲が直人を縛った時とほぼ同じロープ――。

「な、何を……」

「今から君と僕を対等にするんだよ。もう分かるよね?」

 直人は笑顔で譲に近付いてくる。それに気圧(けお)された譲は椅子から転げ落ち、仰向けになった。直人は彼の上に馬乗りになった。二人の姿は、ちょうど窓からの夕陽に照らされて茜色に染まっていた。直人は譲の制服を脱がし始めた。譲は必死で抵抗する。

「お前、何すんだ!」

「やっぱり力は佐渡君の方が強いね。本当は全部脱がせたかったけど」

 そう言うと直人はポケットからあるものを取り出した。譲はそれを目にすると、驚きで一瞬抵抗するのを止めてしまった。直人の手には手錠が光っていた。譲の力の抜けた瞬間を、直人は逃さなかった。彼は譲に手錠をかけた。譲は最後の抵抗として、手錠がはめられた状態で直人を殴り続けたが、結局器用に縛り上げられてしまった。

 座らされた譲の制服の間から、スポーツマンらしい、健康的で若々しい肉体が覗かれている。

「真園、お前、変なことしたらどうなるか分かってるよな?」

 直人は勉強机用の椅子を譲の前に持ってきた。そこに腰かけた直人は意に介していない。

「何回言わせるの? 君が喋ったら僕も君の悪事を喋るんだよ。黙って言うこと聞きなよ」直人は靴下を片方だけ外した。そしてその足を譲の口へと持っていった。「ほら、舐めなよ、今日君が僕にやらせたみたいにさあ!」

 譲は口を閉じて抵抗する。直人は舌打ちをすると、譲の頭を両手で押さえて、無理やり自分の足へ譲の唇をくっ付けた。抵抗虚しく、譲の口内に直人の足指が入り込んだ。直人はしっかりと舐めさせるために、譲の頭を前後左右に振り回した。譲は息ができなくなってきた。しかし手錠をつけられ体も縛られた状態では、抵抗はもちろん、もがくことすらできない。

 ようやく直人は譲の頭を解放した。譲は文句を言おうにも、息をするのがやっとなせいで話すことができなかった。紅潮した彼の顔に、直人は唾液にまみれた足を押し付けた。ペンキのように、譲の顔に唾液を塗りたくっていく。

「興奮してるの?」

 直人の顔を見れば、彼は無邪気に微笑んでいた。表情だけでは、彼に悪意があるようには見えない。

「ほどけよ」

「言われなくてもほどいてあげる」

 直人はロープをほどき、制服のボタンを留めていった。ゆっくり楽しむように。そして再び勉強机に向かうと、引き出しから手錠の鍵を持ち出し、譲の手も解放した。その瞬間、譲は勢いよく立ち上がり、直人を蹴飛ばした。

「誰がお前の言うことなんか聞くかよ! お前が脅そうが何しようが知ったこっちゃねえ。いいか、お前が告げ口したところで誰も信じないんだよ。明日憶えてろ」

 捨て台詞を吐いた譲は、荷物だけ持って部屋を出た。

「君が告げ口しても意味ないと思うよ」

 と言う直人の言葉も聞かずに――。


 翌日の昼休み、譲はいつもの仲間と集まっていた。場所は誰にも見つからないように体育館裏である。

「何だよ、話って」

 仲間の一人が譲に訊ねた。

「真園のことだ」

「真園? あいつがどうかしたのか?」

「してやられたんだ、あいつに」

「説明してくれよ」

「もちろんそのつもりだ」譲は昨日のことを事細かに話した。自身が隠れて喫煙していたことも、自分が直人に嫉妬していたことも、契約を持ち掛けられて足を舐めさせられてことも。譲は三人の仲間と共謀して直人に復讐しようと考えていたのである。「今日の放課後、あいつを襲おうと思う。今までのやり方じゃだめだ。殺す手前まで行っても良い」

