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リディアの魔法学講座  作者: 高瀬さくら
5章 大学年度末編

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42.Dona eis requiem

 ディアンによると、ここはすでに疑似空間ということだった。


 王宮に本物そっくりの疑似空間を重ね、警備と兄たちを離しているということのようだ。

 すでに師団はこの王宮を掌握しており、兄を呼び寄せる予定だった執務室にリディアが入り込んだのは誤算だったという。


 ディアンが、リディアが自分の血で作った刃を拾い上げて布でくるんでポケットに入れる。そんなものどうするのか、は聞けなかった。


「お前は、無茶ばかりするな」

「……私、本当に何もできない」


 横に立ち、床を落ち込んで見下ろす。


 こんな計画、うまくいくはずがなかった。

 追い詰められて、何も見えていなかった。


 それどころか、師団の計画に水を差しディアンに怪我をさせた。


 ディアンはリディアの顔を見下ろした後、片手を伸ばし、彼の肩口にリディアの頭を引き寄せた。


「――だから、俺がいるんだよ」


 不意にまた涙がこみ上げてくる。泣いたらだめだ。

 その慣れない感触に精一杯息を吸って堪える。 


 何度か深呼吸をして、心を落ち着かせるまで彼は待ってくれた。彼の腕を掴んで、頭を起こす。


「もう、大丈夫」


 自分から身体を離して、強く言いきる。

 そして、凝固した血がこびりつくディアンの手を掴み直す。


「先輩、ごめん。手当しないと」

「いい。もう止まった」


 そんなわけない。貫通したのだ、かなり辛いはずだ。


 今、治癒魔法は使えない。

 何か止血のための布はないかと探すリディアを、ディアンは戸口のほうに足を向けながら、後ろを向いたまま無造作に手を振る。


「なら、お前が舐めてくれ」

「え……えぇ!?」


 思わず手を離して、足をとめてしまう。は、え? 聞き間違い?


 なに?

 え、まさかね。えーと、そんな変態のような、えーと、ではなくて。


「えーと。……な、舐めようか?」


 そしてディアンに追いつき見上げると、彼は不意に顔を歪めて手で顔を押さえた。


「いい。……馬鹿なこと言った」


 その覗き見える顔が、耳が赤いような気がする。


「先輩、もしかして」


 ……恥ずかしがってる? あの、せんぱい、が?


「いいから、行くぞ」

「……」


 彼はリディアを見ないで、振り切るように大股で行ってしまう。ちょっと待って、置いていかないで。


(……な、舐めたほうがいいのかな?)


