33.午睡で語るコンプレックス
教室を覗くと、バーナビーがうつ伏せて寝ていた。
「オルコット? もう帰ったら?」
今日は、講義はもうないはず。そう声をかけると、んー、と呻いて彼は身体を起こす。
「リディア、調子はどう?」
「悪くないわ。オルコットこそ調子はどう?」
「悪くないよ。でもお腹空いた」
「それで寝ていたの?」
バーナビーはふわりと笑う。邪気がないのに、色気がある笑みだ。どうして、そんな笑い方ができるのだろう。
「薬は飲んでいる? 一日何回飲んでいるの?」
バーナビーは、艶のある黒の前髪を揺らして、夕暮れ時の燃える赤い太陽のような瞳を柔らかく細める。
「リディアは優しいね」
リディアは、首を横に振る。そんなことを言われたのは初めてだ。
「どうして?」
「薬を飲んだかとか、体調とか聞く先生はいないよ」
「私は――臆病なのよ。もしあなたに何かが起こったら怖いの」
例えば、バーナビーが急に倒れたら? 彼が倒れた時に、どの時間に薬を飲んでいたのかわからなくて、後悔はしたくない。
「一日三回、朝昼晩の食後。薬は、鞄の内ポケットの中だよ」
「――ありがとう」
「どういたしまして。……リディアは面白いね」
くすくすとバーナビーは笑う。どうして笑われているのかがわからない。面白い、そういう形容詞で評されたのは初めてだ。
「いつも、人のことばかり気にしている」
それが面白いというリディアを表す形容詞に、繋がるのだろうか。
彼こそいつも放つ言葉が不思議だ。穏やかな物言いで、謎めいた話し方をする。年齢も少し他の生徒より上だからだろうか。
彼は体調と体質のこともあって休学や、留年をしたこともあるから二十五歳だ。今年こそは卒業をさせてあげたい。
「今も、僕のこと気にしていたね。大丈夫だよ、今年は卒業するから」
考えていたことを、言い当てられてしまった。
「リディアの顔を見ると、考えていることわかるよ。僕だけじゃなくて、みんなもそう感じている」
「え!」
みんなって生徒だよね。考えが顔にバレバレ、ってこと? 単純ってこと?
リディアはバーナビーから顔を逸したくなったのを堪える。仕方ないから、眦を釣り上げて不本意そうな顔を作る。
「リディアが気にかけてくれているってわかって、嬉しいんだよ。みんな自意識過剰だから」
リディアはつい顔を顰めた。男子学生だ、むしろ構ってくる教員なんて疎ましく思っているんじゃないだろうか。
黙り込むリディアに微笑むバーナビーの前髪は、目にかかって邪魔そうだ。
「オルコット。髪の毛を伸ばしているわけはあるの?」
「ないよ」
「視力が落ちるから、前髪を切ったほうがいいわ」
特徴的な赤い目が目立つのが嫌で、隠しているのかとも思ったけれど、そうじゃないなら、髪を切ったほうがいい。でも、口にしたのは、余計なお世話だろうか。
「じゃあ切って」
リディアは固まる。他人の髪の毛を切ったことはない。
そんなつもりではなかったのだけれど。
「ええと。無理よ、美容院に行って」
「じゃあ、このままでいいや」
そしてまた彼は俯いて、寝てしまおうとする。
「だめだめ、ちょっと」
「じゃあ、切って」
「髪切りバサミないから」
「魔剣でいいよ、演習室にあった」
それはまずい。魔剣は髪を切る道具ではないし、絶対無理。何でそんな選択をするの?