 ところが三人の反応は譲の予想と違っていた。彼等は一様に不審な態度に変わっていた。

「どうした、みんな」

「ああ、いや、何でもないぜ」

 譲は少し怪訝な感情を持ったが、とにかく放課後に直人を襲撃することが決定した。


 そして放課後、いつものいじめ場所の辺りで、譲は帰宅途中の直人を見つけた。

「おい、真園!」

 譲が呼び掛けた。直人は振り向いたが、他の仲間がいることにさして驚かない。

「本当に喋ったの?」

「もちろんだ。こいつらも俺がやられたのを黙ってられないって言ってんだ。悪いな、俺はお前と違って友達や仲間がいるんだよ」

「……どうもそんな感じじゃないみたいだね」

 直人の言葉で譲は仲間の方を向いた。三人とも別々の方を向いて、譲と直人の方を見ない。

「どうした? 早く真園をとっちめようぜ」

 すると仲間の一人が話し出した。

「悪い、佐渡。俺今日塾があるのすっかり忘れてたんだ。しばらくサボってたからそろそろ行かねえとまずいんだわ」

 他の二人も理由をつけて断ってきた。仲間たちは譲が止める間もなく、早々とその場から退散した。

「くそっ、こうなったら」

 譲は直人の肩を掴むと、彼の腹に思い切り拳を突き上げた。少しよろめいたところに、今度は肘鉄を喰らわす。そして顔を殴ろうとした時、これまででは考えられないことが起きた。直人が譲のパンチを避けたのである。

「避けるのか?」

「顔なんか殴ったら君が怪しまれるよ」

 意外な答えだった。いじめられている側の直人が本来発するべき台詞ではない。

「俺を庇おうってのか?」

「そうじゃない、君が殴ったことになったら契約がパーになるからさ」

「まだ言ってるのか? そんな契約には乗らねえぞ」

 直人は昨日のように無邪気に微笑んだ。

「どうかな? 今の状況だとそうも言ってられないと思うよ」

「何?」

「教えてあげようか? ついてきて」

 直人は再び自分の家に譲を招いた。譲も今日は勝った気でいるため悠々とついていく。

 そしてまたあの部屋へと入った。今日は座ることなく、いきなり譲は吹っ掛けた。

「さて、何を教えてくださるんですかね」

「……君はさ、あの三人のこと友達だと思ってるの?」

 失礼なことを訊く奴だ、と譲は憤った。

「もちろん」

「じゃあ何であの時あいつらは僕に仕返ししてこなかったわけ? おかしいよね? 佐渡君が僕に嫌がらせされたんだよ? あいつらも佐渡君を本当に大切な友人だと思ってるなら塾があっても僕のことを返り討ちにしてやろうって思うよね?」

「……」

 譲が言葉に迷っているところへ、直人はさらに畳みかけた。

「教えてあげるよ、あいつらはね、君を友達なんて思ってないんだよ」

 いざはっきり言われてしまうと、譲の勢いも一気に沈下してしまった。彼はただ「違う」と小さく呟くしかなかった。

「違わないよ。あいつらは君に嫉妬してるんだよ」ここから直人は、譲に話すタイミングを与えずに話し続けた。「いいかい? 嫉妬ってのはね、人を二つの道に進ませるんだよ。一つは君みたいに嫉妬相手を蹴落としてやろうとして屈辱的なことをしてくる奴。つまり君みたいな人だね。そしてもう一つは、その嫉妬相手に取り入ってそのお(こぼ)れを貰おうとする奴。そうしておけば自分に足りないものを補うことも盗むこともできるし、相手が何かやらかしたらそのことで自分より下にそいつを見ることができるからさ。もう分かったでしょ? あいつらは君が優秀だから、そこに取り入って自分たちも周りから良いように見られようとしてただけなんだよ」

