色は匂へど
色は匂へど散りぬるを
我が世誰そ常ならん
有為の奥山今日越えて
浅き夢見じ酔ひもせず
人の一生はなんて儚いものだろうか。私は、人の一生があっという間に終わってしまうのを知っている。だから私は、人に想いをよせないことにした。
「いってきます」
白い軍服を身にまとい、背筋を伸ばしたあの人は、私の目の前で敬礼をしてみせた。
私は、あの人に抱き着き、大泣きした。
あの人は、大泣きしている私の頭を優しく撫でてくれた。
あの人の残り香は昨日のように覚えているのに、その時のあの人の顔は、泣いていたのかそれとも微笑みかけてくれたのか思い出せない。
ただひとつだけいえることは、私は、あの人に想いをよせてしまっていたということだ。
寂れた古い神社の本殿の縁側に腰をかけて脚をぶらつかせながら、私は、夕暮れのオレンジ色の空の下で真っ赤に色づいた楓の葉がはらはらと舞い落ちていくのを眺めていた。
人の人生も目の前で枝から離れて散っていく楓の葉のようにあっけなく終わってしまうように私は感じる。
「お姉さん、誰?」
楓から目を離し、声のした方へ視線を移すと、そこには、人の子がいて、私を不思議そうに見つめていた。どうやらあの人と同じように、私のことが見えているようだ。
「誰でもいいだろ。それより、こんな人気のない所にいたらあぶないよ。とっとと帰りな」
そう私が注意したにも関わらず、人の子は、私の元へと駆け寄り、まじまじと私の身体を見つめはじめた。
「お姉さん、人間じゃないね」
人の子は、無邪気に楽しそうに目を輝かせながら私のことを見上げた。まるで遊び相手を見つけたような顔だ。
こんな小さな人の子のことだ、脅かせばすぐに逃げていくに違いない。
「そうさ、私はここにやってきた人の肉を食って生きている悪い妖怪さ。お前ぐらいの人の子の肉は柔らかくてとても旨いんだ。お前も食ってやろうか?」
「いいよ。お姉さんみたいな美人に食べられるなら僕、嬉しい」
人の子の目は相変わらず輝いている。
「そんなこと簡単に言うもんじゃないよ。もう遅いから帰りな。親も心配しているだろう」
私がそう言うと、人の子は、やっと帰っていったが、その目はどこか寂しげにオレンジ色の夕陽の光を浴びて光っていた。
翌日、あの人の子の寂しそうな目が忘れられず、かわいそうなことをしてしまったと心残りに思っていると、昨日と同じくらいの時間に、またあの人の子が現れた。今度は、その小柄な身体に似合わない大きなリュックサックを背負っていた。
「何だい、その大きな荷物は?」
「学校が早めに終わったから急いで集めてきたんだ。ここ、僕の秘密基地するんだ」
人の子は、本殿に上がり込むと、背負っていた大きなリュックサックをおろし、中からおもちゃやら人の子が好んで読むという漫画やらを取り出して、本殿に並べた。次にリュックサックから取り出したのはお菓子で、それを片手に縁側で座っている私の隣に座ると、床に食べカスを散らしながら手にしているお菓子を食べ始めた。
「冗談じゃない!ここは私の家同然の所だ!そんな勝手に……」
「お姉さんも食べる?」
私の言葉を遮るようにして、人の子は私の前にお菓子の袋を突き出してきた。断るとまたあの寂しそうな目をしそうだったので、私は、お菓子を一つまみ取り出すと、口の中に放り込んだ。私は、人の子が見せるあの寂しそうな目を見ると、なぜか胸を突きさされるような感じがしてどうも苦手だったのだ。
「どう?それ、美味しいでしょ。僕のお気に入りのお菓子なんだ」
「あ、ああ……」
「よかった」
人の子は嬉しそうに声をあげ、脚をぶらつかせた。
「さぁ、今日はもう遅いから帰りな」
このまま長居されても困るので、私は、人の子に帰るようにせかした。
「えーやだーつまんなーいまだいるー」
人の子は口を尖らせ頬を膨らまし、帰ろうとしなかった。
「分かった、分かったから。そうだ、私が話を聞かせてやろう」
それを聞いた途端、人の子の顔がぱっと明るくなった。
「え、お話!?やった!お話大好き!」
人の子は、座っている私の膝の上にちょこんとのっかると、その小さな身体を私に身を託すようにして寄りかかり、期待に満ちた顔でこっちを見上げる。
そして私は、ゆっくり口を開き、物語を始めた。
