絵姿(三十と一夜の短篇第9回)
昔々、ある国を王様が治めておいででした。その王様は独り身でいらっしゃいました。王位を継ぐ前、王太子の頃、隣の国の王女と結婚しておられました。国と国との結びつきの結婚でしたが、お二人とも仲睦まじくお過ごしになっておられました。しかし、王太子妃は、ご出産の際、男の子を残し、お亡くなりになりました。それ以来、王様はお独りで過ごしておられるのです。
周りの者たちは再婚をお勧めしますが、一粒種の王子がまだ幼いとはいえ、元気で賢くお育ちのこともあり、跡継ぎの心配はないのだから、必要ないと王様はお勧めを何回かお断りになられました。
晩夏、王様はご家来衆を連れ、森へ狩りにお出掛けになられました。立派な牡鹿が勢子に追われて飛び跳ねるように出てきましたので、射掛けようとなさいましたが、その後に女鹿が駆けてきました。牡鹿は女鹿を庇おうと前に出ました。
それを見て、王様は射るのを止められました。
「鹿にも夫婦の情がある」
その日の狩りは大物を仕留めることはありませんでしたが、廷臣たちは再婚を勧めるいい機会だと、お城に戻って夕食の席で、夫婦の話などを出し、さり気なく再婚の話を切り出しまた。
「妻を亡くして長くなる。考えてもいいだろう」
と、王様は仰せられました。こうして王様の再婚相手に何人か候補が上げられましたが、王様がお選びになったのは、廷臣の娘でございました。
隣国の王女の血を引く跡継ぎがあり、政略を考えたくない、再婚なのだから、との理由でございました。再婚相手に男子が誕生しても、第一王子が王太子であるのは変わらないと示すために家臣の娘を選んだのであろうと、皆は、王様のお心を忖度しました。
こうして新しいお妃になった娘は晴れがましい立場でありながら、辛い思いをしなければなりませんでした。これまで礼を尽くしてきた高い身分の貴族から、礼を尽くされるのに舞い上がるような性格の持ち主ではございません。かえって身を縮め、心の中では成り上がり者と悪く思われているのではないかと、挨拶の声や作り笑顔がぎこちなくなるような娘でした。
王様は新しい妻に、新婚の夫らしく優しく接していらっしゃいました。健気な心根の女性であるから結婚したのだと、口には出されませんでしたが、若い妻を可愛がっておられると傍目にも判りました。
お妃は王様のお心遣いに応えようと、王太子と打ち解けようと務め、王様の寛ぎを邪魔しないようにと和やかさを保つ努力をしていました。
お妃は次第に認められ、敬愛や信頼を得るようになりました。王太子はお母様と呼び慕い、お妃も王太子を可愛らしく、将来が楽しみと感じておりました。宮廷でも、外国からのお妃も華やかでいいけれど、我が国をよく知っておられる今のお妃の方が国民からも慕われて大変評判がいいと言われるようになりました。
お妃はその様子を物陰から、あるいは侍女から聞かされ、安心しました。安心しても手を抜くことは許されないのが、身分高い方の難しい所です。
お妃はお子ができないですが、王様とは睦まじく暮らしております。年齢の離れた夫婦であるから、それも仕方のないことと、満足な暮らしであると信じていました。
お妃は、王様が書斎に入られる時間はお独りになりたいのだからと、邪魔は致しません。内政、外交、様々にお心を砕かれ、すり減らされるお疲れを癒すには、王様なりの方法や手順がおありのようだからと、口出ししてきませんでした。ですが、急ぎの知らせが入ったと使者が来たので、お妃自ら書斎に王様を呼びに出向きました。無礼があってはなりません。
お妃は書斎の鍵が掛かっているか、まず扉の把手に手を掛けました。鍵はかかっていません。扉を開けますと、王様は机に向かって何かを眺めておりました。
「陛下、恐れ入ります」
お妃が声を掛けますと、王様はひどく驚かれた様子でございました。
「なにごとであろう」