「そんなことは」譲はようやく口を開いた。「そんなことは……ないと思う」

「じゃあ思い出してみれば? 佐渡君の周りに来る人がどんなだったか」

 自分の周りに集まってきた人物――そういえば小学生の頃から、譲は誰かと放課後に遊んだという記憶は無かった。昔から優秀だった譲は同級生たちから一目置かれていた。だから所謂(いわゆる)高根の花に似たものだったのだろうと彼は思っていた。ところが彼等は決まってある時が来ると譲に近づいてきた。テストの時である。しかも彼らが口にするのはいつも同じだった。ノートを貸して、答えを教えて――中学生になってもそれは一緒だった。定期試験が近くなると、みんなこぞって、()()()()()()譲に近づいてくるのである。そして必ず、ノートを見せてくれ、と頼んでくるのだ。よくよく考えれば、自分から話しかけることはあっても話しかけられることはなかった。彼等は譲のことを完璧なノートとしか見ていないのか?

「頼られてるんだ。それに、自分で言うことじゃないけど、女子たちからも人気があって、真園もそうだろう?」

 直人は譲の言葉を聞いて首を横に振った。

「そんなのも自分たちに影響がないから勝手に騒げてるだけさ。君、一度でも告白されたことある?」

 これも譲に思い当たる(ふし)はない。つまり彼は恋愛とも無縁となっていたのだった。

「真園」譲は重い口を開いた。「お前の目的は何だ?」

「僕はね、僕と同じ立場の人を見つけること、ずっとそれが夢だった。僕と同じように成績優秀でみんなからちやほやされて、でも本当はすごく孤独な人。君に初めて話しかけられた時、まさに理想の人間が現れたって思ったね。しかもおまけにスポーツも得意なんだもん。僕に無いもの持ってるなんて、初めて嫉妬しちゃった。そしたら佐渡君、いつの間にか僕をいじめてきてさ。佐渡君も嫉妬してるのが伝わってきた。だから僕もやり返さないと気が済まなくなってきたんだ」

「そこで俺が煙草を吸ってるのを見たってわけか」譲は納得こそしていないが理解だけはしてやろうと思った。「それで弱みを握って脅してやろうと?」

「君が言ったみたいに、今までなら告げ口したって信じてもらえないよ。でも思ってた以上に君が単純な人で良かったよ。自分から種を蒔いてくれたようなもんだからね」

「どういうこと?」

「分かんない? そういう人の心情に関する考えはあんまり得意じゃないんだね」直人は笑いながら続けた。「自分から仲間に言っちゃったから、あいつらが君の弱みを握っちゃったでしょ? ああいう奴等はそういうことで自分たちと異端なところが分かったら平気で裏切るんだ。きっと明日にはこの話が広まって、それを信じる人が増えちゃうってことさ。さすがにみんな自分の身が大事だから、先生にチクろうってする奴はいないだろうけど

「先生は信じないだろ」

 譲が言うと、直人は待ってましたとばかりに話題を変えた。

「だから僕と契約してほしいんだ。先生に言わない代わりに僕の言う通りにしてもらう」

「意味分かんねえ、それとこれとどういう関係があるんだ」

「先生は確かに信じない。でも噂が広まったらそうとも言ってられなくなるよ。一応先生も形式だけでも調べるだろうから、味方がいなくなった状況だと、誰がその噂のことを言い出すか分かんないよ」

 直人の言う通り、譲は人の心理をしっかりと読むことが苦手らしい。彼にもう少し学力面以外での理知的な部分があれば、直人の言い分にも穴を見つけ、反論できていたかもしれない。だが彼には無理だった。譲はとうとう屈した。

「何をすれば良いんだ?」

「昨日みたいなこと」

「また縛るのか?」

 これを聞いて直人はくすくす笑った。

()()()()じゃない、()()()()()()。つまり、君が僕にしてきたいじめを、この部屋で僕が君にやるんだ」

「ってことは……」

「そう、こういうこと!」

 言い終わらぬうちに、直人は譲の腹を殴った。力は譲よりも弱かったが、的確に急所を突いたがために、ダメージ量はさほど変わらなかった。譲がよろめくと、今度は背中に肘鉄が来た。