「昔、まだお前のおじいさんやおばあさんが若いだろう頃だったね。ある山の中の神社に神様がいてね、そこに神様が見える男が現れたんだ。普通、神様と人は住んでいる世界が違うから、人には神様が見えないはずなんだよ。それで、その男は毎日神社に通うようになって、次第に神様と男は仲よくなったんだ。そんなある日、この国は大きな戦争に巻き込まれて、その男は戦争へ行くことになったんだ。そして、戦争が終わっても男は神社にやってくることはなかった。死んでしまったのか、あるいは神様のことなんて忘れてしまったのか……とにかく神様は男のことをひたすらに待ち続けた。神様からしたら、人が感じている時間などあっという間に過ぎていくから待っているのは苦ではなかった。そして、今もその男を待ち続けているのさ。けど、人の寿命は短いから男はもうこの世にはいないかもしれないね……さぁ、物語は終わったよ。もう帰るんだよ」
私は、そう言って人の子の顔を上から覗きこむと、人の子はぐっすりと眠っていて、起きる気配はなかった。
「まったく、しょうがない子だね」
私は、そうぼやくと、人の子を抱き抱えたまま、ゆっくりと立ち上がると、本堂の中に入り、人の子を畳の上に寝かせると、古ぼけた非常用の毛布があるのを思いだし、引っ張り出して人の子にそっとかけてやった。
しばらくして、日が落ちて辺りが真っ暗になっても人の子に起きる気配はなかった。
数十分後、懐中電灯の明かりが縁側から注ぎ込んだかと思うと、人の子の親だろうか、本殿の中で寝ている人の子を見つけると急いで駆け寄ってきた。
人には私が見えないので、私がかけた毛布を不審に思ったのか、つまみ上げて見つめていたが、本殿の中に並んでいる人の子のおもちゃや漫画を見つけると、ここが人の子の秘密基地で、そこで見つけた毛布にくるまって寝てしまったのかと考えたのか、人の子をそっと抱き上げて帰っていった。
さらに翌日、私がいつものように縁側に腰をかけていると、人の子は性懲りもなくまた私のところにやってきた。昨日と同じお菓子を手に持っている。
「また来たのか」
私は、呆れて文句も出なかった。
「僕の秘密基地だもん。来ちゃダメなんてことないよ」
「ここは私の家だ。お前の秘密基地じゃない。それに昨日、親が心配して迎えに来たろう。あんまり親を心配させるもんじゃないよ」
「本当のお父さんお母さんじゃないんだ。だから、どこか冷たいんだ。一回でいいから暖かい気持ちになりたい」
人の子は寂しそうに呟いた。またあの目をしている。私は、胸が突き刺されたように痛くなった。
「そうかい。こっちにおいで」
私は、人の子の肩に手を回し、そっと抱き寄せると、人の子は私に強く抱きついた。
人の子の身体は、暖かく、小さな小鳥のようだった。私は、抱きついた人の子の頭を撫でてやると、何だか胸の奥が暖かくなってくるのを感じた。この子を大切にしてやりたい。そんな気持ちが胸の中に溢れかえってくるのだった。
「ありがとう。お姉さんになでなでされると暖かい気持ちになるんだ。お姉さん、僕の本当のお母さんになってよ。僕お姉さんがお母さんだったら幸せだな」
私は、戸惑った。恐らくこの子は私よりも早くこの世を去ってしまうだろう。また、大切なものを失う痛みを味わうだろう。私は、その痛みにもう耐えられないのだ。だから、人のことを想わないと心に決めたのに。
「悪いけど、私とお前とじゃ住んでいる世界が違うんだ。私は、お前の母親にはなれない。けど、また寂しくなったらいつでもこうやって抱きしめてあげるから。そうすればもう寂しくはないだろう?」
「うん……ありがとう」
お互い様だ。ひょっとしたら、私の方が寂しかったのかもしれない。
私は、人の子を強く抱きしめた。
それからというもの、人の子は、いつものお菓子を持って頻繁に私の前に現れるようになったが、やがて、人の子は私の背丈を追い越し、声も大人の人の声に近づいてくると、次第に私の前に現れる回数が少なくなってきた。もう大きくなって、他に遊ぶ友達もたくさんできて、私がいなくとも一人ぼっちではないのだろう。そう考えると、何だか寂しいような嬉しいような気持ちになってくる。
そんなある日のことだった。大きくなった人の子がコンビニという万屋で買った食べ物やらが入った大きな袋をぶら下げてひょっこりと私の前に現れたのだ。
