50.親子
ヤンが出ていった後、リディアはしばらく放心していた。
次々に現れる人や、情報に頭がついていかない。そして、立てない。
時間にしては僅かだっただろう。ノックの音にまたもや慌てて背筋を伸ばす。この部屋は共有なのだ、予約はなかったと思うが、誰かが急遽利用を希望したかもしれない。
だが、立ち上がる前に、顔を覗かせたのはキーファだった。
「あ、コリンズ」
キーファが口を開く前に、リディアは壁時計を見上げた。
――十八時二十分。
何も連絡せず、かなり待たせてしまった。慌てて立ち上がりかけて、でも痛みに立ち上がれずに、顔をしかめて再度座った。
(どうしよう、立てないかも)
「先生、そのままでいください。大丈夫ですか?」
「……平気」
自分のせいだ、最悪だ。
「待ち合わせの時間過ぎてしまって、ごめんなさい。その……」
「先生の部屋に伺ったら、こちらにいると教えてもらいました」
同室のフィービーには居場所を告げてあったから、彼女がキーファに伝えてくれたのだろう。
「先程マーレンとヤンが別々に入ってきていましたね」
「ああ」
リディアは少し間をあけて、説明する。
「ふたりとも心配してくれたの」
キーファは首をかしげる。眼鏡の奥の瞳は、訝しげだ。
「足首、先程より酷くなっていそうですね。手当はしていないのですか?」
「湿布しているから」
キーファは失礼します、とリディアの前に屈んでパンツの裾を持ち上げる。皆に怪我を見られて、もう恥ずかしくて死にそうだ。
私、なにやってるんだろ。
「キーファ!」
「保健室に行きましょう、背負います」
「いい! それはいい、本当に!!」
リディアが激しく首を横にふると、キーファは見上げてくる。
その瞳が据わっているように見えるのは、気の所為だろうか。
「でも立てませんね」
「少し休憩すれば、平気」
「痛み止めは飲みましたか?」
「……飲んだけど」
「痛みが続いているんですね」
キーファは息をついて、それから立ち上がる。そうすると、背の高さも相まって凄く迫力がある。椅子に座るリディアを見下ろすが、距離が近くて……その迫力が怖い。
「こうしましょう。玄関まで送ります、タクシーで病院に行ってください」
リディアもそのことは考えたが、今はできないと首を振る。
「ありがとう。でも、今は帰れない」
キーファの表情は変わらない。けれど、訝しげと言うよりも、怒っているように見える。
「少し問題が起きて、それが終わるまで帰れないの」
「ウィルのことですね」
リディアは、返事をしなかった。ただ驚いていると、キーファは皆知っています、と告げた。
(……生徒同士のほうが、情報が早いものね)
「その足で残るのですか?」
「……そうね」
リディアはウィルの面談が終わるまでは待つつもりだった。つかまれば立てるし、廊下で待つことはできる。
キーファは「……わかりました」と、淡々という。その顔は、怒っても、不機嫌そうでもない。ただ諦めたような受け入れたようなさっぱりとした顔。
「では、固定します。触れますね」
「え?」
キーファが再度屈んで、リディアの足に触れる。彼の手にあるのは、固定用バンド。ゴム製の医療用バンドで、足首のサポートに使うものだ。
「昔、足首を捻ったときに使ったものです。家から取ってきました」
「コリンズ……」
確か、彼は一人暮らしだと聞いたけれど、家は近いのだろうか。
「恐らく先生は、受診しないと思ったので」
「ごめんなさい」
見通されている。
だって病院では、湿布と鎮痛剤の薬剤の処方をされるだけ。それに、病院は嫌なのだ。
キーファは、リディアの足首に固定バンドを巻いて、しゃがんだ姿勢のままちらりと顔を上げた。
「いつか、先生の心からの気持ちを聞きたいです」
「え」
「いつも、遠慮とか、立場を含んでの謝罪ですよね。素直に頼ってくれたら嬉しいのに」
リディアが二の句を告げずに、うろたえていると、キーファは立ち上がる。
「学科長の部屋の前まで送ります。その後、待っていますから先生の家まで送らせてください」