「だから顔は殴ってほしくなかったんだ。二人とも顔に傷があったらおかしいでしょ」睨みつける譲を見て直人は続けた。「あ、ここではやり返すのは無しだからね。やり返したいなら昼休みか放課後に。外と中じゃ条件は違うけど、そこはまあ目を(つむ)ろっかな」


 直人の予言は正しかった。翌日、譲が登校して教室に入ると、急に空気感が変わったのである。挨拶はいつも通りしてくれるのだが、彼らの視線はいつものものではなかった。最初譲は、直人に言われたせいで変に過敏になっているだけだと思ったが、仲間内三人ですらよそよそしくなったのを見て、完全に自分の蒔いた種が広まってしまったことを痛感することとなった。

 彼は文字通り孤独になった。昼食の弁当も一人で食べた。絡みに来る同級生すらいなかった。譲は直人のいるクラスへと向かった。

「真園、ちょっといいか?」

 直人は譲を一瞥したが、何も答えずに教室を出ていった。譲も慌ててついていく。二人の様子を見ている同級生たちはこそこそと何か話している。

 体育館の裏まで来ると、ようやく直人が口を開いた。

「佐渡君って短絡的だよね? あんなところで急に話しかけるなんて」

「まさかとは思うけど、お前が裏で何か手を引いてるわけじゃないよな?」

「そんなわけないでしょ。ほとんど誰とも喋らないのに」

 話をしている譲の目に水道が入った。そこにはバケツも置いてある。ちょうど顔を突っ込むことができるくらいの大きさの――。

「お前昨日やり返したいなら昼休みか放課後って言ってたよな」

「その代わり君がやったことをそのままやり返すけどね」

 聞きながら譲は水道まで行き、バケツに水を汲んでいた。

「それも対等ってことか?」

「そういうこと」

「だったら!」

 譲はバケツを直人の傍に置くと、そのまま直人の頭を鷲掴みにしてバケツにぶち込んだ。溢れた水は勢い良く地面に飛び散った。譲は直人を押さえ込み続けた。直人はただもがくことしかできない。

「どうだ、苦しいか? え? 何とか言ってみろよ!」

 時折直人の頭をバケツから引き上げて息をさせても、すぐにまた水中に押さえ込む。譲は何度もそれを繰り返した。

 授業開始五分前の予鈴が鳴った。直人はようやく解放された。力を入れることができなくなっている直人は、地面の上に仰向けに寝転がったが、その顔には満足感があった。

「佐渡君やる気だね。良いよ、僕も応えてあげる。これで終わっちゃだめだからね。ちゃんと今日も(うち)に来るんだよ。もし来なかったら、分かってるよね?」

 放課後、二人に何があったのかは想像に難くない。直人はすでに水を汲んだバケツを用意しており、昼休みの時のように、今度は直人が譲の頭を何度も押さえつけた。


 最初は自分が不利益を被らないためだった。そのために譲は、同じようにいじめられることが分かっていても、直人の家へと足を運んでいたのだ。それに自分が『屈辱』を受けていることは誰にも知られていないし、翌日の昼休みにその『屈辱』を相手に意趣返しすれば良かったのだから。

 ところが、直人とのこのやり取りを一ヶ月以上も続けていると、本来の目的から離れた別の目的が譲の中で生まれてしまったのだった。彼は直人をいじめている時よりも、直人からいじめられている時に快感を覚えるようになっていたのである。自分が『嫉妬』していた相手をいじめていたはずが、逆にこちらが『屈辱』を受ける――まるで自分のいじめ方が足りなかったから向こうから()()()()()()()()()()ような感覚に譲は陥っていた。そういえば直人も、譲に対して嫉妬していると話していた。もしかすると彼も、譲からのいじめが快感だったのかもしれない。以前に譲は冗談で直人が興奮していると言ったが、本当に彼は快楽に溺れて足を頬張っていたのではないか。いや、推測せずとも明らかに最近の直人は興奮を隠さなくなっていた。譲からいじめられている時も、放課後に部屋で譲に罵詈雑言を浴びせながら、時に肉体的に、時に精神的に責苦を与えている時も、彼は声が上ずり汗を流していた。もちろんこれは譲も同じだった。

