『事故物件ではありません』
カタ
深夜、ゴミを出しに行こうと玄関で靴を履いている時だった。リビングの扉の向こう、寝室にしている6畳の洋室から小さな音がした。
棚の上の物か何かがバランスを崩して倒れたのだろう。俺はそう思って気に留めなかった。
「やあ、おはよう。もう出掛けるのかい?」
朝アパートの自室を出て階段を下りた所で、同じアパートの101号室に住む市川に声を掛けられた。彼も出勤のために部屋を出たばかりのようだ。
俺が裏野ハイツに越してきてまだ1週間ほどだが、50代くらいのこの感じの良い男性は、会う度にいつもにこやかに挨拶をしてくる。
「おはようございます。今日は一限目からテストがあるので」
「真面目だねえ。私が学生の頃なんかは毎晩飲んで、起きるのは昼過ぎが普通だったもんだよ」
7月もそろそろ終わりに近付き、大学は期末試験の時期に入っていた。
住宅街に建つアパートの前を、時折ひと足先に夏休みに入った子供達がはしゃぎながら通り過ぎていく。
もうすぐテストも終わる。そうしたら、もちろん俺だって自堕落な生活を満喫するつもりだ。
「あら、若い子に変なこと吹き込むもんじゃないですよ」
上から降ってきた声の主は、201号室の新野だ。70過ぎで一人暮らしをしている彼女は、聞くところによると、もう20年以上もこのアパートに住んでいるらしい。皺だらけの手で手摺りに掴りながら、ゆっくりと階段を下りてくる。住み始めた当初は良かったのだろうが、年を取ると2階以上に住むのは大変そうだ。
「おはようございます、新野さん。私は彼に何も変なことなんて言ってませんよ」
「よいしょっと。ああ暑い暑い。本当に毎日暑いわねえ。あなたちゃんとご飯食べてる? 男の子の一人暮らしじゃ何も作らないんじゃないの? ちゃんと食べなきゃ駄目よ」
階段を下りきった途端、老婆は市川の言葉を無視して俺に話し掛けてきた。彼女のこういう振る舞いはいつものことらしく、市川もさして気にしていない様子だった。
「食べてるんで、大丈夫です」
「ほら、彼はちゃんとしてるんですよ。私と違ってね」
横から市川が冗談めかして言うと、今度は彼女の標的はそちらに変わったようだ。ぐいっと彼の方へ向き直る。
「そんなこと言って、あなたもいい年なんだから気を付けないと。わたしの知り合いも癌になって。普段からお酒ばっかり飲んでたから……」
「あ、もう行かないと。それじゃあ失礼しますよ、新野さん」
「俺も行きますね」
長くなりそうなのを察した市川が、やや強引に話を切り上げた。俺もそれに便乗してそそくさとその場を後にする。どうして老人の話はこうも長いのか。
裏野ハイツ203号室。そこが俺の新しい住処だ。
最寄駅まで徒歩7分で、近くにはコンビニもある。リビング9畳、洋室6畳の1LDK。バス・トイレ別で独立洗面台まである。これで家賃が5万円いかないのだから、かなりの優良物件と言えるだろう。築30年とやや古いものの、リフォームされているようでそれほど気にはならない。
何より、住人が皆静かなのが最高だ。
大学進学と同時に住み始めた、親が決めたアパートは最悪だった。築3年と新しく部屋も綺麗だったが、他の住人がうるさかった。俺と同じような学生が多かったようで、友人を呼んで騒ぐ声が毎晩のように響いていた。
初めのうちは壁を殴って抗議することもあった。だがそれも通用せず、一人で過ごす俺を嘲笑うようにいっそう耳障りな声が大きくなるだけだった。
そうして新しい部屋を探していた時に、裏野ハイツを見つけた。
管理会社に他の住人について聞いてみたが、俺以外に学生はいないらしい。真下の103号室に小さい子供がいると言うのでそれだけが心配だったが、ちらっと見かけた3歳くらいの男の子はとても大人しく、特に騒ぐ声も聞こえない。
ここなら安心して住めそうだ。そう思った。
暑い。
寝る前にオフタイマーをセットしたエアコンが止まったのだろう。寝苦しさを覚えた俺はベッドの上で寝返りを打った。目を閉じていても分かる暗さと静けさは、今の時間が深夜だということを告げている。
もう一度エアコンを点けようか、いや、とりあえず扇風機で我慢するか。
覚醒し切っていない頭でそんなことを考えていると、ふと、何か気配を感じて俺は目を開けた。
……誰か、いる。
ベッドとクローゼットの扉の間に、小さな女の子が立っている。
こちらに背を向けた少女は、肩に掛かるくらいの髪で、裾にフリルの付いた薄いピンク色のワンピースを着ている。青白く細い腕は身体の横にだらりと垂れ、生気が感じられない。
どこの子供だ? たしか下の部屋の子は男の子だった。それにあの子はまだ3歳くらいだが、この女の子は小学校低学年くらいだろうか。第一、玄関も窓も鍵がかかっている。誰も入れるはずがない。
ぞくり、と肌が粟立ち、身体中の毛穴から暑さのためとは違う汗が噴き出た。
いや、そうじゃない。
俺は何故、この暗闇でこの子の着ているワンピースの色が分かるんだ?