「コリンズ。何時になるかわからないし……」
「それが、先生がここに残ると言うのを認める俺の条件です。先生も譲歩してください」
口を開きかけたリディアは、コリンズの底光りする目に気圧されて、首を横とも縦ともはっきりさせないまま振って、結局「はい」と頷いた。
学科長の部屋を出たウィルは、リディアを見て目を丸くした。
「リ……」
リディアを見て、ギュッと眉根を寄せて怒ったように口を開きかけたウィルだが、後ろからの声に顔を強張らせた。
「おや、……友達かい?」
ウィルの後ろから、続いて出てきたのは、淡いキャメル色のスーツ姿の男性。ウィルによく似た橙色の瞳に、赤みがかかった髪の毛に髭。穏やかそうな瞳が、眼鏡の奥で細められる。
明らかにウィルの父親だ。
「私、リディア・ハーネストと申します。境界型魔法領域の助教を務めております」
リディアはその堂々として人柄の良さそうな男性に、大きく頭を下げる。
「これは……先生でしたか。失礼しました。息子がこの度はとんだご迷惑をおかけしました。アーサー・ダーリングです」
アーサーは、人好きのする笑みを浮かべて、リディアに握手を求めてくる。
「存じ上げております。私共の監督が不十分なせいで、ご足労頂きまして誠に申し訳ございません」
リディアが恐縮しながらも手を差し出すと、大きな手で力強く握るアーサー。
「いいえ。いたずら坊主で手がかかり申し訳ないのはこちらです。先生の気を引きたいバカっ垂れですよ」
あなたのような美しい人ならなおさらですね、とウィンクまでしてくるが、とても様になっている。いやらしさがない。リディアの顔が赤くなってくる。
「親父……!」
「年甲斐もなく、何をはしゃいで馬鹿なことをしているのかと思えば、そういうことか」
「あのなっ、だから、違うって!!」
ウィルにちらりとリディアは目を向ける。顔を赤くして怒っているウィルだが、親子の仲は悪くなさそうだ、よかった。
「そのことですが……、ケヴィン・ボスの親御さんとまだ話せていないのです」
「ええ、聞いております。ここに来る前に謝罪の電話を入れさせて頂きました、この後息子と自宅に伺いますよ」
「私も同行させていただいてもよろしいでしょうか」
リディアが言うと、ウィルの視線を感じた。もの言いたげなそれは、「ついてくんな」だろう。
「それはどうですかな」
ダーリング教授は、さらりと拒否した。
「休み時間のことですし、教員もいない場でのこと。全てはうちのバカ息子の責任です。息子同士のトラブルです、私はそう説明しますよ」
「ですが」
「まあ、私はこういう対応は慣れているのでね。任せて頂きたい」
力強い言葉に、包容力のある対応。リディアは恐縮して、頭を下げるしかない。
「恐れ入ります。では、お任せいたします」
「また後で報告をいれますよ。――ところで」
エレベーターホールまで案内するリディアの足に、アーサーは目を向ける。
「その足は、うちのバカ息子ですか?」
「いいえ。私の不注意で転んだだけです」
リディアの足は、固定がなされて、来賓用のスリッパを履いている。誰もが怪我をしているとわかってしまう姿。それに気がついてか、彼らもゆっくり歩いてくれる。
「お見苦しい姿を見せてしまい、恐縮です」
リディアが言うと、アーサーは穏やかな瞳でゆるゆると首を振り「お大事に」という。朗らかで人を和ませる会話。リディアのところの教授とは大違いだ。
「この度は、機械の寄贈もありがとうございます」
「いいや。これもうちの息子の仕業です。私が面倒を見ればいいのですが、親子だと距離感が難しい。ご迷惑をおかけし、申し訳ない」
ウィルはそっぽを向いて一言も発しない。
確かに親から自分の事は聞きたくないだろう。明日からまたウィルの対応が少し大変になりそうだ。
けれど、アーサーは茶目っ気のある表情で、全く場の雰囲気を悪くしない。そういうのがウィルは嫌なのかもしれないが、リディアは和んだ雰囲気につい口が緩む。