 昼休みのいじめも、譲から直人への注文に近い儀式になっていた。その時の譲は、直人の苦痛に歪む顔を楽しみながら、脳内では、窓からの夕陽に照らされながら同じような責苦を与えられる自分の姿を想像して生唾を飲み込んでいた。


 気づけば十二月に入った。この日は期末テストの最終日であり、すでに勉強の緊張から解放されている者もいれば、試験開始寸前まで教科書とにらめっこをしている者もいた。

 だが今の譲にノートを貸してくれと声をかけてくる者はいなかった。しかし譲も、特段それを気にしている様子はなかった。彼の頭は、試験後の直人との()()でいっぱいだったから。

 試験は問題なく終わらせることができた。譲は教室を出ると購買部へと立ち寄り、そこで弁当を一つ購入した。そしてその足で職員室に向かい、普段は閉鎖されている屋上の鍵を借りた。彼の裏の顔を知る由もない教師は、譲が適当な理由を伝えると、あっさりと屋上への鍵を渡したのであった。

 直人の教室に行くと、彼は本を読んでいた。教室に彼一人だったのは譲には――もちろん直人にとっても――都合が良かった。譲は直人の耳元で囁いた。

「俺が教室出てしばらくしたら、屋上まで来てくれるか?」

 直人は黙って頷いた。廊下にはまだ何人か生徒が残っていた。譲は何食わぬ顔で教室を出ると、屋上へと向かった。


 直人が屋上の扉の間へまで来ると、譲が腕を組みながら壁に凭れて待っていた。「遅かったな」と彼が声をかけてきた。

「屋上に何か用事?」

「今日は面白いことを思いついてな。ついてこい」

 譲が鍵を開けて屋上へ入った。直人も言われたとおりについていく。今日の空は気持ち悪いくらいに快晴である。本来であれば、太陽の光が冬の寒さを和らげそうなものだが、折から吹く北風がそれを許さなかった。

 譲は屋上の端へ行くと――普段から閉鎖されているために必要ではないからか、この学校の屋上にはフェンスがなかった――そこからの景色を見下ろした。校舎から校門の間には、まだ何人もの生徒たちが残っていた。これもまた譲には好都合だった。

「ここで脱げ」

 譲は命令した。直人は言われた通りに脱ぎだした。これまでにも譲に脱げと命令されたことは何度もあった。直人の白い上半身は北風にさらされてさらに透き通るような白さになった。譲は近づくと彼の腕を思い切りつねった。直人の痛がる顔を見て、譲は微笑を洩らした。つねられた箇所に赤く斑点が付いた。

 直人の目は恨めしそうにしながらも、まだこれ以上のものを求めていた。譲も今日は上半身だけで許すつもりはなかった。

「何やってんだよ、下もだよ。パンツまでは脱がなくていいからな」直人は少し驚いた様子だった。だがすぐに言われた通りに脱ぎ始めた。彼はトランクス一枚になった。「トランクスか、お前のことだからブリーフかと思った」

 譲はカバンからあるものを取り出した。それは犬にはめる首輪だった。大型犬用なのか、その大きさは人がはめてもぴったり合うサイズだった。首輪の先にはしっかりとリードも付いている。

「言いたいこと分かるよな?」直人は素直に頷くと、譲の足下に座り込んだ。言われるまでもなく正座である。「よし、素直で良い子だ。俺の団地ペット禁止だから犬が欲しかったんだよなあ」

 首輪をはめられた直人は正座のまま、譲の方を見上げた。譲は彼の頭を本当に犬を愛でるように撫でた。そして直人の前に、先程購買部で買った弁当を差し出した。

「さあ餌だ、喰えよ」直人は差し出された弁当を手で食べようとした。すると譲はそれを止めるように彼の顔に平手打ちを喰らわせた。「おいおい、何お犬様ごときが手を使おうとしてんだよ。分かるだろ、俺が言いてえことがよ!」