声を出そうとしても、喉からは掠れた息が微かに漏れるだけで言葉にならない。身体を動かそうにも指一本動かせないまま、俺はただ少女の後姿から目を離すことが出来なかった。
頭の中で警鐘が鳴り響く。
少女が振り返ろうと、ゆっくり身体をこちらへ向ける。
嫌だ、やめろ! こっちを向くな!
少女の横顔は髪に隠れて見えない。
ゆっくりゆっくり、少女は向きを変え、こちらに正面を向いた。
そして、俯いた顔を徐々にもたげる。
やめろ、やめろやめろやめろやめろ、やめてくれ!!
そこで俺の意識は途切れた。
「それって事故物件ってやつなんじゃねーの」
大学の食堂で昼食を食べながら昨夜の出来事を話すと、友田がにやりと笑って言った。
「いや、そういう曰く付き物件とかだったらもっと家賃安いだろ。あそこは安いって言っても常識の範囲内だと思うぞ」
「不自然に安くしたら怪しまれるじゃん。ちょっと安いかな、くらいの方が入居者釣れるって」
確かにそうかもしれない。俺だって、あの金額設定だったから何の疑いも持たずに入居したのだ。
「でも、単に俺が寝ぼけてたか、夢見てただけっていうのが妥当なところじゃね」
「じゃあ俺今日泊まりに行ってみようかな。いいだろ?」
面白いことを考え付いたという風に、友田が身を乗り出して言った。
「んー、でも今結構散らかってんだよ」
正直言って、自分の部屋に他人を入れるのはあまり好きじゃない。友人であってもだ。
「引っ越したばっかでもう散らかってんの? それともまだ引っ越しの荷物そのままとか?」
「両方」
「はは、いいよ別に気にしないし。……あ、やっぱ無理だわ。今日バイトだった」
どう断ろうかと思っていたが、結局来ないのか。それならそれでありがたい。
「気になるなら管理会社に聞いてみたら? 教えてくれるか分かんねーけど」
「そうする」
昼食を食べ終わった友田は「何か分かったら俺にも教えろよ」と言い残して、俺とは別の講義へ向かって行った。
「マジで片付けないとなあ……」
寝室の床には引っ越してきた時の段ボールがまだ積み上がったままだ。朝着替えた服も脱いだ形で放置されている。
大学生の男の部屋なんてこんなものだとは思うが、これでは女の子も呼べないだろう。ま、今のところそんな予定も無いが。
床に落ちたパジャマ代わりのTシャツを拾い上げ、適当に丸めてベッドの上に放り投げた。
そういえば、あの少女が立っていたのはこの辺りだった。
背筋がひやりと冷える。嫌なことを思い出してしまった。あれは本当に夢だったのだろうか。しかし夢にしてはあまりにもリアルだった。少女のスカートの皺まで覚えている。
もし本当に幽霊だったとしたら……。
いや、やめよう。考えるな。暑さのせいで見た悪夢に違いない。
そう自分に言い聞かせる。
とりあえず風呂にでも入って汗を流せばスッキリするだろう。
俺は着替えを取り出そうとクローゼットの扉に手を掛けた。
……何だ?