「あの、私――院生時代に先生にお世話になったことがありまして」
エレベーターを待つ間に、リディアは思い切って、アーサーに言い出す。問うように見下ろす彼に話を続ける。
「悪魔を封じる魔法陣に関して問い合わせをさせて頂きましたら、秘書の方から先生の論文をいくつか送っていただきました」
「――ああ。もしかして」
アーサーは、声を上げる。同時に、エレベーターが開くから、リディアは先だって中に入り、グランドフロアのGボタンを押して、ドアを押さえる。
「ハーネスト。ああ、あの時の――“悪意を封じる魔法陣”かな」
彼は目を見開いて、それからリディアを見て大きくうなずく。
「はい、私の修士論文の研究テーマです。昨年の魔法陣学会で発表しました」
「たしか――そうだ、覚えていますよ」
彼は、エレベーターの扉をリディアに代わって押さえながら、身を乗り出して口を開く。
「あの”隠れる少女”の印章を入れたのはどうしてかな? あの印章は意味がないとされていますが」
リディアの顔が緊張と興奮でどんどん熱くなってくる。口が回らない、頭が真っ白になる、全然口が動かない。
「私の好みです。私の魔力と相性がいいので、効果増強となる気がするので」
何をバカなことを、とダ―リング教授は鼻で笑ってあしらわない。
リディアの話を理解せず、流しててしまうわけでもない。
「印章はまだ効果が不明なものが多いですからね。実体験からのものですか、なるほど……興味深い」
むしろ、アーサーは益々楽しげに笑みを深くする。
「また、お話しましょう。今度の魔法科学学会は来られるのかな」
「確か先生は、講演をされますね。私は運営を手伝う予定です」
「では、またその時に」
扉が閉まる。有名人の教授が、名もなき下っ端研究員に声を掛けるなんて、普通はありえない。ましてや、「また話をしよう」なんて。
リディアはぼーっと立ち尽くし、はっと気がついて慌ててボタンを押す。締まりかけた扉が再度開く。
「ウィル。ウィル・ダーリング?」
明らかに不機嫌そうに前を睨みつけていたままのウィルが、いきなり開いた扉に驚きでぎょっとしている。
「あなた、大丈夫?」
「え、あ、ああ」
「また明日、話しましょうね」
リディアが大きく頷いて、ガッツポーズを作ると、ウィルは驚いた顔のまま、つられたように頷いた。
そのまま扉が閉まるので、リディアはアーサーに向かい、再度頭を大きく下げて見送った。
エレベーターの中で、そっぽを向いて顔を押さえるウィルに、父親は息子の顔を見ないようにしながら、くつくつ笑っていた。
(リディアの、やつ……!)
顔が熱い。
彼女が自分を待っていたことが、嬉しくなかったわけじゃない。
けれど親と一緒の所なんて、絶対に見られたくなかった。しかも、アイツ、親父を見て明らかに嬉しげで、しかも顔を赤くして。……声もはしゃいでいたし、なんなんだよ。
(親父趣味かよ? ……馬鹿)
そう思っていたら、突然のあの行動。
腹立たしく怒っていたウィルの目の前で、突然、扉が開いてリディアの心配そうな顔がのぞきこんできていて、心臓が跳ね上がった。
不意打ち過ぎるんだよ。
しかも、ウィルの名を呼んで、励ますようにガッツポーズ。
なにそれ、なんでガッツポーズなんだよ。
(全然、意味わかんねーよ)
なのに、嬉しくなるのは。顔がにやけて、しまうのはどうしてなのか。
「なんだよ」
「いいや、何も言わないよ」
物分りのいい親のふりをする親父に、ウィルは言い返したかったけれど、結局黙ったままでそっぽを向いた。
ケヴィンの家に向かうのは憂鬱だけど、そんな事全然どうでもいい。
それよりもリディアのことばかりで、全然集中できない。
(明日……)
何かがあるわけじゃない、ただ会えるだけ。会うと約束してくれただけ。
なのに、明日が楽しみとか、こんなホントありえねーだろ。
(……ガキかよ、俺)
そう思いながら、ウィルはわざと怒ったように顔を背けていた。
だんだんヒロインが魔性の女に見えてきましたが、逆ハーなのでいいことにします(苦笑)