 言われた直人は自ら手を後ろに組むと、顔を弁当の元まで下げ、口で食べ始めた。その様は譲の言う通り、お犬様そのものであった。

 譲は大笑いした。そして、これをこの後直人の部屋で自分がやるのかと想像して興奮を催した。

 ある程度直人が食べたのを見計らって、譲はリードを引っ張った。その勢いの強さで直人は倒れそうになった。

「直人、お前すげえよ! すげえ似合ってるよ! こっちに来い、みんなに見せてやるんだ」

 直人は今まで見せたことのない動揺を見せた。自分たちのこの行為を他人に見せるつもりなのか?

「さ、佐渡君、さすがにそれはやばいんじゃない?」

「良いから来いよ、お前の面白い姿、見せなきゃもったいないだろ!」

 先程譲が下を覗き込んでいた場所まで直人を引っ張ってくると、譲は彼をそこで四つん這いにさせた。直人は無理矢理下を覗き込むような姿勢にされたのだ。

 譲はその後ろからリードを持ったまま、一緒に下を覗き込んだ。下にいる生徒たちはこちらには全く気づく気配もない。

「さあみんなにアピールしろよ」

「アピールって何すればいいの?」

「決まってんだろ? 犬がやるアピールつったら鳴くんだろうが」

「そんなことしたら気づかれちゃうよお」

「気づかれればいいんだよ、俺等のこの遊びをさあ! 明日から学校に来れなくなるかもな!」

「や、やだよお……」

 これまでどんないじめに遭っても泣かなかった直人が初めて泣き出した。だがそれで譲の責苦が止まるわけではない。それどころかますます彼は昂っていた。

「泣いてんのか? 泣いてんのかよ? 俺が言ってんのはそっちじゃねえよ、ワンって吠えろって言ってんだよ。泣いてる暇があったら言えるよな? ほら吠えろよ、ほら!」

 譲の怒号が大きくなる。しかし下の生徒たちはこちらに気づいていない。

 ついに直人は折れた。小さな声で「ワン」と鳴いた。

「そんなんじゃ聞こえねえよ。もっと大きい声で!」

 直人は続けざまに「ワン」と鳴く。「もっと!」という譲の叫びが響く。徐々に直人の遠吠えが強くなる。屋上に近い何人かの生徒がこちらを見たが、ちょうど死角になっているのか二人には気がついていない。校門の方へ向かっている生徒にいたっては、直人の怒声すら聞こえていないだろう。

 生徒がほとんど帰った頃、譲はリードを引っ張り、直人を端から引きずった。どれくらいの時間そうしていたのかは分からないが、体感では一時間も二時間も経っているのではないかと思われた。譲は直人の首輪を外した後、食べかけの弁当を片付けながら話した。

「服着たらすぐに帰れよ。教師に見られたら変な顔されるかもしれねえからな」

 要は直人に先に帰らせて今の行為の準備をさせようという算段だった。ところが直人の答えは意外なものだった。

「終業式まで、待っててくれる?」


 それから約二週間、譲は悶々とした日々を過ごした。暗黙的に昼休みのいじめすら封じられていたのである。もしかするとやり過ぎたか、とも思ったが、これまでどんないじめだろうとやり返してきた直人が急に冷めるとも思えなかった。そもそも彼自身から、終業式まで待て、と言ったのだから絶対にそのようなことは考えられない。

 そうこうしているうちに、二学期の終業式の日になった。周囲からパーティーがどうこうという話が聞こえてきたが、孤独な譲には関係のない話であるはずだった。そのパーティー関係の話題の中で、直人の名前が出てきていたのだ。直人は一体何をするつもりなのか、譲には理解不能だった。

 終業式も滞りなく終わり、明日から冬休みとなった。みんな各々の年末年始を楽しむために、そそくさと帰っていった。だが譲だけは学校に残っていた。直人を待つためである。校門の前で、彼は直人を待った。周囲の目も気にしてはいない。今は直人からの快楽的な『屈辱』を求める獣そのものだった。