「文房具のハサミしか持ってないの」
「じゃあそれでいいよ。切って」
「だめよ」
「じゃあ、このままでいいや」
リディアは口を引き結んで降参した。どうもリディアのクラスの彼らは、押しが強い。自分はいつも負けている気がする。
リディアはどうしてこうなるのかと頭を振りながら自身の研究室に戻り、机の引き出しからハサミを取り出し、手にして戻る。ついでに、自作のケーキの残りを紙ナプキンに包んでバーナビーの元に戻る。
「オルコット。お腹が空いたのならば、これを食べて」
「ありがとう」
バーナビーは、嬉しそうに両手で受け取る。「美味しそうだね」といいながら、一口、二口目で食べてしまった。
リディアが自分のハンカチを差し出すと「いいよ」と言って親指をぺろりと舐めて、リディアを見上げる。前髪の隙間からちろりと覗く赤い瞳は、笑んでいた。黒い睫毛が瞳に影を落とす。
「リディアは彼女みたいだね」
「え」
オリーブ色肌に彫りの深い顔、長い睫毛が色気を増しているのか。そんな観察をしていたら、何を言われたか聞き逃してしまった。
「リディア?」
「ええと、その。――オルコットは、彼女はいないの?」
「僕みたいな、絶滅種と付き合いたい女の子はいないよ」
バーナビーの軽口に苦笑しながら付き合っていたリディアは、彼のさり気なくも口にした不穏な言葉に顔を強張らせる。
バーナビーは、純粋な人族ではない。魔族と呼ばれる者たちの血をわずかに引く古の民だと聞いたことがある。彼らは予知能力を含む独特の能力とともに、魔力代謝障害という遺伝病を引き継いでいる。
また、同族同士は子どもができにくく、彼らが交配相手として望む人族から疎まれてきた歴史もあり、子孫は途絶えるばかり。彼らの一族は絶滅の危機にあるという。
「オルコット自身を好きだという女の子は、絶対いるわよ」
「これから出会う?」
「いまもよ、きっとどこかにいる。信じて」
リディアが、生真面目な顔で断言すると、バーナビーは、笑みをふわりと浮かべる。
「リディアが僕のこと好きなら、それでいいよ」
「……恋愛感情はないけど、あなたのことは好きよ」
「残念だな」
バーナビーはふふっと笑うから、今のはやっぱり冗談だったのだと思う。
「これは、シルビスのお菓子?」
バーナビーが指をさすのは、ケーキを包んでいた紙ナプキンだ。食べた後に、興味を持ってくれたことを嬉しく思う。
「いいえ。でもシルビスのお茶会では定番よ」
ヴィクトリアサンドイッチケーキは、ラウンド型のスポンジの間に、木苺のジャムを塗ったもの。上には粉糖を粉雪のようにふりかけただけの、シンプルなケーキだ。
「美味しい、これ好きだよ」
「ありがとう。また作ったら、あげる」
そう言いながらも、リディアはふと思う。同室の先生たちには、リディアがシルビス国の出身だと伝えてあるが、バーナビーを含め生徒には言っていない。どうしてわかるのだろう。
「リディアは、シルビス人の特徴そのままだからね」
リディアは顔に笑みを貼り付けたまま、その言葉には返事をしなかった。
椅子に座るバーナビーの目の前に屈み、彼と目線の高さを同じにする。
「どのくらい切る?」
「好きなだけ」
どうしよう。切り過ぎたら、髪が伸びるまでリディアの責任だ。
「あなたは、紙を持っていてね」
落ちた髪の毛を受けるために、彼には厚紙を顎の下で保持するように指示する。
リディアは、彼の前髪を一房、指と指の間に挟みとる。
「リディアは、僕の容姿が不思議? 目が気持ち悪い?」
「いいえ。綺麗な目よ。光の加減でルビーのように見える時も、夕暮れの赤く燃える太陽に見える時もある」
バーナビーは眼差しを柔らかく緩める。
「リディアのほうが綺麗だよ、全部が」
リディアは黙ってハサミを動かした。切ることに集中しているふりをする。容姿に関しては、思うところがたくさんあるけれど、他人に漏らすことではない。
(表情に出ていないと、いいけれど)
先程顔に出やすいと言われたばかりだから、隠せているかわからない。
「――僕は、混ぜこぜなんだ」
「混ぜこぜ?」
「うん。太陽に弱い遺伝病持ちの虚弱な一族。ご先祖様はそれをなんとかしたくて、交配をコントロールしたんだ、太陽に強そうな人間の種をあちこち選んでね。昔は女性を僕たちの国――地下世界に攫って来たらしいよ。だから、僕にはたくさんの人種の遺伝子が混ざっている。けれど、体質はすべて変わらなかった。僕は、容姿は混ぜこぜ。でも体質も能力も、うちの一族の特徴そのものなんだ」
その声は淡々としていて、ただ事実を告げているようにしか聞こえない。でもバーナビーがこの話をリディアにしたのは、理由があるのだろう。
「あなたは、それが疎ましい?」
