29.No one know of her heartending sorrow
リディアは一度大きく肩で息をして、気を逸らすように魔法学の本を戻し、横の児童書を引き出した。
『オズの魔法使い』だ。これはシルビス語で翻訳されている珍しい児童書だ。シルビスにも他国の本がないわけではないが、かなり少ない。
リディアも子供の頃、これを読んだ。もしかしたら、祖母に借りたのかもしれない。
記憶をたどるように項をめくる。
共通語に慣れたリディアだが、シルビス語はやはり母国語、すんなり読める。
ざっと見て裏表紙を見て手を止めた。巻末だが、何かおかしい。裏表紙にごわつきを感じて、リディアはそこを慎重に眺める。
やや厚みが有る気がする。少しだけ端が剥がれている。まるで糊付けしたようだ。
年月とともに剥がれかけているのか。
リディアはそこをそっと慎重な手付きでゆっくりと剥がしていった。
“――いつも、心のなかに―― J より”
祖父の名前の頭文字とも違う。勿論祖母のマーガレッタの頭文字でもない。
出版年を見ると初版でかなり古い。古書店で手に入れたのかもしれない。
インク書かれた文字は最初が濃くて、最後のほうはわずかに掠れているが、とても丁寧で綺麗な字だ。
まるで――祖母に贈られたもののような気がするのだ。
――もし。
もし、魔法学校の誰かから祖母に贈られたものだとしたら。
シルビス語の児童書を古書店で見つけて、シルビス語しか話せない祖母に送ってくれた人がいたのだとしたら。
それが“J”だったのだとしたら。
――だとしたら、大切にとっておくのもわかる。
リディアは他にも痕跡がないか、頁を、パラパラとめくる。
内容はなんとなく覚えている。家ごと竜巻に乗って飛ばされた少女ドロシーは、オズの国へ降り立った。
そして願いを叶えてくれるオズの魔法使いに会うために、オズのエメラルドの都を目指すのだ。
挿絵は見たことがあるような、ないようなそんなおぼろげな記憶しかない。通り過ぎた先で、ふと何かが目を引いた。
もう一度そこに戻り、リディアは目を凝らした。
場面はドロシーが魔法の靴を打ち鳴らしカンサスに戻るところ。
その靴の絵の下に小さく文字が書き込まれている。
(これは……魔法陣…ううん、転移陣!?)
鉛筆書きの目立たないもの。リディアは胸の動悸を鎮めようと一度深呼吸をして、疲れたようにわざとらしく首を回し、それから入り口を伺う。
カーシュは無表情で宙に視線を浮かべている。気にしないようにした。
(――転移先は空白。これだとどこに飛ぶかわからない。おまけになにか足りない。風魔法を主にしているのに、風属性の魔力を得る手段がない。これだと飛べない)
グロワールで記されたそれは、とても強い力を持つのに、もう一つピースが欠けている。でも単純でありながら、有効な魔法陣だ。
――祖母は、どこかに飛びたかったのだろうか。
(この“J ”のもとへ――)
――いつも心のなかに。
Jと祖母はどういう仲だったのか、それを邪推する気にはなれなかった。
祖母はグレイスランドを離れ、シルビスに戻り、祖父に嫁いだ。
ただ、この本をずっと人生の最後まで、離さなかった。祖父とも離れ、家族とも離れ一人で暮らした祖母の片割れにあったもの。
――リディアの頬を涙が伝う。
いつもは厳格な表情しか見せない祖母が、別世界への扉と見立てて遊んでいたリディアを、叱りもせず印章を見せてくれた。
心はともにあると捧げられた言葉。
そして、祖母の心もそこにあった。
――行きたかった。
そんな祖母の叶わぬ夢が、この魔方陣を書き上げたのかもしれない。
初等科しか出ていない学のない人じゃない。相当高度な転移陣だ。
ただ欠けている。何かが足りない。
「……」
リディアは、懐から自分の魔石――翠玉を取り出した。
エメラルドの都を目指したドロシー。
結局、オズの魔法使いは魔法が使えないまがいもので、ドロシーは物語の冒頭で得ていた東の悪い魔女の銀の靴で、カンサスに戻る。
――解決策は最初から手にあったのだ。
翠玉は、風属性の魔石だ。
(……この翠玉と、この魔方陣で転移ができる)
―― J のところへ飛んで行く転移陣が完成する。
ドロシーは願う場所に帰ることができた。
ただし、誰も連れていくことはできない。帰ることができるのは靴を履いている一人だけ。
――好きな人の元へ帰れる魔法。
たった一人だけ。ただ一度だけ。願う場所に行ける転移陣。
リディアはそれを作り、でも使うことがなかった祖母を思い、目を閉じた。
No one know of her heartending sorrow
(彼女の想いを誰もしらない)