 待ち続けること数十分、とうとう直人が現れた。直人は譲を見つけると、優しく微笑んだ。初めて譲が彼に話しかけた時と同じような、美しい微笑だった。

「待っててくれたんだ」

「今日まで待てって言ったのはお前だろ」

「そうだけどさ……ここで話すのもあれだから、部屋に行こうよ」

 二人は直人の部屋に着くまで一言も話さなかった。彼等の欲望を全てあの部屋で解放するために。

 そして譲は、二週間ぶりに直人の部屋へと足を踏み入れた。時間が早いためか、窓からは西日が射していない。茜色のライトのないこの部屋の光景を見るのは、譲は初めてだった。

「ここまで大変だったよ。まさか佐渡君があんなことするなんて思わなかったからさ」そう言いながら直人は二人掛けのソファに座ってジュースを飲んだ。テーブルの上には、蓋がされた直人のための昼食も置いてあったが、それには手をつけないでいる。譲も彼に(なら)ってもう一つのソファに座る。「せめていつもみたいに体育館の裏とかにしてくれたらよかったのに、そしたらあの後すぐに君をいじめられたのにさ」

「そんなに準備が大変だったのか?」

「大変だったよ。大丈夫、今に分かるから」

 その後も直人との談笑は続いたが、彼が行動に移す素振りを全く見せない。一体いつ譲の求める『屈辱』が披露されることになるのだろうか――。

 そうこうしていると、窓から西日が射し始めた。そして部屋の中に大きな茜色のスポットライトが生まれた。譲の見慣れた光景ができあがった。

「そろそろ良いかな」直人は立ち上がると何やら準備をし始めた。その間に譲に話しかける。「さあ、お待ちかねのショータイムだよ。まずは服を脱いでね」

 譲は言われた通り上半身裸になった。彼の肉体が顕わになると、直人は不服そうに言った。

「佐渡君さあ、君が僕に言ったこと忘れたの?」直人の言いたいことはすぐに分かった。譲は下半身も脱ぎ始めた。直人は嬉しそうににやにやしていた。譲はトランクス一枚の姿になった。「君もトランクスなんだね。よく似合ってるよ。じゃあ、そこに正座してくれる? 幕の方を向いてね」

 直人が指さしたのは、窓からの光が当たる場所だった。譲は指示に従った。夕陽が彼の引き締まった体をより鮮明にした。その時ふと譲は考えた。そういやあの幕は結局何なのだろう――。

 目の前に直人が立った。彼は右手に首輪を、左手にリードを持っている。直人はリードをぶんぶん振り回して脅している風であった。

「首輪くらい自分でつけれるでしょ?」そう言うと彼は首輪を投げつけた。直に譲は自ら首輪を装着した。「素直でかわいいね、良い子良い子」

 直人は愛犬を可愛がるように頭を撫でた。譲は羞恥で顔が赤くなった。照れてるのもかわいい、と言って直人はさらに撫で続けた。

 直人はテーブルの上の昼食を譲の前に運んだ。普段の譲が口にすることのない、高級な食材が盛りつけられていた。

「本当はワンちゃんにあげるのはすごくもったいないご飯だっていうの、忘れないでね。さあ、お食べ。もちろん、どうやって食べるかは、言わなくても分かるよね?」

 譲は手を床に着くと、口だけを使って目の前のご馳走を頬張った。食べたことのない高級な食材であることが、より彼に『屈辱』を与えた。

 直人は満足そうにその場を離れた。彼は例の幕の傍まで来ると、譲に声をかけた。

「ねえ佐渡君、君はこの幕の後ろに何があると思う?」譲は分からないという風に首を横に振った。「分からないの? ヒントはこの部屋の隣」

 この部屋の隣は社交場である。つまりこの隣は――。

 直人が幕を上げるスイッチを押した。ゆっくりと幕が上がっていく。その光景を見て、譲は愕然とした。そこには壁一面がガラス張りになっており、隣の社交場が丸見えになっていた。さらに社交場の中には――譲と直人の同級生たちが集まっていたのである。

