69.嗜好
目覚めたら、朝だった。自分の部屋だ、朝日が差し込んでいた。
リディアはベッドの上でボーっとしたあと、自分の格好を見てぎょっとする。
ブラウスもスカートもしわだらけ。化粧も落としていない、たぶん。
「何で――」
リディアは顔をこわばらせて、慌てて左腕、そして左胸を見る。そして息を安堵で吐き出した。
呪いは――変わっていない。無くなってもいないが、広がってもいない。腕に刻まれた痣も、それを抑える魔法も健在だ。
「やっぱり夢――だった」
でもその前に昨晩のことを思い出してくる。
確か――ケイと面談の最中に意識がおかしくなって、何を話したのか記憶がうろ覚えだ。
(やだ。変なことは口走っていないと思うけれど……)
リディアは、唇をなぞる。生々しい感触を思い出すと震えが走り、思わず腕で身体を抱いた。
(……)
首を振る。口を手で覆って、大きく息を吐く。
(やられた……)
――平気、気にしない。大したことじゃない。自分に言い聞かせる。
(ケイには、何か目的があった……)
性的な接触ではない、彼はそんなことを目的にしていない。何かのためにリディアにあんなことをした。気にしなきゃいけないのは、彼の得体の知れない意図だ。
(魅了ね……)
彼は、本当に自分に魅了の魔法があると思っているのだろうか。一体何を考えているのだろう。
(それに、なにか――夢を見た気がする)
部屋の中を確かめるように左右に首を巡らせた時、サイドテーブルに載ったコップに目を留めた。
「どうして――」
手に取り匂いをかいで、それから指につけてなめてみる。
コップに半分ほど入っていた液体は水だった。
――ベッドサイドにコップを置いたことなど、一度もない。つまり、誰かがリディアのために置いてくれた、ということ?
(誰かがいた――)
「誰?」
リディアは顔を強張らせて、記憶を手繰るが思い出せない。
(夢の中で誰かに慰められたのは、――夢じゃないの?)
不安げに顔を曇らせて、ベッドから降りて鏡の前に立つ。あまりいい夢だった記憶はないが、意外にもすっきりした顔をしている。化粧も落としているみたいだ。
(全然記憶が無いけど……)
昨日の服を脱ぎおろして迷う。このままシャワーを浴びるなら着ないでもいいかと、下着姿のまま部屋を出る。
素足に触れる床の冷たさが心地いい。
身体を締め付ける感覚がいやで、ブラジャーのホックに手をかけて脱ぎかけながら、部屋を出たところで、違和感に目を瞬いた。
ひとだ、人がいる――。
「――っ、ひっ」
だが、喉は引きっつた声を上げただけ。情けないことに頭がまだ働かない。
その存在が知っている魔力を持つものだと気づいたのは遅れてだ。
リディアの部屋は二間だ。論文を集中して書くために、手狭の部屋にベッドと机を置いている。もう片方は、キッチンつきのリビングにしているのだけれど。
「あ、リディア! ……起き……た?」
そのリビングでは、壁に背を預けて部屋の様子をなんともなしに眺めていた男性――ウィルがいた。彼はこちらを見て、そして――固まった。
ウィルの顔は、ゆっくりとリディアの胸をみて、足まで下りて、また胸に戻る。そして、リディアの顔を見て、手をあげる。
「よ……お、おはよう」
赤い顔、困ったような作ったような引きつった笑み。でも、その目線はリディアの胸に向けられて、そこを凝視している。
リディアは、悲鳴のように喉を鳴らして、それからくるりと背を向けて慌てて寝室に駆け込んだ。
「――リディア!!」
追いかけてくる声、掴まる前にリディアは彼の鼻先でドアを閉める。
『なあ、平気!? 具合はどう?』
(なんで、なんで!?)
『あ、その、今のは……見るつもりじゃなかったと言うか……』
ウィルの声がドア越しに聞こえる。
(なんでなんでなんで!?)
「み、みたの?」
『見てない、えーと見てません!』
嘘だ、見てたよね!
『嘘です。ごめん、見えた。でも下着しかみてない』
ひいっとリディアは声にならない叫びを上げた。
『黒って意外だったけど、悪くないつーか――うん、好み、かも』
なんか言ってる。ドアの外でつぶやいている。
(なんなのなんなのなんなの!?)
リディアは口を手で抑えながら、心中で叫ぶ。
『――だから! その……いいって言いたくて、だから隠さなくていいってばって、いっ……てぇ!』
ガンって言う音がして、ウィルの悲鳴が聞こえた。ズルズルとドアに重いものが寄りかかる気配、何が起きているの?
『――先生、すみません。ウィルを黙らせました』
ウィルの声じゃない、別の声が響いた。キーファだ、キーファの声が聞こえる。リディアはまた悲鳴を喉の奥であげた。
『ヤツには見た全てを忘れさせます。二度と言わせませんから』
(――もういい、もういいよ!)
それより、もうその話やめて。
そんなことより、なんでキーファが? 私は一体、昨夜は何をしたの?
ドアを背で押さえて、自分の格好を見下ろす。前後を紐で結ぶパンティ。ブラジャーは、背中でストラップ代わりの三本の紐が食い込む形。下着のデザインは好きだ。
そして昨日の下着のままだ。
脱いでいないはず、そう信じたい。
でも――わからない。
「わた、わたし、昨日――なにしたの?」
上ずった声で尋ねるとノックの音がやむ。考え込むような沈黙。リディアが息を呑んでいると、キーファの落ち着かせるような声音が響く。
「先生、勝手に上がりこんですみません。昨晩、先生の様子がおかしかったので二人で付き添ってタクシーで帰りました。心配だったのでそのままこちらの部屋で待機していただけです、先生とは何もありませんので安心してください」
リディアは、昨日、と呟いた。リディアの知りたいことを全部キーファは説明してくれた。
リディアは部屋着のTシャツを被り、ショートパンツをはいて、ドアを開けた。そして、目の前に佇む男二人を不安げに見上げた。
「私、えーと」
二人並ぶと、壁みたい。長身の男性が二人、リディアを見下ろしている。心配げな顔に自分が小さな子どもになったような気分になる。
何を聞こう、彼らはリディアに危害を加えていない、それは十分わかる。でも、自分は彼らに何をした? どれほど迷惑をかけた?
「あの、私、タクシー代払った……?」
ぐるぐると渦巻く思考の中、リディアの口から出たのはまずそれだった。