「西の果ての村で野分により作物ばかりでなく、人の被害が出ていると使者が来ています。詳しい報告をお聞きになってくださいまし。急ぎと、大事な知らせのようでしたのでわたしが呼びにまいりました」
「判った」
王様はすぐに席を立たれて、書斎をお出になり、謁見の間に急がれました。書斎に残されたお妃は、王様が何を眺めていらっしゃったのかと、机に歩み寄りました。
一幅の絵がそこには置かれていました。美しい女性の絵姿です。
きっとこれは前のお妃の絵姿だ、とお妃は考えました。やはり王様は自分よりも前のお妃を愛しておられるのだ、こうやって独りの時間をお過ごしになるのに、絵姿を眺めていらっしゃるのだ。
お妃は悲しくなりました。でも、絵姿をどうする訳にもいかず、そのままにして、王様の後を追いました。
しかし、そのことはずっとお妃の心に深く刻まれました。
――わたしは王様から心から愛されてはいないのだ。隣の国のお姫様を忘れられないでおられる。わたしは体裁を整えるための妻なのだ。
一言王様に申し上げればよかったのです。しかし、お妃は王族の出身でないとの気後れや、お妃は聡明で思慮深いとの自らの評判に縛られていました。王様との夫婦の語らいにも控えめでした。自分は何も見なかったことにして忘れてしまおうと考えて、絵姿の話をしませんでした。しかし、それは心に刻まれた隙間が大きくなっていくだけでした。
その頃からお妃は変わられたと噂されるようになりました。貞節を守らないとか、贅沢をするとか、そういった類の噂ではありません。不機嫌そうに黙り込むことが多くなり、人と会うのを避けるようなったというのです。
お妃は王様に代わって廷臣の挨拶を受けたり、廷臣の夫人や子女と儀式用のタペストリーや衣服を仕上げたりとお仕事があるのですが、その場で以前と打って変わって、無愛想、無口で、臣下の言葉を取り上げようとしなくなりました。
単にご気分が悪いのならご懐妊かと推測されますが、そうではないようなので、廷臣たちは戸惑いました。
お妃は王様や王太子には変わらぬように対していましたが、お妃の宮廷での様子は王様の耳に入りました。
「なにがあって王妃の務めを果たさなくなった? もうこの務めが嫌になったのか? それとも加減の悪い所でもあるのか?」
問いただす王様はあくまでもお優しくあられました。
お妃は首を振りました。心の隙間は強い衝動と化しました。
「わたしの不満はただ一つです」
お妃は書斎に向かって駆けだしました。書斎に駆け込み、王様が机の引き出しを開けました。すぐには出てこず、全部の引き出しを開けました。出てきた絵姿を取り上げた時、王様が追って勢い込んでこられました。
王様はお妃が持つ絵姿をみて驚かれました。
「それに触れてはならぬ!」
「なにゆえ触れてはならぬのです。わたしは陛下の妻でしょう?
わたしは陛下の為に努力してまいりました。わたしの我が儘を聞いてください。これを火にくべさせてください。そうすれば元のとおり、王妃としての務めが果たせます」
王様はお妃を長い間睨みつけておいででした。そして、腰に帯びていた剣を鞘から抜かれたのです。
お妃は思わず目を閉じました。
お妃は衝撃を感じましたが痛みはありません。恐る恐る目を開け、しかと見ました。切り裂かれていたのは絵姿でした。
「火にくべるなり好きにするがよい」
お妃はその場に崩折れました。絵姿を抱くようにして、涙を流しました。王様は黙ってお妃の肩を抱き締められ、その場を去られました。
以来、お妃は以前のように戻られ、王様とともによりよく国を治められました。夫と妻としても素晴らしい一組でございました。
王様がお隠れになる時、墓所は前の妻と一緒にとのたまわれ、その通りにされました。お妃は新たに王位に就いた継子の庇護の許、静かな余生を送られました。
ところで、切り裂かれた絵姿は、お妃が考えたように本当に前のお妃が描かれていたものだったのでしょうか。