72.閑話――秘された時間
――それは、彼女が覚えていない時間。
キーファだけの胸に秘めた記憶だ。
あの晩――学内に残るリディアを気にかけながらも、ウィルと共に体育館で過ごしていたキーファは、不意に構えていた手を下ろし、短剣を腰に収めた。
「なに?」
対峙するウィルが拍子抜けしたかのように、キーファに問いかける。キーファは軽く頭を振り、出口へと向かう。その足は急いていた。
「なに、どうしたんだよ?」
「遅すぎる」
そう言って、個人端末の時計を確認する。ウィルは訝しげだったが、黙ってキーファについてきた。
「先生のことだから、帰る際には俺たちの様子を見に来ると思う」
ケイとの面談は、なくなったはず。そう思うが、胸騒ぎがした。
彼女は帰り際に、必ず教室を覗くのをキーファは知っていた。だからキーファとウィルが二人で体育館にいるのを知っていれば、恐らく様子を身に来るはずだと思っていた。
けれど、今だに来ない。さすがに遅すぎる。
そしてウィルは、反論も疑問も挟まなかった、ただキーファと同時に中庭から校舎を見上げる。
「部屋の電気、ついてるな」
リディアの研究室の明かりはついていた。二十一時だ。いつも遅くまで仕事をしているが、さすがに遅すぎるだろう。
(仕事で残っているなら、いいが)
ケイからの干渉にリディアが被害にあっているのを知っているキーファとしては、嫌な予感しかない。もっと早くに行動を起こすべきだった。
――らしくない、どうもリディアが相手だと後手後手に回っている気がしてならない。彼女が助力されるのを嫌がる傾向があるから、ついためらいが生じてしまうのだ。
そう思いながら階段を二段飛ばしで昇っていたときだった、人気がない照明を落とされた踊り場から声がした。
『――なあ。俺んちいかない? すぐ近くだし。休んでいけよ』
『……』
誰もいないから声音を抑えていないのだろう。応じる声の主が何と言っているかは聞こえないが、キーファは顔を強張らせた。
こういうとき、自分の予感はよくあたる。
『何もしないから、な?』
「その言葉は本当に守る気があるのか?」
キーファの姿に、階段上にうずくまる女性に密着していた生徒――ケヴィンが、ハッと顔を上げる。
「悪いが、俺には本気で言っているようには全く聞こえない」
「キーファ……ちがうって」
「――お前、そうやってすぐ手を出してただろ。いつも喰った女子を自慢してたけどな、リディアには手を出すなよ」
ウィルがキーファを後ろから抜いて、ケヴィンを威嚇するように睨み、蹲る女性――リディアの肩に手を置く。
「リディア、帰ろう」
首をふるリディアは明らかに様子がおかしかった。
問うような眼差しを向けるキーファに、ケヴィンはふてくされて返事をする。
「俺じゃねーよ。お前らと同じ領域の、金髪の男。あいつが、リディアに魅了かけて、腕掴んで上に乗りかかってたんで、俺が止めてやったの。な、リディア」
リディアは答えない。ただ、不安げにケヴィンに視線を向けただけだった。
その様子にキーファは、苛立ちを覚えて、ケヴィンもウィルも押しのけるように、リディアの視界に割り込んだ。屈んで顔を覗きこむ。
「先生、病院に行きましょう」
「……いかない。帰るの」
苛立ったのは、ケヴィンに向けるリディアの様子が幼子のように頼りなく、そして容易にケヴィンに頼って騙されてしまいそうだったから。
そんなのいつもの彼女じゃない。けれど、彼女は時々ひどく脆いのをキーファは知っている。
「――でも、階段がぐにゃぐにゃで」
「怖い」小さく、キーファにしか聞こえない声でリディアが呟いた。その目は赤い。泣いてはいないが、必死で堪えているような眼差しに、キーファの中で何かの箍が外れた。
抑えていた何かのストッパーが外れた。
教師だから彼女の意思を尊重する、そんな曖昧なものはもうどうでもいい。そんなものに構っていたら、何もできない。
そう感じたと同時に、キーファは「失礼します」と言って、問答無用でリディアの膝裏と背中に手をやり、彼女を抱き上げていた。
「……や」
「――階段を下りるだけです」
低く耳元で囁くと彼女は大人しくなり、キーファに身を任せる。
「俺、裏門にタクシー捕まえとく」
ウィルはこういうとき行動が早い。キーファの行動が面白くないだろうに、優先するべきことがあると、ウィルは自分の気持ちを抑えて行動できるのだ
後で色々言われるだろうと思いながらも、キーファはウィルに「頼む」と告げた。
そして一段一段、慎重に降りる。
「なあ、どこにつれてくの? 俺も」
「病院だ。ところで、ケヴィン。その魅了とは?」
間髪いれずに問いかけると、ケヴィンはキーファの放つ気配に何かを悟ったのか、それ以上は強請ることなく、答える。
「キスされてたとこしか見てねーけど、その後からおかしな感じになってたな。抵抗するよりぼんやりして、なんか飲まされたんじゃねーの」
「--そうか」
「なんか酒飲ませすぎて、ぐでぐでになってる女の子みたいだよな。または、薬? あったよな、王様ゲームの薬。あれでもここまで効くってなかなかないよな。今なら簡単にヤレそー」
キーファが珍しく感情をむき出しにした睨みを見せると、ケヴィンは焦ったように話題をかえる。