「これはどういうことだ?」

 譲がおそるおそる訊くと、直人は平然と答えた。

「今日のためにみんなを呼んでおいたんだ。君が屋上からみんなに見えるようなことするからだよ。でも安心していいよ。これ、マジックミラーだから向こうから見えないし」

「どうやったんだ?」

「冬休み前にパーティーするからって招待状を送っといたんだよ。みんなちょろいね、高めのプレゼントを用意してるって書いたら、こうやってほとんどの人が来てくれたんだから。普段は僕と喋ろうともしないくせにね」直人がさらに言うには、この部屋はもともと社交場用の控室だったらしく、マジックミラーも向こうの様子を確認するためのものであったらしい。「まさかこんなことに使える日が来るなんてね、夢にも思ってなかったよ」

 口ではこう言っているが、もしかすると直人は始めからこうなるように仕組んでいたのかもしれない、と譲は思っていた。自分が理想に合った人間というのも、本当はこの遊戯のための理想だったのではないだろうか――。

 直人はさらに続けた。

「あとこれ面白い機能があるんだよ」

 また別のスイッチが押された。すると突然部屋が騒がしくなった。いや、部屋がうるさいのではない。隣の社交場の音がここに響いているのである。

「マイク機能……」

「そう、これで向こうの会話は筒抜け。さあ、これでこの前と同じ状況に近づいたんじゃない?」

 譲は答えない。どうしたのかと直人が彼の視線を辿った。もちろん視線はマジックミラーに行っている。問題はそこにいる人物だった。そこには男子が三人――譲の元仲間たちがいたのだった。

 直人は一瞬予想外な表情をしたが、すぐにまた微笑みを取り返し、譲の元へ戻ってリードを手にした。

「あの子たちもちゃんと来てくれたんだね」

 三人の会話がマイク越しに聞こえてきた。

「佐渡の奴、来てねえのか」

「そりゃあ今の空気じゃ来にくいよな」

「それとももう来てるかもしれねえぞ」

「たしかにな、今頃真園といちゃついてるかもな」

 そこにある二人組の女子が現れた。

「えっ、やっぱり真園君と佐渡君ってデキてんの?」

「デキてるだろ。足無理矢理舐めさせるプレイとかおかしいだろ?」

「今考えてみたら、俺等の前で佐渡の足舐めさせてたのも何かのプレイだったのかもな、気持ち(わり)い」

「いいじゃん、いちゃつかせてあげれば。二人ともかっこいいから絵にもなるし」

「言ってるあんたも顔笑ってるよ」

 譲は自分が涙を流していることに気づいた。その理由は『屈辱』だけではない。言葉で罵られ、奇異の目で見られることの『歓喜』も入っていた。

「これで分かった?」直人が後ろから耳元へ話しかけてきた。密着した彼の体は、じっとりと汗ばんでいる。「みんな僕たちのことをこういう風に見てるんだよ。嫉妬と侮蔑が混ざった目でね」

 嫉妬と侮蔑の混ざった目――彼等は二人の高い能力に『嫉妬』しながら、二人の恥部を知り侮蔑の目を以って『屈辱』を与えてくるのである。

 直人は昂った声で譲に話しかける。

「これで僕たちは本当に対等だよ。こうやってずっとみんなから蔑んだ目で見続けられるんだからね」直人はリードを引っ張り、譲の上体を起こした。「さあ言えよ。お前はみんなの畜生なんだよ、ここでみんなの犬になるんだよ!」

「俺は……」

「俺? 君みたいなど畜生が俺なんて言うの?」

「ぼ、僕は……僕は、犬です、蔑まれて、蹴られて生き続ける、汚い家畜です!」

 茜色の夕陽が二人の姿態を溶かすように、熱くぎらぎらと照らし続けていた。


 彼等の関係が卒業後も続いたのかは不明である。

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