何か、背後に気配を感じる。それから、微かに鼻を突く臭い。気分が悪くなるような、何かが腐ったような。
後ろは、昨夜少女が立っていた場所だ。
だが昨日と違って、今は部屋の電気が点いている。
そうだ。幽霊がこんな明るい場所に出るわけが無い。この嫌な感じも、きっと俺の気のせいだ。
鳥肌の立った腕をさすって、なんとか気持ちを落ち着かせようとする。
何もいるはずがない。
俺はごくりと唾を飲み込み、意を決して振り返った。
「ひっ」
そこには少女が立っていた。肩まで伸びた髪を下ろした、淡いピンクのワンピースを着た女の子だ。やはり俯いて顔が見えない。
寝ぼけたのでも、夢を見たのでもなかった。
少女が、何も出来ずに立ち尽くす俺に向かって一歩踏み出す。
「うわああぁぁぁぁっっ!」
少女から離れようと後ろに下がったが、すぐに背中がガタンとクローゼットにぶつかった。
臭いが濃くなる。
少女はまた一歩、俺に近付いた。狭い部屋だ。距離はもう1メートルも無い。
何なんだ、この少女は。どうして俺の前に現れる?
俺はこんな少女知らない。知らない。知らないんだ!
ピンポーン
俺を救ったのは、チャイムの音だった。
玄関の方へ目をやった俺が視線を戻すと、そこにはもう少女の姿は無かった。
「裏野ハイツの203号室で過去に事件や事故が起こった記録はありません。他の部屋もです」
「自殺とか他殺じゃなくても、自然死とかもあるでしょう。本当に何も無いんですか?」
「ですから何度も申し上げている通り、そういった記録は何も無いんです」
電話口の管理会社の女性事務員は、うんざりしたような声を隠そうともしない。
さっきから何度も同じ質問を繰り返しているのだから当然か。
だが相手の返答に俺は納得できなかった。
「じゃあ、前に住んでいたのはどんな人ですか?」
「大学生でしたよ。女の方です。これ以上はお教え出来ません。個人情報ですので」
そこまでで、もういいだろうと言わんばかりに電話を切られてしまった。
本当に管理会社の言う通り事故物件ではないのか?
でも俺は確かに少女の幽霊を見たのだ。
管理会社が嘘を吐いているのかもしれない。だとしても、あの様子では本当のことを教えてはくれないだろう。それならば、他の方法は。
「あの、203号室に前に住んでいた人って、どんな人でした?」
俺は外出から戻って来た201号室の新野に声を掛け、いつものように彼女の長話が始まりそうになるのを遮って質問した。
管理会社が隠すなら、他の住人に聞けばいいのだ。
「前に住んでた人? 女の子だったわよ。大学生で、真面目な大人しい子だったねえ。本当にいい子でね、わたしが買い物から帰ってきた時なんか、階段は辛いだろうって荷物持ってくれてねえ」
「入居した後どれくらい住んでました? すぐ出て行ったりしてませんか?」
「そんなにすぐってこともないと思うけど……。一年くらいはいたんじゃないかね。もっと学校に近い所に引っ越すって言ってたわ」
203号室の前の住人には特に問題は無かったようだ。どういうことだ。あの部屋が原因じゃないのか?