「あの金髪、なに考えてんのかわからなくて不気味だよな」
キーファは校舎棟の自動ドアの前でケヴィンを振り返る。
「後はこっちで引き受ける」
「え、でも――なあ、お前、先生のこと好きなの?」
キーファはリディアを見下ろして口を開く。眉間にぎゅっとしわを寄せて、窮屈で苦しそうな顔だ。まるで泣くのを堪えているみたいで、早く楽な体勢を取らせてあげたいと思う。
「――先生は、俺に初めて『魔法が使えるようになる』って断言してくれたんだ」
「え、あ、ああ。――そうか」
ケヴィンは気まずそうに返事をして、そそくさと引き下がる。
キーファの弱みを吐露されて、微妙に笑みを浮かべている。気まずいというより、キーファより優位に立てて嬉しいのだろう。
でもそんなことどうでもいい。彼女から引き離したい、早く立ち去らせるために、自分に対して優越感を与えさせてやるぐらいどうでもいい。
「お前魔法使えなかったんだよな、そうだよ、何とかなるって、うん」
「ミユが勘ぐるから、今日のことは口にしないほうがいい。かなり先生に対抗意識を燃やしているみたいだ。同じシルビス人として」
「あーやっぱり? でも俺、振られたし」
「ミユは常に彼をキープしておきたいから、そう簡単に手放そうとはしない。ただ好条件の相手を探すのが癖になっているだけだ。よりよい条件を提示すれば戻ってくるさ。君の実家に連れて行ったら、気が変わると思うよ」
「え、あ、そっか、そうかな」
本気で検討をし始めたケヴィンを残して、キーファはリディアを抱いたまま裏門へと足を進める。
ふと、リディアの腕時計が点滅しているのに気がついた。個人端末と連動させているのだろう、モニターに着信とひとつの番号が提示されて消えた。
キーファは首を傾げて、胸のポケットの個人端末を口頭で起動させて、先ほどリディアの腕時計に載っていた見知った番号にかける。
『――キーファ、何の用だ?――もしかして、今あいつと一緒か?』
即座に反応する声。
マーレンは、リディアのことを気にしていた。ずっとやきもきしていたのだとキーファには推測できる、自分も同じだったから。
だから、今のこの状況を利用しようとも、彼を出し抜こうとも思わなかった。
「ああ。少し問題が起きたんだ。今から家に送って行く」
『――お前、手出すなよ』
唸る声が即答する。
「マーレン。そんな場合じゃないだろ」
『お前だって男だ、そうだろ? きれいごと言うだけで見守っていればいい、そんな腑抜けた奴じゃねーだろが』
マーレンの挑発をキーファは黙って聞き入れ、静かに口を開いた。たしかにそうだ、マーレンの言葉は乱暴だが頷けるものがあった。
むしろ、何もしないでいる男と見られるほうが屈辱だ。
「それでも。こんな状況で手を出すほど最低じゃない」
『――仕方ねえ。今日は、お前に任せてやる。――お前だから任せたんだからな!』
通話の先では、ざわめきが聞こえた。音楽と話し声、恐らく何かのパーティの最中にかけてきたのだろう。
マーレンからの一方的で勝手な宣言の後、通話が切れる。
キーファがリディアに目を戻すと、彼女の手は自分の甲に爪を立てていた。苦しげな顔、まるで意識と連動させるように、手にはいくつもの爪の跡がある。
キーファはそれを痛ましげに凝視して、穏やかな口調を心がけて呼びかける。
「先生、手を離してください」
「……だめ……しっかりしなきゃ」
開けることのない目。まだ、警戒をとかれていない。
「大丈夫です。力を抜いてください」
キーファはリディアを抱え直し、己の胸に強く引き寄せて安定させる。
リディアの傷つけようとする腕を抑えると、彼女は薄っすらと目を開く。
「キーファ?……あるけるから」
腕の中で、リディアが呟く。自分の名を呼ぶ彼女の声に心臓が跳ねた。
まだぼんやりとした不安げな眼差し、これまでで一番近い距離を意識して心臓が煩く騒ぐ。
彼女は腕の中にすっぽり収まるほど、軽々抱えてしまえて、驚く。
戦闘集団にいたのに、華奢で小さくて頼りない――守るべき存在。
リディアの重みが、この腕にかかっている、彼女がここにいる。
「……ごめんなさい。あなたの忠告が、ただしかった」
キーファは、たどたどしく話すリディアに妹にするように穏やかに言い聞かせる。
「ならば、今は、俺の言うことを聞いて。いいですね」
「うん」
「家に帰ります。送っていきます。いいですね」
「…うん」
リディアが呟く、瞳が閉じる。
「あなたの魔力……安心する」
リディアの発言は深い意味はないだろう。薬に侵された上での、寝言のようなものだ。そうはわかっていても、心をその言葉が強く打つ。
魔法を使えない、何の用途もなさない魔力。なければいいのにとさえも思っていた。
なのに彼女は安心すると、気を許してくれるなら。
(あなたが安心するならば、この魔力が、あってよかった……)
初めて、そう思えた。
「もう怖いことはありません。俺が、あなたを守りますから――リディア」
囁くようにつぶやく。
リディアには、聞こえたのかどうかわからないほどの小さな独白だった。
けれど、彼女は苦しげな表情を緩めて、眠りに落ちるようにキーファの胸に顔を預けた。
キーファはためらうようにその頭に顎を寄せ、そして瞳を閉じて彼女の額に唇を触れた。