「わからないよ」
リディアも考える。どのように伝えればいいだろう。
「あなたはとても格好いいと思う。魔法学科は女の子が少ないから実感がないだけよ。そうね、例えば夜のパーティーとか、ナイトクラブに行ってみたら、両膝にそれぞれ女の子が載ってくるわ」
「それは――楽しいのかな?」
「男の子にとっては、楽しいはずだけれど」
「僕はいいよ。――リディアは、そういうことしたい?」
リディアが、ハサミを閉じると、髪を切る小気味よい音とともに、指に挟んだ毛先がはらはらと零れ落ちていく。
「――したくない。なんだか怖い」
「僕もそんなリディアは見たくないね。膝に載るほうも、だめだよ?」
リディアは思わず小さく吹き出してしまった。
「僕の容姿がいいという人間がいるならば、リディアの容姿がいいという人間もいるよ。きっとそれは、違う国の違う人種の人間だから離れて見ることができるんだ」
「離れて?」
「客観的に、というのかな。ここはシルビス人よりも、他の人間のほうがずっと多いんだ」
「――そうね」
リディアはなるべく淡々と返事をしたつもりだったが、心の深いところが疼いて、きっと感慨深い返事になってしまっていたと思う。
「リディア」
彼が改めて名を呼ぶ。先程までの午睡のけだるさを残しているのとは違う響きだ。
「名を呼ばないのは、壁を作ることだよ。壁を作る相手と、そうじゃない相手を選ばないと」
リディアが生徒を姓で呼ぶことに対してだろうか。
彼自身はリディアを名で呼んでいるが、他の学生とは違いつい素直に受け入れてしまう。彼の声質のせいだろうか、耳にすんなり入ってくるのだ。彼の放つ気配もあるかもしれない。
「名で呼び合うことは、繋がりを深くする。非常時にいきなり繋ごうとするより簡単だよ」
「……うん」
「壁をなくさないと」
これは、予言だろうか。
バーナビーのくせ毛のうねりを生かして、目に入らないように、切りすぎないように前髪を整える。
「――この間の、“火元”って言うのは火系魔法のこと?」
火元に気をつけろという予言は、ウィルの魔法の暴走のことだったのだろうか。
「解釈は自由だよ、僕たちは夢見を告げるだけ」
「私に関して、他には何か夢を見た?」
「左腕に何かあるね」
リディアはバーナビーの声に、ハサミを持ったまま固まりかけて、慌ててそれを置く。辛うじて腕を手で隠すのをこらえた。
「厭いながらも、依存している。だめだよ、それは悪いものだ」
リディアは今度こそ、手で押さえてしまった。
「……なんで」
「魔法じゃない忌まわしいものがある。けれど穢れは放たれず、抑えられているね」
「……」
「これは夢で見たんじゃない。僕たちは感じるんだ。いいもの、悪いもの。それは、いつかリディアを、別の場所に連れて行ってしまうよ」
「……そう」
「だから、壁を無くしておかないと。誰かが助けられるように」
リディアは、バーナビーの前髪を自分の櫛で梳いて、頬に落ちた毛くずを使っていないハンカチで払い落として、紙に受ける。
前髪を少し横に流して完成。
バーナビーは濃いガーネットのような瞳で見つめ、にこっと笑う。
「ありがとう、リディア」
「――どういたしまして。オルコット」
リディアが彼を今までどおり姓で呼ぶと、彼は少し寂しげに笑った。
リディアは、ハサミをハンカチで拭って、引き出しにしまった。
誰も部屋にいないことに気を許して、左袖を上腕までめくり、肌をむき出しにする。
醜くうねる黒い痣は、今は肌の中に刻まれているように沈んでいる。その上に重なるように皮膚上に浮かび上がる青い燐光がある。よく見ると、複雑な記号や文字が連ねてある。
ディアンの魔法術式だ。精緻で整然とした式は、短く無駄なく連なり、全くの隙がない。これだけで学会に発表できてしまうほどの高度な術式で、唯一無二のもの。
――あの日、リディアが呪いを引き受け意識不明の重体となったときに、ディアンが施してくれたものだ。後に、リディアは病院に運ばれ治療を施されたが、今もリディアが生きているのは、ディアンの力によるところが大きい。
見ればわかる、見るたびに感嘆する、どれほど高度な魔法を複雑に重ねたのか。
魔法による打消しができない呪詛を、リディアも治癒にあたった魔法師の誰も解析できない、最高位の魔法で抑えているのだ。
「……依存……なんて」
厭う呪い。この腕を見るたびに、魔法が使えないたびに、呪われた身であることを、ひしひしと感じる。
それを封じるのは最高傑作の魔法術式。見るたびに、――彼の思いを、彼との繋がりを、感じるのだ。
それは確かに、リディアの寄り処となりつつあり、縋り付くその形を――依存と、いうのかもしれない。