49.一時の恋愛
ウィルを見送り、リディアは息をついた。
「呆れたな」
フンと鼻を鳴らしたのは、マーレン。そこに蔑みの眼差しはない。ウィルとは馬が合わないのか、または学友としてライバル視しているのだろうか。
「マーレン、そういうこと――」
「ヤツじゃねえ。お前のことだ」
リディアは、机に手をついたまま半身だけ振り返る。
「――座れ」
「ハーイェク」
「いいから、座れ」
マーレンは、椅子の背もたれを掴むと、乱雑に椅子を引き出しリディアの背後に置く。椅子の脚と机の脚がぶつかり、騒がしい金属音を立てる。
「そんな足で履かれても嬉しくねえ」
ウィルをこの部屋に入れる前に、マーレンはリディアの足に気がついたのだ。患部をみせたわけではないが、歩き方でわかってしまったらしい。
結構、彼は観察力が鋭い。 確かに魑魅魍魎が跋扈する王宮で、王座争いをしているのだ、相手の弱点を見破れ
なくてどうする。
とにかく、その足でその靴を履くなとか言われたけれど、またその続きを言いにきたのだろうか。
「このままで平気」
マーレンは舌打ちして、いきなり屈んだと思えば、リディアの足首を掴んだ。
「ひゃっ、ハーイェク!」
「もう少し色っぽく叫べ」
なんですって?
蹴飛ばそうとしたけれど、顔面に当たってしまう。でも、裾をめくらないで!
「ちょっとやめて、ハーイェク」
「止めてほしけりゃ、名前を呼んでお願いしてみせろ」
「……」
リディアは口を引き結んだ。何を言おう、この偉そうな王子様に。考えていたら、彼は足首にそっと触れて「……お前なあ」と口を開いた。
「座れ」
「だから――」
「このまま足首、握りつぶすぞ」
リディアはマーレンを見下ろす。彼の声は苛立たしげで呆れた響きだが、膝を床について見上げてくる目は不安そうにギュッと寄せられている、まるで心配されているみたい。
触れている手も、優しい気がする。
「一度座ると、もう立てない気がするの」
「お前は……。――いいから座れ」
リディアは、仕方なく腰を下ろす。リディアがそうする気配を感じて、マーレンは立ち上がり、支えるように手を添えてくれる。
リディアはその仕草に、緊張した。
なんでもないふりをしたけれど、どうしよう。彼は意外と女性をエスコートすることに慣れているし、反対に自分は慣れていないことを思い知る。
「俺は、治癒魔法は使えねえ」
座りかけた姿勢のままリディアは、何を言うのかとマーレンを見つめ返す。至近距離の顔のリディアを見て、マーレンは目を剥いて、それから慌てたように顔をそらす。
「ええと、だから」
座ったリディアを前に、ウロウロと歩き回り、ハッと顔をあげて、戸口へと向かう。
リディアは、彼の挙動不審を気にしながらも、自分の左足首に手を伸ばす。パンツの裾をめくると、足首はやはりドーナツをはめたみたいにグルリと腫れている。湿布を貼ってあるからわからないけど、悪化しているのだろうか。痛みは同じくらいだ、拍動が伝わってくる。
「これやる」
ずいっとリディアの顔の前に押し付けられた箱を見て、リディアは顔を仰け反らせたが、手は触れずにマーレンの顔を見上げる。
「ハーイェク、これって」
「言っただろうが!」
何を、と聞きかけたリディアは、黙ったまま怒ったように顔を険しくさせているマーレンの顔を見つめる。
確かに、せっかくの贈った物をそぐわない場で使われて負担を強いることになっていたら、リディアだって心が痛むし、むしろ申し訳なく思う。
「ハーイェク。これは、あなたのくれた靴のせいじゃない」
「だからなんだ」
リディアは、顔を伏せて考える。それから正直に気持ちを伝える。
「本当に。ヒールが取れてしまって、困っていたからあなたの靴があって助かったの」
でも、最初は躊躇した。靴がない、帰り道に困る。眼の前には未使用の靴。
一回だけ、ただ借りるだけ、そう思って足を入れた。
でもわかっていた。借りるだけなんて自分だけの言い訳だ。
もっと言えば、未使用のままロッカーに入れておいても、貰っていないことにはならない。使っていないから、生徒から何も貰っていない、そんなふうに言い訳なんてできない。
だから、それを履いたのはリディアの意志だ。生徒からの贈り物を、いけないと知りつつ貰って使用している。言い訳なんてしない。でも、彼の気持ちをちゃんと受け止めないと、それに対する返答をしないといけない。
「そんな状態で履くなよ。男の俺だって馬鹿げた行為だってわかる」
そう言ってマーレンは続ける。
「――ごめんなさい」
リディアは、彼の逸した目が迷うように揺れているようで、自分自身の気持ちも迷ってしまう。
「そんな言葉聞きたいんじゃねえ」
リディアは、無意識にわずかに眦を下げた。マーレンは生徒で、それ以外の何者でもない。
彼にとっては何かしらリディアを気に入る要因があったようだが、“お気に入りの先生”から逸脱して“それ以上のモノ”になってしまうのではないか。