 いや、でもあんまり綺麗じゃないし。


 戸惑って足を止めて考え込むリディアを待たず、ドアの前に立つと不意に彼は足を止めて振り返る。


「――この間の言葉、ちゃんと聞いたからな」

「……え」


「言い逃げするなよ。戻ったら、覚えとけよ」



***


 ――次の間の扉を出た先には兄がいた。


 執務室の前室、そこに詰めているはずの兵も、この回廊にも彼らの姿はなかった。


 そしていつも冷ややかで何事にも動じない兄の顔が、わずかに不機嫌そうに眉を寄せている。


「――リディア、下がっていろ」


 ディアンに言われて、リディアは黙って彼の半歩後ろに下がる。


 ――もう、迷わない。


 ディアンを信じる。もう、彼しか見ない。兄の間で迷わない、弱さにつけこまれて、自分を責めない。


 ――彼の背だけ見ている。


「すでに、シルビスの包囲網は完成した。お前も終わりだ」

「――」


 兄――アレクシスは、わずかに顎をあげてディアンを睥睨する。その背後、一メートルほど間隔をあけて、壁側にフランチェスカが立つ。


 それを目にした瞬間、ディアンに体ごと引き寄せられる。


 轟音とともにガラスの雨、そして粉塵が巻き上がる。反対側の中庭に面した窓の残骸を超えて、巨大な黒い足と、鋸歯の並んだあぎとが覗いた。


 半身を起こしたディアンの腕の中で、リディアはそれを凝視した。


 咆哮が響く。


 黒い巨獣は、自身がこじ開けた窮屈な隙間に首ねじ込ませ、翼と身体で壁をぶち壊す。


 ――五本の指は、ドラゴンでも上級の証。


 鉤爪が、崩れかけた床に絨毯を巻き込みながら、ディアンを敵とみなし、一歩、また一歩と近づいてくる。


 隣のディアンの表情は変わらない。


 目を細め粉塵を防ぎ、リディアの頭を庇っていた手を下ろす。


 彼から離れたリディアは立ち上がろうとして、ふらついて片膝をつく。


 その前に庇うようにゆっくりと歩を進めたディアンが立つ。

 全貌を表したブラックドラゴンが、突如ディアンに猛突する。開いた顎だけで、ディアンの全身を飲み込もうとする。


 ドラゴンが宮城を崩し、床の石材が崩れ落ちていくが、獣は足場が崩れても頓着しない。


 顎が裂けんばかりに開かれた喉の奥に、炎の塊が見えた。


 リディアは、二人を守る遮蔽膜を張ろうとして、頭痛が走ったこめかみを押さえた。まだ魔力抑制剤の効果は消えていない。


 ディアンが後ろ向きのままてのひらを広げて遮る。

 “いい”、という合図だろう。


 ――刹那、ディアンの姿が消えた。


 黒い残像だけを残した彼の魔力を追うと、ドラゴンの横には影。そして、口を大きく開けたままドラゴンの首が揺れる。


 炎の塊が小さくなり、そして種火が消えるように光が消えていく。太い首に走った赤い線にあわせ、その合わせ目がずれていき、突如首だけが転がり落ちる。


 ディアンの右手には全くの濁りのない透明な水晶かと見まがう一振りの大剣があった。目が見開かれ舌だけを出した首が床に落ち、地響きで城を震撼させる前に、ディアンが加速する。


 ドラゴンの姿の奥には兄がいた、彼の表情は見えなかった。


 兄とディアンの姿が重なり合う。


 リディアは、壁に手をついて、それを支えに立ち上がる。首のないドラゴンのそばを一歩、また一歩と通りすぎる。


 兄の足が、一歩下がる。彼の腰が、わずかに落ちる。

 ディアンの青い光を放つ大剣が、兄の背中から突き出ていた。


「……」


 ディアンがぐっと押し込むと兄の口から血が溢れた。

 そして、ディアンは剣をそのままに身を引いた、その剣は兄の身を貫いたまま。


「――第一師団ソードの団長は、各々が自分のソードを持つ。それはどんな存在も刺し貫き、けして防ぐことはできない――神でも」


「これで、俺を殺せるとでも……思うのか」


 兄が、ディアンが手放した柄に手を触れる。


 その柄が派手に砕け散る。


 しかし兄のその身は屈まれ、胸から背中へとにじむ血は広がるばかり。


「殺す必要はない。数百年、数千年でも抜くことができない。獣であれば、なおさらだ」


 兄の顔が歪む。


 彼がディアンを見据え、立ち上がりディアンの肩に掴みかかる。憤怒の表情でその肩を握り潰さんばかりにつかみ、力を籠める。


 その凶眼にリディアは息を呑む。

 兄のその目は危険だ。


 兄が何を企んでいるか、何をしようとしているか、わかってしまった。


「――これで終わりと思うな――!!」


 それに被せるように、ディアンが声を発する。

 それはいつものように淡々としたものではない、怒りと侮蔑を滲ませ吐き捨てた。


「それは俺の台詞だ。どんなやつでも操れると? ――自惚れるな!!」


 掴まれた肩の上から手を掴み返す、その手に力を込めると、アレクシスの顔が歪む。


「人は、操れない。自分の行動を操れるのは自分のみ。そんなことが通用すると思い上がれるのは、所詮――格下」

「貴様っっ――よくも抜け抜けと。こんなものっっ――」


 ――兄が吠える。


 リディアはその声に怯えて身をすくませる。だが必死でその場にとどまり、兄とディアンを見据える。


 目を逸したらダメだ。見届ける。

 ディアンにすべてを任せた。


 自分がすべき決着を肩代わりしてもらったことに、目をそむけてはいけない


 兄が身をかがめ、抜身の刃に手をかける。


 だが、ディアンの剣はぴくりとも動かない。彼の膝が地面につく。咳き込むと血が床に染みを作る。その血溜まりが広がっていく。


 兄がディアンに向かい手をかざす。幾重もの黄金の光が床を切り裂きディアンに襲いかかる。


 だがディアンの目の前で魔法陣が浮かび上がり、それに衝突しては火花が散りその雷光は消滅する。


 兄の歪んだ顔がいっそう激しく憎しみを灯す。

 その顔に、リディアは美しさも、恐ろしさももう覚えなかった。むしろ、悲しみと哀れさが胸に湧き上がる。


 悔しげなその顔が二度、三度と光を、炎を放ってもすべてディアンの眼前で消滅するだけ。


「お前の部隊はすでに内部分裂している。リュミエール人部隊など、戦闘行為もろくにしてない素人で、成り立つものか」


 ディアンは兄を見下ろして吐き捨てた。

 兄の立てた爪が床をひっかく。


 リディアは、壁際にたたずむ王女に目を向ける。彼女は兄に駆け寄ることも、口を出すこともなかった。


 ただ成り行きを、静かな目で見据えているだけ。あげた口角は微笑みにも見える。


「――いいのですか?」


 王女は小首を傾げて、優雅に胸に手を当てて笑みを返す。


「かまいません。すでに種はありますもの。あなたがいなくても、別のものに移植するだけ。私の目的は叶いますから」


 それとも、と彼女は続ける。


「その自分の代替品に、哀れみを持ちますか?」

「……いいえ」


 もう犠牲にならない。自分の人生は自分で決める。

 ――傍に支えてくれる人がいるから。


「帰るぞ」


 ドラゴンが開けた巨大な通用口へと、一歩進んだディアンがリディアを振り返り、手を差し出した。


Dona eis requiem

(彼らに安息を与えたまえ)

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ありがとうございます。楽しんでいただけますように。
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