「じゃあ、202号室の人ってどんな人なんですか? まだ一度も会ったこと無いんですけど」
「え? いえ、あそこは、誰も住んでませんよ……」
いつも饒舌な新野が口籠る。
彼女は何か隠している。
隣の部屋、あそこに何かあるのだろうか。
新野からはそれ以上の情報が引き出せそうにないので、俺は他の住人にも尋ねてみることにした。
「202号室の人って会ったことあります?」
「202号室ですか? 私達もここに住んで4年ほどになるけど、そういえば一度も見たこと無いですね」
103号室に住む遠見夫妻の奥さんは、俺の突然の質問に怪訝そうな顔をしながらも答えてくれた。
「人は住んでるんですか?」
「うーん、たぶん住んでるんじゃないかしら。なんとなくだけど、気配はあるようだし」
「男性か女性かも分かりませんか?」
「ごめんなさい、分からないの。でもこういうアパートだったら、他の部屋の人の顔を知らないのも普通でしょう? 102号室の男の人だって、ほとんど外出しないみたいだし。それに、101号室の市川さんのところ、同居人がいるって話だけど、私も主人も見たこと無いんですよ」
女性はみんな話好きなのだろうか。彼女は俺が聞いてもいないのに他の部屋についても教えてくれた。
市川に同居人がいるとは初耳だ。あの感じの良い彼にも、秘密があるのか。それに、102号室も。
「あ、リク! 駄目じゃない一人で外に出ちゃ。ほら入りなさい」
外に出てきた男の子を、遠見夫人がすぐに部屋の中へ戻す。103号室に入る前に、男の子は一瞬表情の無い目をこちらに向けた。一言も喋らなかった。3歳くらいにしては大人しすぎる子だ。
穏やかそうな夫婦だと思っていたが、もしかしたらそうではないのかもしれない。
やはり裏野ハイツの住人達はどこかおかしい。誰も彼も怪し過ぎる。ここには何かあるに違いない。
住人達は誰もが怪しかったが、それ以上の情報は得られなかった。
本当ならすぐにでも引っ越したかった。しかしここに越してきたのも親に無理を言ってのことだったので、再度引っ越す費用は出してもらえるわけもなく、俺はそのまま裏野ハイツでの生活を続けた。
とはいえ二度も少女を見た寝室で眠る気にはなれなくて、俺はリビングのソファで眠るようになった。
もちろん窮屈なソファでは良く眠れず、寝不足の日々が続いた。生活はどんどん荒んでいき、部屋はもう綺麗とは言えない状態だ。物が散乱し、コンビニ弁当やカップめんの空き容器がテーブルの上だけでなく床にまで散らばっている。
ピンポーン
ドアチャイムの音に渋々玄関へ向かいドアを開けると、201号室の新野が立っていた。
「大丈夫? 顔色が悪いわよ。あら、痩せたんじゃない? ちゃんと食べてるの? ほら、カレー作ったの。こういうのなら食べられるでしょう? ちょっと入ってもいいかしら。入るわよ」
「あ、ちょっと」
「あらー、これは大変ね。こんな所で生活してたら具合も悪くなるわよ」
俺が制止する間も無く、世話焼きの老婆はドアをくぐっていた。
彼女は部屋の中を見回して顔を顰めた。玄関横のキッチンには使った食器や鍋に包丁が洗わずに乱雑に置かれ、コバエが飛んでいる。
「男の子は駄目ねえ。よし、わたしが片付けてあげるわ」
そう言って部屋に上がり込んだ新野は、テーブルの上のゴミをどかしてカレー鍋を置き、奥の寝室へ向かった。
「あの、結構ですから、帰ってもらえませんか」
「いいから。こっちも散らかってるわねー。ん、何か臭わない?」
俺が言うのも構わず新野は勝手に寝室にまで入っていき、クローゼットの扉に手を掛けた。
ああ、もういい加減にしてくれ。
「え?」
何が起こったのか分からないといった風に目を見開いて、新野は床に崩れ落ちた。
俺は彼女の背中に刺さった包丁を抜き、もう一度彼女の身体に突き立てた。包丁を抜く度に、赤黒い血がドプッと溢れ、老婆の服と床を濡らす。
しょうがないんだ。ここを開けたんだから。
そう。俺は思い出した。
「事故物件ではありません」
そう言っていた管理会社の事務員は間違っていなかった。
本当にあの女性事務員の言う通り、今まで事件も事故も無かったのだろう。
クローゼットの中には、大きな黒いポリ袋が入っていた。
固く縛られた袋の口を開けると、吐き気を催す悪臭が強くなる。
袋の口は確かに締めたはずなのに、どこから入ったのか白い蛆が動いていた。
フリルの付いたワンピース。元は薄いピンクだったろうそれは、ぐずぐずに腐敗した汁で汚れて変色している。