「そんな困った顔するな」
マーレンはわずかに苦渋の残る顔で言い捨てて、手にしていた箱――恐らく靴の外箱をリディアの横の机に置く。
「お前が困るなら俺は帰る。お前が使いたいなら使え、いらないなら捨てろ。ただし、今のヤツは治るまでは履くな。明日もそういうのを履いてきたら――見てろよ」
「――え、何が」
リディアは会話の流れが急につかめなくなって、思わず聞き返す。
「また代わりのを送る」
「ハーイェク!」
「いつかお前が……俺をっ」
マーレンは何かを言いかけて、だが唐突に口を閉ざす。何かを言いたそうにして、けれど堪えるように口を結んで、そのまま踵を返す。
「あ、ちょっと」
リディアは立ち上がりかけて、でも足首の痛みに顔を顰めて、また座り込んでしまう。
「どんな状況でも、お前が使ってくれて嬉しかった」
マーレンは言い捨てて、扉をすり抜けるように出ていってしまった。
リディアはしばらく無言で座っていた。ハイヒールの靴を脱いで、足を楽にする。ストッキングを脱いで湿布を貼って、直に靴を履いていたから、それも辛かった原因かもしれない。
そして、マーレンが置いていった長方形の箱を膝に置いて、蓋を取る。
中は白い薄紙で包まれていて、それをめくると黒いフラットシューズがあらわれる。リディアは片方を手にして裏を見る。サイズはリディアのものだ。
「けっこう、高そう」
艶消し加工された本革の靴は柔らかい、そして足の甲の部分はV字のデザインで、仕事にも使える。彼自身はパンクもどきの格好が好きなのに、選ぶセンスは上品だ。
(お金、払うって言ったら怒りそうだよね)
どうしよう、でもタダでもらうわけにはいかない。
それに、お金を払えば貰っていないことになるわけじゃない。リディアが買ったもの、にはならない。
悩むリディアが顔をあげたのは、控えめなノックの音がしたから。
「あ、はい!」
授業があっただろうか、と思って時計を見ると、十八時。キーファが待っていると言っていたのを思い出して裸足のまま慌てて中腰になる。
「失礼します」
礼儀正しく、そして笑みを浮かべて入ってきたのは、ヤン・クーチャンスだった。マーレンの友人というよりも、王子の従者だという彼が一人で来るのは珍しい。
「ええと」
「突然申し訳ありません」
彼はそう言ってドアを開け放したまま、リディアの前に来る。男女が同じ部屋に二人きりになる時は、ドアを開け放つこと。それは、「何もしませんよ、自分は安全ですよ」のアピールになる。
もちろん、男性にとってはトラブル防止策であり、常識的な対応だ。
リディアは自分がそれを常にしていないことを、突きつけられた気がした。やっぱりそうすべきだろうか。
でも、ドアを解放しているということは、「込み入った話をしませんよ」というアピールになりそうで、彼らが心を開いて話をしてくれない気がして、リディアにはできない。
それを考えていたからだろうか、目の前に来たヤンの様子がいつもと違う事に気がついたのは、彼が目の前に来てからだった。
「――それ、殿下が選んだのですよ」
彼の声は平坦だった。いつもならば、そつなくにこやかに告げてくる言葉が、今日は重い。
一瞬、彼を通さなかったことに寂しいとかやきもちを焼いたのかなと思った。手のかかる子どもが離れていってしまったというような感情かと。
――全然違った。彼の目の奥の瞳には光がない。その視線の先は掴みどころがない。
「自分がと、店に買いに走ったんです」
「走った?」
「もちろん、車を走らせました」
一瞬走るマーレンを思い浮かべたが、そうではなかったらしい。そして、やっぱり送迎車があるのかと驚いた。
「もらって頂けたらと思います」
「代金を支払うことはできますか?」
「六万エンですよ」
リディアは肩を跳ね上げて、固まった。ウン十万エンもする靴もあるけど、これもリディアにしたら十分に高い。
「ええと、今は払えないけど明日――だって、あなた達の国民の税金でしょう?」
「いいえ」
彼はリディアが理解していないと思ったのか、付け加える。
「わが国では、王族も収入を得ています。殿下は、所領地があるので、そこからの収入です」
「つまり税金」
「それでも収入です。王族であっても株もやっていますし、王室グッズの販売、王宮イベントの招待チケット販売など、その他の所得もあるのですよ」
リディアが黙ると、ヤンは、話を元に戻しましょう、と続けた。
「――殿下には、国に婚約者がいます」
「え……」
リディアは声に出したことを恥じるように、口を押さえてすみませんと、呟いた。
何を驚いたのか。一国の王子だ、それも当然だろう。あまりにも自由奔放すぎて、そういう王族らしい面が全然見えなかったせいだろうか。
「ですからお気になさらず。殿下も本気ではありません、それを理解しての行動です。殿下も一時の疑似恋愛を楽しんでいるだけですので」