「おや、もう会えないかと思っていたよ。久しぶりだね。元気かい?」
私が問いかけると、人の子は懐かしそうに私に微笑みかけ、いつものように縁側に座っている私の隣に腰をかけた。
「ああ、元気だよ。姉さんこそ元気か?」
「この通り、昔と何も変わっちゃいないよ。にしても、また大きくなったんじゃないのかい?声も身体も男っぽくなっちまって……悪い女に捕まるんじゃないよ」
「姉さんみたいな?」
「はは、違いないね」
「それより、どう?」
人の子は袋からウィスキーという外国の酒が入った瓶とサイダーという泡の出る飲み物をとりだし、袋にあった紙コップに氷を入れ、ウィスキーとサイダーを入れてかき混ぜると、私に手渡し、自分の分の酒も入れ始めた。
「呆れた子だね。もう酒の味を覚えたのかい?人は大人にならないと酒を飲んじゃいけないと聞いたよ?」
「高校卒業して飲まないやつはいないよ」
そう言って人の子は紙コップを大きく傾け、ぐいと酒を飲み干した。よくもまぁそんなに飲めるものだ。ウィスキーという酒は日本の酒と違い、独特な匂いがあるので、飲みにくいものだ。
私は、紙コップに唇を当てると、紙コップを少し傾け、顔をしかめた。
「日本の酒はないのかい?匂いがきつくて飲みづらい」
「日本酒は高いんだ。これで我慢してくれ。その代わり、こいつも買ってきたぜ」
そう言うと、人の子は袋からお菓子をとりだして私に手渡した。
「おや、懐かしいねまだそれが好きなのかい?」
それは、いつも人の子が私の所に来るときに、必ず持ってきたお菓子だった。
「ああ、なんでか、やめられなくてさ。それを食べると姉さんのことを思い出すんだ」
「そうかい……」
慣れない酒のせいか、酔いが回りはじめ、身体が火照り、ぼうっとしてきた。
「突然だけど、明日から仕事が決まって東京に行くことになったんだ。だから、しばらく会えなくなる。今日はその別れを言いに来たんだ」
人の子の胸を突き刺すその寂しそうな目は、小さい頃とまるで同じだった。
「そりゃめでたいことだね。お祝いを言ってあげなきゃね。おめでとう。そんなは顔およしよ。またいつでも戻ってくればいいさ。私はいつでもここにいるんだからさ」
そうは言うものの、私は、もう、二度と人の子に会えなくなるのを予感していた。
「なぁ、覚えてるか?昔、姉さんに抱きしめてもらったの。あの時の姉さんのいい匂いが忘れられなくてさ。もう一度、抱きしめてもらえないか?」
「それじゃあまるで大きな赤ん坊じゃないか。仕方ないね。こっちにおいで」
私は、あの時と同じように、人の子の肩に優しく手を回すと、そっと人の子を抱き寄せた。
「ありがとう。やっぱりあの時と同じ匂いがするや」
その時、一瞬だけだが、彼の顔があの人の顔と重なって見えた。思い出したのだ。最後に見たあの人がどんな顔をしていたのかを。
あの人は、あの時、泣きながら微笑んでいたのだ。
あれからどれだけ月日が経ったのかは覚えていない。ただその時も、人の子と出会った時と同じように、楓の真っ赤になって落ちていく葉を、縁側から眺めていた。
すると、外で人の物音が聞こえるのだ。外を見てみると、男がこちらにやってくるのが見えた。間違いない。彼が帰ってきたのだ。私は、本堂から飛び出し、大声を出しながら彼の方へ駆けていった。
「おーい!人の子!久しぶりじゃないか!」
しかし、男は私の声に気づかないまま、私の横を通りすぎていってしまった。
男は本殿の方へ行くと、いつも食べてたお菓子をとりだして、本堂の前に供えた。
私は、本殿に駆け寄り、お菓子と男を交互に見返した。男はやはりあの時の人の子に間違いはないが、どうやら私のことが見えなくなってしまったようだ。
「ありがとう」
私は、本殿の前に腰をかけると、お菓子の袋を開け、食べ始めた。懐かしい味が口に広がる。
「パパー!」
この神社での私との思い出に浸っているのか、男が本殿をじっと見つめていると、小さな、昔の男によく似た人の子が、男に飛びつき、私の方をじっと見つめていた。
「あー!パパ!女の人がお供え物食べてる!」
人の子は私を指差すなり、そう叫ぶのであった。
そして、男も人の子が指差す方を見て少し驚いたようだが、やがて微笑みを見せた。
「それは神社の神様だよ。パパにはもう見えないけど、昔はよく一緒に遊んだんだよ。優しい神様なんだ」